未来
夏色はどんどんと濃くなる反面、
いつまで経っても蝉は鳴かず、
違和感を抱えたままの夏日が過ぎゆく。
何もせずとも汗は流れるほど
からからと暑い日もあれば、
湿っぽく重い日もある。
どの日であっても30℃は超えることが
普通になってきており、
どうにもこうにもできない点
もどかしさを感じる。
悩みに悩んだ。
悩んでいた。
悩む間、多くの時間が
私の横で等速直線運転をしていた。
時間は誰かを待つことなんてなく、
均等に流れていく。
その間、私はというと
通常通り学校へ通い、
習い事をしたり、読書をしたり、
苦い思いを抱えながら
ピアノを弾いてみたり。
何気ない、側から見れば
なんら変化のない日々を送っている。
ひとつ言うなれば、
中間試験が近づいているために
教室内がぴりぴりしている。
その程度の変化だ。
常識離れなどしない、
微々たる変化程度。
大地震があったわけでも、
干ばつが起こったわけでもない。
日本は相変わらず
自由に、反面縛られて生きている。
皆、変わらず。
美月「…何にも…。」
そう。
側から見れば、私は何も変わっていない。
そんな変化、気づかない。
°°°°°
「来週の答え、待ってますね。」
°°°°°
美月「…ふぅ…。」
ひとつ息を漏らす。
ため息にならないようにと
頑張った結果これだった。
私の生活は大きく変わった。
それも、とある女性に
首元を鋭利なもので切られ、
その上口をつけられてから。
それ以降、私の体はおかしくなってしまった。
血を見ればそれを口に
含みたいという欲が溢れ、
血自体を見ていなくても、
どこからか甘い匂いを
嗅ぎ取れるようになった。
たった数ミリ、縦に開いた浅い傷だろうと
血が滲んでさえいれば
その匂いを嗅ぎ取った。
肌で感じた。
鼻で感じた。
本能が捉えていた。
他人の血を体内に巡らせなければ
空腹や喉の渇きといった、
また、それとも少々異なるような、
そんな苦しみによって
死んでしまうのではないかと
思うようになっていった。
現に、食欲が湧かないだとか、
ふらつくだとかいう症状に
悩まされたものだ。
それらは、波流の血を口に含むことで
随分と改善されていった。
しかし、その新鮮さに、
美味しさに慣れてしまったら
今度は戻りたくなくなった。
波流の優しさもあり、
私は他人を襲ってしまうかもしれないという
危険を感じる度、
何度も彼女を頼った。
頼ってしまった。
頼ったことが間違いだとは思わない。
思いたくない。
けれど、背中を預けすぎた。
頼り方を間違ったのだ。
全てを受け入れてくれると思っていた。
だって助けてくれると
言っていたのだから。
だから、何してもいい、と。
そんなわけがないだろうと
今になっては思うのだが、
心が狭くなっていたあまりに
強い言葉を口にしてしまった。
私はまた、過ちを重ねて。
重ねて。
…。
そして、歩ねえと再会した。
何年も、下手すれば10年も
あっていなかった彼女に、だ。
私が傷つけた彼女に。
私が大好きだった彼女に。
私が、1番に拘るきっかけになった彼女に。
…。
親友だった歩ねえに、
血を分けてもらった。
美味しかった。
美味しかった。
これ以上はないほど
美味しいと思ってしまった。
けれど。
…。
私はまた、彼女を傷つけてしまった。
今度は体に残るかもしれない傷を。
…。
今でも過る。
意図せずとも過るの。
°°°°°
美月「…っ。」
目をぎゅっと瞑る。
真っ暗な中、どんな言葉が
降ってきてもいいように
身構えているつもりだ。
何を言われたって仕方がない。
それ相応のことをしたのだから。
…。
…。
…。
…。
…その時はいつまで待っても来なかった。
そのかわり。
美月「…っ!?」
強烈な血の香り。
びっくりして目を見開くと、
馬乗りしている歩ねえが
顔を顰めているのが窺えた。
…片手には、波流の持っていた
ペン型のカッター。
そしてもう片手からは…。
歩ねえは何度かカッターを引き、
指に幾つかの傷を作った。
強烈な香りにくらくらしつつも
力が湧かないため大人しく待つ。
すると、彼女はあろうことか
私の口の上で自分の指を絞り出した。
ぽたり。
雨に紛れて頬に打つ。
歩ねえはまだ何も口にせず
只管指を絞った。
指先からつうっと垂れるそれは
どんどんと量が増しており、
今度は唇に多く降り注いできた。
美月「………ぁ…な、んで…っ…。」
歩「…。」
歩ねえはいつまでも私を見てくれないまま
血が出づらくなるたび
他の指を切ってまた私の口の上で絞る。
直接口をつけるよりも全然
効率は悪いはずなのに、
とんでもなく満たされているのが分かる。
美味しかった。
あなたの血がとてつもなく美味しい。
勿論波流のだって美味しかった。
新鮮で、美味しかった。
それとはまた訳が違う。
歩ねえなのだ。
…。
私が傷つけたあなたー
°°°°°
刹那、足音に耳が傾いたかと思えば
唐突に開く扉。
ノックぐらいしてくれても
いいのではないかと
脳内で文句を浮かべながら、
手中にあった本に栞を挟んだ。
悠真「ねーちゃん!」
声高らかに私の名前を呼ぶ悠真は
また走ってきていたからか
前髪を左右や上に靡かせていた。
半袖短パンの姿は様になっていて、
中学生になったとはいえど
小学生の時とそう大差ない。
たった1つ歳をとるだけで、
区分が変わるだけで
人間大きく変わりなんてしないものだ。
美月「何よ。」
悠真「聞いて…って、まーた本読んでたの?」
美月「えぇ。」
悠真「そんな本ばっか読んでると馬鹿になるぞ。」
美月「悠真。ゲームしてないで勉強しないと馬鹿になるわよ。」
悠真「わ、分かってるよ!」
美月「本当かしら。」
悠真「ほんとほんと。んでさ、聞いて聞いて。」
美月「そんな慌ただしくしなくてもいいじゃない。」
悠真「樹がいっちばんレアなアイテム当てたんだよ!」
美月「アイテム?」
悠真「そ!」
美月「…ゲームの話かしら。」
悠真「あったりめーじゃん!」
美月「ふふ、よかったわね。」
悠真「樹って昔から運だけはあるよなぁ。」
美月「確かにそうね。」
悠真「むっかしにさ、何だっけ、3DS当ててたよな!」
悠真に言われて過去を遡ってみれば、
片隅に眠る記憶があることに気がつく。
それは、誰かに触れられるまで
全く気づかないままでいたものだった。
街の福引か何かで
がらがらと回している樹の姿が
ぼんやりと浮かび上がってくる。
あれは夏だったか、冬だったか。
美月「それって樹が産まれてまだ数年くらいのことでしょう?」
悠真「そーそー、俺がゲーム機欲しいって言ってたら勝手に樹ががらがら回してさ。」
美月「あったわね、そんなこと。」
悠真「俺の分の運まで持ってってるぜ、絶対。」
美月「そうかしら。」
悠真「運はいいけど憑きやすいからな、あいつ。」
美月「いろいろなものをギフトしてもらってるのよ。」
悠真「深刻になったら大変だぜ?」
美月「今後は落ち着いていくと思うけれど。」
悠真「子供の頃が1番幽霊が見えるっていうしな!」
美月「そうね。今後に期待ね。」
悠真は気の抜けた声で
両手を頭の後ろに組みながら
声を放っていた。
今日は休日だが、悠真は外に
遊びに行くような用事はないらしい。
これまでの夏休みであれば
樹や悠真は遊びに耽っていたけれど、
悠真は今年から中学生なこともあり
部活に身を入れることだろう。
私も然り。
樹には随分と寂しい思いを
させてしまうことだろう。
悠真と話していると、
不意にお手伝いさんが横を通る。
玄関の方に向かっていくもので。
誰か客人だろうか。
と、疑問に思ったのも束の間、
今が何時だったのかということを
思い出したのだ。
悠真「…?誰か来んのかな。」
美月「私の友達よ。」
悠真「え?あぁ、あの人か。」
美月「そう。波流。」
悠真「そうそう、波流さんね。最近よく来てくれるよなー。」
美月「…そうね、2週間に1回くらいにはなるかしらね。」
悠真「何々、恋人?」
美月「そんなわけないでしょう。馬鹿なこと言わないの。」
悠真「ふぇ。はあーい。」
悠真は意図しているのか
していないのか、
同性の友人が来る際にも
恋人かと発言するあたり、
深い偏見は持っていないのかも
しれないと脳裏をよぎる。
けれど、そんなことはすぐに忘れ去られ、
結局はこの話の流れになるまでは
砂浜に散る砂同様、
記憶の波に持っていかれるのだ。
悠真はと言うと、
邪魔してはいけないと思ったのか
背を向けてまた自分の部屋へと
走り去ってしまった。
あぁ、また怒られている声が聞こえる。
学ばない、と言うよりかは、
このしょうもない出来事を
楽しんでいるようにも聞こえた。
悠真が来る前までは
何を考えていたんだっけ。
…。
…。
…。
あぁ、そうだ。
これまでの私の異常についてだ。
体がおかしくなってしまって、
そして…。
波流「あ、美月ちゃん!」
美月「…波流!」
回想はまた途切れた。
次は思い出されることは
ないのかもしれない。
そんなことなどもう脳の片隅へと
追いやられていくのだ。
ふと顔を上げると、
廊下を歩いているお手伝いさんと
波流の姿があった。
波流はと言うと、
夏らしくTシャツに
何かしらのプリントがされた服を身につけ、
下は深い緑のカラーパンツを履いていた。
たった2色だというのに、
どこか夏っぽくて仕方がない。
今日ばかりは背にラケットがないことから、
学校でも部活でもなく、
私たちがただただ
プライベートで出会っている
ということが取れるだろう。
美月「わざわざありがとう。」
波流「いえいえー。美月ちゃんの家に行くの、実は楽しみになってるんだー!」
美月「ふふ、そう言ってくれて嬉しいわ。」
「ただいまお茶をお持ち致します。」
美月「ありがとう、よろしく頼むわね。」
お手伝いさんは相変わらず
柔らかな笑顔で対応してくれた。
そして、そそくさとその場を離れて
お茶の準備をしてくれるのだ。
私と波流はというと
私の部屋に入って寛ぎながら
ゆっくりと本題に入ることにした。
波流も波流で相変わらずというべきか、
私の部屋の本棚を眺めては
ぼんやりとしていた。
ラインナップはそこまで変わっていないけれど、
数冊だけは変えただろうか。
私もいつどのように変化させたかまでは
記憶に残っていないため
正確なことは言えないけれど。
暫く眺めた後、深く息を吐きながら
ベッドを背にずるずると滑ってゆき、
首の角度が辛そうなほどに
凭れてかかっていた。
波流「ふぅー。」
美月「首は辛くないの?」
波流「うん。それ以上にさ、なんか…なんていうかなー。」
美月「何よ。」
波流「あはは、気を抜いてられるっていうのかな、落ち着くや。」
美月「そう。何よりだわ。」
波流「うん。」
波流は髪をひとつに縛っていた。
いつもはおろしているイメージが
あるのだけれど、
もう夏が来て暑くなったからか
頸が見えるようになっていた。
少しばかり眠いのか、
目が閉じかかっている気がする。
それか、微笑んでいるのだろうか。
波流は気付けばいつだって
隣にいてくれた。
それこそ。
…。
これこそ、比べるわけではないけれど
歩ねえのように。
あの雨の中、抱きしめてくれた波流を
頼って間違いだったなんて
これっぽっちも思ってはいない。
ただ、頼り方が悪かった。
歩ねえの時だってそう。
あの時はきっと、間違った
信頼の仕方をしていたのだろう。
歩ねえの1番でいたかった。
ずっとずっと1番でいたかった。
けれど、どうやらそれは変わったらしい。
私の今の1番はきっと、
目の前にいて崩れた姿勢をとっている
波流なのだろう。
沢山の間違いを重ねた。
重ね続けて、今に至った。
…。
ふふ。
はーあ。
私はきっと、
次の選択も間違える。
夏風がぴゅうと吹いたような気がした。
実際、吹いていたのは
人口の冷たい風だった。
それからお手伝いさんが
部屋にお茶を持ってきてくれた。
刹那、波流は慌てて座り直していたけれど、
それを見たお手伝いさんは笑っていて。
顔見知りにもなってきているのだろう。
そんな様子を見ていて微笑ましいと感じた。
もう何度私の家に
足を運んだのだろう。
2桁まではまだいかないだろうけれど、
今後もその数は増えていくはず。
お茶もいつからか麦茶に変わっており、
夏らしさをさらに体感した。
お手伝いさんが出て行った後、
からりと氷が音を鳴らしてくれて
冬はここにいないと
訴えているようで。
お茶を数口飲んだ後、
波流はまた凭れかかったままに
口を開いたのだった。
波流「今日はさ、何で急に家に呼んでくれたの?」
そう。
波流を呼んだのは
昨日の晩になってからのことだった。
波流の血をもらうのも
昨日の部活後に既に終えている。
なら何故。
そう思うのが道理だろう。
波流を呼んだ理由。
それはたったひとつだった。
美月「…意見を聞きたかったの。」
波流「意見?」
美月「そうよ。」
私はきっと、次の選択も間違える。
だから、意見を聞いておきたかったのだ。
私が間違えないように。
…。
…否、私が間違えても
支えてほしくて。
いつから。
波流はいつから
私のことを気にかけてくれていたのか。
…。
はじめからといってしまえば
全て片付くのだろうけれど。
彼女も彼女でいつから
こんなに気を抜いた姿を
見せるようになっていたのだろう。
きっとそこに境界線はなく、
自然と移り変わって行ったのだ。
私たちの関係を浮かべながら
これまでの経緯を伝えた。
現状のこと、そして先週のこと。
原因であるだろう女性と
対面してしまったこと。
そして、答えを出す日が
今日であること。
その選択肢の内容のこと。
全てを、遅いだろうけれど伝えた。
遅い判断だった。
もっと早くに考えて、
彼女に伝えていれば
また違ったのかもしれない。
自分の問題なのだから、
私だけで考えて私だけで
答えを出さなければならないと思ってた。
1週間考え抜いて、
どのような未来が待っているのか
何度も何度も空想して。
…。
した上で、波流に相談しようと決めたのだ。
話し終えると、
波流は眉間に皺を寄せて
小さく唸り声を上げた。
波流「うーん…。」
美月「…私が1人で答えを出さなきゃいけないと思っていたけれど、どうも答えが出なかったのよ。」
波流「…難しいから仕方ないよ。」
美月「…。」
波流はそれ以降
唸り声を上げるのみで
言葉を捻り出すことはしなかった。
究極とも取れる2択。
死んでほしいと伝え私の症状はなくし
彼女は望み通り死ぬか、
この2か月の通り私も彼女も
症状を抱えたまま生きるのか。
波流「…美月ちゃんはさ、戻りたい?」
美月「叶うのであれば。」
波流「そうだよね。」
美月「…。」
波流「…戻りたいに決まってるよね。」
ぽつり。
その言葉はまるで霞がかる森に降った
細い細い雨のようだった。
あぁ。
何故か森に眠る秘密基地が
ありありと浮かんでしまうのだ。
美月「私は戻りたいわ。普通の生活ができるならそうしたい。」
波流「そのためには、自殺してほしいって伝えなきゃいけないんだっけ。」
美月「えぇ。本人が言うに、死にたかったから丁度いいなんていっていたわ。」
波流「…死にたかった、かぁ。」
美月「…。」
波流「思うの。もしかしたら、その子も吸血衝動に苦しんでたんじゃないかなって。」
美月「……同じように、かしら。」
波流「そう。その気持ちは美月ちゃんが1番わかるはず。」
美月「…っ。」
波流「衝動が苦しいこと、誰かを襲いそうになる恐怖、そして、襲ってしまった後の焦りとか。」
美月「…。」
確かに、私には波流という
強力な支てくれる人が近くにいてくれた。
隣に居続けてくれた。
だから、他の人を襲わなくとも
よかったのだ。
他人を襲わずに済んだのだ。
嬉しくないことに、
私があの人の1番の理解者
と言うことになるだろう。
彼女にもいるかもしれない。
いるだろう。
支えてくれる人が。
学校に仲のいい人がいて、
そしてその人から血をもらう。
そんな現在があったかもしれない。
ただ、彼女に関しては
吸血行為は何人かにしたことがあると
口にしていたっけ。
°°°°°
美月「あなたのせいで、私まで化け物になったのよ。分かる?」
「…分かりません。」
美月「…っ!…あなたねぇ」
「うちはこれまで何人かの人にやってきたけど、うつったなんて聞いたことないです。」
美月「その人と2度と会わなかっただけじゃないかしら。」
「…違う。会ってる。会ってます。」
美月「…なら、なんで私はこうも吸血鬼みたいな状態になってるのよ。」
「…。」
美月「…あなたのせいでしょう。」
「…知らないし、そんなこと言われても。」
美月「…。」
°°°°°
波流「だから、死にたいところだったなんて口にするんじゃないかなって。」
美月「…そうね。死にたくなるほど辛いわよ。」
波流「…。」
美月「分かるわ。他人を襲ってしまうくらいなら、私なんていなくなってしまえと思うのよ。」
波流「…同じことを、その子も思ってるんだと思う。」
美月「…。」
波流「違いはそこにあったんだろうね。その子と美月ちゃんの違い。」
美月「違い…。」
波流「うん。生きたいか死にたいかの違い。願いはきっと一緒なんだよ。」
美月「私の願いは元に戻って普通に生活することよ。」
波流「それを噛み砕けば結局は吸血衝動を無くしたいってことだからさ。」
美月「…なるほどね。」
波流「…少し話は逸れちゃうけどね、私は美月ちゃんのこと、本当に凄いなって思ってるんだ。」
急に何を話し始めたかと思うと、
波流は体重をベッドに預け切ってしまって
最早床にごろりと寝転がっていた。
大事な話をしているにも関わらず
このような姿勢をとっている。
けれど、目つきは真剣そのもので。
何を見ているのだろうと思えば、
天井を眺めているだけのよう。
見覚えがあるなと思えば、
どうやら裏山でのピクニックの時だろう。
°°°°°
波流「美月ちゃんはさ、前々から思ってたんだけどものすごく頑張り屋さんだよね。」
美月「何よ急に。」
波流「かっこいいと思うよ。」
美月「べた褒めし出すなんてらしくないじゃない。」
波流「え、私結構褒めたつもり」
美月「冗談よ冗談。結構褒めてるわ。そして、続きは?」
波流「へ、あ、そうだった。何でかっこいいって思うかってね、私はあんま頑張り続けるって苦手だからさ。」
°°°°°
波流「…私だったら、死にたいって考えると思う。」
美月「戻れる手段があったとしても?」
波流「だって確実じゃないからさ。」
美月「…確実じゃない…。」
波流「そう。だって、その子が吸血鬼だと決まったわけじゃないじゃん?」
美月「…えぇ。」
波流「そして、まぁ…もし仮に、ほんとに吸血鬼だったとして…その子がいなくなったら治るって言い切れるのかなって思っちゃって。」
美月「あくまで伝承の範囲でしかないってことね。」
波流「そう。」
美月「…結局、波流の意見としてはどっちを取りたいの?」
波流「…ごめん、先に美月ちゃんがどう考えてるか知りたい。私の意見だけで流されちゃわないように。」
美月「…私は…。」
…私は。
……。
私は、戻りたいと心は決まってる。
決まってる。
…けれど、過るのは彼女の
弟の姿だった。
家族がいるのだ。
私にだって、あの人にだって。
私自身も弟がいるから分かる。
きっと…
きっと、彼女は家族を守ってきたんだろうなと。
本当に弟のことを気にかけていない、
どうでもいいと思っている人ならば
態々一緒に遊びにきたりしないし、
ひと言声をかけて帰ることすらしないだろう。
家族を、兄弟を大切にしたい気持ちだって
私は理解できてしまう。
皮肉なことに、境遇は似ているのだ。
美月「…戻りたいけれど、死んでほしいわけじゃないわ。」
波流「うん。」
美月「そりゃあこれまでの生活ができるなら本望よ。今だって血の匂いがすると苦しいもの。」
波流「やっぱり、いくらトマトジュースや生肉の汁とかで凌いでも…」
美月「えぇ。気が紛れるだけよ。根本は何も変わってなんていないわ。」
波流「…。」
美月「今、症状は良くなっているように見えるけれど、辛いのは何ら変わりはない。この先、これ以上波流から血をもらう頻度を落とすのは正直厳しいとさえ思うわ。」
波流「…そっか。完治することはない…って感じ?」
美月「えぇ。一生付き合うものになるでしょうよ。」
そこまで口に出してはっとした。
私は、この体質のまま
一生を終えるのだろうか、と。
たとえば、私の吸血衝動の原因は
あの人にあったとする。
その命を断てば終わるとしよう。
けれど、もしもあの人に
原因だと思えることがないのなら。
そしたら。
…。
改善案は、ないのだろうか。
それこそ、一生付き合っていかなければ
ならないのかもしれない。
だから、死にたいのかもしれない。
私は。
…私はこの先ずっと
波流から血をもらうことになるのだろうか。
大人になっても、その先歳を取ってもずっと。
…。
それは、波流の負担に
ならないのだろうか。
波流「でも、死んでほしいわけじゃないんだよね。」
美月「…えぇ。そのはずよ。…そう思ってる…はず。」
波流「もしもの話をするね。」
美月「…。」
波流「死んでほしいと伝えて、まぁそれを呑んでくれたとして…でも、遺書で美月ちゃんに言われましただなんて書かれたらどうするの。」
°°°°°
美月「殺すって…」
「あーでも、前科負いたくないですよね?」
美月「…。」
「うち、ちょうど死にたかったんで、死ねって言ってくれれば自殺しますよ。」
美月「はっ…?」
「それでどーですか。」
美月「…自分が何言ってるかわかってるのかしら。」
「勿論、うちの言葉なんで。」
美月「…。」
「それで死ねるなら清々しますよ。」
美月「…自分はともかくとして、家族に対して何も思わないの?」
「弟には思うところありますよ。けど、うちもう頑張ったし。」
美月「…。」
「死ねって、ひと言でいいんですよ。」
美月「…おかしいわ。狂ってる。」
「え?…あはは、幸せな人なんですねー。」
美月「…。」
「あれだ、リスカをするなんてあり得ない、親からもらった体なのにとかいうタイプの人だわ。」
美月「…。」
「幸せな人、本当に。」
°°°°°
美月「…。」
波流「だから、死んでほしいだなんて言うのはやめた方がいいんじゃないかなって私は思うな。」
美月「人としてそんな言葉を言っちゃいけないからとかじゃないのね。」
波流「え?」
美月「普通そうじゃないかしら。死んでほしいだなんて人に言う言葉じゃないわ。」
波流「そう考えられるのは、美月ちゃんが優しい人だからだよ。」
美月「何よ急に。」
波流「私は…保身に走るようなことしか言えないからね。」
美月「…。」
波流「…人のことを考えられる美月ちゃんなら、1人で答えを出してもきっと同じだったと思うよ。」
波流は寝転がりながら
緩やかにこちらを向き、
そして柔らかく微笑んだ。
それは、私とは違うねと
半ば諦めているような目でもあった。
その瞳の奥に映るのは
木製の机の足と座っている私だろう。
美月「…そうかしら。」
波流「多分ね。私に相談する前から答えは出てたんじゃない?」
美月「…それ以外にも懸念点はあるわ。」
波流「懸念点?」
美月「…波流、あなたのことよ。」
波流「え、私?」
美月「…この先もあなたに頼り続けることになる。」
波流「…。」
美月「それは負担になるし、迷惑だと」
波流「ないよ。」
美月「…。」
波流「迷惑じゃない。」
美月「…どうしてそう言い切れるのよ。」
波流「だって私、言ったんだもん。」
すると、波流は私から視線を逸らし、
天井を向きながらそうっと目を閉じた。
彼女は今、一体何を見ているのだろう。
瞼の裏で、青を映しているのかな。
波流「その症状が治るまで、一緒にいるって。力になるって言ったもん。」
°°°°°
波流「…美月ちゃん。」
美月「ふー…ふー…。」
波流「怖いよね。」
美月「…ぅ……ふー…。」
波流「大丈夫。」
美月「……根拠は…。」
波流「根拠…。」
美月「大丈夫だなんて…言える根拠は…っ。」
波流「美月ちゃんのこの状態が治るまで、私が力になる。」
美月「…はは……何が大丈夫…なんですか…。」
波流「大丈夫だよ。絶対。」
°°°°°
波流「この状態が治るまで、美月ちゃんの味方だって、軽蔑しないって言ったから。」
美月「…それは、言いなりになっているんじゃなくて?」
波流「私の意志。」
美月「……そう。」
波流「寧ろ、ずっと私を頼ってくれるなんて嬉しいよ。」
美月「…。」
波流は目を開くことなく、
1度深呼吸をした。
彼女は変わっていなかった。
吸血衝動が出始めて以降の
波流の言葉が脳裏をよぎる。
満たしてゆく。
あなたは、自分のことしか考えてない、
保身に走ってしまうだなんて言うけれど、
十分他の人のために動けるわよ。
美月「…私は…いえ、私たちは幸せにはなれないのね。」
波流「…。」
美月「この先もずっと、血に飢えて生きていくのでしょうね。」
ぽつり、ぽつりと
波流とは違った雨の音色を奏でていく。
私のは、随分と濁っている。
土の色がしているの。
美月「このままじゃ結婚だってできないわ。それに、波流に一生傷をつけさせることにもなる。」
波流「…。」
美月「もう、普通には生きていけないのね。」
波流「それが幸せじゃないってことなの?」
美月「…そうでしょうよ。普通じゃないもの。」
波流「じゃあさ、障害を持ってる方々って幸せじゃないと思う?」
美月「…。」
波流「多分、一緒のことだと思うよ。色々な人がいる。それでも、その生活の中で幸せを探して、見つけて生きてるんじゃないかな。」
美月「…。」
波流「結婚だって出来るよ。その症状のことを理解してくれる人がいるはずだから。」
美月「いるのかしら、そんな人。」
波流「いるよ、少なくとも1人はね。結婚はできないけど。」
美月「…そうね。」
波流「それに、まだ治らないって決まったわけじゃないじゃん?」
美月「……治らない…わけじゃない…。」
波流「うん。諦めなくていいと思うな、いろいろと。」
美月「…。」
波流「それにさ、もし治らなくたってまたいろんなところに行こうよ。」
美月「…旅行ってことかしら。」
波流「それもそうだし、また裏山でピクニックするのだってよし、水族館だってまた行きたい。」
美月「…。」
波流「それに、美月ちゃんの言うように近所じゃなくって、偶には遠くにだって旅行に行きたいな。」
美月「行くなら京都がいいわね。」
波流「いいね!清水寺とか、金閣寺とか!」
美月「お寺ばかりじゃない。」
波流「あと八つ橋!」
美月「抹茶も飲みたいわ。京都本場のね。」
波流「いいじゃんいいじゃん。それから、鳥居がたくさん並んでるところにも行ってみたい!」
美月「伏見稲荷大社かしら。」
波流「そうそう、そこ!」
美月「ふふ、場所ばっかりね。」
波流「えー?そんなもんでしょー。」
美月「もっと食べ物ばかり出てくると思ってたわ。」
波流「私だって景色見るのも好きなんですー。」
美月「ふふ。」
波流「あははっ。まぁ、私が言いたいのはさ、そのー…。」
ふと。
…。
何故だろう。
青をつかめたような気がしたのだ。
波流「その中で、幸せを見つけることはできないかな?」
美月「…私たちならできそうね。」
波流「でしょ?」
美月「えぇ。負けたわ。」
波流「あはは。じゃあさ、3つ目の選択肢を出しちゃおうよ。」
美月「3つ目の?」
波流「そう。私たちだけの普通じゃない、特別な人生を楽しむって言う選択肢!」
波流は結局起き上がることはないままに、
ゆっくりと瞼を開いて
上を見上げていた。
きっと、彼女の瞳には
青空が描かれていることだろう。
そうだ。
波流はそういう人だった。
底抜けに明るくて、
私のことを考えてくれて。
時に自分の評価が
低い時はあるけれど、
楽しいことばかりを提案してくれる、
私の。
…。
…。
…。
…。
私の、1番の親友。
…。
これからも歩ねえのこと、
この衝動のことで
悩んだり迷ったりすることは
多々あると思う。
けれど、これが私の生き方だと
胸を張って言えるようになれればいいなと
ぼんやり明るくなった未来を描くのだ。
***
時間が経て、遂にあの人が
私の家に来る時刻となった。
波流はと言うと、相手方がいいのであれば
同伴したいと言ってくれて、
今の今まで一緒にいてくれた。
常に不安が襲ってきたが、
私の、私たちの答えは決まっている。
何を言われたって、
私たちはこの選択を答えよう。
そう話し合ったのだ。
この選択を選んだ先の未来は
もしかすると真っ暗かもしれない。
1歩も先へと踏み出せない日が
来るかもしれない。
それでも、これは間違いではなかったと
言えるようになりたい。
そんな気持ちを持ったままに
座りながら話していると、
突如遠くから足音がした。
あぁ、来たのか。
そう思うと怖くて仕方なくなる。
これまで1番を目指して
何事も恐れることなく
取り組んできたつもりだ。
全てが将来につながっていた。
今だって同じだ。
ただ、未来に繋がっているだけの選択だ。
なのに、怖くて仕方がない。
もう修正の効かない場所に、
分岐点の先に立っているのではないか
と思うとどうにも胃の奥で
気持ち悪さを感じてしまう。
とた、とた。
お手伝いさんとあの人であろう
2人分の足音が近づいてくる。
あぁ。
怖い。
1人にきりになった、
あの朝に眠った日よりも
怖いかもしれない。
美月「…っ。」
大丈夫。
…。
…きっと。
そう思っていると、
不意に手の甲に熱を感じた。
はっとして顔を上げると、
横に座っていた波流が
優しく手を重ねてくれたのだ。
どうやら私の手は震えていたらしく、
今でも小刻みに振動している。
波流「大丈夫。」
美月「…!」
波流「…本当に心が折れそうになったら、私の手を握っていいから。」
美月「…ありがとう。」
ちらとこちらを向いた彼女は
先程のように優しく笑った後、
熱を逃さないよう、
将又熱を逃すのが心苦しいように
ゆっくりと手を離していった。
不思議だった。
波流が隣にいてくれれば、
私は何でも出来るのではないかと
勘違いしてしまう。
私にとっては1番の親友でも、
きっと波流にとっては1番じゃない。
波流の1番は、きっと嶋原先輩。
それに気づいていながらも
私は波流を頼り続けるだろう。
心を落ち着かせて、
今後起きるであろうことを
覚悟した時だった。
扉が音もなく
開いたようだった。
音は聞こえている。
いつも通り鳴っている。
そのはずなのに、無音のように思えたのだ。
「…。」
見えたのは、前回同様白いロングTシャツに
今回は短いパンツを履いていた。
なんとも動きやすそうな
格好なのは変わらない。
細い細い足だったもので、
しっかりと食べているのか不安になるほど。
整っている顔だちだが、
その目は冷たく私たちを
見下ろしていたのだ。
そして身長は私よりも高く、
お団子を左右にしていて、
そこから長くツインテールのように
髪の毛が垂れていた。
いつもの髪型なのだろう。
お手伝いさんは一礼をし
何かしら言葉を投げかけてくれたのだが、
そのどれもが耳に入ることはなかった。
3人だけとなった空間で、
はじめに口を開いたのは
名前もわからぬその人だった。
「…そちらは?」
美月「学校の先輩よ。」
「ふうん。」
波流「はじめまして、遊留波流です。」
「…はぁ。」
波流「…。…名前、なんて言うの?」
「別に言わなくても良くないですか?」
冷たい視線をぶつけたまま
波流に言葉を突きつける。
波流はというと、
どうにも納得したのか
ひとつ頷いてから
座るように促していた。
その人は私たちの前に、
机を挟んで座った。
それだけで、何故かここには
冬が宿り始める。
曇り空だった外は
雨が降り出しそうなほど。
「…その人、全部知ってるんですか?」
美月「えぇ。今もずっと助けてくれてる人よ。」
「…そうなんですね。じゃ、答え聞かせてくださいよ。」
美月「…前置きとかはないのね。」
「天気の話でもした方がよかったですか?」
美月「いいえ、必要ないわ。」
「でしょ?」
いちいち癪だとは思い、
憤りを感じるも冷静にと
心の中で何度も唱えて。
大丈夫、大丈夫。
生きていける。
たとえ体に異常があったって、
普通でなくたって。
…私たちはきっと、助け合いながら
生きていける。
楽しいことを沢山して、
思い出を重ねて、
そして、笑って。
…。
笑って、幸せだって言えるような
未来が待ってる。
待ってる、じゃないわね。
作る。
そんな未来を作るの。
…そして、私と波流の答えを口にした。
美月「何もしないわ。私もあなたもこれまで通り、血に飢えて生きるの。」
「…あは…本当にそれ、考えた結果なんですか。」
美月「えぇ。考えた結果よ。」
「死ねって…言うだけでいいんですよ?」
美月「言わないわ。」
「…何で。不便なんでしょ、その症状。」
美月「何でもよ。考えて、話し合って出た答えなの。」
「…はぁー…。」
その人はひとつ、
大きなため息をついた。
それは、安堵とかではなく、
いらつきや不満などと言った
不快なものを溜め込んだようなもので。
そして、先ほど
座ったばかりだったにも関わらず、
もうその場を立ったのだ。
深く俯いて、目が見えないほどに俯いて。
それからぽつりと
私とも波流とも違った言葉を
1滴垂らしたのだった。
「…失望した。」
そうひと言吐き捨てて、
彼女は嵐のように去ってしまった。
失望した。
その言葉だけを聞くに、
やはり死にたかったのだろうと思う。
きっと、今は揺れていたのだろう。
生きるか、死ぬかと天秤が
揺れていたのだろう。
それを後押しして欲しかった。
死ぬにも理由が欲しかった。
だから…。
…。
ぎゅっと自分の胸元を握りしめた。
波流の手を握るほどでない。
けれど、何かを掴んでいたかった。
あぁ。
…。
胸ぐらを掴まれるって
思っている以上に苦しいのだと
今更ながらに知った。
少なからず後悔している証拠だ。
どの選択を選んだとしても
私はこの感情に襲われただろう。
どれを選んでも後悔しただろう。
人生だもの。
そんなものだ。
結局どれを選んでも
苦しいだとか、後悔だとかはあるものだ。
…。
…仕方のないことなのだ。
それが選ぶということだ。
それが生きるということだ。
私の1番の親友は歩ねえだった。
そして今では波流が1番の親友だ。
ただ、あの人の1番の理解者は
私になるだろう。
皮肉な関係だと、笑うことも出来なかった。
私と波流もそう、私とあの人もそう。
私たちは歪な関係で結ばれてしまったのだ。
曇天の中、風が強く吹いたのだろう。
びゅうと外が唸ったのだ。
それでも草花は耐え、
強く上を向いていたのだった。
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