蟠り
夜が来て朝が去る。
夜は去り、朝が来る。
それをいくつか繰り返すと
今日だったはずのものは
いつの間にか遠く過去になってゆく。
私たちは意識なんて一切することなく
この日常を繰り返す。
唯一気付くのは、その日常が
異常で満たされてゆく時だけ。
それが今だった。
美月「………ふぅ……ぅ…ぅー…。」
お腹を抑えて廊下だが構わず
その場にしゃがむんだ。
微細な埃が楽しそうに
ころころと転がっている。
髪の毛が数本撒かれている。
放課後な上、人通りは多い。
ならば汚れるのだって当たり前か。
廊下はあまり掃除されているイメージはなく、
寧ろいつ掃除されているのか
知りたいほどだった。
数人が私の横をするすると
通り過ぎていくのがわかる。
微弱な風が横を通り抜ける。
それすら気持ち悪さの一環として扱われ、
さらに掌に力を入れる。
それでもどうにもならないことを
この1週間で学んでいた。
美月「…教室……。」
このままここにしゃがんでいては
変に注目を集めるだろう。
大事にしたいわけではない。
さっさと近くの空き教室に逃げ込み、
時間が経つのを待つしかないのかもしれない。
…。
…例え待ったとて、
状況は好転しないことを
この1週間で学んでいた。
足に力を入れようとしても、
何故か力は地面に吸われているのか
綺麗に底から抜け落ちる。
心臓から血を送っていても
足裏から全て流れ出てしまっているようだ。
「み、美月ちゃん…!」
もう駄目かもしれない。
そんな思想が影を見せた刹那、
脳天から突き抜けているように高く、
柔らかい声が降り注いだ。
ふと、1人の姿が頭の中で再生してゆく。
美月「…………ひ…な……?」
陽奈「う、うん…!」
陽奈はがちゃがちゃと音を鳴らし
何かを近くに置いた後、
私の背中をさすりだした。
何かを言うということもなく、
ただただ寄り添ってくれる。
それが彼女のスタイルらしい。
立てるようになれば移動すればいいか。
そんな思いに駆られて
少しの間だけ外界から距離を取ろうと
ゆっくり瞳を閉じた。
いつからか、日常はゆるりと崩れていった。
胃の違和感は日に日に強くなり、
頭がぼうっとしていることが増えていった。
これまで興味のあったこと、
それこそ読書やピアノには
全く集中出来なくなり、
ましてや授業なんて先生の言葉は
一言すら耳に入ってこなくて。
部活なんてそれどころではなかった。
先週の木曜あたりまでは
何とか気を振り絞り参加したが、
動けない時間が増えていったために
同級生や先輩からも心配され、
遂には休んだ方がいいと言われてしまった。
そのため、休日も部活を休み
家の中で過ごした。
家の中では特にすることもなく、
かと言って勉強はしなければと
机に向かうはいいものの
腹部の異常ばかりに気がいく。
結局悶々としてじりじりと
苦しみに身を焼かれたまま
時間を無駄に流した。
当初はただただ違和感を感じるだけだったが、
今となっては痛みへと変化していた。
その変化に抗う術はなく今にまで至る。
食欲は日に日に衰退していき、
一部痙攣が起こったり立ちくらむ日も増えた。
脱水症状のようなものが
延々と出続けるものだから
水分を取るよう善処しても、
一向に改善はしなかった。
何を思ったのか、
いざという時のためと言い訳を作り
小さなカッターをポケットに忍ばせていた。
もし、頭がぼうってしすぎた時や
苦しさに負けてしまいそうな時、
指先の一部だけ等気を紛らす程度
切れば正気を保てるのではとでも
考えたらしい。
他にも、飴や栞、ティッシュ、クリップなど。
必要のなさそうなものばかり
不安に駆られて持ってきていた。
その全ては苦痛から気を逸らすため。
セーラー服のスカートは
膨れ上がっていて、
側から見ると少々異常だろう。
その重さにつられたのか
私はその場から立てなかった。
陽奈「保健室の先生…呼んでこようか?」
美月「…いえ…いいわ。少ししたら良くなるだろうし。」
陽奈「ほ、本当にいいの…?」
美月「えぇ。」
陽奈の声はいつも以上にか細く、
喧騒に住みつかれた廊下では
ぎりぎり聞き取れるくらいの声量だった。
私よりも絶えそうな声に
もっと胸を張りなさいだとか
声を出してだとか言う気にはなれなくて。
波、というのは実際あるようで
暫くの間蹲っていたら
立てる程度のものになってきた。
壁に手をつき恐る恐る脚に力を入れると、
足の裏にはやっと栓がされたようで
無事、背筋を伸ばすことができる。
私自身それほど身長は高くないが、
こんなに視点は高かっただろうかと
疑問にさえ感じる始末。
思ったより長い間
床と睨めっこしていたのかもしれない。
陽奈「だ、大丈夫…?」
美月「えぇ。ありがとう、陽奈。だいぶ良くなったわ。」
陽奈「そっか…よかった。」
陽奈はほっと胸を撫で下ろし
緊迫していた雰囲気は解かれていく。
こちらをじろじろと見ていたであろう
周りにいた人達も、
事の行く末を知り満足したのか
その場を去っていった。
野次馬って、一体何が楽しいのだろうか。
見せ物ではないとはよく言ったものだ。
立ち上がったのち、
スカートについた埃を払う。
すると、思ったよりくっついていなかったのか
将又見えていないだけなのか、
殆ど落ちていかなかった。
ふと、視界がぐらりと
揺れたような気がして
壁に触れる手にぐっと力を入れる。
何とか倒れることはなかったが、
未だに万全でははないことを
嫌という程思い知らされた。
陽奈にはどうやら気づかれていないようで、
不安そうな顔をしたまま
こちらを見守るだけだった。
美月「陽奈、もう大丈夫だから。そんな見守ってなくてもいいわよ。」
陽奈「え、でも…。」
美月「少し空いてる教室で休んでから帰るわ。」
陽奈「ほ、保健室とか行った方が…」
「美月ちゃん!?」
心配そうな顔つきのままの陽奈と
言葉を交わす間に、
どこからともなく私の名前を呼ぶ声がした。
振り向くと、運動着に着替える前の
制服姿の遊留先輩がいた。
部活以外ですれ違うことがほぼないためか、
制服姿の方に違和感を抱いてしまう。
先輩は私が壁に手をつき
苦しそうに前屈みになりながら
陽奈と話す姿を見て、
きっと只事ではないと思い
咄嗟に声をかけたのだろう。
陽奈と似たような種類の顔をしながら
ラケットの音を鳴らしながら
私の方へと近づいてきた。
陽奈はというと、
数歩後退りをして
私からというより先輩から
距離をとっているようにも見えた。
波流「美月ちゃん、どうしたの!?」
美月「…少し、体調が悪くて。」
波流「少しじゃないよ!そうだね…一旦横になるか座れる場所探そっか。」
美月「…なら座れる場所の方がいいわ。」
波流「分かった。えっと、隣の子は…」
美月「今まで付き添ってくれたのよ。」
陽奈「へっ…そ、そんな大層なことしてないよ…。」
波流「そうだったんだ!ありがとう、後は私が何とかするから任せて。」
陽奈「あ…は、はい…。」
陽奈は遊留先輩の強くはない気迫に
押されたのかその場を静かに静かに後にした。
後ろ姿を確認していなかったら
いなくなっていたのか否か
わからないほどだった。
残ったのは私と先輩だけ。
先輩だって暇じゃない。
何せこの後は当たり前の如く
部活があるのだから。
波流「肩かすよ。」
美月「いえ、そこまでは…」
波流「なら鞄持つ。」
美月「ですから…」
波流「だーめ。自分の体を労わること。人間そんなに強くないんだから。」
美月「…分かりました。そしたら、鞄の方をお願いします。そしたら自分で歩けますから。」
波流「りょーかい。任せて。」
遊留先輩はいつものように
にこりと親しげに笑うのみ。
このようなタイプの人は
大抵内心では相手のことを
悪く言っているだなんてイメージがあった。
必ず裏がある。
そう考えている。
だから、この任せてという言葉だって
裏があるのだろうと思ってしまう。
けれど、今の状態では
どうにも頼らざるを得ないことを
自分でもわかっていた。
わかってしまうほどに
憔悴しきっていたのだ。
鞄を先輩に渡したところで、
私は壁に手をつきながら
すぐ近くの空き教室へと飛び入る。
帰りのホームルームも終わり
暫く経ていたのもあって、
普段誰かしらいるであろう近くの
クラスには誰1人としていなかった。
何年何組の教室だっただろうか。
1年であることは
間違いなかったはずだが。
別にどうでもいいことか、と
思考は途中で放棄される。
近くの廊下側の席をひとつ拝借し、
誰の席かもわからぬ場に座る。
自分の教室ではないからだろう、
異界に飛び込んでしまったような
多少の空気の違いを感じる。
誰もいないにもかかわらず、
教室のカラーというのは
存在しているらしい。
波流「よいしょっと…荷物ここに置いておくね!」
美月「…はい。」
波流「そうだなあ…お父さんやお母さんって今迎えに来れたりする?」
美月「……難しいかと。」
波流「そっか…なら私のお母さんに頼めるか聞いてみるよ!」
美月「え…。」
波流「だってさ、ずっとここで座ってるわけにもいかないし、いつかは帰らなきゃいけないじゃん?」
美月「6時頃になれば…親も手が空くと思うので結構です。」
波流「でも、放っておけないよ。」
美月「ここで待つくらいなら出来ます。」
波流「そうかもしれないけど。」
美月「きつくなったら椅子を並べて横になるので大丈夫です。」
波流「じゃあ、美月ちゃん家の誰かが来るまで私もここで待つよ。」
美月「部活もあるでしょうし、もうここを離れていただいてもいいですよ。…付き添いありがとうございます。」
波流「美月ちゃん。」
いつの間にか視線の下がっていた顔を上げる。
体調が悪いからか、
精神的にもいつもの調子も出ない。
受け答えが弱々しくなっていると
自分でも感じるのだ。
病は気からではなく
体からなのかもしれないと
どうでもいい発見をした。
顔を上げると、今までにないほど
真剣な顔つきをした遊留先輩がいた。
そして、何をするかと思えば
私の座る席の前にきて、
ゆっくりとしゃがみ私と目線を合わせた。
まるで子供扱いするかのように。
その優しさに感謝の念を
抱かなければならなかったのだろうが、
私は苦痛からか苛立ちが募った。
波流「自分の体を大切にしてあげて。今強がってたってどうにもならないよ。」
美月「…。」
波流「ここ最近、明らかに不調が続いてるでしょ?」
美月「…私だって、こうなりたくてなってるわけじゃありません。」
波流「分かってるよ。言いたいのは、辛い時くらい頼ってってこと。」
遊留先輩は諭すように
ひと言ひと言丁寧に
私へと手渡ししてくる。
その丁寧さは今の私からすれば
鬱陶しくて仕方がない。
離れたくて仕方がない。
まるで、お節介な祖母が延々と
「部活より勉強をしなさい」
「成績は上から何番目」
と聞いてくるよう。
その差し出がましい態度が
受け入れられなかった。
スカートを軽く握るも
当然見えていないようにスルーされる。
それで察しろなんて言う方が
理不尽だと普段なら飲み込むことができる。
だが、今だけは違った。
誰だって体調が悪い時に
校長先生の話など聞きたくないだろう。
それと同義だ。
美月「…頼ったところでどうにかなるような辛さじゃないです。」
波流「例えば、保健室に行って横になったら少し楽かもしれないじゃん。家に早く帰れたら楽かもしれないじゃん。」
美月「変わりません。」
波流「分からないよ?寝てたら良くなるかも」
美月「変わらなかったんですよっ!」
波流「…!」
美月「寝たって薬を飲んだって変わらないんですよ、この1週間ずっと!」
苛々が溜まりきってしまったのか、
らしくもなく声を荒げた。
月経前のホルモンの不調による
あの苛立ちと多少似ているかもしれない。
終わることのない苦痛、
平然と進む時間、
変哲もない日常。
その中で異なった私。
これまでの当たり前の生活を
送れないとはこんなにもストレスだったのか。
さらにスカートを握ると
シワがついて取れにくくなってしまうな。
美月「……出てってください…。」
波流「…美月ちゃ」
美月「出てって。」
今は距離を取りたい。
らしくもなく叫んだせいで
頭までくらくらしてくる始末。
だが、ここで額を抑えたりしたら
尚先輩は離れてくれないだろう。
ぐっとさらに手に力を入れて
その場を耐えるよう自分に言い聞かせる。
あと少し耐えることができればいい。
あと少し、あと少しだけ。
そうやってこれまで頑張ってきたではないか。
今回だってその一環。
そう思えば簡単だろう?
脳の中で言葉をかき混ぜている間に、
漸く決心がついたのか
私の前から先輩の姿が消えた。
かと思うと、視界の隅で
スカートが揺れている。
波流「………分かった。」
美月「…。」
波流「…ごめんね。」
そうひと言付け加え、
からからと鞄を背負い
この教室を後にした。
丁寧なことに扉をぴっしりと閉めて。
刹那、1人という重圧がのしかかる。
孤独という文字が
私の心の寝具上を忽ち汚していく。
美月「…何よ……。」
力の入りすぎた手を緩めると
じんわり地が広がる感覚がする。
相当力を込めていたようで
関節が伸ばしづらい。
きりきりと音が鳴りそうだ。
まるでブリキ。
人形だ。
…。
美月「……私は人形なんかじゃないわよ。」
歯を食いしばると、ぎりぃという
耳障りな音がしたため、
すぐさま弛緩する。
…先輩が謝る時の顔、
全く見ていなかった。
どんな顔をしていただろう。
悲痛か、心配か、安堵か、喜びか。
彼女の本質を知らない私には
一体どれが正解だったのか
知ることは許されないらしい。
°°°°°
美月「……はいはい、好きに話してください。」
波流「やった!それでね、吸血鬼は若い女の人を狙って」
美月「やっぱり辞めましょうか。」
波流「えー。」
美月「というより、勝手に話を付け加えて怖いようにしてるでしょう?」
波流「あれ、バレた?」
美月「ばればれです。」
波流「でもでも、付け加えたって言っても少しだよ?最後の方だけ」
美月「もう知りません。」
波流「もーそんなぷりぷりしないでよー!」
美月「ふふ、してません。」
°°°°°
美月「…。」
よく数日前までは平凡で
愉快な会話をしていたものだ。
たった数日。
それだけで私の周りや
私自身変わってしまった。
これまで自分の努力でなんだって変えてきた。
環境も実力も全て全て。
だから今回だって変えられる。
体調が悪いくらい…。
…それくらい…。
…。
…。
それくらい、1人でだって出来るわよ。
ふと、絆創膏を貼らなくても良くなった
首の傷へと手を這わす。
すると、僅かにぼこっと突出していた。
瘡蓋特有のあの段差が
掌の中で踊っている。
あの夜以来、見知らぬ綺麗な女性とは
1回たりとも出会わなかった。
勿論そっちの方がありがたいのだが、
ただ理由を知りたいというのも事実だった。
あの時、首元を刃物で切られた後
かぶりつかれた。
今思い返せば、女性が立ち去る寸前にも
首あたりに違和感があったような気がする。
首元を切られていたので
その影響だとは思うが、
微弱ながらちくりとしたような
錯覚がしていたのだ。
…中途噛まれたような感覚もあったので
そのせいだろう。
甘噛みだったのか、
翌々日まで歯形が残ることはなかった。
それはひとつありがたいことではあったが。
美月「……っ…。」
じり。
また胃の底が焼けている。
苦しいだなんて言葉では表せないほど。
苦しいはとうに超え、
遺体の域に突入して幾ばくか。
美月「……痛い…。」
痛い。
痛いことには変わりないのだが、
過去のあの日々に比べれば
きっとなんてことない。
きっと、ではない。
絶対だ。
絶対、あの身体的苦痛よりも楽だと
そう思えば思うほど
乗り越えられると思った。
しかし、それどころか時間を経る毎に
痛みは増していくのみ。
もう限界なのかもしれない。
床に倒れてしまった方が楽だろうか。
私はこのまま死ぬのだろうか?
美月「ゔっ…ぅ…。」
視界がぐねぐねと自由に曲がりだし、
まともに前を見ることが出来なくなってゆく。
あぁ。
数日間耐えて頑張ってきたのに、
努力したのにこの結果か。
報われないのは久しい。
報われるまで頑張るのが
当たり前だったから。
…ただ、これは努力では
なかったのかもしれない。
ただの我慢だったのかも。
そう気づいた時にはすでに遅く、
ゆっくり衝撃の少ないように倒れたつもりが
椅子も共に横になったからか
大きな音が響いた、のだと思う。
ぼんやりしているせいで
周りにはどのように見聞きされているのか
予想がつかないのだ。
美月「…ん゛ぅ…。」
声は上げない。
助けてだとかそんなか弱い者のための
言葉なんて使わない。
決めていたわけではないが
いつの間にかこうなっていた。
頼ることが出来ないままに痛みに耐える。
足を寄せようと試みた時、
からりからりと乾いた音がした。
美月「…あ…。」
何だろう。
そう思い、力を振り絞り
やっとの思いで視線を動かす。
すると、小さめのカッターがひとつ
私のように床に転がっていたのだ。
…そうだ。
そうだった。
そうだったじゃないか。
小さなカッターをポケットに忍ばせていた。
もし、頭がぼうってしすぎた時や
苦しさに負けてしまいそうな時、
指先の一部だけ等気を紛らす程度
切れば正気を保てると考えたから。
だから持ってきた。
今、たった今が使いどきだろう。
はっとした私は痛みを一瞬だけ
頭の上へと放り出し、
小さなカッターナイフを手にした。
またスカートを床に擦ってしまっているが
今はそんなことどうだっていい。
いつもは外見にだって気を遣っているのに
髪の毛は倒れたせいでぼさぼさ。
それだってどうでもいい。
今だけ。
今だけは。
美月「…ふー…ぅ…。」
息を細く長く吐く。
自分で自分を傷つけるのは初めてだった。
過去、他人に傷つけられたことはある。
先日首元を切られたのだってそうだ。
だから傷つけられることが
どれほど苦しいことなのか、
痛いことなのかは知っているつもり。
自分だけは大切にしてやろうと
これまでそんなことはしてこなかった。
美月「……指先……だけ…。」
そう。
指先だけでいい。
カッターナイフの刃を外界の空気に晒す。
すると、カッターはこれまでにないほど
輝いているように見えた。
あぁ、これだ。
そう。
これだったんだ。
心の奥底で渇望しているものがある。
響めいている何かがいる。
それにまだ気づかないふりをして
カッターを指先に沿わせる。
美月「…っ。」
どくどく。
どくどく。
どくどく。
信じられないほど心臓は早く鳴っており、
カッターを持つ手が震えているのが見える。
揺れていた視界は多少落ち着いたのか
稀にぐるりとする程度。
また地面に近いのだとはっとした。
背を丸め、カッターを手にする
セーラー服の少女。
側から見たら異常だ。
…異常、か。
私は普通になりたかっただけなのに。
美月「…っ。」
カッターを持つ手に力を込めた時だった。
がらら。
そんな音が反響して耳に届く。
がらら。
そう。
扉の開いた音だった。
誰が。
先生だったら。
生徒だったら。
なんて言い逃れをすればいい?
これまで積み上げてきた「私」を
崩さないための正解は一体何?
一瞬の間にものすごい速さで
脳と心臓が動いているものの、
肝心な体は一切動くことがなかった。
ぴくりともしない体を他所に
見えているものにしがみつく。
誰もこないで。
こないで。
お願い。
「…!何してるの!」
美月「…っ!?」
願いに反して当然のように
その主は私に駆け寄った。
ふとあげた顔。
映る人影。
美月「……どうして…。」
波流「だって、どうしても放って置けなくて!」
美月「…出てってって言ったじゃないですか…っ。」
波流「言ったよ、出てった。それでも心配で仕方なかったの。」
私の手からカッターを奪い取ろうと
しゃがみ込んでいるのが
スカートの動きで分かった。
微かながら風が頬を撫でる。
折角もう少しだったのに。
邪魔をしないで。
1人で孤独を感じていたことなど
とっくのとうに忘れ去り、
先輩の姿を見ては苛立ちが
収まるところを知らず溢れていった。
こんなの、反抗期の子供の真似事にすぎない。
子供だ。
こんなの、中学に上がる前の子供同然だ。
分かってる。
分かっているのに、理性は本能に
抗うことができなかった。
波流「それ、危ないよ。」
美月「…っ!」
伸びてくる遊留先輩の手を
カッターの握っていない手で
勢いよく払い除けた。
勿論先輩は驚くわけで、
危険を察知したのか後ろへと体重を移動、
尻餅をついていた。
私はというと未だ蹲ったまま
体を翻したために転倒しそうになるものの
何とか持ち堪えた。
だが、上半身を捻ったせいか
腹部の痛みはじりっと増していった。
お尻に冷たい感覚が伝ってゆく。
倒れた時からずっと、
微弱ながら長ったらしく。
美月「い゛っ…!」
波流「…っ!」
美月「ぅう……ふー…ゔー…。」
波流「ほら、やっぱりきついんじゃ」
美月「こないで…ください…。」
空いた片手は意味もなく腹部へ、
カッターを遊留先輩の方へと向けた。
先輩は驚いたのか尻餅をついたまま
動くことはなく、
代わりに目を見開いている。
ちらと横目で確認すると
髪の毛の多くが邪魔をしてきて
鬱陶しかった。
今の私は何でも苛立ちへと
変える才能が開花しているようで。
波流「今すぐ病院に行ったほうがいいよ。」
美月「…こ、ないで!」
波流「美月ちゃん、こればかりは意地張っても意味ないよ!」
美月「分かってるわよ!」
波流「なら」
美月「煩いっ!」
どうしてこんなに人との接し方が
下手なのだろうと時に思う。
それが今日。
たった今。
怒りに任せてカッターを床に投げつける。
床に刺さるか変なところに飛んでいくかで
先輩の方向へは飛ばないように
一応加減したつもりだったが、
カッターは意志を持ったように
思いもよらぬ方向に跳ねた。
波流「…っ!?」
全てがスローモーションに見えた。
あろうことが遊留先輩の方向へと
1バウンドを挟み進んでゆく。
先輩はというと咄嗟に
横を向き顔を腕や掌で覆い隠していて。
カッターはゆるりと空中で
若干ながら方向を変え、
遊留先輩から少しばかり外れた方へ飛ぶ。
しかし、その僅かな違いだけでは
ほぼ意味をなさず、
先輩の手の甲あたりへ
飛びかかる固形物の影が映った。
その後、からからと音を立てて
弧を描き落ちてゆくそれ。
先輩の手の甲には、じんわりと
滲んでゆく赤が見えた。
波流「っ…!」
美月「……?」
…。
どくん。
と。
美月「……っ…。」
心臓が大きく脈打つのを感じた。
先程までとは違い、
早く短く高鳴るのではなくて
太くどくんと鳴ったのだ。
それこそ、この心臓の動き方を
繰り返していたら早死にしてしまうとさえ
思ってしまうほどの強さ。
美月「……っ…っ!」
指紋の隅の隅まで地の巡る感覚。
血が勝手に体を動かしている感覚。
それに全てを委ねてしまっても
いいのではないだろうか。
いいよね。
いいわよね?
そっと。
そっと近づく。
怯える彼女の姿はもう見えない。
近づいて、そして。
美月「…っ!」
…。
もう、私は誰かに自分を投げ捨て、
預けてしまったのかもしれない。
波流「な、何…」
美月「…。」
波流「えっ…え…?」
先輩の手を取りマスクを外して
口元へ持っていこうとする。
流石に何でもは受け入れられないのか、
手を引っ込めようとするあたり
反抗の意思を感じた。
波流「え、いゃ…。」
美月「…。」
波流「み、美月ちゃん…?」
…。
…。
…。
ただ、久しぶりに満たされたと感じた。
ただ、気持ち悪いとも感じた。
先輩は何かしら声を上げて
こちらに訴えるように話しかけている。
…と、思う。
悲痛な声をあげているようなにも取れるか。
しかし、あまり気にはならなかった。
そんなの、今はどうでもいいんだもの。
甘いのか苦いのか
私には分からない。
けれど、これが生きる活力になりそうだとか
今は心地いいと感じていることだとか
そういう感覚はあった。
温泉に浸っているようで気持ちよかった。
そう。
これを待っていたんだ。
胃の奥底の沸騰は
少しずつだけだが抑えられていくのが
働いていない頭でさえ分かった。
先輩は反抗するように
手を引くのを辞めたのか、
安定して口にすることができた。
先輩は今、どんな顔をしているのだろう。
また見るのを忘れてしまった。
このまま溶けてしまってもいい。
欲に、海に、過去に。
この体全て失くしてしまってもいい。
失っていい。
今に全てを賭けてそのまま失っても。
今だけがよければー
今だけよければ…?
美月「ゔっ…!」
駄目、だ、駄目だ駄目だ駄目だ。
それは、1番溺れてはいけない
思考じゃないか。
ふと我に返り、口に含んでいた手を
ありったけの力で突き放す。
すると、先輩は驚いたのか
呆然としたままこちらを見ていた。
見ているのがわかった。
軽蔑するような視線をを向けている。
そうに違いない。
絶対そうだ。
だって、私の今の行動は
明らかに普通ではなかったろう。
人間は普通が、一緒が大好きだから
違ったものを排除して見下して安心する。
除け者にして自分は平気だと安心する。
私は。
これまで作り上げてきた私は、
たった今盛大に音を立てて崩れたのだ。
私が一体何をしでかしてしまったのか
理解してしまい冷や汗が噴き出した。
冷や汗はどろどろしているように感じ、
手はそのせいでみしみしと
音が鳴るのではないかというほど。
手を握りしめたまま
胸元に持っていく。
美月「ふっ…ふーっ…っ!」
今だけがよければ。
その考えで過ちを犯した。
そんな考えは捨て去ることができないままに
今日また過ちを重ねた。
何度積み重ねれば学ぶのだ。
何度失敗すれば懲りるのか。
波流「……美月ちゃん…?」
美月「…っ。」
私、何をしていたのだろう。
口に残るは甘美な香り、
そして口に含んで始めは
きいんと体に悪い味がしていたものの、
どんどんと湧き出る活力。
…。
ふと。
先輩がじっとこちらを見ながら
固まっていることに気がついた。
恐る恐る顔を上げると、
眉間に皺がよることもなく
ただ呆然として奇妙なものを
見るような目つきで
こちらを観察しているだけ。
……。
美月「……ぁ…。」
無意識に口元を拭うと
しっとりとした液体の感触があった。
自分の唾液と、きっと…。
不意に、夜に出会ったあの
綺麗な女性が思い浮かぶ。
私を刃物で傷つけたのちに
口をつけたあの女性。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
…気持ち悪い。
美月「……き…もち悪い…わよね…っ。」
波流「…!」
自分でも思うのだから、
先輩はさらに思っている筈だ。
変だ。
最近変なのだ。
おかしいのだ。
先程までの行動を
完全に思い出せるわけではない。
記憶の片隅には
先輩の発した何かしらの言葉達と、
そして、手の甲に口をつけたような、
そんな記憶。
美月「…ごめんな…さい……全部忘れて…。」
もう先輩とは関われない。
そう思った私は先程までできなかったのに
平然と地に足をつけ自力で立ち上がり、
カッターを拾ってそそくさとしまいながら
先輩に背を向けて歩き出した。
早くここから逃げ出してしまいたい。
逃げてしまいたい。
ここで向き合ったって
今後もう関わることはないだろうから
無駄になるわ。
だからもういいの。
足早に教室後方の扉へと近づき、
取手に触れた時だった。
波流「待って。」
片手を掴まれている感覚。
それは大変力強く、
振り払おうと思っても
離してくれなさそうな予感がした。
先輩自身も自覚がないのか
それともつよ意思があるのか、
私のことをじっと見つめてくる。
波流「えっと…なんて言ったらいいかわからないけどさ…私は大丈夫だからね。」
美月「…気持ち悪いでしょう、こんなの。」
波流「びっくりはしたけど…そんな拒絶するほどじゃないよ。」
美月「弱みを握って内心笑っているんでしょう?」
波流「そう見える?」
美月「見えるわよ。」
波流「…。」
美月「もう関係切りましょう。お互い何もなかった。それでいいじゃない。」
波流「…駄目だよ。」
美月「…は?」
波流「駄目。駄目だよ、なかったことになんてしちゃ駄目だよ!」
美月「どうしてよ。なかったことにした方が、これまで通り」
波流「これまでずっと1人で苦しんでた美月ちゃんを、これからも1人のままにしておくなんて駄目だよ…。」
美月「…っ!」
ぎゅっ。
さらに力を入れてくるせいで、
指先まで血が上手く
循環していないことが分かる。
指先はじんわりと痺れだし、
色も薄れていることだろう。
セーラー服の下には
切り傷ひとつない私の手があった。
波流「私はできた人間じゃないから、理性的に考えられるような人間じゃないから…だから、感情に任せてこんなことを言ってる。」
美月「…。」
波流「美月ちゃんの力になりたい。」
美月「……け…」
それは。
それは一体どんな心情になれば。
どんな感情に身を任せたら
そんな言葉が出てくるの。
自分の利益だけを求めず
他人に自分を譲れるの。
自分を投げ捨てることができるの。
美月「……軽蔑しないで…。」
波流「…!そんなの当たり前だよっ!」
遊留先輩は声を大にして
私に吠えるようにそう言った。
軽蔑しないで。
それはプライドに雁字搦めにされた私の
助けての代替物に等しかった。
そんな私の弱さを否定せず、
それどころか受け入れて肯定してくれた。
羽澄の言っていた言葉がまた再生される。
°°°°°
美月「私からすれば、関場先輩も無理しているように見えます。」
羽澄「そうですか?いつも通りですよ。」
美月「関場先輩はお姉さんしすぎているのかもだなんて思うんです。」
羽澄「お姉さん…?」
美月「えぇ。私も長女だからか、何か似ているような気がして。」
羽澄「あはは、そういうもんなんですかね。」
美月「…。」
羽澄「それをいうならば、美月ちゃんももう少し人に甘えることを学んだほうがいいのかもしれないですね。」
美月「甘える?」
羽澄「はい。羽澄と似ているのであればきっとそういうことですよ。」
°°°°°
先輩に腕を握られたままに
ずるずるとしゃがみ込む。
声を殺し、現状を、
一種惨状を目の前に嗚咽を漏らしたかった。
まだ人前で涙を流せるほど
心を許してなどいないけれど、
もしかしたら遊留先輩なら
それすらも受け止めるだろうか。
それは。
…それは、怖い。
受け止めてくれることの恐怖を感じながら
ポケットの中にあるカッターに
思いを寄せる自分がいた。
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