第16話

 ほんの少し開いた応接室の扉から、すすり泣く声が聞こえた。扉を押す前に一瞬ためらったが、このまま放っておいてもらちが明かないだろうとそっと部屋に入る。


 シグレはソファの上でぎゅっと体を丸めて泣いていた。窓から差し込んでいる光がちょうどシグレを避けている。彼女は俺に気付いているのかいないのか、頑なに顔を上げなかった。



「シグレ」



 声をかけると、彼女の体がぴくりと反応した。俺は正面のソファに腰かけて、シグレがこちらを向くのを待つ。シグレはまたぐずぐずと何度か鼻をならし、袖で涙を拭ってから顔を上げた。目も鼻も真っ赤になっている。



「子供みたいなことをしたという自覚はあります、すみませんでした」



 彼女はきっとどうやって謝ろうかずっと考えていたのだろう。一息にそう言うと、また目元を擦る。



「……でも、そんなに悪いことでしょうか」



 シグレの言葉を、俺はじっと黙って聞く。子供みたいに目線を合わせないところは、ナオヤと似ていた。



「私がフウカの面倒を見ることは、可愛がることは、そんなに責められることでしょうか」



「じゃあ、シグレはなんでそこまでしてフウカの面倒を見るんだ?」



 ナオヤが必要以上にフウカのことを怖がるのと同様に、シグレも必要以上にフウカを守ろうとしている。この2人の意見はぶつかって当然だった。


 ナオヤの怖がりの理由はわかった。シグレにも何か理由があるのかもしれない。彼女はほんの少し目を見開いて、それから自分の手を固く握った。



「……妹が、いるんです」



 シグレはぽつりと話し出す。



「私、小さい頃に親を亡くしてて、妹が1番近い家族でした。妹が家を出るまでは私が面倒を見てました。それが、フウカと重なっているのかもしれません」



 シグレに親がいないという話はここに配属されたばかりのころに聞いたことがあったが、妹のことは知らなかった。


 話が話だけに、どうにも注意がしづらくて言葉に詰まる。俺が困っているのを見兼ねてか、シグレがごめんなさいとつぶやいた。



「わかってるんです。フウカは黒災から生まれて、ここで預かってる危険な研究対象だってこと。それからナオヤが言ってた認知の歪みがあるのも、なんとなくわかります。でも私は、あの子のこと邪険にできないんです……」



 シグレはそう言って、また顔を覆う。彼女がこんなに泣き虫だと知らなかった。妹のことが関係しているのか、それともフウカの影響が濃く出ているのか、今の段階ではわからない。


 俺がかけられる言葉なんて、何もなかった。



「まあ、ちゃんとわかってるならそれでいい。あんまり深入りするのは、多分、お前のためにはならないからな」



 フウカからパパと呼ばれて悪い気はしていなかったくせに、一体どの口が言うのだろう。思わず笑ってしまいそうになる。


 事務所に戻ろうと立ち上がると、シグレもその後ろをついてきた。涙を隠すために目元を擦ったせいで、余計に泣いたのが目立っている。けれどナオヤもゴウもそれには触れない。



「……ナオヤ」



 先に声をかけたのはシグレだった。ナオヤはまだむすくれた顔のままシグレを見上げる。



「むきになってごめんね」



 素直に謝られてしまって、ナオヤもばつが悪いのだろう。シグレには目を合わせないまま、小さな声で



「俺こそ、すみません」



 と頭を下げた。こんなやり取りはもう何度目だろう。ゴウはやれやれと言いたげな顔をしている。



「まあ、またしばらくは本部の助力は見込めなさそうだ。でもフウカの認知の歪みの件も発覚したし、確実に前には進んでる。

あいつは変わらずここで研究対象として面倒を見る。迷惑をかけるが、よろしく頼む」



 俺がそう言えば、3人からはい、と揃った返事が返ってきた。


 状況は進んでいるようで進んでいないような、そもそも今この現状に進行があるのかどうかすらわからない。


 ひとまず俺たちにできるのは、ただフウカが敵に回らないよう祈ることだけだった。

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