sideB 私と彼女の意味のない関係

 こぼれ落ちる涙を、私は止めることができなかった。

「襲ってきた方が泣くってどういうことですか?」

 最川さんは、全裸のままで布団の上であぐらをかき、呆れた顔で私に言った。

 涙の理由を説明できるはずもない。

 今、この時だけの、未来のない私たちの関係に理由を作ってはいけないのだ。




 会社に入ってから三年目を迎えたとき、新卒の最川さんが私の下についた。

 それまで、私が所属する部署に新入社員はいなかったため、最川さんがはじめての後輩だった。

「最川友(とも)です。先輩、よろしくお願いします」

 少し緊張しながら挨拶をする姿を見て、わたしは最川さんに夢中になった。

 あのとき、私は少し浮かれていたのだと思う。

 私よりも少し後に中途採用で入社した織部仁志]と付き合いはじめたばかりの頃だった。

 そこに、念願だったかわいい後輩ができたのだ。

 最川さんに「先輩」と呼ばれるのはくすぐったくてうれしかった。

 何でも教えてあげたいし、助けてあげたいと思った。

「後輩がかわいいからって、あんまり構い過ぎるのは良くないぞ。仔犬も触りすぎるとストレスになるっていうだろう? それに、手を出し過ぎるとその子が成長できなくなるぞ」

 デートの途中、織部さんにそう忠告されたこともある。

 最川さんを仔犬扱いするのはどうかと思う。

 それでも、確かにその通りかもしれないと思い、最川さんとの距離感を慎重に見定めるようになった。

 なんでも先回りして手を出していたら、最川さんの成長を妨げてしまう。最川さんが困ったときに助けてあげられるように、密かに最川さんを観察するようにした。

 しばらくして、最川さんは考え事をするとき、口もとに手を当て人差し指でメガネのズレを直すクセがあることに気付いた。

 そのしぐさが長く続くときに「何か困ってることある?」と声を掛けると、「先輩」と助けを求める子どものような顔で私を見てくれた。

 私はそれがうれしくてしょうがなかった。

 最川さんは角張った縁の太いメガネをかけていた。メガネで顔を隠さない方がいいのにと思い、「コンタクトにしないの?」と聞いたことがある。

「コンタクトにしたこともあるんですけど、どうも怖くて」

 と言ったのが意外だった。

 最川さんは、お化け屋敷でも笑顔で通り抜けてしまいそうな雰囲気があり、怖いものなんて何もないというタイプだと思っていたからだ。

「怖くてコンタクトがはめられないのか」

「いえ、はめられるんですけど、外すときが怖いんです」

 また意外な答えに思わず笑ってしまう。最川さんがあまりにかわいくて、思わず本音が出る。

「せっかくかわいい顔をしてるんだから、メガネで隠さない方がいいよ。せめて細いフレームにしたら?」

 すると最川さんは照れながら「かわいい」のあたりを否定していた。だが、それから少し後に、細いアンダーリムのメガネに変えた。

「ほら、やっぱりそっちの方が似合うよ」と言うと、「たまたま店員さんに勧められて」と目をそらす最川さんがかわいかった。

 それでも、そのときはまだかわいい後輩か、かわいい妹ができたというくらいにしか思っていなかった。

 最川さんが入社して一年ほどが経ったとき、街で偶然最川さんを見掛けたのだ。

 駅の前で誰かを待っている様子だった。声を掛けようかとも思ったが、織部さんとのデート中だったため、私は横眼で彼女の姿を追うだけに留めた。

 少しすると最川さんがうれしそうな笑顔を浮かべたのが分かった。

 そして彼女の視線の先にいたのは、目もとが涼し気なきれいな女の子だった。

 現れた相手が彼氏ではなかったことに一瞬安堵する。

 だが次の瞬間、二人は手をつないで歩き出した。指を絡ませ、肩を寄せ合って歩く姿は、友だちだとは思えなかった。

 心臓が鳴った。

 同性との恋愛に偏見はない。

 そうした人たちもいると頭では理解していた。

 だけど自分の身近にいる可能性を考えたことがなかった。

 そのときから、私は少しずつ変わっていった。

 最川さんがかわいい後輩であることには少しも変わりがない。

 織部さんのことを好きだということにも変わりはない。

 だけど、私と最川さんの関係が、先輩と後輩以外のものになる可能性について思いを馳せてしまうのだ。

 それでも、ただ妄想するだけのことだ。何かを変えようとは思わなかった。

 最川さんとあの女性が、本当に恋人同士なのかなんて確かめない。

 最川さんは私の後輩だし、私の恋人は織部さんだ。

 それが変わるときがきた。

 織部さんにプロポーズされたのだ。そして、私はそれを受け入れた。

 恒例の社員旅行の幹事となり、最川さんを誘うとすぐに参加を表明してくれた。

 織部さんとの関係が変わる。

 だから、この旅行で最川さんに感じていた先輩と後輩以外の可能性を完全に打ち消してしまいたかった。

 観光の間にも、バスでの移動中にも、最川さんはときどき暗い顔でため息をこぼしていた。

 旅館に向かうバスの中で、スマホを見た最川さんが俯いてため息をついている。

 チラリと見ると、画面には亜希奈という名前がずらりと並んでいた。

 あのときに見た女性だろうか。

「最川さん? もしかして気持ち悪い?」

 私は何も気づかないフリをして最川さんに声を掛ける。

「あ、いえ。大丈夫です」

 最川さんは笑顔を浮かべて答えたが、恋人との間に何かあったのかもしれない。

 なぜだかそれに期待をしてしまう。

 最川さんに水を勧めてみたり、その水を自分で飲んでみたりと支離滅裂だ。

 旅館の部屋割りは幹事の権限を行使した。

 最川さんとは毎日会社で顔を合わせているが、こんな機会でなければ話せないこともある。ましてや大部屋で話せる内容ではない。

 何をどう話すかなんて決めてはいない。とにかく、二人になれる時間を作りたかった。

 最川さんは私に気を使って「織部さんと一緒がいいんじゃないですか?」と言った。

 プロポーズのことはまだ公表していないが、私と織部さんが付き合っていることは周知の事実だ。

 だけど、最川さんの口から織部さんのことは聞きたくなかった。

 私は適当に誤魔化して最川さんに私との二人部屋を納得させた。

 部屋に入るとすぐに、最川さんは電話を掛けると言って出て行ってしまった。

 出て行こうとする最川さんに「もしかして、彼氏?」と聞くと、「そんなところです」と答えた。

 電話の相手は亜希奈という女性だろう。二人がどんな話をしているのか気になる。

 だからといって盗み聞きをするほど下世話ではない。

 私は浴衣に着替えて最川さんが戻るのを待つことにした。夕食までは自由行動となっている。幹事としての仕事は夕食まではない。

 私は最川さんと何が話したいのだろうかと考えた。

 何か行動を起こさなければという焦燥感に背中を押されてきたが、いざそのときが迫ると、どうしていいのか分からない。

 ここまでは、普通に旅行を楽しんでしまった。

 結局、何もできずに終わってしまうような気がする。

 それならば、それでいいのだ。

 何も話せないのならば、何の行動もとれないのならば、それこそが私の答えなのだろう。

 最川さんが電話を終えて部屋に戻ったのは三十分以上が経ってからだった。私は最川さんをせかしてお風呂に向かう。

 そういえば、最川さんと一緒にお風呂に入るのはこれがはじめてだ。

 昨年の社員旅行では最川さんが欠席だった。その前の年の社員旅行は、私が直前で風邪をひいて欠席した。

 そう考えると急に恥ずかしくなってくる。

 一緒にお風呂に入ることを最川さんはどう感じているのだろう。

 最川さんは女性と付き合っている。それならば、私のことを特別な目で見るのだろうか。

 ところが最川さんは私には目もくれず、さっさと服を脱いでしまった。

 最川さんの体はとてもきれいだった。小ぶりの形の良い胸にどうしても目がいってしまう。むしろ私の方が最川さんの裸を意識してしまっているようだ。

 最川さんはといえば、私のことを気にする様子はない。

 少しぐらい照れたり、恥ずかしがったりしてもいいのに。

 私は少しがっかりした。

 がっかりした?

 どうしてがっかりするのだろうか。

 最川さんと並んで湯舟に浸かり、さりげなく電話のことを聞いたが、はぐらかして答えてはくれなかった。

 反対に私と織部さんのことを聞かれてしまう。

 今、一番触れられたくない話題だ。

 だが、その話題を拒否するのもおかしいような気がした。

 適当に答えていたのだが、「じゃあ、もう三年になるんですね。円満の秘訣を教えてくださいよ」と聞かれて私は立ち上がった。

 それ以上答えたくない。円満の秘訣なんてわからない。織部さんに我慢できないほど嫌なところがないだけだ。円満の秘訣を聞いてどうするのだろうか。亜希奈という女性との間で試したいとでもいうのだろうか。

 私はすぐに我に返って、立ち上がった理由を食事の時間だからということにした。

 脱衣所で体を拭き、浴衣を着る。

 なぜ、こんなにも最川さんから織部さんの話題が出ることを拒んでしまうのだろうか。

 他の人たちに聞かれたときは、照れることはあっても拒絶の気持ちは浮かばない。そんな気持ちになるのは最川さんだけだ。

 私の思考を遮るように、最川さんの声がした。

「先輩、浴衣を着なきゃだめですかね?」

「別に浴衣でなくてもいいけど」

 最川さんの方を見ると、下着姿のまま浴衣を持って呆然としている。

 裸よりも下着姿の方がドキドキさせられる。

 女性の下着姿なんてこれまでもたくさん見てきたのに、どうして最川さんの下着姿にはドキドキしてしまうのか。

 私はそれを確かめたくて、最川さんの浴衣の着付けをしてあげることにした。

 息がかかるほど側に寄れば、私の心臓の音はどんどん大きくなる。体に腕を回し、帯を締める。襟元を直す仕草で肌に触れる。

 最川さんは上を向いて、されるがままになっていた。

 このまま最川さんに抱き着いてしまいたい衝動を「はい、できたよ」という自分の声で抑える。

 私は、最川さんの肌に触れたいのだ。最川さんを抱きしめたいのだ。最川さんに欲情しているのだ。

 自覚してしまえば簡単な話だった。

 私は最川さんに惹かれている。かわいい後輩としてではなく、ひとりの女性として、性の対象として惹かれているのだ。

 宴会場に社員が集まり、宴会が始まった。

 私は少し頭を冷やしたくて、最川さんから離れた席に座る。

 お酒が入った状態で、最川さんの側にいたら、衝動を抑えられなくなるかもしれない。

 織部さんが私の横に来た。

「あのこと、もう誰かに言った?」

 あのこととはプロポーズのことだろう。私は首を横に振る。

「そっか。まだ何も決まってないし、もう少し色々決まってからでもいいよね?」

 織部さんの言葉に私は頷いた。視界の端に最川さんの姿がある。最川さんはビールをチビチビと飲みながら社員たちと談笑していた。

 隣に座る織部さんの顔を見る。織部さんはやさしい人だ。仕事も真面目で、私の気持ちも尊重してくれる。織部さんとの結婚を否定する材料はひとつもない。

 最川さんに対して抱く私の気持ちは、織部さんへの裏切りだ。

 私は手に持っていたグラスのビールを飲み干す。

「おいおい、そんなに飲んで大丈夫か?」

 織部さんが心配そうに言うが、私は笑って次を注ぐように腕を差し出す。

「はいはい」

 困ったような顔をしながら、織部さんはグラスにビールを注いでくれた。そうして何杯もお酒を飲んでいるうちに宴会はお開きとなった。

 いくら飲んでも酔えない。頭ははっきりしている。

 幹事としての処理を終わらせ、宴会場に人がまばらになったとき、ふと見渡すと最川さんの姿がなかった。

「これからちょっと飲みにいくか?」

 織部さんが私に聞く。最川さんも誰かと飲みに行ったのだろうか。

「んー、ちょっと飲み過ぎたみたい。疲れてるし、部屋に帰るよ。織部さんはあそこで盛り上がってる人たちと遊んで来たら?」

 指をさした先には、街に繰り出そうと盛り上がっている男性陣が固まっていた。

「うーん、そうだな」

 織部さんはそう言うと、男性陣の中に混ざりに行った。

 私はトボトボと部屋に戻る。少し足はふらついているが、それほど酔った感じはしない。

 このまま部屋に戻り、最川さんが戻る前に眠ってしまえばいい。

 明日の朝には、モヤモヤとした気持ちを忘れて切り替えよう。

 それこそ温泉の湯にでも流してしまえばいい。

 ところが、最川さんはわたしよりも先に部屋に戻ってきていた。

 スマホを見て深いため息をついている。また亜希奈さんに連絡をしていたのだろうか。

「織部さんはいいんですか?」

 最川さんが聞く。どうしてすぐに織部さんの名前を出すのだろう。

「ああ、男どもで外に飲みに行ったよ。いけない遊びでもするんじゃないかなー」

 そうしてくれたら私の気持ちは幾分か軽くなるのに。真面目な織部さんは、私を裏切るようなことはしないだろう。

 少しふらつく私を見て、最川さんが慌てて布団を敷いてくれた。

 私は布団に飛び込む。

 もう、何も考えずにこのまま寝てしまおう。

 そう思って目を閉じていたのに「先輩、お水ですよ」と最川さんがペットボトルを差し出した。

 薄目を開けて最川さんを見る。

 心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

 私は起き上がってグビグビと水を飲む。自分が思っているより酔っていたのだろうか。口に入れたはずの水が私の胸元を濡らしていた。

 最川さんがタオルでそれを拭いてくれる。

 私の目のすぐ前に最川さんの頭がある。「もう、大丈夫ですか」と言いながら、濡れた浴衣を拭く姿に抑えようと思っていた気持ちが湧き上がってくる。心臓の鼓動がドンドン早くなる。

 私は最川さんの腕を掴んだ。

「教えてあげようか?」

 自分でも思ってもいない言葉が口をつく。

「聞いたでしょう?円満の秘訣」

 お風呂で最川さんが私に聞いた言葉だ。最川さんはキョトンとして、「はい。教えてください」と言った。

 だから私は最川さんをトンと突き飛ばす。

 最川さんは簡単に仰向けになって布団に転がった。その体に馬乗りになると、最川さんの両腕を抑えて唇を奪った。

「ちょ、先輩?」

 最川さんが抵抗しようと体をよじる。

 でもそれは抵抗するフリに過ぎない。私と最川さんに体格差はほとんどない。先ほど私が彼女を突き飛ばしたように、最川さんだって、私を突き飛ばすことができる。

 だから私は何度も唇を重ねる。やわらかな唇に触れるたび、私の欲求が高まっていく。ずっと触れたかった体にもっと触れたい。

 最川さんが抵抗するフリをやめた。

 私は体を起こして浴衣脱ぎ、下着を外す。

「先輩、どうしたんですか。こんなこと」

 最川さんが聞く。

「だって、円満の秘訣を知りたいって言ったじゃない」

「これが答えですか?」

 違う。

 ただの言い訳だ。理由なんてひとつしかない。あなたに触れたい。ただ、それだけ。

「大事なことでしょう? それに、女同士のセックスに興味があったんだよね。最川さんは、女同士でしたことある?」

 亜希奈さんときっと何度も肌を合わせているのだろう。私が触れたくて触れられなかった肌に、知らない女性が触れていると思うと頭に血が上る。

 私は最川さんの帯に手を掛けて浴衣を脱がしていく。抵抗はない。

「織部さんがいるのに、いいんですか?」

 また、織部さんのことだ。その名前を今は聞きたくない。

「女同士はノーカンよ。誰にも分らないわ」

 酷い言葉を言っている自覚はある。だけど、そんな言い訳をしなければ、私はこれ以上踏み出せなくなる。

 今、この瞬間だけでいい。

 明日、すべてがなかったことになってもいい。

 私は最川さんの胸に顔をうずめる。しっとりと汗で湿った肌が頬に触れる。その肌にわたしの唇が触れ、指が触れるたびに、最川さんの体が小さく震える。

 もっと触れたい。

 そのとき最川さんが体を動かし、私を組み敷いた。

 私は最川さんの顔を見上げ、その首に腕を回す。

 唇に、鎖骨に、腕に、乳房に……、最川さんに触れられた箇所が熱くなっていく。

 最川さんにもっと触れたい。

最川さんにもっと触れて欲しい……。




 どれくらいの時間が経ったのだろう。

 ゆっくりと体の熱が冷めていく。

 なぜか私の目から涙がこぼれ落ちていた。

 止めることができない。

「襲ってきた方が泣くってどういうことですか?」

 最川さんは、全裸のまま布団の上で胡坐をかいて、呆れた顔で私に言った。

 涙の理由を教えることはできない。

 私は、きっともうすぐ織部さんと結婚する。

 最川さんとの関係には何の意味もない。

 夜が明ければ、何事もなかったように先輩と後輩に戻る。

 この生産性のない行為に、どれだけ私の心が満たされたとしても、それは意味のないことなのだ。

 だからせめて、この涙が枯れるまででいい。あと少しだけあなたに触れていたい。

 わたしは、最川さんに手を伸ばす。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る