白い軍勢3

「うーん! 今日も良い天気だ!」


 真正面から降り注ぐ朝日を浴びながら、ウラヌスが元気な声を出した。

 町の外に出て、地平線まで続く荒野を前にしたウラヌスの発言。荒れ果てた大地には草も木も疎らであり、視界は極めて良好だ。同じく町の外に出た冒険家達の姿も、地平線の向こうに行くまでよく見える。

 雲一つない空に浮かぶ、煌めく太陽の姿を遮るものもない。

 確かに良い天気だと、傍にいるスピカも思う。燦々と輝く朝の太陽の光は、浴びていて気持ちが良い。身体に活力を与え、今日も一日身体を力強く動かせるような気分にさせてくれる。

 ただ、一つ言うならば。


「朝日を浴びて元気なのは良いけど、そっちに向かって進むんじゃないよ。私らの行き先は太陽がある東じゃなくて南なんだから」


 ウラヌスの元気さを見ていると、そのまま衝動的に太陽へと突撃しそうな気がした。

 スピカが窘めるとウラヌスは「確かに!」と言いながらスピカの方へと振り返った。その返答は余程好意的に解釈しなければ行く気満々だった証。色んな意味で間一髪だったようで、スピカは口許を引き攣らせる。

 やはりコイツは色んな意味で信用ならない。かれこれ一月近く共に旅してきた『相棒』の言動に、スピカは項垂れて顔を横に振った。勿論この一面だけで全てにおいて頼りにならないと言う気は更々ない。むしろ何処からでも獣に見付かるこの環境下では、純粋に強いウラヌスの力は欠かせないものだ。

 が……平時に関しては、そこらの子供の方が頼れると思う。

 或いは、自分の傍にいる『依頼主』がとてもお行儀が良いだけなのか――――そう思いながらスピカは自分の隣に立つ、宝石都市クエンまでの護衛を頼んできた少女に視線を向けた。

 その少女の視線はウラヌスに釘付けだ。

 正確には、ウラヌスが背負っている荷物の方であるが。


「あ、あの、ウラヌスさん? 本当にそんなに荷物を持って、重くないの?」


「む? 全然平気だぞ! 難ならお前……えっと……………」


「フォーマルハウト。依頼主の名前ぐらい覚えなさいよ」


「そうそう! フォーマルハート! お前を抱えていく事も出来るぞ!」


「ふぇっ!? え、いえ、その……つ、疲れたら、頼むわ。うん」


 依頼主の少女ことフォーマルハウトは戸惑いながら、自分の足で歩く事を選んだ。

 恐らく、自らの身長の三倍近い高さの荷物を背負っているウラヌスを気遣ったのだろう。

 ウラヌスが背負う荷物の中身は、主に水と食糧だ。フォーマルハウトが持っていた全財産である銀貨五枚は、この水と食糧の購入費で殆どが消えている。

 特に水が高値だった。

 この辺りの地域は極めて乾燥している。動物達は乾燥に強い体質を持つ事で耐えているが、人間の身体はそうもいかない。というより人間は熱いと発汗という形で積極的に水分を出してしまうので、獣達と比べて水不足には弱い生き物だ。故に水は大量に持参する必要がある。

 しかしながら、水が必要なのは町で暮らす人々も同じ。井戸を掘る事である程度供給は確保しているが、決して潤沢なものではない。需要に対して供給が少なければ、価格が高騰するのは経済の基本原則。他の地域と比べ、水は極めて高価なのだ。

 だからといってケチる事は愚行である。これから向かう宝石都市クエンは、この町よりも更に乾燥した地域にある。道中で川や湖など自然の水場はまず見付からない。動物も少ないので血から水分を得る事も困難。それらを頼る前提だとまず破綻するので、必要な水は全て持参する計画を練らねばならない。

 宝石都市までの道のりは大人の足であれば二日程度。今回は幼いフォーマルハウトが一緒なので三日分に、少し予備を含めた分の水を持った。それなりの量になるのは当然である。

 ……ウラヌスが背負っている物資の半分以上が、ウラヌス用の食べ物であるが。ちなみに食べ物もそれなりに高価である。乾燥に強い品種とはいえ、安定して育てるため作物には貴重な水を与えないといけないので。


「そうか? もっと重みを掛けた方が鍛錬になりそうだから、疲れたら遠慮なく言ってほしいぞ!」


「……実際、疲れたり怪我したりしたらちゃんと言ってね? 旅の行程はあくまで全員健康な場合で組んでるから、不調があるのを隠されたら予定が乱れた理由が分からなくなる。あと獣とかから逃げる時、怪我してるって知らないと逃げる速さを見誤って助けられないかも知れない。これは気遣いじゃなくて、私らの命に関わるんだから言わないと駄目だからね?」


「う、うん。分かった……」


 スピカの説明に気圧されたのか。フォーマルハウトは後退りしながら、こくりと頷く。

 真面目に話を聞いてくれた、とはスピカも思う。だがハッキリ言って『信用』はしていない。

 正直、これだけ念入りに話しても初心者というのは無理をしがちだ。冒険家として様々な経験を積んだスピカはそれを知っている。だからその無理は旅の行程に織り込み済みである。本来二日で済む行程を、子供連れとはいえ一・五倍の三日という予定にしたのは、無理したフォーマルハウトが半日寝込んでも問題ないようにと考えた結果だ。

 長旅ならもう少し余裕や問題が起きた時の対策を考えるべきだが、今回の旅は普通なら二日程度の短いもの。この程度で大丈夫だとスピカは思う。仮に食糧や水が尽きても、一日ぐらいなら多少は無理も利く。

 完璧や万全なんてものは自然界ではあり得ない。だが可能な限り安全な行程にしたつもりである。これならばほぼ確実に、フォーマルハウトを故郷へと送れるだろう。


「それじゃ、そろそろ出発しよっか」


「おうともっ!」


「う、うん……行きましょう!」


 スピカの掛け声に合わせて、ウラヌスとフォーマルハウトも返事をする。

 三人の旅が始まった。

 ……………

 ………

 …

 尤も、その旅がすぐに一時中断する事になるとスピカは予想していたが。そしてその予想は的中する。


「はぁ……はぁ……」


 歩き出して二時間ほどで、フォーマルハウトの息が切れたのだ。


「む? どうした?」


「はぁ……その……えっと……」


「正直に話して。最初にそう言ったでしょ?」


 申し訳なさそうな表情を浮かべるフォーマルハウトに、大凡の事情を察したスピカはそう伝える。フォーマルハウトは息を整えながら、意を決したように表情を引き締め……


「疲れた!」


 ハッキリと、正直に告げた。

 ――――彼女のこの言葉を微笑ましさ以外の理由で笑ったり、或いは体力の乏しさを見下したりする輩は、大人しく町に引き籠もっておくべきだ。そうした人間は自然界の厳しさをまるで理解していない。

 自然の道というのは基本的に舗装されていない。精々獣が踏み固めた、獣道がある程度だ。そうした道は人間が舗装したものと違い凹凸が多く、ただ歩くだけでも体力を使う。

 ましてや相手は十歳の少女。野外環境を歩き慣れていない筈だ。むしろ二時間もよく歩いたものだと褒めるべきだろう。

 スピカとしても、一旦休憩を挟みたいと考える。まだまだ歩けるが、それは体力に余裕があるという意味にはならない。獣に襲われた場合、多少なりと余裕がなければ逃げる事も戦う事も出来なくなる。へとへとになるまで歩くという行為は、獰猛な獣達から見れば自分から弱りにいくようなものだ。


「(此処が休める場所かどうかは、また別問題な訳だけど)」


 まずは周囲を確認。何処までも広がる荒野には、乾燥に強い多肉植物や背の低い草が疎らに生えているだけ。地平線が見えるほど見晴らしが良く、獣が来てもすぐに発見出来るだろう。

 見晴らしの良さは大事だ。恐ろしい獣も、遥か遠くでその姿を見付ければ逃げるのは難しくない。何より獣自身から『やる気』がなくなる。捕食者からしても、狩りというのは体力を使う行動だ。切羽詰まっているなら兎も角、確実に失敗する状況で全力は出したくない。次の獲物を見付けた時、前回の狩りでへとへとになっていてはどうしようもないのだから。

 捕まえ難い立ち回りをして、相手のやる気を削ぐ。これも自然界で生き抜く策の一つと言えよう。開けた環境は、この策を実施するのに都合が良かった。

 それに、も悪くない。

 スピカ達の周りは今、草すらろくに生えていない荒廃ぶりだ。厳密にはいくらか生えているが、人が指で摘むのも大変なぐらい小さなものばかり。つまり土壌が非常に痩せている。

 数百メトルほど離れた位置には青々とした葉が茂る『草原』のような場所があるが、あそこで休憩する事は出来ない。何故ならそこには地中を潜る獰猛な動物……ナーガが生息しているからだ。ナーガは手足を持たない、蛇のような体躯をしたドラゴン。排泄する糞が栄養満点なため、そこには無数の植物が生えるが、これは獲物を引き付ける罠である。草の上を大きな動物が通ると、振動などから位置を把握し、襲い掛かってくる。ナーガは人間ぐらいなら二口で食べてしまうほど巨大な生物であり、おまけに地中から現れるため回避も難しい。近寄らないのが一番の対策だ。

 ちなみに、ナーガの存在がクエンなどこの辺りに存在する都市の発展を妨げている一因だったりする。都市を大きくするには人口が必要で、人口を増やすには食べ物が必要だ。つまり農地開拓が欠かせない。ところが農作物が育つ豊かな場所は、ナーガの生息地。鍬を持った農民は、耕した瞬間にナーガのお昼ごはんとなってしまう。肥料などで痩せた土地を改善するという手もあるが、作物が育つぐらい改善したところで、縄張りを持たないナーガの若い個体が「お。良い場所じゃん」と言わんばかりに現れる。手間を掛けて作り出した農地は、ナーガが現れた瞬間に奪われるという訳だ。

 退治出来れば良いのだが、変わった姿とはいえドラゴンの仲間。口から吐き出す炎は人間を五〜六人丸焼きにする。魚のように小さな鱗は矢どころか剣も弾き、人間の力では傷を負わせるのも一苦労だ。なんでも食うからか毒にも強く、割と手の打ちようがない。

 色々と厄介な生物だ。とはいえそれは都市を大きくしたい為政者や、仕事を求める市民の悩みである。冒険家であるスピカとしては、草原に近寄らなければ問題ない。


「うん、ここで一旦休憩にしよう」


「うむ! 分かった!」


 スピカは休憩を指示。ウラヌスは衰え知らずの元気さで返事をして、どかっとその場に胡座を掻いて座り込む。フォーマルハウトは無言のまま、へたり込むように座った。

 スピカもその場に座りつつ、辺りを見回す。休憩中だからといって、野生動物が襲ってこない保証はない。確かに今いる場所は猛獣が諦めやすい状況であるが、絶対無敵の守りではないのだ。露骨に油断すれば獣達はひっそりと迫り、がら空きの喉笛を噛み砕くだろう。

 故に気を抜く事は出来ない。とはいえピリピリするほど気を張る必要もなく、会話するぐらいの余裕はあるのだが。


「……あの、一つ、聞いても良い?」


「ん? なぁに?」


 話し掛けてきたフォーマルハウトに、スピカは優しく訊き返す。ついでに、ウラヌスが背負っている水筒(カグヤと呼ばれる植物で作ったもの。人が握るのに丁度良い太さ、中身が空洞、節で内部が区切られているという極めて便利な形態を持つ)を一本拝借。それをフォーマルハウトに手渡す。

 水をもらったフォーマルハウトは一回息を飲み、次いでその水を飲む。喉の乾きを癒やしたところで、先程より少し饒舌になった口振りで本題を切り出した。


「思ったより、動物って少ないのね。パパとママは外に出たら食べられちゃうって言ってたけど、全然会わないし」


「会い難い道を通ってるからね。そういう道は交易路として王国に公表されているの。で、たくさん人間が通ると弱い獣なんかは寄り付かなくなる。旅の中では貴重な食糧だから、みんな狩られちゃうからね。そして弱い獣がいなくなると、それを獲物にしている大きな獣もいなくなり、大きな獣を食べるヤバい獣も出なくなる」


「へぇー……あれ? なら交易路に沿って、町を伸ばせば良いんじゃないの? パパは獣が出るから町を拡張出来ないって言ってたけど、交易路には獣が出ないならいけそうね!」


 名案を閃いたと言わんばかりに、フォーマルハウトは満面の笑みを浮かべながら思い付きを語る。

 流石は大富豪の娘。町の開発事情について知っているとは、高等な教育を受けているらしい。そして持っている知識から新たな考えを生み出すのは、上に立つ者としてとても大切な才能だ。

 ただ、その閃きを手放しに褒める事は出来ないが。何故ならそんな簡単な案は既に大昔の人間がやっていて、残念ながら大失敗しているのだから。


「それはねぇ、確か二百年ぐらい前の王国の王様がやってんだよねー……」


「……王様が?」


「そう。さっきヤバい獣も近付かないって言ったけど、なんでだか覚えてる?」


「え? えっと、餌がないからで……あ」


 自分で言葉にして、フォーマルハウトは気付いたらしい。この時点で彼女は、二百年前にやらかした王様の何倍も賢いと言えるだろう。

 ヤバい獣が近付かないのは、獲物となる動物がいないから。

 言い換えれば獲物がいれば、交易路だろうとなんだろうと獣はやってくる。そしてヤバい獣というのは、大概にしてスライムやキマイラのような、人間を何人も食べてしまうような大型獣。つまり、獲物は人間でも構わない。

 交易路沿いに都市開拓を進めれば、当然そこに人間が住まう。それは猛獣達からすれば、安定して獲物が存在するという意味だ。よって交易路は攻撃を受けて壊滅。計画は数年で頓挫、という流れになる。

 付け加えると、交易路はあくまで獣達が現れ難いだけで、絶対に会わないで済む奇跡の道などではない。若者が新たな縄張りを探したり、或いは獲物を探して移動中だったり、そうした個体が稀に横断する。


「交易とか旅なら、交易路上にいるのは精々二日。しかも獣は大抵道を沿って歩く事はなくて横断するから、出会うなんて滅多にない。だから安全と言える。でも、住宅地とかになれば話は違う。年に一回家が滅茶苦茶に壊される場所になんて住めないでしょ?」


「うぅ……そっか……良い考えだと思ったけど」


「そんな簡単な話はないって知るだけでも成長よ。結局、人間は小さな事をコツコツと積み上げるしかない……ま、その積み上げも、全部どかんと壊されるかもだけど」


「え?」


 スピカが漏らした言葉に、フォーマルハウトは首を傾げる。

 知らないのも無理はない。この話は御伽噺の類なのだから。


「むかーしむかし、帝国や王国が出来るよりも前、今から三百年も昔の事。人間の世界は今より少しだけ発展していて、世界中に大きな都市を築いた国があったそうな」


「……何その話し方」


「昔話の話し方。で、その国なんだけど三百年前に滅んでしまいました。なんと恐ろしい大魔王が、魔物の軍勢を率いて国を滅茶苦茶に荒らし回ったのです。魔王はやがて海の向こうに姿を消しましたが、国は滅び、後には様々な小国が出来ましたとさ」


「要するに御伽噺じゃない」


「御伽噺よ。でもね、こういう話は大概元となった話があるもの。帝国の前に、大きな国が存在していたのは確かだし」


 呆れた様子のフォーマルハウトに、スピカは淡々と説明する。

 興味がない人ならば知りもしない話だが、今の御伽噺は所謂建国神話だ。何処の国にもあるものだが、その原型は国が違ってもほぼ同じ。つまり魔王が現れ、大国を滅ぼし、そこに小さな国が生まれた。それが自分達の国である……というもの。

 全くの創作ならば、こうも話の流れが同じになるとは考え辛い。発掘資料などからもかつて帝国や王国を股に掛ける大国が存在し、そしてある時期から急速に衰退。滅びた事が知られている。

 恐らく『元』となった出来事があったのだろう。大型ドラゴンの大量発生だとか、前例がないほどの寒さだとか、それに伴う飢饉だとか。歴史学の定説では火山噴火が有力だとスピカは聞いた事がある。他には、ほうき星が落ちてきた、という奇抜な説もあるらしい。


「魔王の正体がどんな存在にしろ、言える事は一つ。どんなに発展した文明でも、呆気なく滅びる時もあるという事よ。真面目に積み重ねたものだからって、崩れ落ちないとは限らない訳ね」


「……私、そういうの嫌い。努力が報われない感じがして」


「私も嫌いだけど、でも努力はした事は報われる保障にはならない。そこ履き違えると色々面倒な大人になっちゃうから、ちゃんと覚えておくのよ」


 窘めるようにスピカが話すと、フォーマルハウトはぷくーっと頬を膨らませた。話に納得出来ないという気持ちをありありと表明していて、なんとも微笑ましい。

 子供相手に少し厳しい話をし過ぎたかなと、スピカも反省する。子供は純真無垢に育てるべきとまでは思わないが、夢も希望も与えないのは流石によろしくないと考えているからだ。


「ほへー、魔王なんているのか。どんなに強い奴なのか、ワクワクするな!」


 ちなみに話に混ざらず、自分用の食糧を食べていたウラヌスは、御伽噺の国を滅ぼした魔王相手に目を輝かせていたが。

 あまりにも空気を読まない(そもそも魔王の元があるという話を理解していない。恐らく途中から理解出来なくなって話半分で理解している)ウラヌスの発言で、フォーマルハウトは少し呆れながらも笑う。話を変えるなら、今だろう。


「ま、そういう事もあったかも、という話よ。あと、御伽噺の魔王より余程恐ろしい生物がこの世にはいるし。確か、宝石都市の近くが生息地じゃなかったかしら」


「えっ。そんなのいるの!?」


「いるんだなーこれが。その名前は……」


 怯えるフォーマルハウトに、意地の悪い笑みを浮かべながら、おどろおどろしくスピカは名前を告げようとした。


「待て」


 ところがそれを、ウラヌスに止められる。

 ちょっとふざけただけじゃん、と言おうとして、しかしスピカはその言葉を飲み込んだ。ウラヌスの表情が、警戒心を露わにしたものだと気付いたがために。

 どうやら、何かを察知したらしい。


「……何?」


「何かが近付いてくる。あまり大きな感じはしないが、隠れる様子もない。敵のいない、肉食獣かも知れない」


「ひぅっ!?」


 ウラヌスの言葉に驚き、怯えたフォーマルハウトはスピカに抱き着く。これだと身動きが取り辛い、と言いたいが、震える十歳の少女を突き放すのは流石に気が引ける。

 いざという時離れ離れよりはマシかと考えて、スピカは少女を抱え込む。ウラヌスはある方角をじっと見つめていたので、スピカも同じ方を見つめた。

 そうすると、やがてウラヌスが察知した気配の主であろう存在が姿を現す。正確には遮蔽物も何もないので最初から見えていたが、近付いてきた事で輪郭が分かるようになった。

 それは人間だった。おまけにたった一人の。


「な、なんだ。人間じゃない……」


 フォーマルハウトは安堵したように息を吐く。だが、スピカとウラヌスの警戒は緩まない。

 スピカの場合、理由は二つある。一つは野盗の類である可能性が残るため。尤も見晴らしの良いこの地で、野盗が活動しているとは考え難い。一人だけというのも不自然だ。だからこの可能性は、あくまで念のため程度のもの。

 しかしもう一つの……恐らくウラヌスも気にしている理由は、その人間に可能性が高いから。

 現れた人物の歩き方が妙なのだ。身体が左右に揺れていて、近付いてくる速さも遅いように感じる。健康的な人間の歩き方ではない。飢えや乾きで弱っている可能性もあるが、此処はたった二日で都市を行き来出来る交易路だ。実は荷物を一個も持っていなくとも、なんとかなってしまう事もなくはない。普通の旅支度をしていればそこまで疲弊するとは思えなかった。

 だとすると怪我をしている可能性が一番高い。

 スピカのその予想は、現れた人物の姿がハッキリと見えてきた時に確信へと変わった。


「ウラヌス! あの人を抱えてこっちに連れてきて!」


「うむ!」


 スピカの指示を受け、ウラヌスが颯爽と駆け出す。現れた人物は人間離れした速さで近付くウラヌスに驚いた様子を見せたが、ウラヌスはそんなのはお構いなし。ひょいっと抱えるや、行きと同じぐらい颯爽とスピカの下に戻ってきた。

 ウラヌスが連れ帰ってきたのは、一人の中年男性。小太りで、如何にも富豪らしい豪勢な服と宝石を身に着けている。

 しかしその姿はボロボロだ。服は至るところが土埃で汚れ、裾などは千切れている。頬や手の甲には傷が無数に出来ていて、かなり酷い目に遭ったのが窺い知れた。何より金持ちが単身危険な自然界を歩いているという状況がおかしい。行商に行くにしろ旅行するにしろ、冒険家の護衛を二〜三人は付けておくものだ。

 何かがあったらしい。幸いにしてこの富豪、怪我はしているが命に別状はなさそうだ。ふらふらしていたのは単純な疲労が原因だと思われる。故にスピカは遠慮なく問う。


「どうしたの? 何があったの?」


「う、うぅ……ま、町が……町が獣に襲われて……」


「町が獣に襲われた? 一体何に?」


 町というのは、この先にある宝石都市クエンの事か。そのクエンにどんな獣が現れたというのか。

 疑問が胸を渦巻く。それと同時に嫌な予感と心当たりがふつふつと湧き出していた。

 何故ならスピカは、その生物についてフォーマルハウトに話そうとしていたのだから。そんな馬鹿なと頭の中で否定しようとして、けれども宝石都市クエンを襲うような生物など他に考えられない。

 そんなスピカの心情を、傷付いた富豪の男が知る由もない。彼はただ、聞かれた事に答えるのみ。

 その口はハッキリと告げた。


「レギオン……レギオン、が、来た……!」


 御伽噺の魔王よりも、遥かに危険な生命体の名を――――

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