わたしと彼女の新しい関係1
社員旅行から帰ったその足で、わたしは恋人の飯塚亜希奈の部屋を訪れた。
「ただいま、アキ」
「おかえり、旅行どうだった?」
アキが笑顔でわたしを出迎える。
今日は機嫌がいいようだ。わたしは胸をなでおろした。
わたしとアキは大学の同級生で友だちだった。
卒業を間近に控えた頃に、わたしがアキに想いを伝えて、付き合いはじめた。
大学を卒業して、互いに働き始めたころからすれ違いが増えていき、最近では喧嘩が絶えなくなっていた。
この一泊二日の社員旅行の間も、アキから連絡をするよう大量のメッセージが届いたり、電話で口論になったりした。
「これ、お土産」
わたしはアキに土産が入った紙袋を渡す。
「何買ってきたの?」
アキはうれしそうに袋を開けて中身を取り出す。そして、表情を曇らせた。
「ちょっと、恋人へのお土産が温泉饅頭ってどうかと思うよ」
でも口調は怒っているものとは違う。
「あんまり買う時間がなかったし、いいものがなかったんだよ。どこで作ったのかわからない『〇〇に行ってきました』っていうのより、地元っぽいものの方がいいでしょう?」
「でも、もうちょっとあったでしょう?期待はしてなかったけど、本当にトモのセンスはちょっと残念だよねー」
そう言ってアキはクスクスと笑った。
ふと見ると、テーブルの上に旅行のパンフレットが何冊かおかれている。
社員旅行の途中、アキとの仲を修復したくて『旅行に行こう』とメッセージを打った。それに返事がなかったので、アキは行きたくないのかと思っていた。
「旅行、どこに行くか調べてくれてるの?」
「うん。そういえば、二人で旅行したことなかったな、って思って。トモはどこか行きたい場所ある?」
「やっぱ温泉がいいなぁ。お湯に浸かってゆったりするの、気持ちいいよ。ちょっと贅沢して、部屋風呂のあるところに泊まるのもいいよね」
「えー、トモのエッチ」
「いやいや、そう言う意味じゃないから」
やはり旅行に誘ったのがよかったのかもしれない。
こうして二人で穏やかな気持ちで過ごせるのは久しぶりに感じる。
側にいれば些細なことで喧嘩になり、離れていれば不安がる。そんなアキに、わたしはどう対すればいいのか分からなくなっていた。
分からないから距離を置き、それでアキは余計に不安を感じる。そんな悪循環に陥っていたのだ。
「アキは行きたいところあるの?」
「長崎かな」
「長崎……遠くない? 確か、片道七時間くらいかかるよね?」
「飛行機で行けばいいじゃない」
「飛行機……」
「苦手だっけ?」
「あの、耳がボーンとなって、前に乗ったときは痛みがひどくてさ。できれば乗りたくないんだよね……もう少し、近場でどう?」
すると、アキは途端にうれしそうな顔をした。
「よし、長崎に決めた!」
「ちょっと、アキ?」
でも、こうなるとわたしがどれだけ言っても変えてくれないことは分かっている。行き先は長崎に決定だ。
そこから、アキはテンションが上がりっぱなしだった。
有休休暇を取ってもいいのだが、二人で休みを合わせるのは難しいし、時間がかかってしまうという理由で、一番近い連休に二泊三日で予定を組むことにした。
飛行機と長崎市内の宿泊先の手配も済ませた。
アキは当日までに観光プランを練ると言っていた。
飛行機に乗るのは憂うつだが、アキがうれしそうにしてくれているのが、わたしもうれしかった。
社員旅行の翌日から会社は通常勤務だった。
その上、なぜかややこしい仕事が多いような気がする。
パソコンに向かって難問に取り組んでいると、最川さん」と、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。
わたしが入社したときからずっと面倒を見てくれている先輩の満永和葉だ。
今朝、顔を合わせたときから、わたしはずっと満永先輩を意識しないように心掛けていた。それがすでに意識しているということだと分かってはいたが、普段通りを心がけていないととんでもない失態を演じてしまうような気がした。
「どこか問題でもあった?」
満永先輩はわたしの後ろからパソコン画面をのぞき込む。
いつもそうだ。わたしが仕事に行き詰まったとき、満永先輩はタイミングよく声を掛けてくれる。
それはとてもうれしいし、有難いと思っている。頼りになる先輩がいて、本当によかったと思う。だけど、今日だけは止めてほしかった。
「あー、これね。ここの情報を管理に問い合わせて……」
すぐ近くに感じる満永先輩の声。鼻腔に届く甘い香。肩に置かれた手のぬくもり。それらが否応なく、わたしにあの夜を思い出させる。
あの夜といっても、つい一昨日のことだ。
社員旅行の夜、わたしと満永先輩はセックスをした。
ぴったりと合わせた肌から感じた温もりも、手のひらに残るやわらかさも、指を締め付ける感覚も、すべてを鮮明に思い出せる。
わたしは、ちらりと満永先輩の横顔を覗き見る。
すると「どうかした?」と何事もなかったような涼しい笑顔で先輩が言う。
正直悔しい。
満永先輩には結婚間近といわれる恋人がいる。わたしにもアキという恋人がいる。
お酒のせいか、旅先の開放感か、満永先輩がわたしに体を開いた理由は分からない。
先輩にとっては、好奇心を満たしたかったとか、結婚前の火遊びだとか、そんな程度のことなのかもしれない。
たかが一夜の過ちだ。
わたしだって、それをネタに先輩に迫るつもりはない。
だけど、もう少し動揺するとか、意識するとか、そんな態度を見せてもいいのではないだろうか。わたしだけこんなに動揺しているのがバカみたいだ。
満永先輩は、あの夜のことを無かったことにしてしまったのだろうか。
でも、何時間も抱き合ったあと、先輩は泣いていた。
わたしにすがりついて、子どものようにポロポロと涙を流していた。
だから、わたしはつい確認してみたくなる。このいつもと変わらない表情が、本当は仮面でしかないことを期待して。
「満永先輩、今度の連休明けの火曜日って、休みとってもいいですかね?」
「連休明け? んー、大丈夫だと思うけど、何か用事?」
「連休で恋人と旅行に行こうと思ってて。休めたらうれしいなー、と……」
先輩の右の眉がピクリと動いたように見えた。
だが、それを確かめる間もなく、すぐに笑顔で隠されてしまった。
「旅行、いいね。だったら却下だね。会社が許しても私が許さないよ。楽しみすぎて、疲れたから会社休むなんてダメ―」
先輩は両手の人差し指でバツマークを作って言う。
ついついその仕草がかわいいと思ってしまって、ちょっと落ち込む。
「私も織部さんとどっか行こうかな……」
「いいんじゃないですか?」
わたしは笑顔で答えた。
その瞬間、満永先輩はわたしの顔を見て吹き出した。そして、それを隠すように少し俯く。
「何を笑ってるんですか?」
満永先輩は答える代わりに、わたしの頭をグリグリと乱暴に撫でた。
「何するんですか?」
「いや、最川さんは素直だなと思って」
先輩が何を言っているのか意味が分からない。
「さ、無駄話はここまでね。仕事、仕事」
問いただしたかったが、先輩にそう言われては、それ以上話を続けることはできない。
わたしは少し釈然としない気持ちで仕事に戻った。
長崎へと旅行に行く当日は見事な快晴だった。
できるだけ長く長崎観光を楽しむため、朝一番の便を予約している。朝の澄んだ空気のおかげか、空港から富士山がよく見えた。
「よかったね、トモ。この旅行中はずっとお天気いいみたいだよ」
まだ眠気を払いきれないわたしとは違い、アキは元気いっぱいだ。
旅行を決めた日から今日まで、喧嘩らしい喧嘩もしていない。
観光で回る場所で少々もめたこともあるが、その程度だった。
アキは旅行日程を記した『旅のしおり』まで作ってきた。
本当に、こんなにも喜ぶのならば、もっと早く旅行に誘っておけばよかった。
これからは、年に一度は二人で旅行するようにしよう。
そのとき、ふと満永先輩のことが頭をよぎる。満永先輩も今頃織部さんと旅行をしているのかもしれない。そんな雑念を振り払うために、わたしは頭を振る。
「どうしたの?」
「あ、いや、飛行機が……」
つぶやくようにわたしが言うと、アキはニッコリと笑う。
「はい、耳が痛くならないように色々準備してあげたよ。耳栓と、ガムと飴玉とお水ね」
アキは、バッグの中から次々と予防グッズを取り出してわたしに手渡す。
「これ、効くのかな?」
「さあ、でも試して効いたらラッキーじゃない。何もしなかったら辛いんでしょう?」
「うん、そうだね……」
若干の不安を抱えながら搭乗口へと向かった。
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