たった1人の決断を

毎朝、思案に耽りながら本を読み

気が憚られては外を眺む。

昨日も一昨日も繰り返した日常は

また、変化に呑まれてしまったのだ。

あぁ。

不意に心では声が漏れる。

それは意味のあるものではなく

ただただ漏れ出た音でしかない。


波流を傷つけてしまったと

理解したのは1日経てからだった。

近くに頼れる人が誰もいないという

虚無感は夜の度に波のように

私の元へと押し寄せてきた。


その都度私は夜中に1人で

海を真前にして淋しく突っ立っている

という妄想をする。

する、というよりかは

勝手に行われてしまう。

それと同時に見える景色は

どうあがいても山なのだ。

海にいるはずなのに何故山が浮かぶのか。

それはきっと、全ての思い出が、

全ての後悔が私の家の裏山に

紐づいているからだろう。


美月「…。」


本を開く。

本と称した何も書かれていない日記帳だ。

幼い頃に購入して以降

1度も何かを記すことはなかった。


山を登っていった先の

ぱっと広がった空間。

波流とはピクニックをし

バドミントンをした。

あの日差しのよさ、心地の良い空気。

そして私たち2人だけの時間。

穏やかな時間で。


山の中腹あたり、確か急勾配の麓だったか。

そこでは三門歩…歩ねえと秘密基地を作り

多くの時間をそこで過ごした。

多くとはいえど実際には

1か月ほどだっただろうか。

ひと夏、夏休みの間のみ

2人でそこへ通っていった。

パパやママからは山に入るなと

言われていたのだが、

歩ねえと一緒なら怖くなくて

何度も何度も立ち入った。

家に帰りたくなかった。

夏も終わりの頃、遂に私たちは

山に立ち入っていたことが

ばれてしまったのだ。

歩ねえはすぐに帰らされ、

私は酷く怒られた。


それでも尚、山には秘密基地を作った時の

あの輝いた夏が住んでいた。

思い出と化してしまったそれは

いつまでも大事に抱いていたいものだった。

大事に抱いていたいもののはずだった。


美月「……ぅ…。」


まただ。

否、ずっとだ。

私はずっとずっと、喉が渇いている。

お腹が空いている。

どういう表現が好ましいのか

未だにわかりかねているが、

ひとつ言えるのは欠如しているということ。


真っ白な日記帳をすぐさま閉じて

布団の上で丸くなる。


大好きな朝のはずなのに、

今日も、昨日もこの朝が

きてほしくなかった。

夜、怖いから眠った。

朝が大好きだから起きた。

もう、朝は好きではない。

けれど何をしようと朝が来る。

いつしか夜が心の拠り所とさえ

感じていたのかもしれない。


美月「………っ…。」


頭がくらくらするとまでは言わないが、

相当負荷がかかっているのは

嫌でもわかる、自分でもわかる。

このままもし学校に行ってしまったら、

もし昨日怪我をして

流血していただなんて人がいたら。

もし、もしも。

…。


つい一昨日のことを思い返す。

傷だけで漂う香りに耐えきれず

口に含んでしまったのだ。

そんな状態から2日経て、

悪化しているこの今に

学校なんて通えようか。


美月「………1番…にならなきゃ意味がない…。」


ぽつりと自分の信念を呟く。

学校を休んでしまったら

1番ではなくなってしまう。

優等生なのに、休んでいいのか。

休んだところで良くなるのか。

今後も休み続けるのか。

当たり前だが疑問は解決することがないまま

時間だけがすぎてゆく。


美月「…。」


学校に行かなければ。

そんな思いに突き動かされてその場を立ち、

用意をすべく鞄の中身を整理し出したのだ。





***





美月「行ってくるわ。」


「はい、いってらっしゃいませ。」


お見送りしてくれるのは

いつだってお手伝いさんだった。

パパやママに見送ったり

出迎えてもらったという記憶は

ほぼないに等しい。

双方、仕事が忙しいのは理解しているし、

その生活には随分と前に慣れた。

だから今更不満に思うことなんて何もない。

寧ろ、今この状況の私と

関わらないでいてくれてありがたいほどだ。


家の前から数歩離れ、

また数歩、数歩。

いくらか歩いて振り返ってみれば

お手伝いさんは既に他の作業へと

戻っていったようで、

その姿は見えなかった。

そこで漸くひとつ、

緊張の糸が緩まり機能しなくなる。


美月「……。」


今のところは腹部の異常だけで済んでいる。

ふらつくこともなく

転ぶことすらなく淡々と通学路を通る。

角を曲がって進んで駅へ。

その繰り返しをもう100日は続けただろうか。


その通学路の中では様々な香りがした。

草っぽい香り、土っぽい、

雨が降ったからか雨っぽい。

それから人の家から漂うご飯の香り。

素敵な6月の香り。

そして、あの香り。


変わらず漂う、あの。

私の欲する香りがどこかからしている。

辿っていけば突き止めることくらい

容易にできてしまうだろう。

だがそんなことをしてしまった暁には

どうなるかだなんて想像つく。

脳裏にありありと浮かばせることができる。


美月「……駄目…駄目。」


頭をぶんぶんと振って

そのまま歩き出す。

重たい1歩を踏み出し、

それから今日あるであろう出来事に

心を寄せるようにする。


ふと、すれ違う人から

例の香りがしていることに気がつき

振り返ってしまう。

ちらと横目で確認するに

新社会人のような若い男の人。

ぴしっとスーツを着ているものの

猫背だからかいくらか実年齢以上に

歳をとっていそうにも見える。

そんな人から漂う波流とも違う香り。

指か、足か?

どこから流れ漏れ出ているのだろう。

…。


…。

駄目だ。

駄目。

そう何度も脳内で描いて暗示して

どうにか…どうにか気を。

気を逸らそうと。


美月「…っ!」


だん、と。

足を踏み出しかけた。

無論、通り過ぎた男性に向かって。


美月「…何よ…駄目ってわかってるじゃない…何で…。」


独り言は私を戒めるため。

今、たった今、

微かな香りだったにも関わらず

赤の他人だったにも関わらず

私は…。


…。


美月「…駄目…。」


駄目。

他人を襲っては駄目。

当たり前だ。

駄目だ。

駄目…だ。

…。

…このまま学校に行っては駄目だ。

…。


美月「……あ……はは…。」


ぽつり。

乾き切った笑い声が

曇天に吸い込まれていった。


波流以外にも頼れば

答えてくれる人はいるだろう。

嶋原先輩、陽奈、花奏、あみか。

色々な人の顔がぶわっと脳裏に描かれるも

その誰を頼る判断にはありつけなかった。

頼ってしまったら、

また凭れてしまったら。

そしたら波流の時の

二の舞になってしまうじゃないか。


心細い。

心細いのだ。


美月「…………波流…。」


味方だと言ったのに。

解決するまで力になると言ったのに。

軽蔑しないと言ったのに。

何故、たった今隣にいないのだ。

たった今、助けに来てくれないのか。


…。

そんなの、自分が1番わかり切ってる。

こんな1番、欲しくなかった。


美月「…はぅ…ぅ…っ。」


衝動の波が押し寄せているのを察知し、

きょろきょろと辺りを見回せば

なんと偶々だろう、猫と目が合う。

じっと見つめたまま動かぬそれは

初め置物かと見紛ったが、

どうやら呼吸している生き物のようで

首から上がふと動く。

何に気を引かれたのか

顔を音の鳴る方へ向けたかと思えば刹那、

車が目の前を通り去ってゆく。


…動物だって血が流れている。

そうだ。

血が流れているではないか。

美味しくないかもしれない。

それでも、生きられるなら。


美月「…よし…。」


おかしいのだ。

最近、どうにもおかしいのだ。

おかしいままで居続けた結果、

こんな末路を辿っている。


はっと気がつくと

猫に触れることのできる

位置にまで到達していた。

このたった数mの記憶が

すっぽり抜けてしまっている。

当たり前だが歩いてここまで

踏み入れたということは

かろうじて分かる。

ただし、猫を前にしている

この私の感情は理解し難い。

…。

理解し難かったもののはずだった。

もう、分かってしまっている。

私は飢えているのだ。


猫は逃げる様子を見せず、

威嚇するようにじっと見つめ出すだけ。

そっと下から手を出してみると

ひっかくこともせず

鳴き声を上げるだけ。

からり。

肩にかけていた通学鞄が音を鳴らした。


美月「……!…それ…」


よくよく匂げば、

この猫からも香りがすることが分かった。

鼻を突くこの特有の甘さは

紛れもなく血だろう。

だが、濃くはないことから

随分と前の怪我なのだろうなと予想がついた。

ここまでくると…否、

ずっと前から私は

化け物だったのかもしれないな。

普通だなんてかけ離れた、

常人からかけ離れた道を辿って。


更に猫に近づく。

猫は逃げることをしなかった。

否。

出来なかったのだろうか。


そっと。

そっと近づく。

近づいて、そして。


美月「…っ!」


…。

もう、私は誰かに自分を投げ捨て、

預けてしまいたかった。


…。

…。

…。


美月「…ぐっ…。」


自らの腕に爪を立てる。

出来る限りの強い力で。

めりめりと肌が音を立てているのを感じる。

腕を鷲掴みながら足を払い

猫が逃げるよう促すと、

目論見通り猫は軽く跳ねた後

目の前にあった道路を横切り

どこかへと姿を消してしまった。


美月「…ぅ……う…。」


もし、何も考えずに猫を襲って

よかったならそうしてた。

何故躊躇ってしまったのか。

何故。

…。

逃げてゆく波流の背中に、

離れてゆく歩ねえの背中にでも

重なったのだろうか。


美月「…っ…。」


しゃがみ込むと大層コンクリートは近く。

ぽつり。

あぁ、雨が降ってくる。

そう。

今日は雨。


今日は雨。

私はきっと土に溶けていくのだろうな。

人目の触れぬ場所へと逃げ込み

そこで一生を終えようか。

1番寂しい来世への

とび方でもしてみようか。

誰も頼れない。

誰も襲いたくない。

動物ですら、そう出来ない。

ならもう私の人生は

ここまでだったというだけのこと。

いい一生だったとは言えないが、

一瞬でも信頼できる人が近くにいたのは

まあ幸せなことだったに違いない。


過るのはどうあがいても

この一生が尽きることのみだった。


ふらふらとした足取りで、

家でもなく学校でもない

暖かな記憶の場所へと足を進めた。

私の帰る場所はもう過去にしかなかった。

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