第2話 脅迫
窓の外には、静かに卯の花を散らす雨がふっている。着ているワイシャツが湿気をふくみ、体にしっとりとまとわりついた。決して不快ではない。不快ではないが息苦しくなり、ネクタイの結び目に指をひっかけ少しだけゆるめた。
ふと窓へ視線をうつすと、ガラスにつたう小さな雨粒がゆっくりと滑り落ちていく。緩慢に目で追っていると、相反する速度で生徒指導室のドアがノックされた。振りむくと、俺の返事もまたずドアがひらく。
背筋ののびた姿勢のよい八重津さくらが、一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。右手にはノートが握られていた。
よかったナイフじゃなくて……。
少々引き気味の俺の前に立ち、ぶっきらぼうという言葉を表すにふさわしい態度でノートをつき出す。中身を見られる抵抗感がこちらにも、伝わってくる。それほど見られたくないノートには、いったい何が書かれているのだろう。
椅子に座るよううながしても、つれなく無視された。しかたがないので俺も椅子に座らず、小さな机をはさんで八重津さくらと
もう採点するという当初の目的なんて、どうでもよかった。ただこのノートに何が書かれているか、それだけが知りたい。
唇に力を入れ、ノートを受けとる。手の中のノートから八重津さくらへ視線を動かすと、殺意をおびた明るい瞳が、俺にピタリと照準をあわせていた。
これは、俺に対する脅迫状が書かれていても驚かないぞ。むしろ、死ねとストレートに書かれていたら、メンタルがやられるな……。
人間、開けてはならぬと言われれば言われるほど、禁断の箱を開けたくなるもの。はたして、この禁断のノートには何が書かれているのか。
国語のノートは一般的に横向けにして、縦書きでつかう。閉じられたノートを横にして表紙をこわごわ左手の親指と人差し指でつまむ。
最初の一枚目には、ペン習字のお手本のような達筆な字で、『令和四年 高校二年 古典
八重津さくらの几帳面さがよくわかる。こんな前書きを書いている生徒は誰もいない。
ページを一枚つまみ、ゆっくりめくる。紙は湿気でよれもせず、指を切りそうなほど鋭利だった。
一ページのちょうど真ん中に線が引かれており、上段に伊勢物語の本文。下段には現代語訳が書いてあった。
セオリー通りのノートの取りかた。本文の古語の横には赤ペンで線が引かれ、意味が書かれている。
なんの問題もない。おまけに、俺が板書せず口頭で伝えた説明ももらさず書いてある。
このノートに評価をつけるなら、A+だ。
内心ホッとしたような期待はずれな、どっちつかずな気持ち抱え、次ページをめくる。
このページも達筆な字で書かれている。どんなに読んでも俺への脅迫など一言も書かれていない。また次ページをめくろうとノートの左下をつまみ、ふと、目がとまる。左がわの余白、青い線の欄外に何か書かれていた。
君越しの空の青さに映え渡る ソメイヨシノの愛おしきかな
(あなた越しに見る空は鮮やかで、青に映えるソメイヨシノはなんて愛しいんだろう)
……えっ? 短歌?
それも、このシチュエーション。あの時か。俺がソメイヨシノに見惚れていた時の。
『君』とは、俺のこと? ソメイヨシノは見立て?
カッと頬はほてり、血流が一気に全身を駆け巡り指先がふるえる。ノートを破りかねない勢いで、あわててめくるとまた欄外に短歌が……。
ひさかたの光うららかなる春の 君の姿の麗しきかな
(光の穏やかな春の陽気の中に立つあなたの姿は何て素敵なんだろう)
……君の姿うるわし……俺じゃない、俺じゃないよな?
八重津さくらは小ばかにした冷たい目でしか、見ていなかったんだ。こんな感情で俺を見ていなかった。
「八重津、さん、この短歌、なにかの歌集からうつしたんだよね」
ノートに視線を落としたままの俺の声は、無様なほど震えていた。女子高生が短歌なんか詠むわけがない。
これは、彼女の感情ではない。
「いいえ、私が詠みました。祖母に小さい時から、手ほどきをうけてきたんです」
すばやく顔をあげ、八重津さくらの顔を見る。恥ずかしがるわけでも、自慢げな顔をするわけでもなく相変わらずの無表情。
「祖母……まさか、
彼女は、コクンと首を縦に落とした。
八重津玉風先生……短歌の公募の選考委員を務めるなど、現代を代表する歌人。何冊も先生の歌集を、俺は持っている。八重津という珍しい名字なのに、今まで気づかなかった。
一言も口を聞けない俺に、八重津さくらは止めをさす。
「先生どうして、歌を詠まなくなったんですか? 私、先生の歌すきだったのに」
静かに降っていた雨は、八重津さくらの声にあわせ急に雨足をはやめた。窓ガラスを叩きつける雨音が、室内の緊張を煽っていく。
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