こどもの日

首元に傷を負ってから数日経た。

すると、嫌でも傷は塞がっていき

今では少々分厚い瘡蓋ができている。

ここに絆創膏を貼ってしまっては

剥がす時に瘡蓋まで剥いでしまうと思い、

あえて何もしていなかった。

しかし、今日はお寺の行事。

子供達が来る頃には

絆創膏を貼るようにしておこう。

机の上に置かれていた付箋を

1枚剥がしてメモをしておく。

そして忘れないようにと

机の上に貼り付けた。


先日は家に帰るとお手伝いさん含め

一同が騒然とした。

血はじんわりと出ていたかつ

何者かの唾液がついており、

それが風に晒されぱりぱりに乾いていた。

気持ち悪さを早く落としたくて、

傷が染みることだなんて考えは

頭の中からゴミ箱へと直ちに捨てて

颯爽とお風呂へ駆け込んだ。

熱湯は傷を痛めつけてくるものだから

呻き声を上げ蹲りながら

気の済むまで首元を洗った。

私を襲ったあの女性は

現在コロナウイルスも流行っている中で

一体何がしたかったんだろう。

あの人がウイルスを持っていたならば

私は数日後、それこそ今日あたりからは

発症してしまうだろう。

逆も然り、か。

私だってウイルスを持っている可能性は

0%ではないのだ。


怪我については風で飛んできた枝が

偶々鋭利なものだったせいで

切れてしまったということにしておいた。

人に切られたと勿論

言うべきだったのだろうが、

最近行方不明の話も挙がることだし

不安にさせてはいけないと思い、

家族やお手伝いさんには

黙っておくことにした。

それにあの女性の後ろ姿。

私に対して殺意があったわけでもないのか

逃げるように去っていったあの夜。

訳が分からないままに

不確定な情報が曲がって伝ってしまうのも

何だか違う気がして。


美月「…それにしても……。」


縁側から外を見ると、

お寺の裏側の方だからだろう、

あまり飾り付けのされていないが

手入れは行き届いている庭が

私の部屋を眺めていることに気づく。

申し訳程度の小さい鯉のぼりが

土に刺さった串にくっついて

しなりと垂れている。

風が吹けば強く靡くだろうが、

今は風も落ち着いているらしい。

嵐の前の静けさとは言わないが、

だれた鯉のぼりは

生きる気力を失っているようで、

いつか海底に引き摺り込まれるのではと

不意に思ってしまう。


遠くからは風鈴の音と

ニュースだかアニメだか、

テレビの音が耳に届く。

夏のような暑さ、良い日差し。

今日ばかりは半袖が適任そうだ。

半袖に1枚羽織れるものが

あるくらいが丁度いい。

まるで夏休みのような風景だった。

ここに蝉が参戦すれば

いよいよ夏の到来だ。


「ねーちゃーん!」


どたどたという足音と共に

ノックすらなく私の部屋の扉を

開いてくる弟の姿。

反射的にその方をじっと見つめては

驚いていたのか肩があがっていたのを

ゆっくりと下げていく。


美月「もう、何よ。」


姿を現したのは

上の方の弟である悠真だった。

悠真は今年から中学生になったが、

それでも幼さの残る顔つき。

男の子っぽくなるのは

まだ先の話になりそう。

先日夜に出会った

茉莉を彷彿とさせる。

悠真と茉莉は同い年くらいだったのでは

なかろうかと今更思案に耽る。

年齢くらい聞いておくべき

だったのかも知れない。

年齢関係仲良くなれるって

素敵だとずっと思っていたし、

知らなくてもいいと思っていたから

聞かなかったけれど。


悠真「ねーちゃん、とーちゃんが呼んでるよ。」


美月「そう。何の用か聞いてる?」


悠真「んー、何だっけな、でかい鯉のぼりは終わってるって言ってたし。」


美月「まあ行ってみるわ。」


悠真「あそーだ、ちまきの材料がうんたらって言ってたよ。」


美月「そうなのね。ありがとう。」


悠真「んーん。」


美月「樹は何してるの?」


悠真「あいつはずっとテレビ見てる。」


美月「樹も手伝うように言ってくれないかしら?」


悠真「ねーちゃんから誘ってやれよー。俺んじゃ聞いてくれねーよー。」


美月「お兄ちゃん頑張って。」


悠真「えー。いーつきーー!」


下の弟である樹は

返事をすることなくテレビに夢中のよう。

悠真が大声で呼んでも

しんと家が無音を返してくる。

外では着々と準備が

進められているようで、

がやがやと数人の話す声。

親やお手伝いさん数人、

それから今日来る施設の人だろう。


今日はこどもの日。

そのため、近くにある

児童養護施設の子ども達が

イベントのためにくるのだ。

施設側も何かしらいつもと

違ったことがしたいと考えていたらしく、

せっかくならうちのお寺でやらないかと

いつの間にか話が持ち上がり、

今に至っている。

今年初めての試みとなる

こどもの日のイベント。

それとなく緊張しているのは

子ども達がくるからなのか、

新しい試みだからなのか。

それとも、様々な境遇、背景を持つ

子ども達を前にして

どんな顔をしていればいいのか

分からないからだろうか。

きっとどれも当てはまる。


ふと思うのだ。

私ももしかしたらそういう施設に

いた未来があったのかもしれない、と。


悠真「駄目だわ、あいつ聞いちゃいないもん。」


美月「直接背中でも叩きにいきましょ。」


悠真「げ、暴力沙汰かよ。」


美月「冗談に決まってるでしょう。」


悠真「ねーちゃんが言うと洒落になんねえよ。」


美月「そこまで鬼じゃないわ。」


悠真「十分鬼だわ。そーいや怪我大丈夫?」


美月「怪我、あぁこれ。もう痛くないわ。」


悠真「そっか。じゃあ後は唾つけときゃ治るな。」


にし、と笑いかけた後

また走って私の部屋から去っていった。

樹の名前を大声で呼びながら

走っていくものだから、

中途お手伝いさんの叱る声が

ここまで聞こえてきた。


唾をつけとけば治る、か。

現に怪我を負わされてすぐ

唾はつけられたのだが。

思い出すと思い出すほど

背筋が震えて止まらない。

見知らぬ異性の中年の方だったら

それこそ悪寒が止まらなかっただろう。

女性だからましとは言えど

目的も何もわからない。

そういう性癖だったと言えば

それまでなのだろうけれど。

気味が悪い。

それには変わりないか。


重たい腰を上げて

走り去った悠真を追うと、

さっき悠真を叱っていた

お手伝いさんとすれ違った。

軽い挨拶と準備に必要なものについて

ざっくりと話した後、

お寺の表へと足を踏み出す。


すると、大きな杵と臼は

既に日の元に晒されていた。

長机も幾つか設置されており、

まるで小学生の頃に見た

文化祭時などの時、

外で店を出しているかのような、

懐かしい雰囲気が漂っている。


「英智さん、この暑さなんで簡易屋根つけます?」


パパ「あぁ…その方が良さそうだな。」


「じゃあ倉庫から取ってきますね。」


パパ「頼んだ。後1、2人連れて持ってきてくれ。重たいから気をつけてな。」


「はい。」


パパは長年この家で勤めている方や

お手伝いさんに次々と指示を出していた。

こういう姿を見ていると

地位の高い人間なのだなと

改めて認知する。

家での姿は荒れていた時もあったため

そこまでいいイメージはないものの、

最近では名誉挽回してきた頃。

その荒れてる姿を見てきたのもあり、

パパのことはあまり好きではなかった。

弟達は好いているようで

それは微笑ましい限りだけど。


美月「パパ。」


パパ「ん、おお。美月。」


美月「悠真から聞いたわ。何か準備するわよ。」


パパ「そうだな、じゃあキッチンの裏にある納戸あたりに笹の葉と井草があるはずだから、それを取ってきてくれ。」


美月「ええ。」


パパ「持ってきたらまだ外に出さず、風に飛ばないように縁側にでも置いておいてくれ。」


美月「はーい。」


「おねーちゃん見てみてー!」


パパと話しているうちに

いつの間にか隣にいたようで、

ぐいぐいと服の裾を引っ張る

背の低い誰かがいた。

無論、下の弟の樹だ。

テレビを見ているから

返事がないのかと思っていたが、

どうやら外にいたから

聞こえていなかっただけのよう。


樹は私より身長は低いものの

もう数年すればあっという間に

越されてしまうだろう。

樹は太陽のような笑顔を浮かべて

私に固く握った手を差し出した。


樹「あげるー。」


美月「何、虫じゃないでしょうね?」


樹「飴だよ飴。」


美月「信じるわよ?」


樹「うん!」


私が両手を掬うように開く。

すると樹はぱっと私の手の上で

固く結んだ手を開いた。

こて、と何かがこぼれ落ちる。

樹は満足いったのか

それとも追いかけられると悟ったのか、

庭を走り裏での方へ駆けてゆく。


手元に残ったのは黒い粒。

ほぼ均等に線が入っていて、

若干開きかけている。

と思えばぐわっと開き出し

幾つもの足がー


美月「きゃーっ!?」


樹「わーあははー!」


美月「いーつきー!」


怒られるとわかっていながら

ダンゴムシを渡してきたのかと思うと

変なのと笑いたくなった。

ダンゴムシだと分かった瞬間

ぱっぱっと手を払い、

樹の後を軽くながら追ってあげることにした。

虫は大変苦手というわけではないが

好いてもいなかった。

小さい頃は虫を捕まえては虫籠に入れ、

大小様々な虫をコレクションしたものだ。

そして家に持って帰ってきては叱られ、

お寺の裏山に捨てられた。

懐かしい。

それも夏の出来事だった。


パパ「ちょっと、後数時間でいらっしゃるからな?」


美月「分かってる。少しだけ追っかけっこしてくるわ。」


育ち盛り遊び盛りの歳だもの。

確か今年で小学5年生だったか。

そんな弟の遊びの誘いに

乗ってやらないのは

些か気が引けた。

私がその歳の頃はあまり外で

遊ばなくなっていったのもあるのか、

弟らには目一杯遊んで

大人になってほしいと

いつからか思うようになっていたのだ。


跳ね除けたダンゴムシは

縁側の下にでも潜ってしまったのか

もう視野に入ることはなかった。


走って追ってゆくと

樹はより全速力で家の裏へと周り、

慌てて靴を脱いでは家に上がった。

靴はそのまま庭に放置されたまま。

羽虫が近くを飛んでいるのに

気がついて右手で払う。

すると、バドミントンを始めたからか

自然と手首を回していた。


美月「…最近自主練に素振りをしたからってのもあるかも知れないわね。」


少しくらいは、と

心の中で付け足した。


靴はきっと、生温い温もりが

住み着いているだろう。

それを私も放置して

そのまま山へと続く方へと歩き出す。

蔦がくるくると支柱に

巻き付いているのが幾つか見える。

暖かくなってきたこともあり、

ライラックなどの花が咲き出している。

白いライラックは私のことを

奥へ奥へと誘うように

緩やかに揺れていた。

まるで童心を徐々に

取り返しているのではないかと

錯覚し出してしまう。


子供の頃はよく山に入っては怒られた。

1番怒られたのはー


美月「………秘密基地、かしらね。」


その単語を口にした瞬間、

ちまきの材料のことが頭に過った。

山への入り口を目の前にして

踵を返しそのまま納戸の方へ向かう。

納戸付近の部屋は

現在使われていないものが多く、

埃をかぶっている部屋なんて

ざらにあるだろう。

お手伝いさんが掃除をしてくれていたら

そんなことはないのだろうが、

真実は定かではない。

納戸付近には、私が小さい頃に読んでいた

小説の数々が仕舞ってある

図書館のような部屋もあるはずだ。

向こう5年程は立ち入っていないため

どんな本があったかも

殆ど忘れ去ってしまった。


納戸を開くと、思ったより整理されていた。

ぶわっと井草だか檜だか、

自然の匂いが立ち込めており

鼻が麻痺するほど香った。


美月「…あ、これかしら。」


樹のことや悠真のことを

完全に頭の隅に追いやって

今は準備へと取り掛かる。

木製の棚の上に

丁寧に束ねられたちまき用の材料が

揃えられているのが分かる。

井草も籠に入っており、

全て同時に持っていけそうだ。

往復すればいいだけの話とは言え、

この距離をまた行き来するのは

面倒だと思っていたために、

このような配慮は嬉しかった。


美月「…よし。」


籠を手に取ると、

微かに夏が香った。

山の中の匂いに似ているだろうか。


美月「…。」


また。

またいつか。


もしも、私に覚悟があれば。

覚悟ができたら。


山の中に久々ながら

立ち入ってみるのもありかもしれない。

…なんて、

夢のまた夢のようなことを

考えついてしまった。


意を決すると決するほど

私はここから立ち去りたくなる。

その意に任せてお寺の面へと向かっていた。


それからさらに時間は経て、

気づけばもう少しで

児童養護施設の皆さんが

見える頃になっていた。

私が緊張しているように、

施設の子供達も不安だろう。

今のうち笑顔の練習を

いておこうか。

いやいや、弟達に見つかれば

笑い物にされて終わりだ。

なんてことを頭の中で

ぐるりと巡っては

結局無表情のままじっと待つのみだった。

今更だが、私は不器用なのかもしれないと

感じ出してしまう。

そう、今更にも程がある。


美月「悠真、仲良くするのよ。」


悠真「俺だって子供じゃねーよ。」


美月「子供でしょ。」


悠真「ちぇ。」


樹「僕も子供ー!」


美月「樹は意地悪しすぎないようにね。」


樹「うん!」


美月「いつも返事だけはいいんだから。」


悠真「ねーちゃんは口だけはよく動くんだから。」


美月「ああ言えばこう言う。」


ママ「喧嘩しないの。」


悠真「ほれ、ねーちゃん。「仲良く」な。」


悠真はまたにんまりと笑って

気だるそうに片足重心で立っていた。

昔はもう少しくらい

可愛げのある口の利き方だったはずだが、

既に時は経ってしまったらしい。


過去に思いを馳せたって

どうにもならないことは

十二分に承知しているはずだが、

癖なのか否か思い出ばかり浮かんでくる。

浮かんできてはこれ以上

ふわふわと飛ばないように

水底へと深い場所へと追いやるのだ。

そうして見ないふりをするのだ。


ぶんぶんと軽くかぶりを振った時、

と 遠くからわいわいと賑やかな

青々しい声が聞こえてきた。


悠真「何顔振ってやんの。」


美月「虫がいたのよ。」


悠真「あそ。」


美月「そう。」


悠真は緊張し出したのか、

崩した足をきちりと両足揃え

姿勢良く立っていた。

その姿がなんだか可笑しくって

こっそりと目元を細める。

悠真には気づかれなかったようで、

ふん、と鼻を鳴らされることもなかった。


徐々に近づく声はまるで

お祭り楽しみにしているかのような。

暑いこともあり、

さらに夏の色が滲む。

夏の香りが立ち込める。


パパ「あぁ、本日はよろしくお願い致します。」


「こちらこそ宜しくお願い致します。」


引率の先生とパパが

頭を下げ会い今日は宜しくと

互いに挨拶を交わす。

子供達はざっと30人くらいは

いるのではなかろうか。

もしかしたらそれよりも

少ないかもしれないが、

思ったより多いのだなと驚きを覚える。

この世の中には様々な家庭の環境がある。

それは理解しているつもりだったが、

こうも目の前にすると

なんとも言い難い気持ちが

渦のようにぐるぐると回る。


気持ちはただの気持ちだ。

表に出さなければいい。

満面の笑みを浮かべて

近くにいた子に話しかけようとした時だった。


美月「………あら。」


「…!」


ばちっと電流が走ったのか、

背筋がぶるりと震えた。

見覚えのある顔があったのだ。

どうしてここに。

そう言いたくなる心を抑え、

その人に向かって手を上げた。


美月「こんにちは。」


羽澄「……こんにちは、美月ちゃん。」


関場先輩は困ったように

笑いながら手を上げ返し、

小さく返事をしてくれた。

バイトだろうか。

そう思うことにしておこう。

関場先輩は私に個別に話しかけることもなく

ただ引率の先生に連れられ、

それと同時に小さい子へ

声をかけながらパパの指示に従っていた。


美月「…?」


私の横を通り抜ける時、

関場先輩より身長の低い女の子が

彼女に耳打ちしているのが見えた。

ちらと女の子がこちらを見た気がしたが

気のせいだったのだろう、

関場先輩やその他の人達と

楽しそうに話しながら、

準備された会場へと進んだ。


それからはあっという間だった。

子供達はおとなしい子もいれば

賑やかすぎてやんちゃな子もいる、

普通の年齢不問の1クラス。

人見知りな子が多いような気もしたが、

目線を合わせて話しかければ

返事だけならばと

頭を縦横に振ったり、

それを越えればひと言ふた言と

話したりしてくれた。


悠真や樹も同世代の子と

それなりに仲良くしているらしい。

樹は大人しそうな子供に

笑顔で話しかけていた。

悪戯好きだが愛嬌はあると

自負しているからこその

行動でもあったのだろう。

悠真は悠真でやんちゃ組で集まって

只管ちまきの餅を順番についていた。

それから施設の子供達は

出来そうな子は杵を持ち

餅米をついていた。

体が小さいながらにやりたいと言い張る子は

私や関場先輩、施設の職員の方々の力を借りて

ひとつきはするようにして。

ちまき作りに興味のない子は

兜を作ったり小さい風車を作って見たり。

それもしたがらず、

ただただ大きい鯉のぼりを

見上げるだけという子もいた。


各々の過ごし方で午前を過ごしたら

次は昼ごはんの時間。

午前中に作った餅米を、

お手伝いさんややりたいと名乗り出た子や

やりたそうに視線を向けていた子に

声をかけて笹に巻き完成させたちまき。

これに合わせてお手伝いさんや

職員の方々総出で作ったカレーが

お昼ごはんに出された。

皆それぞれ、お寺の好きなところで

食べていいとのことだったので

ぱっと散っていく。

好きなところで食べていいとは言え、

職員の目が届くところ、

お寺の庭など外に面しているところなど

少しばかりルールはあったが

大体は許容範囲とのことだ。

ただ、パパは裏手の山は熊が出るから

入ってはいけないと釘を刺していた。

熊なんて出ていないが、

山に入ってしまえば小さい子は特に

見つかりづらいだろうことが

目に見えてわかっていたからだ。

唐突に崖のような部分に差し掛かったり、

溝があって足が持っていかれたりする

ポイントがあるのだ。

特に悠真や樹に注意しなければと

思っていたのだが、

私の顔を見ては

「そんなことしねえよ」

と言ってきたので

ひとまず信じることにした。


私はあまりお腹も空いていなかったから

昼食は控えようとしていた時だった。

後ろにいつの間にか立っていたようで、

彼女特有の波が届く。


羽澄「美月ちゃん。」


美月「ん?…あぁ、関場先輩。」


羽澄「はい、これ。」


美月「え…私の分?」


羽澄「そうですよ?」


関場先輩は両手にカレーを持っており、

器用なことに腕にちまきを

ぶら下げていた。

どうやら気を遣わせてしまったらしい。

お腹は空いていないと言いながら、

実際にカレーを目の前にしては

ぐう、と人様には聞こえない程度に

お腹の虫が声を上げた。


関場先輩の手から溢さないように

丁重にカレーの盛られたトレーを受け取る。

香ばしい香りが漂うと共に

カレーが僅かに海のように揺れた。


美月「ありがとうございます。」


羽澄「いいんですよ。一緒に食べませんか?」


美月「えぇ、是非。けれど関場先輩はいいんですか?仲の良い方とかと食べずに」


羽澄「羽澄にとって美月ちゃんは仲の良い人なので無問題です!」


美月「ふふ、なんだか心強いです。」


羽澄「えへへ。」


はにかむ先輩はもう困ったようには

笑っておらず、満面の笑みを浮かべていた。

そう見えただけで実際には、

胸の内に閉じ込めている思いが

数多あるかもしれない。

私はそれに気付けない。

隠されてしまっては

見つけようとする努力を

してこなかったから。

自分が1番になれば良い。

それでのしあがってきたものだから、

いつからか探し物をする力が

衰えてしまったのだろう。


関場先輩とお寺の側面に当たる部分の

縁側にて2人で横並びになる。

座るまで彼女にちまきを

持ってもらったままになってしまった。


美月「持ってもらってありがとう。」


羽澄「いいえ。どっちにしろカレーを持ったままでは渡しづらかったしいいんですよ。」


縁側は日が当たっていたはずだが、

時間が経つことによって

日陰へと寄ってしまっていた。

夜に傾き出していた。

そのせいか、お尻をつけると

ひんやりとした温度が迎え入れてくれる。


羽澄「今日は楽しかったです。ありがとうございました!」


美月「いいえ、みんなが楽しんでくれたからこそ成り立ったんですよ。」


羽澄「お昼ご飯を食べ終わったら解散でしたよね?」


美月「えぇ、そのはず。」


羽澄「ちまき作りも兜作りも楽しかったです!」


美月「なんだかんだで先輩も楽しんでましたね。」


羽澄「はい!そういえば、首の怪我…?大丈夫なんですか?」


美月「ああ、これ…偶々枝が飛んできて切っちゃったんです。」


子供達が来る前に

ささっと手際よく貼った絆創膏。

大してずれることもなく貼れた為か

今でも剥がれそうな感覚は

まだしていなかった。

絆創膏の上から傷を撫でる。

やはりもう痛くはない。


羽澄「災難でしたね…。」


美月「でももう治ってきているんです。」


羽澄「そうなんですね!よかった…。あ、そうだそうだ。」


美月「…?」


関場先輩はカレーをひと口含み

急いで飲み込んだ後、

口を手で覆い再度話し出した。

それほどお腹が空いていたのだろう。


羽澄「美月ちゃん、羽澄のことは羽澄って呼んでくれませんか?」


美月「え?」


羽澄「なんか、そう…羽澄は年下の子とも同い年感覚で育ってきたので、敬語の方がむずむずするんですよ。」


美月「…それは…。」


それは、関場先輩自身が

児童養護施設にて暮らしているという

ことなのだろうか。

これまでずかずかと

人の心の領地に踏みいっては

様々なことを聞いてきたはずが、

今日ばかりは何故か踏み出せないでいた。

すると、関場先輩は何か雰囲気を察したのか

諦めたように口を開いた。


羽澄「羽澄は10年くらい前からあの施設で暮らしてます。職員ではないですよ。」


美月「…そうなんですね。ごめんなさい、言いたくなかったかもしれないのに。」


羽澄「いいんです。けど、他の人には言わないでくださいね。」


美月「勿論です。言いふらす相手がいませんから。」


羽澄「またまた冗談をー。」


美月「本当ですよ。」


そこで私も一息つきたかったのか

ふう、と自然に息が溢れた。

溢れた息は濁った空気に取り込まれ、

溶けて溶けて同様濁ってしまった。


美月「あぁ、でも先輩自身は敬語ですよね?」


羽澄「む、そこ突っ込みますか。」


美月「気になったので。」


羽澄「うーん、これはもう癖なんですよ。長年これなので慣れちゃいました。」


美月「確かに同級生の前でもそんな感じですもんね。」


羽澄「へ?学校での羽澄を見たことがあるんですか?」


美月「ほら、長束先輩に対してもそうだったから。」


羽澄「あぁー…そうでしたね。」


美月「…失礼なことをお聞きしますが、長束先輩のその後はどうなんでしょうか。」


羽澄「あはは…全く手がかりなしです。」


美月「そう…。」


羽澄「どこに消えたんだか。」


美月「所持品とかは?」


羽澄「走るだけだからってスマホも持たずに出たんですよ。愛咲らしいですけど。」


美月「…。」


羽澄「心配なのは麗香ちゃんです。」


美月「…そうですね、私はTwitterでしか彼女の現在を見ていないけれど、心が痛みます。」


羽澄「羽澄のことはいいから、麗香ちゃんのためだけでもいいから愛咲に戻ってきてほしいですよ。」


美月「それは違うんじゃないですか?」


羽澄「…。」


関場先輩は何も言わずに

ひと口、またひと口とカレーを

押し込んでいくのが横目ながらに見える。

出かかった黒い渦を

内へ内へと押し流すように。


美月「私からすれば、関場先輩も無理しているように見えます。」


羽澄「そうですか?いつも通りですよ。」


美月「関場先輩はお姉さんしすぎているのかもだなんて思うんです。」


羽澄「お姉さん…?」


美月「えぇ。私も長女だからか、何か似ているような気がして。」


羽澄「あはは、そういうもんなんですかね。」


美月「…。」


羽澄「それをいうならば、美月ちゃんももう少し人に甘えることを学んだほうがいいのかもしれないですね。」


美月「甘える?」


羽澄「はい。羽澄と似ているのであればきっとそういうことですよ。」


あれだけかきこむように

カレーを食べていた割には、

口周りを汚すことなく

綺麗に食していた。

ちまきを包む笹が生暖かい風に揺られ、

微々ながらに蠢いている。

笹が生き物になってしまったのか、

笹の中に生き物が住み着いてしまったのか。


羽澄「今からでも全然遅くないと思いますよ。」


美月「それをいうならば関場先輩も。」


羽澄「全部ブーメランみたいに返ってきますね。」


美月「私もです。」


羽澄「あはは、確かに。それと、羽澄って呼んでくださいよー!」


美月「でも」


羽澄「先輩なんて言われる方が気持ち悪いです。」


美月「部活とかで先輩って言われてるんじゃないんですか?」


羽澄「それとこれとは別です。プライベートまで先輩でいるのは嫌ですね。」


美月「そういうものなんですか。」


羽澄「羽澄はってだけですよ。」


美月「…それなら遠慮なく…羽澄。」


羽澄「えへへ、やっと安心です。」


美月「それならばよかったです。」


羽澄「出来れば敬語もなしで…」


美月「えぇ…?」


羽澄「施設の子はタメ口なので違和感なんです!」


美月「私…そんな小さい子ではないんですが…。」


羽澄「はっ、それは確かにそうですね。施設にも美月ちゃんくらいの歳の子がいるので何となくこそばゆくて。」


美月「そのままこそばゆいままいてくださいよ。」


羽澄「い、意地悪ですか!」


美月「ふふ、いえ、そうではなくて。また時を見て変えようかなと。」


羽澄「なるほど。」


美月「その頃には慣れてますよ。」


羽澄「怖い怖い。人間ってそうやって慣れていくんですね。」


その言葉を皮切りに

黙々とご飯を食べ出す羽澄。

どこか通ずるところを見つけたからこそ

施設の子たちと私がどこかしら一致し、

こんな提案をしてきたのではないかと

勝手ながらに結論づけている私。

踏み入りすぎるのも良くないか。

そんな結論に至った私は

カレーをゆっくりと食し、

そのせいかちまきにまでは

手を出すことが出来なかった。

早めに到来した満腹感。

早めに満たされた夏。

…。

やはり、夏休みと言っても

差し支えはないだろうな。


それから羽澄とは

何ともないことばかりを話した。

長束先輩の話だけは

もう触れるのも毒かと思い避けて。

どんな子がいるのかとか、

どんな生活をしているのかだとか。

聞いたとて、これといって

違った話が出てくることはなかった。

私達と同じように

当たり前のように普通に暮らしている。

ただ大家族なだけ。

たったそれだけだった。


違う違うとばかり思っていた世界は、

思ったよりも普通で変哲もない。

普通の世界だったよう。

またひとつ常識が崩されてゆく。

私は常識で固められたいのか、

それともこの凝り固まった常識を

崩していきたいのか。

今の私には答えは出せない。

常識が世の中の当たり前だと

教えられてきたからだろうな。


2人で話していると、

先程まで樹と一緒にいた

小学生の男の子が遠くに見えた。

その子は羽澄を見かけると

嬉しそうに短い足の回転率を上げ

とたとたと一生懸命にこちらへ走ってくる。

その幼い姿が昔の弟と重なる。

確かあの時、地面を這う枝に引っかかり

転けたのではなかったか。

思い出してはくすりと笑みが溢れる。


すると刹那、少年の姿が

ばっと消えたのだ。

これには羽澄も驚いて席を立ち、

空になったトレーを縁側に置いて

少年へと駆け寄った。

風がないことを確認して私もトレーを置き、

2人の元へ駆け寄る。


羽澄「大丈夫ですか!?」


「う、うぅ…痛いよぉ…。」


羽澄「…あぁ、膝から血が…」


確か…。

確か弟もこんな感じじゃー。


…。

…?


どくんと。

どくん、どくんと。

何故だか動悸が早まるのを感じた。


美月「……っ…?」


心臓はまるで部活で何キロか

走った後のようにどくどくと

心拍数は上がってゆく。

血液が外へと流れ出しているのかと

錯覚してしまうほどに

血流が巡っているのがわかる。

しまいには自分の心臓の鼓動が

耳元で大音量で聞こえるのだ。

手足は震えているわけではないが、

冷や汗だかただの発汗なのか、

ひとまず汗が止まらない。

背中では無数の汗の粒が

吹き出していることだろう。


何故。

何故?


羽澄「美月ちゃん?」


美月「…!」


羽澄「美月ちゃん、絆創膏と…あと、傷を洗えるような場所ってありますか?」


「やーだー洗いだぐないぃ。」


羽澄「ばい菌いっぱいになって歩けなくなったらどうするんですか。」


「やーだあぁ。」


歩けなくなるなんてことは

ないとは思うが、

羽澄なりの優しさなのだろう。

それでも少年は駄々をこね、

目に涙を浮かべては

膝の周りをぐっと力を入れて

痛みが伝播しないよう努めていた。


真っ赤な血は土という装飾をされ、

赤というよりは茶色や

黒色の方が近かった。


美月「…っ。」


どくどくどく。

どくどくどく。


心臓は波打つままに

少年と羽澄を水道のある場所へと

案内したのだった。

心臓の鼓動が落ち着くのは

それから暫くしてからのことで。


暑いから。

今日は暑かったから。

だから汗が噴き出しただけだ。

背中は5月とは思えないほどに

ぐっしょりと濡れそぼっていた。

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