わたしと彼女の新しい関係2
長崎空港は、長崎市ではなく大村市にある。
空港から出ているリムジンバスで長崎市まで約四十分。わたしは鼻歌交じりでバスの旅を楽しんだ。
輝く海も、深い緑の山もすべてがわたしを歓迎してくれているように見える。
「アキ、天才。もう最高だよ」
「わかったわかった、もう何回目?」
多少耳に違和感があるものの、危惧していた痛みはなく、無事に空の旅を終えることができた。
たまたま今日は調子がよかったのか、それともアキが用意してくれた予防グッズが効いたのか、正直なところどちらなのかは分からない。だけど、今日の飛行機で耳が痛くならなかったことは事実だ。もう飛行機の旅も怖くないと思える。
長崎駅に到着して感じた印象は、ギュッとしている、だ。山に囲まれた地形のため、建物が密集しているように感じるからかもしれない。
建物の密集度だけでいけば、東京の方が高いはずだが、それとは随分印象が違う。
時刻は十時過ぎ、観光をはじめるにはちょうどい時間だ。
わたしたちは最初に予約を入れた長崎駅近くのホテルに向かった。
チェックインの手続きを済ませてキャリーケースをフロントに預ける。
「さて、移動はどうする?」
わたしが聞くと、アキは「路面電車に乗りたい」と言った。
ホテルまでの道でも路面電車を目にした。確かにちょっと乗ってみたい。
「よろしければ、一日乗車券もありますよ」
わたしたちの会話を聞いていたフロントの女性が教えてくれた。
説明によると、運賃は均一料金で一回百二十円。一日乗車券は五百円。わたしたちは、迷うことなく一日乗車券を購入することにした。
しかも、フロントで買うことができるという。
わざわざ路面電車の窓口まで行かなくてもいい便利さは、さすが観光客が多い街というところだろうか。
ホテルを出て、駅前から路面電車に乗り込む。
電車のすぐ横を車が走っている光景がなんだか不思議だ。道路の
真ん中に路面電車の停留所があることにも驚いた。
アキと二人で、そんな感動をしゃべっている間に下車する新大工町駅に到着した。
路面電車を降りて山に向かって歩く。どんどん細い道に入っていき、見落としてしまいそうな細い路地に入ると、延々と続くような細い階段になる。
細い道の脇には、民家の他にお墓も見える。
「ねえ、このお墓、表札があるよ」
「このお墓、表札がふたつあって二世帯住宅みたいだね」
そんなことを話しながら誤魔化していたのだが、急な階段と容赦なく照り付ける太陽の日射しがわたしの体力を奪っていく。
「ごめん、アキ、ちょっとだけ休憩」
わたしはついに音を上げて階段に座り込んだ。
「運動不足なんじゃない?」
アキはまだまだ元気な様子だったが、わたしの横に腰を掛けてバッグからペットボトルの水を取り出した。
二人並んで座ると道を塞いでしまう程度の幅だったが、幸い他に人はいない。
「これから行く、『とうちゅうかそう』ってどんなところ?」
「うん、全然違うね。冬虫夏草は結構グロテスクな漢方だよ。今から行くのは亀山社中。坂本龍馬が作った、貿易会社の跡地だよ」
「歴史とか坂本龍馬とか好きだったっけ?」
「最近ちょっとゲームの影響でね」
アキが照れ笑いを浮かべる。ゲームをしていたなんて知らなかった。
そのとき、どこからともなく猫が現れ、わたしたちの間をすり抜けていく。
「スゴイ! 全然人間を怖がらないんだね」
アキが立ち上がって歩き去った猫を見送る。
それを合図にわたしも立ち上がって、半分ほど残っていた山道を登り切った。
「なんでこんな山の上に会社を作ったかな。通勤大変じゃん」
とわたしが素直な感想を伝えると、アキも同感と言って笑った。
歴史に興味のないわたしは、亀山社中といわれても、古民家だなという印象だけだった。だが、アキはレプリカの刀や着物などの展示物を見ながら大興奮していた。
亀山社中の見学を終えて下山すると、その足で諏訪神社に行く。
立派な神社だったのだが、足にコヨリを巻き付けられた狛犬などちょっと不思議な狛犬が何体もあって楽しめた。その上、神社の敷地内に小さな動物園まである。長崎は不思議な街だ。
諏訪神社から再び路面電車に乗って眼鏡橋に移動する。
眼鏡橋を見た後は、再度路面電車で新地中華街に向かい遅めの昼食をとることにした。
なんとなく入った中華料理店でわたしはちゃんぽんを、アキは皿うどんを頼む。
「見て、この皿うどんの麺、びっくりするくらい細いよ! しかもめちゃくちゃおいしい!」
そもそもアキはそれほど食べる方ではなのだが、歩き回ってお腹が減っていたのか、皿うどんのおいしさからなのか、見たこともないようなスピードで箸を運んでいく。
わたしはといえば、たった半日の観光ですでにぐったりしていた。
ゆっくりと本場のちゃんぽんに舌鼓をうちながらわたしは言う。
「長崎は坂が多いとは思ってたけど、本当に坂だね。アキは平気なの?」
「私はジムで鍛えてるもの。トモもちょっと運動した方がいいよ」
ジムに通っていたなんて初耳だ。
大学の頃から長い付き合いで、アキのことは何でも知っていると思っていた。それなのに、旅行を決めてから今までで、わたしの知らないアキがたくさんいた。
その事実に、わたしは少しショックを受けていた。わたしは今まで、アキの何を見てきたのだろうか。
「この後の予定は?」
「グラバー園と大浦天主堂に行って、そのあと出島の予定だけど。疲れたならやめておく?」
「いや、行く」
わたしは頬を叩いて気合いを入れ直す。せっかく来たのだ。アキのスケジュールを全うしたい。
大浦天主堂もグラバー園も坂ばかりだったが、アキはわたしを気遣ってか、手をつないでゆっくりと歩いてくれた。
そういえば、こうして手をつないで歩くのも久しぶりだ。
美しい建物に感動したり、土産物を見て笑ったり、体はヘトヘトになったが、楽しく過ごすことができた。
出島に着いたとき足の疲労はピークだったが、平地にある観光スポットだということに救われた。
今日の観光スケジュールを全うして、わたしたちは一旦ホテルに戻る。シャワーで汗を流して少し休憩をしてから、夕食のためにもう一度街に出た。
適当に歩き、こじんまりした居酒屋で夕食をとることにした。
ホテルの部屋に戻ったのは夜十時少し前だった。
「はー、疲れたけど楽しかったね」
ベッドに倒れ込んでわたしが言うと、アキもニコニコしている。
「じゃあ、ちょっとマッサージをしてあげるよう」
そう言うと、アキはわたしをうつ伏せに寝かせて足の裏からふくらはぎのマッサージをしてくれた。
痛いけれど気持ちいい。しばらくマッサージの心地よさに陶酔したのち、わたしは起き上がる。
「それじゃあ交代」
こんどはアキをベッドに寝かせてわたしが足のマッサージをする。
「平気そうな顔してたけど、ガチガチじゃん」
「そりゃ、さすがに疲れるよ」
アキの足を入念にマッサージして、そろそろほぐれた頃合いでアキに声を掛けたが返事がない。
顔を覗き込むと、眠ってしまったようだった。
わたしは、アキに布団をかけておでこに軽くキスをする。
「おやすみ」
そう言ってわたしもベッドに潜り込む。目を閉じると、あっという間に眠りのふちに落ちていった。
二日目は朝から港に行く。軍艦島クルーズの予約をしてあった。
船に乗り込み、海を渡る。想像していたよりも軍艦島までは距離があった。上陸はせず、軍艦島の周囲を回るだけのクルーズだったが、その姿に圧倒される。廃墟となった島は、現実のものとは思えない、どこか空想の世界じみていた。
クルーズを終えると、今度は平和公園や原爆資料館、浦上天主堂などをまわる。
アキの立てたスケジュールの二日目のテーマは近代史のようだ。
日が暮れかかった頃、稲佐山の展望台に登る。幸いロープウエイがあるので、登山をする必要はない。
美しい夕暮れの街並みや海を眺めながら、観光の感想を語り合う。
そして辺りを闇が支配し始めた頃、街中が宝石箱のようにきらめきだした。世界三大夜景にも挙げられるその景色に言葉を失う。
アキの横顔を見ると、夜景に見惚れていたその横顔が少し寂しそうに見えた。だけど、その理由を聞くことはできなかった。
ホテルに戻ると、アキがお風呂でゆっくりしたいというので、先に入ってもらうことにした。
浴室から鼻歌が聞こえてくる。
わたしは荷物を整理してキャリーケースに詰めていく。明日でこの楽しい旅行も終わりだと思うと名残惜しい。
満永先輩も恋人の織部さんと楽しい時間を過ごしているのだろう。心に少しモヤがかかる。
わたしは頭を振った。
旅行は明日で終わってしまうが、わたしはこれからもアキとこんな楽しい時間を過ごしていく。
満永先輩との夜のことはすべて忘れてしまおう。
それにしても、この旅行ではアキの新しい面を色々と見れたような気がする。ゲームをしていたことも、それをきっかけに歴史に興味を持ったことも知らなかった。
どんな歴史が好きなのだろう。坂本龍馬が好きならば、次の旅行先は高知にしよう。きっと喜ぶはずだ。
そんなことを考えていると、アキがお風呂から出てきた。
わたしは交代でお風呂に向かう。
湯舟に浸かりながら、次の旅行先に思いを馳せていると、思った以上に時間が経っていたようだ。
ベッドでは、アキがすでに気持ちよさそうに寝息を立てていた。
最終日は、ホテルをチェックアウトして、空港行のリムジンバス乗り場近くのコインロッカーに荷物を預けた。そのまま徒歩で日本二十六聖人記念館を見学する。そして、初日にも行った新地中華街で土産物を物色した。余った時間で駅周辺の土産物店を回る。
最終日はかなりゆったりとしたスケジュールを組んでくれたおかげで、ゆっくりと買い物をすることができた。
わたしもアキも明日は休まず仕事に行かなければいけないことを考慮してくれたのだろう。
それでも、帰りのリムジンバスと飛行機では爆睡してしまった。
あれほど危惧していた飛行機なのに、耳が痛くなるかもなんてことを考える隙もなかった。
羽田空港に到着する。
楽しかった三日間はあっという間だった。
「やっぱり二泊三日だとゆっくり観光できないね」
わたしが言うと「そうだね」とアキが小さな声で答える。
「また行こうよ、長崎。あ、坂本龍馬が好きなら高知でもいいかなって思うんだけど、どう?」
すると、ずっとつないだままだった手をアキが離した。
「これが最後だよ」
何を言っているのか分からず、わたしは首をかしげる。
「私たち、友だちに戻ろう」
「アキ、何言ってるの?」
「本当はもっと早くそうするべきだったんだよ」
「だって、旅行して、すごく楽しくて、また旅行したくて、やり直せると……」
「旅行、本当に楽しかったね。まるで、大学生の頃に戻ったみたいだった」
わたしはハッとした。だけど、それを認めたくない。
「でも、わたし、アキのことが好きだよ」
するとアキは寂しそうに笑顔を浮かべる。
「うん。知ってる。私もトモが好きだよ」
「それなら、なんで……」
「好きだけど、トモと一緒にいるのが辛いし、苦しい。トモだってそうでしょう?」
「それは……」
「トモはずっと私に遠慮して気を使って、大事にしようとしてくれた。だけど、私はそれが息苦しかった」
好きだから大切にしたいと思うことは間違っていたのだろうか。
「無理を言ったり、わがままを言ったり、イライラをぶつけて八つ当たりしても、トモは全部受け入れてくれた。それが、さみしかった。トモが思っていることをちゃんと言ってほしかった」
アキの言うことが理解できない。
アキはわたしの背中に腕を回してギュッと抱きついた。
「いっそ、トモが私を嫌いになればいいと思って、ひどいことも言ったけど、結局トモは困った顔をして笑うだけで、一度も怒ってくれなかった」
わたしも、アキの背中に手を回して体を強く引き寄せる。
アキの体温と鼓動が伝わってくる。
「こういうことをもっと早く言えればよかったんだよね。私もトモに遠慮してた。こんなに大切にされて、何が不満なのって。それこそわがままだよって、ずっと思ってた」
そしてアキはわたしの背中に回していた腕を緩めて体を離す。
「実は大学のとき、トモが私を好きだってこと、告白してくれる前から知ってたよ」
「え?」
「トモは結構わかりやすいからさ。でも、私は気付かないフリをしてた。トモが言ってくれるのを待ってたんだ。トモが勇気を出して告白してくれて、本当にうれしかったよ」
わたしは、ただアキの言葉を聞くことしかできなかった。まるで言葉の発し方を忘れてしまったように、何の言葉も浮かんでこない。
「私、ずるいからさ、この関係もトモが終わらせてくれるのを待ってた。トモが私を嫌いになってくれれば楽になると思ってた。だけど、トモには終わらせることはできないよね。トモは勇気を出してはじめてくれたから、私が終わりにする。トモ、今までありがとうね」
「もう、会えないの?」
「会えるよ、だって友だちに戻るだけだもん」
わたしは下を向いて涙をこらえる。アキはわたしの頬に手を当てて笑った。
「そんな顔しないで。これまでもずっと大好きだったし、これからもそうだよ。少し、関係の名前が変わるだけ。私たちは恋人でいるよりも、友だちでいる方がきっと幸せになれる。私は、この旅行で確信できたよ」
一度決めたら、アキの気持ちは変わらない。
そして、わたしにもアキの気持ちを変えるだけの材料がない。
「それに、トモ、私以外に好きな人がいるでしょう?」
わたしはハッとして顔を上げる。脳裏に満永先輩の顔が浮かんだ。
「いや、それは……」
満永先輩には恋人がいて、わたしの片想いに過ぎない、そう言おうとして口を閉ざす。相手に恋人がいるかなんて関係ない。わたしの気持ちの問題だ。
「トモは結構わかりやすいからね」
私は下唇を噛んで俯く。そのことで、どれだけアキを傷つけていたのだろうか。
「そんな顔しないでよ。浮気したとか思ってるわけじゃないから。まあ、ちょっと複雑な気持ちではあるけどね」
そう言ってアキは苦笑いを浮かべた。
「アキには……、好きな人がいるの?」
「いるよ、って言ったら、気が楽になる?」
ずるい質問だった。自分の罪を軽くするために、アキに共犯であることを望んだ。
「ゴメン」
わたしが謝るとアキは笑って手を出した。
「トモ、握手をしよう」
わたしはその手を強く握る。
恋人との最後の握手は、友だちとの最初の握手になる。
「それじゃあ、ここからは別々に帰ろう。私、先に帰っていい? もうかなり疲れたから早く家で休みたいんだよね」
アキは、わたしの返事を聞かず、クルッと背中を向ける。
「じゃあ、バイバイ」
そう言ってアキは振り返らずに歩き出した。
一歩二歩とわたしとアキの間に距離ができる。
話している間、アキは穏やかな笑みを浮かべていたが、今にも泣きそうだったことに気付いてた。
歩いていくアキの背中が小さく震えている。
そうして、わたしとアキの恋人として過ごした時間が終わった。
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