止まり木

土のしんみりとした感触が

優しく頬を撫でた。

髪はじとじととしており、

土と同様張り付いている。

数日雨に濡れお風呂にも

入っていないとなると

当たり前の結果だ。

これまで続けていたスキンケアも

全て無駄になってしまった。

視界の隅で何か動いているのが見える。

ミミズだろうか。

時折足や服の中にまでも

蟻やダンゴムシと言った

虫が這いずってくることがあった。

初めのうちは払い除けたけれど、

2日も経てば気にする方が馬鹿のように思え

放っておくようになった。


家の裏山、山の中腹あたり…

急勾配の麓だと記憶していた場所は

正規である道を大きく外れた場に存在していた。

今となっては基地だなんて言えるほど

形なんて残っておらず、

当たり前と言わんばかりの出迎え方だった。

自然ばかりが発達していて、

私は何も変わっていない。


当時、急勾配の麓に洞穴を見つけた。

それは小学生の子供が2人入れるほどで、

そこに様々なものを持ち寄っては遊んでいた。

正規の道で山に入ろうとすると

家の中を通らなければならず、

それだとバレてしまう。

その為に道に面している部分から

まるでこそ泥のように山に侵入し、

ここを見つけることが出来たのだ。

どうしても山で遊びたかった私達は

頭をこれでもかというほど使って

練り出した案がそれだった。


洞穴の中は深くまで続いているわけではなく、

学校の机を2個並べたほどの奥行きのみ。

座るにも頭を下げなければならず、

来てすぐは座っていたけれど

その体制はきつかったので横になった。

制服はひたひたになり泥まみれ。

初めはトイレに行きたくなった時の為

保険をかけて座っていた。

コンビニに駆け込めばいいと思っていたから。

だから予定通りコンビニに行ってみれば、

勿論何かと香ってはくるわけで。

ほんのりとしている分

まだ耐えることは出来たが、

もし近日に流血した人がいたとしたら。

そう考えると行こうにも行けなくなっていた。

そもそも食事も水も摂っていなかったおかげで

その1度以降波は来なかったが。


洞穴の出入り口にはおしゃれにも見える

自然のカーテンが出来ており、

まだ夏手前だというのに

そこには思い出同様夏が生きていた。

中に入ってみれば夏は消え失せ

一気に冬へと逆戻り。

不思議なものだ。

自然のカーテンまで出来て

一見見つからないだろうと思いきや

すぐに見つけてしまうのだから。


美月「…。」


崖の麓。

雑菌だらけであろうこの秘密基地。

ライトや虫除け、綺麗な石等

数えきれないほど多くのものを

持ち寄っていたはずだが、

それひとつすらここにはない。

完全に過去の場所となってしまったのだ。


土と一心同体。

ぴったりと土に体を添わせ

そのまま何時間も経た。

虫に食われているのではないかと思うほど

動かしていない体は衰えている。

鞄を枕代わりにすることもなく

狭い洞穴の中に放ったまま。


私の体の組織はこのまま衰退し、

土に還るのだと錯覚し続けている。


美月「…。」


うっすらと目を開いては閉じた。

眠りすぎて眠れない。

朝も夜も眠った。

…。

さて、廃れるまで何をしようか。


…。

…せっかくなら、過去を眺めてみようか。

時間はあるじゃないか。


美月「……あ…ゅね…………。」


ゆっくりと目を閉じてその名を呼ぶ。

そう。

彼女と初めて出会ったのは

小学2年生の冬だった。





°°°°°





それは年末年始も近い頃。

地域のクリスマス会だか

何かしらの行事がある日だった。

毎年私の家でもあるお寺にて

開催されているクリスマス会。

その日は一段と冷える日だったのを

未だに覚えている。


美月「うう、寒い。」


ママ「美月、ツリーの準備を手伝ってくれない?」


美月「えー、それくらい悠真に頼んでよー。」


ママ「悠真じゃ身長が届かないわ。それに、美月はお姉ちゃんでしょ?」


美月「私が5歳の時もう手伝ってたのに悠真ずるい。」


ママ「さ、こっちおいで。」


美月「いーやーだー。」


ママ「美月。」


美月「やだ、お手伝いしたくないー!」


ママ「もう、樹も見てるじゃない。」


美月「関係ないもん!どーせ大人になったら覚えてないもん。」


確かツリーの飾り付けを

延々と渋っていたんだっけ。

やりたくないだのなんだの駄々をこねて。

当時の私はお世辞にも

いい子とは言えなかった。

誰にだっていい顔をしているわけではなかった。


その時、ママは私に目線を合わせるよう

しゃがんでくれたんだったか。


ママ「全く…もう。…いい、美月。これから沢山の人がここにくるの。」


美月「知ってるよ、クリスマス会でしょ!」


ママ「そう。その時に、これ私が飾り付けたんだって言えたら嬉しくない?」


美月「嬉しくない。」


ママ「じゃあ、色々な人からすごいねって言われたら嬉しくない?」


美月「うぅー。」


ママ「嬉しいでしょう?」


美月「けどめんどくさい、嫌だー。」


ママ「めんどくさいことをやってのける人ってかっこいいのよ。」


美月「えー。」


ママ「あ、ちょっと惹かれたでしょ。」


美月「…悠真と樹も手伝わせるならやる…。」


ママ「樹は難しいわ。」


美月「じゃあ悠真だけでも一緒に飾り付けする。」


ママ「仕方ないわね。分かった、そうしましょう。」


ママは笑っていたんだか

顰めっ面で怒っていたのだか

全く覚えていないけれど、

悠真を巻き込んだことは

妙に記憶に残っている。


そして、文句を垂れながら準備を進め、

昼から浅い夜まで続くその行事には

多くの人がお寺に押し寄せた。

近所の子供達が全員

揃ったのではないかと思うほど。

当たり前だが高学年の子もおり、

どう話しかけて仲良くなろうかと

思案していたか。

…否、していないだろうな。

小学生の頃は思いつきで行動していた。

この人気になる。

だから話しかけよう、といったように。

その考え方が甘かったのだと

今では重々理解しているけれど。


その年のクリスマスツリーは

これまでで1番輝いていた。

自信があった。

頑張って準備してよかった。

そう思えたということが

今の私に繋がる1番の

きっかけだったのかもしれない。


暫くは多くの人と話して仲良くなった。

いい子ではなかったけれど

人と話して友達と過ごすのは好きだった。

ご飯を食べて、ひとしきり遊んで。


美月「あー疲れたー!」


大きな声をあげてアピールするように

縁側に座り込む。

そして皆が鬼ごっこだか

何かをしている傍ら戦線離脱、

水を飲みに室内へと足を踏み入れ

外ではないのに走っていった。

すると、保護者の方々が座談会をしており

先ほどの私たちのように

ご飯を囲んでいる。

飾ってあったはずのツリーは

人の邪魔になったのか

元あった場所にはなかった。


せっかく頑張って飾り付けたのに。

私の中には密かに憤りが芽生えた。

近くにいるお手伝いさんの袖を引くと

今は忙しいから後にしてくれと言う。

ご飯を提供しなきゃとかなんとか。


けれど当時の私は理解できなかった。

この家のお嬢様である私が

蔑ろに扱われていることが

理解できなかった。

いつもは答えてくれるのに

こう言う時に限って私を裏切るんだ。

理不尽にも近い感情を抱えて

お手伝いさんは駄目だと知った今、

誰に尋ねようか。

ふと目に入ったのは地域のママさんと話す

ママの姿だった。


美月「ねーねー。」


そう声をかけると一斉に静まる周りの人達。

その違和感は大層気持ち悪く、

ここにいる人々は機械かと思った。

席の離れている方では

私がきたことすら気づかず

話し続けている人もいて、

喧騒は絶えずに済んでいた。


ママ「ん、なあに?」


美月「ツリーどこ行ったの?」


ママ「ああ、それなら奥の部屋に移動したわよ。」


そうひと言言うと、

また見知らぬ人々に向かって

楽しそうに話を始めた。

むっとした私は足音をわざと立てて

その場を後にした。


廊下を歩くと自分の足音がやけに響き、

気持ち悪くなって結局は静かに歩いた。

暗くなりつつあるからか

不気味で胸がそわそわとしている。

からんころん。

厨房からはいい香りが漂っている。

けれど、私の憤りが収まることはなかった。


あーあ。

誰も私の相手をしてくれない。

鬼ごっこも捕まらないから飽きちゃった。

それに誰も探しになんて来てくれない。


奥の部屋とは言っていたけれど

実際どこなんだろう。

家の中をふらふらと歩き回っていると、

納戸の部屋の前に

淋しく佇んでいるツリーが目に入った。

それと、その前に突っ立っている女の子。


黒髪で長い髪。

暗い中でもどこかからか光が当たっていたのか

艶やかに伸びていたと分かったのだ。

私よりも少し背が高い。

ぼうっとツリーを眺むその子は

大人しそうに見えた。

だからだろう。

加虐心がくすぐられたのだ。

驚かしてやろうと足音を消し

こっそりと近づいて大声を放った。


美月「あ、ツリーあった!」


「…!」


びくっと肩を震わせながら

こちらをものすごい勢いで見る彼女。

怯えているようにも見える。

驚きすぎたあまり、

自分の髪をぎゅっと

握っているのが窺えた。


美月「あはは、驚いてるー。」


「…えと…」


美月「いくつなの?」


「何歳かってこと?」


美月「そう!」


「10歳…。」


美月「年上だ!名前なんて言うの?」


歩「……歩…。」


美月「それじゃあ歩ねえね!」


歩「え…?」


美月「あーだー名。歩ねえ!」


歩「あ、うん。」


淡白な返事をしたその子は

どうやら恥ずかしいのか

猫背になっていた。

ツリーを見ているだけの時は

こんな鬱屈としていなかったのにな。


美月「ツリー見てたの?」


歩「うん。」


美月「みんなと遊ばないの?」


歩「うん。」


美月「友達いないの?」


歩「…うん。」


美月「え、いないの!」


歩「最近引っ越してきたの。」


美月「引っ越し?じゃあ転入生なの?」


歩「うん。」


美月「いつから学校行くの?」


歩「冬休み明けたら行くの。」


美月「ねえねえ、どこ小学校に行くの?」


歩「…ここの近くのところ。…名前忘れちゃった。」


美月「それって、ここから大きい道をを真っ直ぐ行って、それで右に曲がってすぐのところ?」


歩「…多分そこかな。」


美月「じゃあ一緒の学校だ!」


歩「…そうなんだ。」


美月「やったー、転入生といち早く仲良くなれちゃった。」


歩「仲良く…?」


美月「うんっ。話したらもう友達!」


歩「…そっか。」


その時、歩ねえは安心したのか

小さく笑ってくれたっけ。

コロナもない時代だったから

マスクなんて勿論していない。

歩ねえの笑顔を確と目に焼き付けた。


歩ねえの隣に立って

一緒にツリーを見上げたのだ。

上の方の飾り付けは

結局パパだかママだかお手伝いだかが

やってくれたのだけど、

下の方は全部私がやった。

悠真は飾りを渡してくれる係をしてくれた。

正直なくてもよかっただろう役職だけど、

私としては悠真を巻き込めただけで

きっと嬉しかったんだろう。


美月「これね、私が飾り付けたの!」


歩「え、そうなの?」


美月「うん!こことか、ここらへんとか、あとこの辺も!」


歩「…綺麗だね。」


美月「でしょ!」


歩「うん。1番綺麗。」


美月「えっへへ。」


誰かに認められた1番は

これまで以上に嬉しかった。

自分の心の中だけではない、

他者からの評価による1番。


だから私は1番に

拘るようになっていったのかもしれない。


美月「ねぇ、みんなと遊ぼうよ。」


歩「え。」


美月「仲良くなるチャンスだよ。」


歩「でも」


美月「友達つくろーよー。みんないい子だよー。」


歩「…緊張する。」


美月「だーいじょーぶ。私も一緒にいくもん!」


歩「…ほんと?」


美月「うん!今ね、みんなで鬼ごっこしてるんだー。」


そして漸く外に出ると

ひと区切りついていたのか

お寺の前でみんなが集まっていた。

ちょうどいいと思い

歩ねえのことを紹介すると、

みんな物珍しいものを見るような目で

彼女のことを見つめていて。

歩ねえはというと

大層居心地が悪そうで、

何度か体制を変えていた。

落ち着かない様子を見かねて、

私は口を開いたんだっけ。


美月「ねー鬼ごっこもっかいしよー。」


「やる!」


「やりたい!」


「えー飽きた。」


「他のしようよ。」


「ドッヂやりたい!」


「ドッヂいいじゃん。」


「えー鬼ごしよーよー。」


「ドッヂ嫌だー。」


子供が大量に集まると

自分の好きなことを口口に言う人と

黙り込んでしまう人に分かれる。

歩ねえは断然後者で、

私は前者だったろう。


美月「じゃあ分かった、かくれんぼしよー!」


「えーなんでドッヂじゃないの。」


美月「ボールないもん。それに壊して怒られたくないもん。」


「かくれんぼがいい人手ーあーげて。」


「はーい!」


「ほらすくねーじゃん。」


「別のしよーよー。」


「かくれんぼしたーい。」


こうもばらばらでは収集をつけづらい。

1度大きな声を出して

まとめようとした時だった。


「じゃあ、転入生の子がしたいことするのがいいんじゃない?」


歩「え…。」


「いーじゃんそーしよーよ!」


「何したいー?」


みんなが歩ねえに詰め寄る中、

歩ねえは肩をぐっとあげ

緊張しているのが見てとれた。

肩身狭そうにしている間、

じっと見つめる子供達。

その1人は私だった。

紛れもなく。


時間にしておよそ数秒。

歩ねえは意を決して口を開いた。


歩「か…かくれんぼがいい…。」


「よーしきーまり!」


「ドッヂはー。」


「明日学校行ってやろーぜ。」


「かくれんぼやったー!」


「よーしやるぞー。」


「鬼決めよ鬼!」


美月「鬼やりたい人まーえおーいで!」


子供とは不思議なもので

これをやると決まれば

多くの人がやる気を出して参加してくれる。

やるからには楽しむ。

その心が表れているのだろう。

ちらと歩ねえを確認すると

もう他の子達から話しかけられており

そこは輪のようになっている。


不意にばちっと

歩ねえと目があった。


美月「えへへ。」


ほら、友達出来たじゃん。

その意味を込めて彼女にピースをすると、

歩ねえは困ったように笑ったっけ。


それが歩ねえとの出会いだった。

かくれんぼでは私が早々に見つかって

歩ねえは上手かったのか

終盤で出てきたのすら覚えている。


そして、クリスマス会が終わり

みんなが帰った後、かくれんぼをした事で

ママに怒られたのだって覚えていた。

危ないところに入ってしまったら

どうするつもりだったの、と。

けれど、考えることをしなかった私は

怒られたことに怒りを感じて

また喧嘩をしたのだって

頭に刻み込まれていた。





***





年が明けて学校が始まる。

勉強はそこそこにできる私だが、

遊ぶことだけに人生をかけていたせいで

冬休み最後の1、2日は

宿題というものに追われていた。


美月「あーあ学校行きたくなーい。」


通学路、1人でそう呟く。

冬休みが楽しかったからこそ

学校は始まってほしくなかった。

みんなと集まって遊ぶのが楽しかった。

学校に行けばみんなと会えるし

冬休みの時同様変わりなく

遊ぶことはできるけれど、

それは時間の制限があるものになる。

自由にいつまでも

遊んでいられるんじゃないかと

錯覚する日々は終わってしまった。

もう春休みや夏休みが恋しいのだ。


かつーん。

小石を蹴り飛ばしながら

春休みには何をしようかと

考えていた時だった。

不意に彼女の姿が

前を横切ったのだ。


美月「歩ねえ!」


歩「わっ…!」


美月「歩ねえおはよう!」


歩「あ、うん。おはよう。」


美月「一緒に行こーよ!」


歩「うん…いいよ。」


美月「やったー。」


歩ねえと会うのは確か

クリスマス会の時以来。

久しぶりに会ったけれど

変わらず長い綺麗な髪を下ろしていて

すぐに彼女だと気づくことができた。


美月「ここ通学路なんだ!」


歩「そうみたい。」


美月「今日って初登校?」


歩「…うん。」


美月「そうなんだー。どきどきする?」


歩「…する。」


美月「へー、引っ越し沢山してきたの?」


歩「うん。沢山したよ。」


美月「何回くらい?」


歩「うーん…3回か4回…かな。」


美月「大変そうー。」


歩「えっと…したことないんだっけ、引っ越し。」


美月「なーい。お寺だし引っ越すことないの!」


歩「いいな。」


美月「えー引っ越ししてみたーい。」


歩「大変だよ…?」


美月「いいもん。したいしたーい。」


歩「…お願いしてみたらどうかな。」


美月「絶対駄目って言われるよ!ママね、すーっごくケチなの。」


歩「あはは…優しそうなのに?」


美月「うん!鬼だよ鬼!こうやってね、ここからツノが生えるの。がおーって。」


跳ねるたびにランドセルが

背で踊っているのがわかった。

私が頭の後ろから角が生えているよう

指で山を立てると、

歩ねえはくすりと笑ったっけ。

その仕草を見て、

年上だったことを思い出した。

けど、歩ねえが笑っているなら、

緊張が少しでも解けているなら

それでいいやと思っていたのも事実。


美月「ねーねー、私は歩ねえのこと歩ねえって言うじゃん?」


歩「え?…うん。」


美月「なのに私、名前1回も呼ばれてないー。」


歩「…呼んだことないね。」


美月「呼んで呼んでー!あだ名でもいいからー。」


歩「え、えぇ…。まず名前知らない…。」


美月「え?うそー。」


歩「ほんと。まだ名前聞いてないよ。何年生かも知らない。」


美月「そっかー。私、雛美月だよ。美月!2年生。」


歩「2年生…2つ下なんだね。」


美月「うん!ねー、名前教えたから呼んでよー。」


歩「えっと…うーん…。」


美月「あだ名でもなんでもいーの!」


歩ねえと歩きながら

2人で登校する新しい日。

学校が近づくにつれ

知り合いも増えてきていた。

先日クリスマス会に来ていた子も

ちらほら見かける。


歩ねえはうんと考えたのち、

ひと言口に出したのだ。


歩「じゃあ…みーちゃんで。」


美月「えーあれだけ考えてそれなのー?」


歩「嫌…?」


美月「あはは、ぜーんぜん!ねね、明日も明後日も一緒に学校行こ!」


歩「え…?」


美月「だーかーらー、一緒に行くの!」


歩「えっと、今日と同じ時間?」


美月「うん!」


歩「わ、分かった…いいよ。」


美月「わーい!」


そうして新年早々歩ねえと

2人で登校する日々が始まった。

日を経る毎に歩ねえの表情は

明るくなっていって、

学校に慣れていっているのが目に見えた。

友達も出来たみたいで、

登校中に挨拶している姿も

時折見かけることが多くなった。

歩ねえは出会って当初こそ

暗くて不安げな顔ばかりしていたけれど、

年度が終わる頃には

そんなこともなくなっていった。


私の通っていた小学校は

生徒数が恐ろしく少なく、

ひと学年ひとクラスのみだった。

クラス分けもなく、運動会は赤と白組だけ。

全校生徒を合わせても

150人すら届かない程小さかった。


だから、他学年の子とも仲が良かった。

昼休みになれば校庭に集まり、

学年、性別関係なく皆と遊ぶ。

5、6年生にもなると

室内で遊ぶ人が増えるイメージもあるが、

歩ねえばかりは私が誘い出していた。

そしたら、歩ねえが遊びに行くなら

私も遊ぶと言ってくれる人もいて、

結局大所帯で鬼ごっこや高鬼、色鬼、花一匁。

様々な遊びをしたのだ。

雨の日は体育館でドッヂボールや

バスケットボールだってしたっけ。

時には先生も参加してお祭り騒ぎ。

学校が始まるのは嫌だと口にしていたけれど、

つまらないだなんて思う暇がなかった。

歩ねえが来てからというもの、

何だか日々が更に煌めいて見えた。


あっという間に時は過ぎ、

私は小学3年生、歩ねえは5年生になった。


春うららかなある日のこと。

不意に思ったのだ。

歩ねえと2人で遊んだことがないって。

思い立ってしまっては

もう止まることなど出来ない。


私はすぐさまママに

自分の部屋で遊んでもいいか聞いた。

初めは駄目の一点押しだったが、

お寺のイベントでは人を呼んでいいのに、

ママは学生時代のお友達を招いているのに等

私が駄々をこね続けた結果、

折れてくれたんだか納得したんだか

今でも定かではないものの

承諾してくれた。


ママはやつれているように見えたけれど、

承諾を得たことが嬉しくなって

すぐさま歩ねえに伝えたのだ。


そしてその週末。

歩ねえはいつも通りな無彩色系の服ではなく、

珍しく春っぽいピンクの服を着て

私の家に来てくれた。

服まで覚えているもの。

それほど嬉しかっだろう、

こういったところからも滲み出ている。


歩「お、お邪魔します!」


美月「ようこそー。」


「お嬢様は部屋でお待ちいただくよう伝えたはずですよ。」


美月「だって友達が来てるんだもーん。」


お手伝いさんも呆れた顔をしていたけれど、

私にとってはどうでも良かった。

しきたりだとかルールだとか社交辞令だとか

古臭いものが苦手だったんだと思う。

私は歩ねえの手を引き、

背後から飛ぶお手伝いさんの声を尻目に

台所まで飛んで手を洗ってから

自分の部屋へと招いた。


テレビのある部屋には

ゲーム機もあったのだが、

生憎故障していたのだったか

ゲームをした覚えはなかった。


美月「どうぞー!」


歩「わ、わぁ…広い…!」


美月「えー、そうかなー?」


歩「広いよ、凄い!お城みたい…!」


歩ねえは立ち止まって

きらきらとした瞳で私の部屋を見回した。

当時の私は本など全く読まなかったために

壁一面の本棚はそもそも設置されておらず、

そのかわりピアノコンクールの

賞などが飾ってあった気がする。


歩「凄い、これ、全部みーちゃんの?」


美月「うん!たーっくさん1番とったんだー。」


歩「凄い!」


美月「えへへ、でしょー。」


歩「ピアノ得意なんだね。」


美月「そうなの!習い事やってるんだよ!」


歩「週何回してるの?」


美月「ピアノは毎日触ってるよ。」


歩「毎日!?」


美月「うん!だって1番を取って褒めてもらいたいじゃん。」


歩「凄いなぁ。私こんなに頑張れないや。」


美月「えー、何か頑張ろうよー。」


歩「習い事始めても引っ越しですぐやめなきゃ行けなくなるから…。」


美月「あーそっかぁ。」


歩「ピアノ以外の習い事ってしてるの?」


美月「沢山してるよ!英語でしょ、お琴でしょ、習字でしょー」


歩「え、そんなに沢山!?」


美月「普通だよー。」


歩「普通ならひとつかふたつくらいだよ…。」


美月「でもほら、2週間に1回のやつもあるから!」


歩「そうなんだ、頑張り屋さんだね。」


美月「いい子でしょー。」


歩「すーぐ意地悪するところはいい子じゃないけど。」


美月「もー根に持たないでよー。あ、そーだ。」


歩「…?」


美月「いつかさ、ピアノの連弾しよーよ!」


歩「連弾?」


美月「知らないの?」


歩「わかんない。」


美月「連弾っていうのはね、ひとつのピアノで何人かが一緒に弾くことだよ!」


歩「え、私とみーちゃんが一緒に弾くってこと?」


美月「そう!やーろーうーよー。」


歩「無理だよ…私楽器はリコーダーしかやってないから」


美月「他にもカスタネットとか、タンバリンとかしたことあるでしょ!」


歩「…ある…けど」


美月「じゃあ大丈夫よ!私が教えてあげるから!」


そして、何のお菓子だったかまでは

忘れてしまったが

持ち寄ってくれたものを食べながら

ただただ話をしていたんだっけ。

のちにお手伝いさんが

お茶とお菓子を持ってきてくれて。

それでも私達はずっと話していた。

詳しいところまでは覚えていないけれど、

家が広いこととか学校でのこととか

幅広いことを話していた気がする。

僅かながらの記憶は

裏山のことについてだっただろうか。


美月「あのね、秘密の話があるの。」


歩「秘密の?」


美月「そう!こしょこしょ話でしか話せないやつ!」


そう言って歩ねえの耳に顔を寄せる。

綺麗な横顔だなと思ったんだっけ。


美月「このお寺にね、裏山があるの。」


歩「山?」


美月「しっ!それでね、その山、私の家の土地なんだって。」


歩「えぇ!」


美月「入っちゃ駄目って言われてるんだけどさ、今度入ってみようよ!」


歩「い、いいのかな。」


美月「いいよ、バレても怒られるだけだし。」


歩「それよくないよ…。」


美月「だーいじょーぶ、私がいるんだもん。」


歩ねえは不安げな顔をしていた。

けれど私は知っている。

瞳の奥に揺らめく期待があったのを、

好奇心は息巻いていることを知っていた。


2人でこそこそと小さい声で

夏休みに山に立ち入ってみよう

という話になった。

そこから夏休みの計画は始まったのだ。


そのあたりだっただろうか。

日々を送る中、私は相変わらず

規則正しい生活をしていた。

外で沢山遊び、疲れて夜には眠る。

だが、その日は寝つきが悪かったのか

それとも鳴った大きな音のせいか。

ふと目覚めてしまったのだ。

これが運の尽きだった。


美月「…?」


ばりん、と鈍い音が

遠くから聞こえた気がして

トイレに行くついでに

確認しようと思い立った。


自然と足音を殺しながら

音の鳴った方へ近づくと

それはパパの部屋。

そこからは怒号が漏れており、

誰かを叱っているのはわかった。

お手伝いさんも皆帰っているはずなのに

一体誰を叱っているのだろう。


きし、きし。

近くから足音がしていることに

漸く気づいた時には

隣に悠真が立っていた。


悠真「…おねーちゃん…?」


美月「…悠真……しっ。」


悠真「え?」


美月「悠真は樹のところに行ってあげて、一緒に寝てなさい。」


悠真「でも今」


美月「いいから。お姉ちゃんに任せなさい。」


悠真も何かを汲み取ったのだろう、

眉を八の字にしていた。

私でさえわかる。

只事ではない、と。


悠真には樹の元に行ってもらい、

彼はまた音を立てず私のように

そうっと影に身を溶かした。


そしてパパの部屋の前に行き

そうっと扉を開いた瞬間だった。


ばりんっ。

…そう、再々音がした。


美月「ひっ…!」


ピアノで耳が鍛えられていたためか

音はやけに大きく聞こえてくる。

それでも負けないように

自分で言い聞かせて部屋の中を覗いた。


すると、人生の中で

見たこともない光景が広がっていた。


項垂れるママ、拳を振り上げるパパ。

その拳は当たり前のように

ママへと振り翳されたのだ。

部屋にはあちこちガラス瓶が

割られた後なのか

破片が散らばっている。

幸いなことに扉付近や

ママの近くにはなさそうで。

だが、壁には大きなシミが幾つも付いている。

お酒でも入っていた瓶を

壁に叩きつけて割った。

その結果あの音が鳴ったのだろう。

ぷんぷんと吐き気を催すほどの

アルコールの匂いが漂っていたのだ。


美月「…っ…っ!」


どうしよう。

このままだとママが死んでしまう。


そう思った私は

大きな音を立てて扉を開いたのだ。

いつまでも記憶に残っている。

脳の隅を食っている。

パパの怒っている顔、

ママの目を見開いている顔。


美月「や、やめてよ!ママを殴らないでよ!」


ママ「美月…。」


パパ「ったく…美月、いいかい。パパとママは大切な話をしてるんだ。」


美月「話し合いじゃなかったでしょ。」


パパ「いい子だからもう寝ておいで。」


美月「嫌。」


パパ「…。」


美月「ママが嫌がってるんだからやめ」


パパ「うるさいな。」


その刹那、視界がぐるぐると1回転し

ふと気づけば体から

アルコールの匂いで塗れていた。

背中に固形物が当たっている。

幸いなことに怪我はしていないものの

ガラスの破片があるあたりに

転がってしまったのは理解した。


美月「…っ!」


顔を上げれば、パパの顔。

そして先ほどと同じように手を上げー。


…。

…。

…。


それからの日々は地獄のようだった。

家に帰ればパパは仕事だから

すぐに何かをされることはないけれど、

帰ってきたら人格を否定するような暴言、

そして気が済むまで殴られる。

初めて殴られた時は顔だったけれど、

それ以降は何かを学んだのか

腹部を中心としたものになっていった。

この辺りの日々は門限を守らなければ

全裸にされて外に出されるなんてこともあった。

この暴力は後2年程続くのだが、

冬でのこの仕打ちは流石に体に応えたっけ。

ただひとつ、私には守りたい人がいた。

ママは勿論だけど、1番は弟達。

悠真と樹の2人に

こんな辛いを思いをして欲しくない。

私なら守ってあげられる。

だって、お姉ちゃんだから。

私だけでいい。

こんな思いをするのは

私だけでいいの。


次第にお姉ちゃんという言葉は

自分を苦しめる言葉になっていった。


パパにとって、

何がストレスだったのかわからない。

社会でのいざこざだったのか

それとも家庭環境だったのか。

私は何も知らないままに

数種類の暴力を受け続けた。

それをのちに虐待と呼ぶのだと知った。

知っても尚、何かをすることはなく

日々は経ていった。


時間が経つほどに家に帰りたくなくなった。

でも、門限は守らなければいけない。

帰ったら、またあの痛みが待っている。


私自身にも真っ黒な何かが

体内に蓄積されていったのかもしれない。





***





気づけば明日から夏休みになるようで。

夏。

あぁ、蝉が鳴いている。

ピアノは毎日続けていて、

習い事も絶えずある日々だった。

変わらない。

そう、暴力が止むこともなく、

ただただ時間が過ぎてた。


そんな中、歩ねえとの2人の登校中

こんな話が飛び出したのだ。


歩「夏休み、楽しみだね。」


美月「えー、そう?」


歩「だって山に行くんでしょ?」


美月「あー…そうだっけ。」


歩「うん、話したじゃん。」


そんなこと、とっくに忘れていた私は

随分と冷たい対応をしたと思う。


普段は先生にも友達にも

こんな家庭状況になっているなんて

どうしても知られたくなくて、

普通でいたくて、

悟られないよう過ごしていた。

声色も表情も何もかもこれまで通り。

そう。

私は私を演じていたことに

気づかなかったのだ。


裏山に入る。

それこそ今こんな状況で実行して

ばれてしまったら大変怒られるだろう。

死んでしまうかもしれない。

けれど、私の居場所は

歩ねえの隣だけだった。

今こうして歩いている歩ねえの隣だけ。


それに、楽しいことをしたい。

何も考えずに遊びたい。

久しく私の中に楽しみだとか

嬉しいだとかいう名前の感情が

湧き出ているのを感じた。


美月「そうだったー。じゃあ明日、いつもの場所で集合ね!」


歩「うん!」


いつもの場所とは登校の際

待ち合わせている場所だった。

いつもの場所で通じるほど

私たちはこの半年間で

多くの時間を共に過ごした。


そして夏休み。

私達は道路に面している部分から

まるでこそ泥のように山に侵入し、

何かいい場所を探した。

ずっと入り浸る気なんてさらさらなかったから

いい雰囲気の場所を見つけて終わり。

そのつもりでいたのだが。


歩「見てみて、向こう!」


美月「え…?」


歩「ほら、光!」


美月「ほんとだ!」


歩「よし、気をつけて行こう!」


美月「いーや、私は走ってくもん!」


歩「え、待ってよー!」


美月「あははっ。」


光を追うと、少しばかりのスペースがあった。

家の裏山、山の中腹あたりにて

急勾配の麓に洞窟を見つけた。

ぽっかり空いた穴は

小学生の子供が2人入れるほどの広さ。

洞穴の中は深くまで続いているわけではなく、

学校の机を2個並べたほどの奥行きのみ。


ここだ。

2人で顔を見合わせただけで分かる。

お互い、ここが良いと思っていることくらい

目を見ればすぐにわかった。

正規である道を大きく外れた場に

存在していた洞穴。

葉が散らかっておりお世辞にも

綺麗とは言えないが、

少し片付ければ半日はおろか

丸1日だって過ごせるだろう。


美月「歩ねえ歩ねえ!」


歩「うん!」


美月「ここ、ここにしようよ、毎日ここに来よう!」


歩「それめちゃくちゃいいね!」


美月「でしょ、それでね、秘密基地を作ろう!」


歩「秘密基地…!」


美月「そう、私と歩ねえだけの秘密基地!」


その洞窟に来る頃には

お互い土やら葉っぱやら虫やら

いろいろなものを服にくっつけていたっけ。

でも、確かに1番楽しかった。


それからの日々は煌めいていた。

辛いことがあっても

歩ねえとの秘密基地での時間がある。

そう思えば辛いことだって

乗り越えられる気がした。

まずは秘密基地を作るところから始めた。

日差しを避けれるようにと

近くに落ちている木々を集めて立てかける。

木は大きいものから小さいもの、

将又腐っているものまで多々あり

選別するところから大変だった。

汗水を流し漸く日を避けれるとなれば

今度は中の装飾だ。

洞窟だけあって暗い上

虫もわんさか湧いてる。

なら虫を駆除するのが早いだろう。

虫除けスプレーから蚊取り線香、

偶々納戸の部屋にあった

害虫駆除スプレーだか

訳の分かりないものまで拝借し、

その空間をよりよくしようとして。

その結果、多少は仕方ないが虫は湧いたけれど

蚊に刺されることもなくなり

思っている以上に快適になった。

その時点で確か夏休みは

1、2週間過ぎていた。


それからは様々なものを

持ち寄って遊んでいたっけ。

まずレジャーシートを敷く。

明かりも足りなかったから

100均で電気も買ってきたっけ。

机は持ってくるわけにはいかなかったから

何故か捨てられていた

衣装ケースを持ち寄って代用した。

そしてお菓子から折り紙や夏休みの宿題を持ち

毎日そこで過ごした。

洞窟ともなれば涼しく、

日も避けている為に

部屋より涼しいのではないかというほど。

そして毎日暗くなる前に秘密基地を後にし

お互いの家に帰るのだ。


ある日、秘密基地で宿題をしながら

話している時だった。


歩「みーちゃんはさ、将来何になりたい?」


美月「え、急に?」


歩「気になって。」


どんな話の流れからか、

将来の夢の話になったのだ。

ちらと歩ねえを見やると

こちらに目を向けることなく

宿題ばかりを見ている。

やはり小学5年生にもなると

勉強は難しくなるのかな。

そんなことを思っていた。


美月「私は絶対ピアニストになるわ!」


歩「そっか、みーちゃんピアノ上手だもんね。」


美月「いつか聞いてほしいなー。」


歩「聞きたい!」


美月「ママかパパがいいよって言ってくれたらね。」


歩「楽しみだなぁ。」


美月「大人になったら外国の音楽を勉強できる学校に行ってね、1番のピアニストになるの!」


歩「かっこいい!」


美月「でしょー。」


歩「うん、みーちゃんなら絶対なれるよ!」


美月「知ってるもーん!歩ねえは何になりたいの?」


歩「うーん…私は…。」


ぴたりと動かしていた鉛筆を止めて

じっくりと考える彼女。

出会った時から感じていたが、

歩ねえはよく考える人らしい。

そして数分迷った後に

ひと言口にした。


歩「美容師…かな。」


美月「美容師?いいじゃん!」


歩「えへへ、そうかな。」


美月「うん、凄いいい!何でなりたいの?」


歩「お母さんがね、美容師なんだ。」


美月「へぇ、それでなんだ。」


歩「うん。」


美月「私も歩ねえの夢応援してるよ!頑張れー!」


歩「ありがとう、みーちゃん!」


今でも色褪せない記憶。

夏のひと時、幸福の色。

それは、あっという間に崩れ去った。


夏休みが終わる直前のこと。

夏休みの宿題はなんと早々に終わり、

今ではゲーム機を持ち出して遊んだり

新しい遊びを考えたりして

時間を悠々と使っていた。

そして何度目かの夕暮れ。

山から道端に出て

そこから通学路の待ち合わせ場所まで行く。


歩「じゃあまた明日。」


美月「うん、またね!」


家に帰ると、ママが門に立っているのが

遠くから見えた。

珍しい。

今日はお帰りと言ってくれるのかと

うきうきしながら走って寄る。


美月「ママー!」


呼ぶと、こちらを向いてくれた。

あぁ。

辛いことを耐えてきてよかった。

頑張ってきてよかった。

今日はいい日だ。


そう、思っていたのに。


美月「マ」


ぱしん。

何が起こったのか理解出来なかった。

後にじんわりと頬が熱くなってゆく。

…。

…私、ママに叩かれた?


ママ「山に入っちゃいけないと言ったでしょう!」


美月「…!」


ママ「どうしていうことが聞けないのっ!」


美月「…ごめんなさい…。」


ママ「最近毎日毎日朝からこんな時間まで遊びにいってると思ったら…」


外なのに声を荒げるママ。

これまでに見たことがないママ。

私…。

…私、そんなに悪いことをした?

ママの影にはいつしか

パパがいるように見えてしまった。

私、ママのこと助けたのに

どうして叩くのだろう。


その晩は特に酷く殴られた記憶がある。

私が山に入っていたという情報は

勿論パパにも共有されていて。

あぁ。

楽しかったはずなのに。

楽しみたかっただけなのにな。


これは後から聞いた話なのだが、

近所の人が私達2人が山に入る姿を

目撃していたらしい。

そして気になって私のママに伝えたところ

発覚してしまったという経路らしかった。

当時の私はそんなことなど梅雨知らず。

何故ばれてしまったかも

疑問のままだった。





°°°°°




美月「…。」


かさかさと視界の隅で

虫が動いている。

この虫はあの時洞穴にいた虫の

末裔だったりするのだろうか。


美月「…ぁ…。」


喉がからからだ。

お腹だって空き過ぎたあまり

もう感覚がない。

もう、終わりは近いのではないか。

だが人間の生命力は恐ろしいもので、

何とか生きながらえようと

体全ての機関が総出で動き出す。

無理だと思っても後1歩踏み出せてしまう。

まだかかるだろうな。

まだ、過去に浸れるだろうな。


…さぁー…。

外では雨の音が流れ出した。

ぽつり、ぽつりと降っていたはずだが

いつの間にか大粒の涙になっている。


美月「…。」


この洞穴は涼しかった。

思い出の品の全てはここにないけれど、

歩ねえと過ごした夏の日々だけは

いつまでも残っている。

自然のカーテンになっていたのは

過去私達が日を避ける為に

木材を立てかけたからだと

漸く辿り着いていた。





°°°°°





翌日。

私がいつもの場所で待っていると

何も知らず笑顔の歩ねえが来た。


歩「みーちゃんおはよう。」


美月「…。」


歩「みーちゃん?」


美月「…秘密基地、ばれちゃった。」


歩「え…?」


美月「怒られちゃった…。」


歩「…その怪我、どうしたの?」


歩ねえが指差したのは

腕を始め足にも一部広がる

青いあざだった。

今回ばかりは酷かったものだから

簡単には治らなかったか。

夏だからどうしても

袖の短いものを着なければならない。

長袖を着ている方が普通じゃないから。

だから半袖にスカートを着ていたの。

ただ、ママが家にいる間は

外でも長袖を着てる風にしようと考え

パーカーを羽織っていたっけ。


美月「…歩ねえ……。」


歩「…。」


美月「…私、帰りたくない。」


歩「…!」


帰りたくなかった。

家に帰りたくなかった。

それが全てだった。

今まで耐えてきたのに

頑張ってきたのに、

全て溢れてしまいそうだった。

なのに何故か涙だけは

どうしても出てこなかった。

ぱっと、歩ねえが手をとってくれて。


歩「じゃあ、今日は私の家で遊ぼうよ。」


美月「…いいの?」


歩「勿論!毎日みーちゃんの話をしてるんだけどね、お母さんがみーちゃんにまた会いたいって言ってたよ。」


美月「…。」


家庭によってこうも違うのかと

不意に思った瞬間だった。


それから歩ねえの家を訪ねる前、

私たちの秘密基地にあった所有物を回収する為

最後、山に踏み入った。

折り紙や綺麗な石、電気を回収し、

机代わりだった衣装ケースは

元あったであろう場所に捨て、

レジャーシートを片付けた。

レジャーシートを畳む時、

何とも言い難い淋しさが

胸を打つのを感じた。

歩ねえだって悔しそうに

下唇を噛んでいたはずだ。


それ以降、秘密基地に行くことはなくなった。

一昨日ここにくるまで

どんな風貌だったかも

ほぼ抜け落ちていたほど忘れ去るほどに。


そして歩ねえの家を訪れた。

歩ねえの家は私からしてみれば

相当狭いと感じたのだ。

この中で両親、歩、その兄弟の

4人で暮らしていると思うと

何だか窮屈だなって。

それでもそんなことは口にせず、

その日は夕方まで何も考えずに遊んだ。

歩ねえのママは急だったにも関わらず

快く受け入れてくれた。

私の家だったらこんなことないのにな。

…なんて思ったんだっけ。


中途、歩ねえの兄弟も参加して

みんなでトランプをしたりウノしたり。

何も気にすることなく

リビングで皆して遊んだ。


夕方。

私には門限の時間が迫っていた。

歩ねえの兄弟は確か

何かの拍子に遊びからは離脱して

自分の部屋に行ってたはず。


美月「…帰らなきゃ。」


歩「え。」


美月「門限…」


歩「でも帰りたくないんでしょ…?」


美月「…。」


歩「ちょっと待ってて。」


美月「…?」


歩ねえは私にひと言いうと、

とたとたと駆け出して

歩ねえのママのいるであろう部屋へと

駆け出して行った。

数分後、再度小さく足音を鳴らして

戻ってきたのだ。


歩「みーちゃん!」


美月「何?」


歩「今日、泊まってもいいって!」


美月「え、泊まっ…?」


歩「そう!お泊まり会しようよ。」


美月「でも私…何も持ってきてないし、それに…」


歩「帰りたくないんでしょ?」


美月「…!」


歩「大丈夫、私の服貸すよ。」


美月「なんでここまでしてくれるの。」


歩「だって、みーちゃんだけが本当の友達だから。」


歩ねえは笑顔でそう言った。

彼女の言う本当の友達。

それが何を意味しているのか、

現状自分の家庭のことで

いっぱいいっぱいだった私には

考えるなんて選択肢もなかった。


門限を過ぎても外に、

ましてや他人の家にいるなんて

初めてのことで心臓は延々と

大きな音を鳴らし続けた。

だが、1時間も経つと次第に慣れていき、

歩ねえとの会話を楽しめるくらいにはなって。


数時間、わいわいと騒いだ後だった。

この時間が続けばいいのにと思う中、

ぴーんぽーんとインターホンがなった。


はーい、と歩ねえのママが

明るい声を飛ばす。

宅急便でもきたのかと思って

無視しようとしていた。

だが。


ママ「美月ー。」


美月「…っ!?」


玄関先から聞こえるママの声。

びくっと跳ねる体。


あぁ。

帰りたくない。

私、歩ねえの家の子供になりたかった。


私はその場ですくっと立ち

早足で玄関に向かおうとした。

すると、後ろで声がする。


歩「みーちゃん…?」


不安そうな声。

大丈夫。

…。


美月「大丈夫!」


歩「…。」


美月「歩ねえ、やっぱり今日帰るね。」


歩「みーちゃん、待って。」


それには耳を傾けずに

私は玄関へと走った。

歩ねえのママと私のママが

並んでいるのが目に入る。

双方神妙な面持ちで、

私は怒られることを悟った。


美月「…ママ。」


ママ「連絡もなかったから心配だったのよ。」


嘘だ。

面倒くさいのが嫌だっただけだ。


美月「ごめんなさい。」


ママ「さて、帰りましょうか。すみません、こんな時間にお邪魔して。」


歩ねえのママ「いえいえ。娘がこちらこそ勝手な真似をしてしまい申し訳ありませんでした。」


私はもう、真っ暗な道を

見ることしか出来なかった。

帰路までの道。

もう夜だから真っ暗だろう。

…。


歩「待ってよ、待って!」


美月「…っ。」


後ろから歩ねえの声が聞こえる。

私とママは並んでもう歩き出しており、

歩ねえの住むマンションに

虚しく彼女の声が響く。

同時に、エレベーターが

たどり着いてしまった。

私の目の前で開くのは

つまらない、辛い現実だった。


歩「待っ」


歩ねえのママ「夜だからあんまり大声を」


歩「みーちゃん、帰るの嫌がってたんです!みーちゃん、怪我してたんです!」


美月「…。」


歩「だから、だから1日くらい」


美月「歩ねえ。」


歩「…っ。」


美月「また学校で!」


歩ねえはまだわんわんと

声を漏らしていたけれど、

エレベーターが降ると同時に

その声は届かなくなった。


あぁ。

今、半袖を着ているし

門限だって大幅に破った。

案の定、酷い仕打ちを受け、

眠れぬ夜を過ごしたのだ。


それから数日、

学校が始まるまでは

お互い顔を合わせることはなかった。

だが、子供というのは不思議なもので、

夏休み明け初日にいつもの場所に行けば

歩ねえはそこにいて

笑顔で迎え入れてくれたのだ。

ぎくしゃくしていたのも数日で、

また楽しいだけの表面上の日々が始まった。


夏休みが終わり1、2週間経た頃。

9月7日。

それは私の誕生日だった。


歩「みーちゃんっ!」


美月「ん、なぁに?」


歩「誕生日おめでとー!」


美月「わ、ありがとうっ!」


歩「みーちゃん9歳かぁ。」


美月「でも歩ねぇはもうすぐ11歳でしょ?」


歩「へっへーん、歳だけはいつまでも負けないもんねー。」


美月「いいもーん。」


歩「身長も勝つもーん。」


美月「それはあたしが勝つもん!」


歩「将来どうなってるかなー?」


美月「もちろんあたしが勝ってる!」


歩「あはは、楽しみだね。はいこれ、誕生日プレゼント!」


学校に行く時、

歩ねえはランドセルから

可愛い装飾が施してある箱を取り出して

私に差し出した。

友達から何かを貰うことはあったけれど、

こんなに嬉しい誕生日はなかったな。


美月「わーい、ありがとう!」


歩「みーちゃんの好きそうなもの沢山と、あと…ちょっと好きそうじゃないやつ1個…。」


美月「好きそうじゃないやつ…?」


歩「うん…。」


彼女から貰った

最初で最後のプレゼント。

中身は…今思えばよく分からないものが

多かったような気がする。

折り紙でおった何かとかシール、

拾ったきれいな石とかお菓子とか。

そんなものが、当時はきらきらして見えて

ずっと大切にとっていた。

宝物だった。

そして、エルマーのぼうけんという本。

当時の私からするとほぼ無縁だった

本という存在。

けれど歩ねえがくれたものだからと

何度も何度も読み返した。

…今はもう置いてあるだけ。


また数日経て9月も終わる頃。

クラスが変わらないから

うんざりし始めている頃。

虐待にも慣れ始め

苦痛を普通だと思い始めた頃。

唐突に5年生の人から

話しかけられたのだ。

別に学年関係なく遊ぶのが

普通だったから珍しいことでもないのだが、

普段ならばほぼ話さない人だったために

少々驚いたのだ。


「なぁー。」


美月「なあに?」


「なんで雛さんって三門とつるんでんのー?」


美月「え?」


「あいつ、なんかむかつかない?」


「そーそー、うじうじしてると思ったらなんか急にキレてきてさ。」


美月「歩ねえが?」


「うん。」


「自分勝手なんだよ。」


美月「…。」


私はここで怒ればよかったのだろう。

だが、パパの影がちらつくからか

ママの視線が過るからか、

咄嗟に声を上げて

手を上げることが出来なかった。


「雛さんもなんかされたことないの?」


美月「私?」


「そー。なんか勝手に決められてうざかったこととかないの?」


美月「…。」


ムカつくこと。

なかったと思っていた。

楽しく話していたし、

秘密基地だって楽しかったし…。


あ。

ひとつ。

ひとつだけあった。

お泊まり会をしようと言ったこと。

門限を破ったこと。

あれは元はと言えば

歩ねえのせいではないか。

無理にママから引き剥がそうとした結果

私は更なる被害を被ったのだ。


美月「あるよ。」


「まじ?やっぱり?」


「ねーねー、雛さんちょっと手伝って欲しいことがあるの。」


美月「手伝い?」


「うん。楽しいよ!」


「いーねいーね、仲間入りだぁ。」


私は考えることをせず、

流されるままに手伝いをした。

初めは歩ねえに対して

小さな嫌がらせをする程度だった。

靴を隠したり、ロッカーのものを

他の人の机の上に置いたり。

それは次第にエスカレートしていき、

直接水を浴びせたりだとか

暴言を吐いたり、

所有物に暴言の書かれたメモ帳や紙を

ぺたぺたと貼りこんだり。

私も初めは躊躇ったが、

段々と日頃の鬱憤を晴らせるようで

楽しくなって行った。

快楽に身を任せてしまったのだ。

1人でも歩ねえに対して

嫌がらせをするようになっていた。


ある日、水を汲んだバケツを

彼女の頭の上でひっくり返した時のこと。


歩「どうしてそんなことするの。」


美月「あははっ。」


歩「ねえ、なんで。」


美月「だって楽しいんだもーん。」


歩「…ひどいよ。」


美月「えー?」


歩「ひどい。友達なのに。」


美月「でもみんなもやってるじゃん。」


歩「…ら…い……。」


美月「えー何ー?はっきり喋ってよー。」


歩「友達なんていらない!」


その翌日。

歩ねえは学校に来なかった。

その次の日も、更に次の日も。


…。


次の週。

歩ねえは引っ越したと聞いた。

親の都合らしい。

…。

…。


…私には、俄に信じられなかった。

私のせいだ。

私が虐めたからだ。


…。

…あぁ…。

だからあの時、

みーちゃんだけは本当の友達だからなんて

言っていたんだとその時思い知った。

きっとあの頃から歩ねえは

虐められていたんだと思う。

同級生から虐められて、

でも私の前ではそんな雰囲気

全く見せていなかった。

…。


それから何事もなかったかのように

時間は過ぎ去って行った。

虐めの話は何ひとつ出ず、

平穏な学校生活がそこにはあった。

…。


…ただ、私は1人になった。

連弾するという約束はおろか、

ピアノを聞かせることだって叶わなかった。

家での虐待は向こう2年続き、

1人で冬の中外に出された時には

どうしても歩ねえの顔が浮かんだ。

友達なんていらないと言った、あの時の。


とある日、パパは私を抱きしめて

これまでのことを謝ってくれた。

何があったのか知らないが

改心したらしい。

それ以降暴力を振るうことなく

所謂いい父親としての像を確立して行った。

ママもそう。

パパの影響を受けたのか

今では良くも悪くも干渉し過ぎない、

けれどやることはきっちりやる人物像へ

変化して行った。

私はパパのことは好きになれないけれど

間違っても父親なのだからと思い

割り切るようにしたのだ。

表面上でいい。

それでよかった。

パパもママも深くまで関わってこなかった。

きっとその頃には私がいい子になったから

手がかからなくなったからという理由も

大いにあるのだろう。


歩ねえが引っ越したのは

10月に入る頃だっただろうか。

歩ねえの誕生日である11月15日まで

もう少しだったのに。

彼女の誕生日を祝うことなく

お別れしてしまった。

たった1年にも満たない彼女との時間。

大切な…。

…大切な思い出…。





°°°°°





…そう。

唯一の居場所を、

昔の私がいとも簡単に

壊してしまったから。

私が人のことを考えなかったせいで、

考えが及ばなかったせいで、

想像力が欠如していたせいで、

何でもかんでも思い通りになると

思っていたせいで…

私は、全部壊しちゃったから。

私の人生も、

…歩ねえの人生も。


それから私は本を読むようになった。

あなたの気持ちを知るため。

もう2度と間違いを

起こさないようにするために。

けれど、私は失敗した。

波流にも同じことをしたのだ。


美月「…ぅ…。」


喉が渇いた。

渇いた。


美月「…。」


たまに漏れる息は微か。

潤いのない嗄れた吐息。

…あーあ。

私は馬鹿だ。

きっとこのまま私は…。


中学、高校と経て変わった気になって

でも実際は悪化していただけ。

逃げていただけ。


美月「……あは、は…。」


この洞窟に響いても

外は雨で聞こえない。

誰にも届かない。

家に戻るにしても人を襲いかねない。

…誰かを殺しかねない。


それだったら。

それなら私がここで1人で

息絶えた方だまだマシだ。

まだ…。


…。

……っ。


美月「………。」


結局最後まで1人だったな。


もう誰も頼れないし頼りたくない。

もう傷つけたくない。

もう私は…。

意識が霞んでいく。

空腹、喉の渇き。

そればかり蓄積されていく。

…もし、次の朝に眠れたなら。


美月「……楽に…なれるか、なぁ。」


それは音となったのかもわからない。

もう、分からない。

…のに。


「………」


しゃく、しゃく。

落ち葉の、音。

雨に打たれて…?

…いや、違う。


…人だ。


こっちに向かってくる。

行き先が決まっているかのように

真っ直ぐにこっちに。


体が震えてた。

ここで襲ってしまえばまだ生きれる。

まだ。

でも。


美月「…っ!?」


飛び起きるも視界が眩み

体制を崩してしまう。

匂いがする。

あの香りだ。

血の、香り。

動物だろうか。

なんだろう。

お腹が痛い。

痛かったことを思い出す。

慣れてしまっていた痛みに

苦痛を感じ出す。


美月「ぁ…あ……ゔっ…。」


駄目だ。

駄目だ。

誰も、何も襲わないようにと思って

こんなところにまで来て

数日間篭っていたのに。


けれど、抑えきれないこの欲が

勝手に体を突き動かして

洞穴から這い出てくるのだ。


頭が雨に当たり、

直ちに髪の毛がへばりつく。

冷たい。

寒い、動きたくない。

それでも、それでもこの匂いの元へ…。


手をのばした。

届くようにって。

でも離れたところに佇む影には

全く届かない。

遠くて。

絞りでたのは、たった一言だった。

香る。

…香る。


…あなたの匂いがする。





°°°°°





美月「私は絶対ピアニストになるわ!」


歩「そっか、みーちゃんピアノ上手だもんね。」


美月「いつか聞いてほしいなー。」


歩「聞きたい!」


美月「ママかパパがいいよって言ってくれたらね。」


歩「楽しみだなぁ。」


美月「大人になったら外国の音楽を勉強できる学校に行ってね、1番のピアニストになるの!」


歩「かっこいい!」


美月「でしょー。」


歩「うん、みーちゃんなら絶対なれるよ!」





°°°°°





歩「…。」


美月「……あゅ……ね、ぇ…?」


泥が服を汚した。

這って出たから制服は泥まみれ。

いや、これ以前にひどかったじゃないか。

今も雨は土砂降りで。

制服から下着にまで水が染み込んでいるが

そんなことは全く気にならなかった。

泥が服の中に入り込もうがなんだろうが

どうでもよかったのだ。

ぬかるんでるからなんだ。

どうでもいいじゃない。

そう。

どうだって。


歩ねえが、いた。

傘をさして、ただ1人。

1人でそこにいた。

今まで私のことを避けていたのに、

話しかけてくることなんて

あの日以降なかったのに。

…どうして。


歩「…。」


美月「な、んで…っ。」


どうして今、私の元に来てくれたの。

何でこういう時にばかり

私の前に現れるの。

私は歩ねえを傷つけたのに。

また、傷つけるかもしれないのに。

どうして。

どうして来るの。


声は掠れながら、

それでも匂いの元へと辿り着きたくて。

早く、早く辿り着きたくて

足に力を入れる。

3日ぶりに立ったものだから

ふらついて1度倒れ込んでしまった。

それでも歩ねえは駆け寄ることなく

私をじっと見つめている。


美月「ふ……ふーっ…。」


ああ、駄目だ。

もう駄目だ。

我慢の限界だ。


よくよく匂いでみれば、

歩ねえの指から漂っている。

微か、微か。

雨に塗れているからか、

それとも傷が浅いからか。

なんだっていい。

なんだって。

満たされるならなんだっていい。


もう少し理性を保っていたかった。

もう少し、しっかりと話したかった。

もう少し…。

…ちゃんと謝ってからがよかった。


美月「うぅ…っ!」


小さな唸り声。

これが私の最後の抵抗だった。


…。

彼女の血に向かって

うんと足に力を込める。

小さい頃ずっと走っていたっけ。

遊び続けていたから

足は早かった気がする。


力を込め、ローファーで

ぬかるんだ地面を蹴った。

泥だらけのまま走るにはやはり

体が重たくてついていかなかった。

けれど、あと少し。

あと少しで辿り着くのだ。

血に。

私を満たすそれに。


歩「…。」


歩ねえは。

…。

歩ねえは何も言わずに

傘をぽとりと落とした。


途端、彼女の頭上には

大粒の雨が降り頻る。

そして。


美月「…っ!?」


歩「…。」


走っていた私に向かって

思い切り体当たりをしてきたのだ。

どんと鈍い音がする。

近くにあった木の枝へと

勢いよくぶつかったのだろうか。

体が軋む。

酷く痛む。


それだけじゃない。

歩ねえは大の字に転ぶ私に

馬乗りまでしてきたのだ。

手が伸びぬよう足で押さえつけて、

私が抵抗できないようにと。


美月「あゔぅ…っ!」


力が残っていない私には

抵抗するも虚しく

足を2、3回ばたばたとするのみだった。

全てが無駄だと悟った今、

私は何をされるのだろう。


過去の仕返しかな。

相当酷いことを言った。

歩ねえの心を考えずに口にした。

様々な棘のある言葉を、あなた1人に。

相当酷いことをした。

歩ねえのことを考えずに行動した。

あなたの心をくしゃくしゃにした。

あなたの人生をめちゃくちゃにした。

…。

あなたを、歩ねえを1人にした。

歩ねえの人生を1人にしてしまった。


不意にあの夏が過ぎる。

私達がこうやって近くで出会えたのは

久しぶりだと言うのに

こんな再会の仕方じゃ困るわね。


あの夏は私の1番だった。

歩ねえにとってはどうだったのだろう。

…。


私が…私が

歩ねえの1番でいたかった。

ずっとずっと1番でいたかったわよ。


美月「…っ。」


目をぎゅっと瞑る。

真っ暗な中、どんな言葉が

降ってきてもいいように

身構えているつもりだ。

何を言われたって仕方がない。

それ相応のことをしたのだから。

…。


…。

…。

…。


…その時はいつまで待っても来なかった。

そのかわり。


美月「…っ!?」


強烈な血の香り。

びっくりして目を見開くと、

馬乗りしている歩ねえが

顔を顰めているのが窺えた。


…片手には、波流の持っていた

ペン型のカッター。

そしてもう片手からは…。


歩ねえは何度かカッターを引き、

指に幾つかの傷を作った。

強烈な香りにくらくらしつつも

力が湧かないため大人しく待つ。

すると、彼女はあろうことか

私の口の上で自分の指を絞り出した。


ぽたり。


雨に紛れて頬に打つ。

歩ねえはまだ何も口にせず

只管指を絞った。

指先からつうっと垂れるそれは

どんどんと量が増しており、

今度は唇に多く降り注いできた。


美月「………ぁ…な、んで…っ…。」


歩「…。」


歩ねえはいつまでも私を見てくれないまま

血が出づらくなるたび

他の指を切ってまた私の口の上で絞る。

直接口をつけるよりも全然

効率は悪いはずなのに、

とんでもなく満たされているのが分かる。


美味しかった。

あなたの血がとてつもなく美味しい。

勿論波流のだって美味しかった。

新鮮で、美味しかった。

それとはまた訳が違う。

歩ねえなのだ。

…。

私が傷つけたあなたなのだ。


雨脚は強くなるばかりで

血に混じって土や雨の味もした。

それでも、あなたの味が分かった。

大人しい歩ねえの。

実は自軸がしっかりとある歩ねえの。

優しい、歩ねえの。


歩ねえの指先は親指と小指以外

切り傷まみれになっていて。

傷だらけになりながら

血を分け与えてくれる歩ねえを前に

いつしか涙が止まらなくなっていた。

雨に紛れて分からないままで。


歩「…。」


美月「…ごめん…なさい…っ。」


歩「…。」


美月「歩ね、ぇ…ごめんなさい、ごめんぅ…な、さぃ…。」


歩「…。」


美月「ぁ…私……歩ねえに、酷、いこと…ばっかり…。」


歩「…。」


美月「歩……ぇぐっ…歩ねえの、人生…こ、わしてごめんなさいっ…。」


歩「…。」


美月「ごめんなさいぃ…っ。」


雨で重たくなった制服で

目元を覆い声を漏らす。

血はいつの間にか垂れてこなくなり、

私は唇を噛み締めた。

それでも歩ねえは何も言わなかった。


ふと、体にかかる圧がなくなった。

さくり、さくり。

足音が遠ざかってゆく。

歩ねえがどこかへ行ってしまう。

待って。

…待ってよ。


…あの時、お泊まり会を

しようと言ってくれた時。

…歩ねえはこんな気持ちだったのかな。


不意に、体を起こされる。

歩ねえだろうか。

…否、違う。

歩ねえはこんなこと、しないはずだ。

恨みのある私に対して

ここまでするのは変だ。


恐る恐る袖を除ける。

…。

…すると、久々に見る顔があった。


波流「…痛くない?」


美月「ぁう…は…るぅ…っ。」


波流「ごめんね。」


波流はそうひと言いうと

泥だらけの私をぎゅっと抱きしめてくれた。

大雨と空腹のせいで

近くにいたであろう波流にまで

気が回らなかったらしい。


美月「うあぁっ…あああぁああぁっ…。」


波流「…1人にしてごめんね。」


美月「うわあぁああぁぁっ…!」


暖かい。

共に雨に打たれているはずなのに、

どこか暖かい。

こんなにも暖かい。

私は彼女に腕を回すこともなく

ただ大声を上げて泣き喚いた。

今だけはいいのだ。

雨が打ち消してくれるのだから。


…私には頼る場所が沢山あった。

ただ、頼り方がよくなかった。

私には助けてくれる人が

周りに沢山いた。

その多くを自分が投げ捨ててきた。


もうすぐ夜だ。

夜が迫っている。

それが過ぎれば朝なのだ。

大好きな、朝。

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