溢れる愛を貴方に

猫助

プロローグ

第1話 忠犬

 最上もがみ兄弟と言えば、どのような情報でも正確に必ず手に入れることで有名な、央都おうと一の情報屋だった。兄のすべると弟のはじめが、それぞれ真っ当ではない父から受け継いだ地盤を基に持ち前の向上心と執念深さで今の地位を得たのだ。有力者でそれを知らない者はいなかったし、その存在を煙たがって兄弟を排除しようとした者のその後は聞かないとなれば、この兄弟が央都でどのように暴れているかは誰にも伝わるだろう。

 そんな兄弟には一人の忠犬がいた。周囲からは侮蔑を込めて「最上の犬」と呼ばれ、しかし兄弟の命令を実直に聞き遂行するその姿は正しく忠犬であった、その名前は





 「あさ

 地獄の底から響く声というのはこんな感じだろう、と思わせるような男の声が響いた。

 はい、とそれに臆せず返事をするのはまだ幼い少年であった。歳の頃は15、6だろうか。Yシャツにシンプルな黒のベストと柔らかいスラックスという服装が更にその幼さを際立たせていた。体のラインも薄く、その中性的な顔立ちから少女にも思えたが、男特有の低さがある声や緩やかな丘を描く喉が間違い無く少年であると語っていた。

 「お呼びですか、社長」

 「なんだこの報告書は」

 少年━朝を呼びつけた男は、折り曲げた指の節で手元の分厚いレポートの束を複数回叩いた。その目に僅かな怒りが滲んでいることに気が付いた朝は、頭の中で提出したレポートのコピーを捲る。

 「矢野建設会社は現在進行中のBプロジェクト、城島流通は先日の輸出量詐称発覚において隠蔽された各種報告書及び城島小善幹部の横領容疑についての調査結果ですが」

 「横領『容疑』だ?」

 「はい。まだ警察も動いていません」

 「動けない、の間違いだろう。確実な証拠が無いからな」

 この段階で震え上がらない人間はこの央都に一体何人いるのか。目の前にいる男はあの最上統であり、迂闊なことを言えば誇張無しに。相手を叩きのめすためだけにあるような恐ろしい声も瞳もこちらに向いている、どう足掻いてもマズいこの状況に朝は覚悟を決めた。

 「仰る通りです。しかし、証拠が出るような時期では依頼主の要望には間に合わないと思われ

 「その証拠を出すのが仕事だろうが!」

 実際に殴られたかのような衝撃が全身に走る。朝は怯みそうになる自分を抑えつけ、無理矢理目の前の男と向き合った。

 「この程度じゃ、そこらのガキのパシりと変わらないんだよ!しっかり飯食いたければしっかり働け!分かってんのか!」

 「も、申し訳ありませんでした!」

 「今すぐに動け。さっさと結果を出せ。働かざる者食うべからずだ。分かったか!」

 「承知しました!」

 深く頭を下げてから自分の机に戻った朝は、作りかけの書類をそのままに、カバンを引っ掴んで玄関へ急いだ。事務所と入口を仕切る白いドアのノブに手をかけ開くと、目の前に統とよく目元の似た男が立っていたので互いに驚いた。

 「わ、どうしたの」

 「副社長っ、申し訳ありません。今から城島流通の横領の証拠を

 「あ、それなら俺が押さえてきたよ」

 ほら、と男が令状のように見せてきたのは確かに城島流通幹部である城島小善の横領を証明する裏帳簿だった。

 「・・・・・・副社長、またですか」

 「なんのこと?俺は俺のお仕事をしただけだよ?それとも、朝は、俺に、逆らうの?」

 「・・・」

 一言ずつ強調して言う男は終始笑顔でありながらどこか得体の知れない恐ろしさがあった。統が生まれながらの帝王であるかのような屈強な風貌をしているのに対し、気を抜くとふっと静かに消えてしまうような儚い容貌のこの男こそ最上統の弟であり腹心の最上始である。目元以外の顔のパーツが余り似ていないのは腹違いの兄弟だからで、そうと知ると途端に二人が赤の他人のように感じられたが、恐ろしさという点においては血縁関係を強く感じさせた。事実、折り曲げた指の節で帳簿を叩く始を相手に朝は心臓がどんどん冷えていくような思いがした。

 「いえ、失礼致しました」

 「分かれば良いよ~」

 そんな始はひらひらと手を振ると事務所奥の統の元へ行ってしまった。その後ろ姿を見送った朝は、ひとまず自分の身が無事だったことに安心してカバンを元の場所に引っ掛けた。

 「兄さん、これ、朝のやってる案件の証拠ね。裏取りもバッチリ」

 「そうか。よくやったな」

 「でしょでしょ。もっと褒めても良いよ?」

 「なら未来カンパニーの契約書のコピーも持ってこい」

 「契約書のコピーはこれ、こっちは社長秘書がうっかり俺に渡しちゃった取引先一覧と来月末までのスケジュールのコピーね。はい、御照査下さい」

 「・・・流石だな始。お前の仕事ぶりには毎回驚かされる」

 「ありがとー」

 先程までの統とは同一人物と思えないほど穏やかな声で、端からはそうと見えづらいが確かな笑顔だった。既に何回も見ているハズの朝ですら、統の変わりっぷりこそ毎回驚かされる。

 始が統にそのような態度を取られているのは、血の繋がりよりも始が統の厳しい要望以上に応えることが出来るというのが大きい。血縁関係があろうと使えなければバッサリと切るのが最上統という男で、成功者だ。子どもながらに統のやり方に付いて行こうとする朝も決して無能では無かったが、技術的にも精神的にも詰めの甘さはどうにもならなかった。仮にもあの統の元にいる以上は、と欠点を補おうとはしているが度々出現する高い壁にしてやられる毎日だ。

 「じゃあ今日は俺、これで上がるね。朝もついでにいい?」

 「ダメだ。自分の食い扶持分は稼がせないと割りに合わねぇ。慈善事業じゃないんだ」

 「えぇ。でも、結構終わってるでしょ?なんなら俺もサポートに回るし」

 「そうやってるからアレは何時まで経っても無能なんだろ」

 「俺が面倒見るって言ったからさー、責任を果たしてるだけだよ」

 「なら躾直しておけ。まだ無駄吠えが多くてうるせぇ」

 メドゥーサも目を逸らしたくなるような冷たい目線を流されたのが見えて、朝の体は震え出しそうだった。

 「りょーかい。」

 続けて、決して嬉しくない始のニヤリとした悪い笑顔が向けられたのも見えて、朝の体はとうとう震えた。

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