第2話 始の躾

 央都おうとの中心地から離れた、オフィスビルが乱立する東央部とうおうぶ最上もがみ兄弟はその一角に複数のビルを所有しその中でもひときわ高いビルに自身の事務所と住居を構えていた。

 表向きの営業時間よりも早く帰ることになった朝は事務所よりも更に高い階にある居住区へと向かっていた。はじめはエレベーターで早々に行ってしまったが、朝は階段の使用しか許されていないため夏でも冬でも汗をかきながら上るのだ。

 「はぁ、はぁ、はぁ」

 何十段と駆け上がったせいで乱れた息を整え、フロアを抜けた先の部屋のカギを開けた。が、

 ガヂャン

 「はぁー」

 部屋の内側から掛けられたチェーンに思わず溜息が漏れる。犯人が判明しているだけに疲労がドッと押し寄せた。カバンから電話を取り出し『2』と登録された番号を呼び出すと2コールの後にチェーンが落ちた音が聞こえた。

 「お帰り、朝」

 「遅れました」

 既に風呂に入ったのか濡れた髪で朝を迎えた始は手元のスマホを操作しながら反対の手で手招きをした。

 「うっ、っ!?」

 恐る恐る近づいた朝の首にその手をかけ、軽く力を入れれば朝は膝から崩れ落ちた。咄嗟にパソコンなどが入ったカバンを庇ったため肘を強かに打ち、指先まで痺れが走り抜ける。

 「うわ痛そ」

 10人に聞いたら10人が「心が籠もっていない」と言うだろう声色だが、朝はそれどころでは無かった。度重なる始からの"躾"により首を絞められるとしばらく力が抜けるようにされてしまっていた体は、指1本も動かすことが出来ない。過去の"躾"とこれからされる"躾"への恐怖から呼吸が浅くなる。

 「ちゃんと覚えてるね、偉い偉い」

 始はそんな朝を嬉しそうに眺め、荷物でも扱うかのように肩に担いだ。玄関のチェーン等をかけ直してスタスタと中へ戻る。3つ上の階へ続く階段を上りきって突き当たり、始が「トレーニングルーム」と呼んでいる部屋の前で朝は下ろされた。まだ力は入らない。

 「今日は、基礎の復習をしようか。朝は良い子だから出来るよね?」

 「ひ、」

 「緊張しなくて大丈夫だよー。出来なくても出来るまでするから。兄さんにも言われたでしょ?」

 「あ、あ」

 「うんうん。頑張ろうね」



 「トレーニングルーム」はベッドと本棚、正方形の姿見があるだけの質素な部屋だ。しかし、ベッドの四隅には金属の輪が打ち込まれていたり本棚にはベルトや口輪が詰め込まれていたりと、この部屋が明るい目的で使われていないことは誰の目にも明らかだった。

 始は朝を扉の前へ置くと、深くベッドに腰掛けて朝が動けるようになるまで待った。その目には薄暗い興奮と喜びが浮かんでいる。朝は心底動きたくなかった。だが、ここでグズれば"躾"が厳しくなるだけだ。指先に力が宿り神経が繋がる感覚が戻るとすぐに立ち上がった。

 「よしよし。じゃあ、ここまでおいで」

 膝を叩いている始を前に、朝は胸の奥からカッと羞恥心と反抗心が湧いてくるのを感じた。だが、この部屋において自分は「犬」であり主人は始だ。これからなされる行為を思い、自然とカギの掛けられていない背後の扉が思い浮かぶ。

 「朝。聞こえなかった?ここまで、おいで」

 2度目の始の言葉で脳裏をよぎったのは、扉を開け逃げたとある夜のこと。そして

 「っ、」

 「あはは。そうそう。良い子だね」

 その後の忘れたくても忘れられない恐怖と痛みに支配された自分自身のことだった。

 膝と手を着いて重い手足を動かす。顔は床を見たまま、犬のような四つん這いの姿勢で部屋を横断した。

 「じゃ、ここに頭乗せて。顔は俺の方ね」

 指示された通りに揃えられている始の膝に頭を乗せる。その身長差から朝はキツイ中腰にならざるを得ないのだが、文句を言うことは出来ない。というより、この部屋で朝が出来ることは唯一つだけしかない。それは「始の指示に従うこと」。指示が無ければ呻くことも許されない。それに反発すればどうなるかは最上兄弟に拾われてから嫌というほど教えられていた。

 「今日は気分も良いし、朝が良い子なら酷いことはしないからね」

 そう言って慈しむように頭を撫でてくる始に、朝はなんとも言えない悔しさが込み上げた。始がこういう風になるのは、仕事が本当に上手くいった時か朝への「ちょっかい」が成功した時しかないのだ。今日は後者で、朝が背中から腰にかけての痛みに耐えている間、始はご機嫌にこう喋っていた。

 「朝もまだまだだねぇ。さっさと動けば、俺に城島の裏帳簿隠されなかったし、兄さんに怒られなかったのに。あーあ。兄さん、朝のこともっと嫌いになっちゃうねぇ」

 悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。

 始が妨害をしてくるのにはもう諦めがついているが、それが理由で統に嫌われるのは心底悔しかった。それに加えて、同じ男に生まれながらこのように圧倒的差をつけられ服従させられることは若い朝にとってこの上なく惨めで屈辱的だった。

 「頑張ったって結果が出ないと、ね?兄さんのこと好きなんでしょ・・・使えない犬のクセに」

 もしこの世に悪魔がいるとしたらこんな声だ。長いこと始の言葉に耐えていたが、最後の一言が朝の心を切り裂いた。

 「っぅ、ぅぅ゛、」

 「あーあ、泣いちゃった。折角酷いことしないって言ったのに」

 始は、ダランとしている朝の腕を引き上げながら足も使って器用にベッドへ転がした。

 「ギャン泣きしてたのに比べればマシだから、30分で許してあげる。兄さんには内緒だよ」

 馬乗りになり膝でそれぞれの腕を押し潰すように固定した朝の耳元で始は更に続けた。

 「このまま捨てちゃおっかな。こんなお荷物要らないもん。なにが出来るの?ねぇ?ここにいる意味あるの?兄さんは朝みたいな役立たず、一生好きにならないよ。てか、兄さんは人間を好きになるんだし、犬の分際で兄さんんのこと好きになるとか、はは。すっげぇ気色悪い」

 統によく似た目に射貫かれながら朝は言葉で殴られ続けた。折れた心が踏まれて砕けて粉々になるようだった。だが、あと30分もこれが続く。この部屋にある時計は始の腕時計だけで、時間の分からない朝にとってはいつ終わるとも知れない永遠の責め苦だった。

 「いない方が良かったかもね、朝」

 涙でぐちゃぐちゃに歪んだ視界に始を映しながら、朝は防衛本能からこの最上兄弟の下で働くことになった日を思い出していた。

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