暖かい夜
夕暮れは私を迎え入れるかのように
手を広げて待っているように見えた。
風が私の髪を持っていこうとしているのか
びゅんびゅんと波打つように
強めに吹いている。
こどもの日から少し経て、
ゴールデンウィークも終わり
いつも通り学校に通う日々が
再開していた。
いつも通り授業を受け、
いつも通り部活をし、
いつも通り帰って
いつも通り読書するかピアノを弾く。
何もかもいつも通り。
そう。
何ひとつ変わるはずなどないのだ。
ゴールデンウィークを経たからといって
世界が反転するほど
変わるようなことはない。
「美月、一緒に帰ろ!」
ふと、バドミントン部員である同級生が
私の肩に触れて声をかけてくれた。
私には、その手を払う力さえ
今は湧いてこないのだった。
ゆっくりと彼女の方を向くも
ラケットは当たり前か否か
からからと音を鳴らす。
美月「ありがとう、でも今日は1人で帰っていいかしら。」
「そっかそっか。全然いいよ!」
美月「ごめんなさい。」
「いいんだってば!体調悪そうだし気をつけてね。」
美月「えぇ。また今度一緒に帰りましょ。」
「うん、そうしよそうしよ!」
その子は笑顔を私に手向け、
じゃあと言って先に進んでしまった。
私は重たい鞄を持ち直し、
1歩1歩と帰路を辿った。
今日も昨日も遊留先輩や
他の子と帰る誘いを断った。
何故、と言われると
ただそうした方が楽だからに過ぎない。
今人とわいわいと騒ぎ話す程の体力が
残っていないのだ。
ぐったりとしたまま足を踏み出す。
美月「……はは…。」
思わず笑いが込み上げる。
最近はずっとこうなのだ。
大好きだった朝から昼にかけて
活力は大幅に削られていき、
夕方、夜になるにつれ
段々と調子も戻ってくる。
戻る、とはいえどふらふらしない程度で
気怠さや腹の底で煮えているような
違和感など無になることはない。
数日間この調子が続いている。
曇りの日などではまだマシになるのだが、
それでも腹の底や胃の奥が
じりじりと焼かれるような
感覚で蝕まれていた。
何が原因なのか全くもって
想像つかないのだが、
五月病だとかただただ体調の悪い
波が来ているだけだとか、
適当にそれっぽい理由をつけて
納得した気になることしか出来なかった。
この調子が今後も続くようであれば
流石に医療機関に罹った方が良さそう。
手をふらり。
無意識ながらに空を切った。
時に日陰で休憩を挟むことも
しばしばあった。
今日も中途コンビニ内に立ち寄り、
意味があるわけでもなく
品物を眺めた後退出する。
店員さんは素直なのか
マニュアルに心までも食われてしまったのか、
「いらっしゃいませー」
「ありがとうございましたー」
とこちらを見ずに口にしていた。
日本だなと遠く思う。
美月「…あ。」
喉がくっつく感覚に覚えがある。
喉が渇いていたのか。
部活でもあれだけ動いたのだ。
片付け以降は飲み物を
口にしていない。
片付けが終われば
そのまま号令までするものだから
時間が取れないのだ。
学校から出る前の
自分の荷物を整理している時間ですら
最終下校時刻に急かされる。
だから今の今まで飲めずじまい。
とはいえたった1、2時間程度しか
開いていないだろうな。
コンビニを出てすぐ、
学校の指定鞄から水筒を取り出す。
中身は夏らしく麦茶だった。
氷はまだいれていないものの
冷蔵庫で冷やしていたのだろう、
きんきんに冷えたまま。
そっと口をつけ、ぐっとお茶を流し込む。
すると重力に従って
喉の奥の奥へと吸い込まれてゆく。
気の済むまで喉を鳴らした後
水筒を口から離すと、
もう雀の涙ほどしか残っていなかった。
それならいっそと思い、
更に水筒を傾ける。
と、とん…と流れは枯れだし
遂には一滴も滑り込まなくなった。
美月「………ふぅ…。」
少しばかりだが、
先程よりかは楽になった。
…そんな気がする。
そんな気がすると思うようにした。
まだ喉の奥やら胃の底やらは
じりじりと燃え盛っているが、
気づかないふりをして
再び帰路を辿ったのだ。
冬に比べ随分と陽が伸びた。
家に着く頃には日もある程度傾き終え
私を刺すこともなくなった。
植物達は悲しそうに
太陽との別れを惜しむ。
その姿を何度も目にしてきた。
私も太陽との別れを
何度も何度も惜しんできた。
だが、最近ではあまり
そのような感情が湧かない。
寧ろさっさと沈んでくれれば
この言葉にさえし難い
もどかしさも薄くなってくれるから。
美月「……明日の朝、何しようかしら。」
予習をしてもいいだろうし
好きな読書をしたっていいだろう。
将又掃除を手伝うとか。
ピアノを弾くことは
流石に朝からは出来ない。
…となれば、ピアノの手入れなど
どうだろうか。
ひと通り頭の中を巡った後
ひとつの解答に辿り着く。
辿り着いたはいいものの、
起きたくなかったらどうしようか。
その時は、まだ夜だと過信して
眠り続けるのもひとつ手だろうな。
夜最中、お風呂上がり。
ベッドに腰をかけると
ふっさりゆっくり沈んでゆく。
ある程度沈むとストッパーがかかり
沈まなくなる。
私たちは沼に沈みかけながら
時間に引っ張られてなんとか
生きながらえている。
そんな文字達をどこかで見かけたような
見かけていないような。
文字だったか言葉だったか、
言葉だったのなら誰の言葉なのか。
それとも昔からあった
私の思考自体なのか。
判別はつかないままに
ぱたりと後ろに倒れ込む。
美月「……ふぅー…。」
ため息ではない、と言い聞かせて
大きく落ち着いて息を吐く。
細く細く吐き出されるそれは
糸のように強くもなく
糸のように張ることもなく
天井に向かって伸びていたはずが
いつからか地面に横たわっていた。
美月「……?」
なんだろう。
胸の奥がざわざわとしている。
肺は森になっており、
そこに突如現れた生物。
それを狙っている。
狙わなければと本能が訴えている。
森は深く、1度入ってしまうと
次に抜け出せるのはいつになるのか
全く見当もつかない。
だが、逃してしまっては
その生物と次いつ出会えるのか
全く見当もつかない。
二者択一の中揺れる木々。
風は囂々と響めき誘う。
手紙を認めても届くか否か。
届いたとしても誰に。
誰に…?
森の奥に誰が住んでいるのだろうか?
それが例の生物だろうか。
踏み出したら帰れない。
帰れるのかわからない。
そんな騒めきだった。
美月「……何…考えているのかしら。」
最近おかしいのだ。
時々ぼうっとしてしまう。
脳を甘ったるい匂いで
のめっとした色で満たしてゆく。
しかし、それに乗っ取られてしまっては
私ではなくなってしまう。
ただの妄想にすぎない。
そうとは分かっていても
そう思わざるを得ないのだ。
奪われないように、
私を取られないように
堪えることで必死だった。
そして部活では休む時間が
徐々に増えている。
休む、とはいえどほんの数分だけれど。
先輩や同級生、時に先生からも
顔色が悪いと言われた。
だとか、顔色はよくても
暑くもない日に汗が異常に
吹き出しているだとか。
新型コロナウイルスの影響だろうか。
そう考える日もあった。
近々PCR検査をした方が
いいのかもしれない。
そんな最近のことはさておき、
今のこの違和感に再度面と向かう。
何がおかしいのだろう。
何故これほどまでに
体が熱っているのだろう。
動悸がしているのだろう。
ここに見知らぬ男性でもいたら
吊り橋効果のあの実験のように
恋にでも落ちていたのだろうか。
遠く、遠くで匂いがしている。
何か匂いが。
一概にこれと言い表せない。
こう、布団の下に敷かれたまま
忘れ去られてしまった
思い出の手紙のような、
将又土に埋もれ続けた
タイムカプセルだろうか。
反して、毎日違った波の届く
浜辺でもあるような。
分からない。
これまでに嗅いだことは
確実にあるにはあるだろうが、
それが何だったのか、
どんな場面だったのか思い出せない。
記憶の奥底に眠っている。
忘れてしまったのか。
忘れてしまったのだ。
美月「……なに…。」
匂いに誘われるまま
のっそりと上体を起こし、
地に足をつける。
夏が近づいているからか
ひんやりとしすぎていない床。
ひたり、ひたりと音がする。
足裏からか、外からか。
自室の窓をゆっくりと開くと
明らかに気圧の変わった音がする、
感覚がする、匂いが変わる。
外の匂いがする。
…。
…。
匂いが強くなる。
が、近づいてくるわけでもないようで
ずっと延々と緩やかに
焦らすように漂っている。
美月「…っ。」
よくない。
よくないとわかっている。
…。
…。
…分かってる。
…分かってる。
分かって…?
…。
…頭をぶんぶんと振る。
何か別のことをしよう。
そうだ。
そうして気を紛らわせよう。
読書でもしようか。
そうだ、そうだ。
読書をすれば少しくらい
気は紛れてくれるだろう。
ピアノを弾きたいところだったが、
夜中であるがために
それは憚られてしまう。
カーテンを閉め、外から離れる。
すると胃の底がきりきりと
反応をしだしては止まなくなっていく。
駄目だ。
そっちじゃない。
そう、本能が話しかけてきているようだった。
奇妙な感覚に襲われながら
なんとか理性を保つよう暗示し、
本棚へ向かった。
美月「ふぅー…ぅー…。」
そこには大量の本。
空きスペースなどなく、
溢れ出た本は別の部屋にしまってある。
小説が大半、後は新書や参考書が少し、
時々聖書や自己啓発本、分厚い専門書まで。
本が並んでいる。
そんなのわかりきっている。
本棚の中段あたりに手をつき、
そのまましゃがみ込むと同時に
手は棚から剥がれていく。
とん、とん、とんと
棚に打ち付けて降る掌。
柔らかいから傷などつかず、
打撲跡だってできていないはずだ。
だらりと宙を浮く手。
しゃがみ込むと部屋の床が
大層ミクロまで見えてくるような
錯覚さえ覚えてしまう。
美月「………ぅー……。」
お腹が痛いわけではない。
頭痛などに悩まされているわけでもない。
痛いところがあるわけではないのだ。
だが、気持ち悪いだったり、
胃の底が沸騰しているような
違和感ばかり感じ続けている。
さらに違和感は強くなる。
外においで。
外の匂いで揺らぐ。
揺らぐ意思、意識。
甘いような懐かしいような。
この微かな匂いをたどり、
その先のものに全てを委ねてしまえば。
それで…きっといい。
今さえよければー。
°°°°°
「友達なんていらない!」
°°°°°
…駄目だ。
駄目…。
駄目、だ。
ふと我に返り、立ち上がる。
立ちくらみがするものの
足に力を入れて踏ん張ると
自然とふらふらしなくなってゆく。
頭の中の物事を全て捨て去るように
ベッドへと身を投げる。
スプリングがきいているのもあり、
緩く緩く寄っていく。
気持ち悪い。
胃の底の違和感、体の奥底の、
手の届かない位置の違和感。
昼間でさえ体調が悪くなりやすいというのに
夜でさえこんな思いをしなければ
ならないというのか。
美月「……っ…。」
布団をしわくちゃにしながら
ぐっと自分の膝を抱き寄せる。
どうすればこのどうしようもない
気持ち悪さを逃がせるのか。
縮こまって縮こまっても
何も解決しない。
これが何なのか調べなければ。
その思考ひとつだけを抱えて
スマホに手を伸ばす。
刹那、触れていないにも関わらず
ふっと画面が仄暗く光った。
部屋は明るいがために
ほんの微かな光だが、
それにすら縋りたくなる。
画面に目を向けてみれば、
そこには1人の名前が。
LINEの返信での通知だったようだった。
美月「………遊留……せんぱ…」
遊留先輩。
その文字がふっと浮かび上がっていた。
部活が一緒の為に、
LINEを交換していたのだ。
交換していてもデメリットはないだろうし、
今後も関わっていくだろうから。
だから。
今だけは過去の自分を
褒めてやりたい気になった。
遊留先輩に相談しよう。
そうだ。
先輩なら助けてくれるんじゃないか。
先輩と過ごした時間は
まだまだ短いものだけれど、
きっとという希望は
消ゴムでごしごしと削ろうとも
そこから滲むだけで消えやしない。
これは苦しい、と言えるだろう。
この煮えたぎっている苦しさを
先輩なら何とか出来るのではないか。
あなたしかいない。
そんな先入観まで生まれてくる始末。
スマホを両手でぎゅっと握り、
願うようにLINEを開く。
今返信が来たのだから
すぐに返せば見てくれる。
そのはず。
…いや。
メッセージより電話の方が
気づいてくれる。
そう過ぎった暁には
もう電話をかけるしかないとしか
考えられなくなってゆく。
今の私は思考がひとつに
絞られていってしまう。
これが正解で間違いない、と
豪語しているかのよう。
…。
それならばこれまでと
それほど変わりはないのではないか。
そうか。
あまり変わらないのか。
美月「……お願い…。」
受話器のマークにそっと触れると
とぅるるる、と機械音がなる。
出てくれるだろうか。
気づいてもらえないだろうか。
そんなせめぎ合いが起こった刹那、
ぶちっと切れる音がし、
ホワイトノイズが耳に浸透していく。
あまりに急な音の変化だった為、
喉奥が詰まりかかってしまう。
波流『もしもーし!』
快活な声は距離を経ているにも関わらず
あっという間に届いた。
現代は進化しているなと
幾度も感じていた。
遊留先輩はいつも通り
明るいままに電話に出てくれた。
完全にプライベートである時間に
電話をかけるのは些か緊張したが、
いつも通りでいてくれたおかげで
緊張の糸が解けてゆく。
…緊張していたのではなく、
先輩が電話に出てくれるのか
不安だったのかもしれない。
波流『聞こえる?』
美月「えぇ。…聞こえます。」
波流『よかったよかった!急に電話かかってきてびっくりしちゃった。』
美月「驚かせてしまってすみません。」
波流『ううん、今ちょうどリビングでのんびりしてる時だったから平気!』
確かに耳をすましてみれば、
遊留先輩の奥だろうか、
微かにテレビのような音が混ざっている。
当たり前ではあるのだが、
この人にもこの人なりの生活があり、
その生活の一部がこれなのだと思うと
感慨深くなった。
ぎゅっとスマホを握ると
手汗が吹き出しており、
不快でしかない音がした。
だが、話してみると案外普通で、
胃の気持ち悪さもどこか
かくれんぼし出しているような気がする。
実際にはそんなことはなく、
ただただ忘れようとしているだけだが。
波流『何かあったの?』
美月「ぁ……。」
そうなんです。
今少し体調が悪くて。
胃の奥が気持ち悪いんです。
どうしたらいいんでしょうか。
たったこれだけの言葉が
何故か口からこぼれ落ちてくれない。
口元に鍵をかけられてしまったように、
この人を縋ってしまっては駄目だと
無意識のうちにストップがかかる。
これまで1人で何とかしようと生きてきた。
確かに時には周りの協力だって借りた。
だが、主には自分で乗り越えてきた。
自分だけの力で。
だから、今回だって頼らずとも
どうにか出来るはずだ。
何より体調不良など
病院に罹ればいいだけではないか。
一体なにを先輩に相談しようというのだろう。
先輩だって同じことしか言わないはずだ。
「体調が悪い?きつかったら病院に行け」と。
そうだ。
何を頼ろうとしていたのだ。
正気に戻ってしまったのか、
先輩に電話したことに対して
意味を見出せなくなっていった。
美月「…週末の部活って通常通りあるのかを聴きたかったんです。」
波流『週末?うん、普通にあるよ!いつも通り土曜日だけね。』
美月「そうなんですね。ありがとうございます。」
波流『大丈夫?』
美月「はい。十分です。」
何に対しての大丈夫なのか分からないまま
適当な返しをし、後は重ねてお礼を言い
電話を切ろうとした時だった。
緩やかに心地のいい気温は
私を迎え入れてくれているような。
そんな錯覚に溺れてしまう。
波流『待って待って!美月ちゃん、今日とか特に体調悪そうだったじゃん?』
美月「ああ…。それは急に気温が高くなったので水分不足でふらついてしまっただけですよ。」
波流『…本当に?』
美月「はい。本当に。」
波流『ならいいんだけど、あまりにもきついようであれば部活休んでもいいからね。先生もそこまで鬼じゃないよ。』
美月「分かっています。然るべき時にはきちんと自分の体調を優先して休みますよ。」
波流『そう思ってくれてるんならよかった!』
美月「私も子供ではありませんから。」
波流『あはは、さっすが美月ちゃん。』
子供ではない。
一体どの口が言っているのだろうか。
そいつの頭の中を
覗いてみたいものだ。
ふと羽澄の言葉が過る。
もう少し人に甘えることを
学んだほうがいいのかもしれない。
どうして今になって
この言葉が想起されるのか
全くもって理解できなかった。
遊留先輩は温かい言葉をかけてくれたのち、
再度体調を気遣う言葉をひとつかけて
その電話はぷつりと断たれた。
この無音の中、時に外でカラスや虫の
鳴き声が篭り箱の中まで届く。
美月「…暖かい。」
スマホは電話をしていたからか
熱を帯びていた。
ここだけどうやら真夏のよう。
久々ながらに人の暖かさに触れて、
そのまま眠ってしまいそうだった。
胃の奥は今だけは鎮まり、
このまま朝まで導いてくれそうで。
特に何を話したというわけではないものの、
先輩にはひとつ助けられたということだろう。
今日の夜はきっと
そんなに怖いものじゃない。
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