異郷の獣王達5
黄金に輝く、美しい毛並み。
スピカのざっと五倍以上……十メトルはあるであろう巨躯は、屈強な筋肉により引き締まっている。しかし決して筋肉達磨とでも言うような、不格好な肉の付き方はしていない。細く、しなやかな、ある種女性的な柔らかさを感じる。背中からは二本の、恐らく肩甲骨が盛り上がって出来た『背ビレ』が生えている。或いはその幅広な形から、翼を想起する者もいるだろう。
頭部の周りにあるのは、雄々しさを感じさせる
四肢の先にある爪は鋭く、これもまた獰猛さを表す。だが瞳を見た後、かの生物が偉大だという感覚を抱いた後には、この爪にも恐怖は感じられない。それどころか研ぎ澄まされたそれは宝石が如く魅力を感じさせる。もしも振り下ろされたなら、大半の者が美しさに魅了され、顔面の肉に食い込むまで見惚れてしまうに違いない。
身体のあらゆる部分が美しく、完璧な作りをしている。強いて不気味さを感じるとしたら、尻尾の先の『房』が、蛇の頭のように見える点か。その不気味な頭のお陰で、かの生物を見た者は正気を取り戻し、そして自分の置かれた状況に絶望する。
「キマイラ……なんで、コイツがこんなところに……!?」
同じく絶望したスピカは、思わずその生物の名を呟いた。
キマイラ。それはとある地で生態系の頂点に君臨する、恐るべき獅子の一種だ。
性格は獰猛の一言に尽きる。自分と同じ大きさのドラゴンにも躊躇いなく襲い掛かり、食べてしまう事も珍しくないという。その強さはたった一体で村はおろか、武装した十数名の名高い騎士を一瞬で皆殺しにした記録もあるほどだ。人間がまともに戦って勝てる相手ではない。
何より一番の問題は、スピカはこの生物について殆ど知らないという事。
名前や大凡の強さは書物に書かれていた。しかしそれ以上の情報はほぼなく、どのような狩りをするのか、という記述もない。というのもこのキマイラ、人間の勢力圏での目撃例が殆どない珍獣中の珍獣なのだから。騎士十数人を蹴散らす強さというのも、現地に暮らす亜人エルフからの伝聞を書物の筆者が翻訳したもの。実際の強さは未知数である。
願望を語るならば、実物はそこまで強くないと期待したいのだが……実物を目にしたからスピカには分かる。コイツは噂以上の実力者だ。騎士十数人を皆殺しにするなど、恐らく朝飯前の所業だろう。
そんな化け物が、ほんの五メトルほどの距離まで迫っている。恐らく、スピカ達が歩いていた場所目掛けて襲い掛かってきたのだ。
ウラヌスが突き飛ばさなければ、今頃は……
「大丈夫か!?」
そのウラヌスから声を掛けられ、再び唖然としていたスピカは我を取り戻す。そして気にしなければならない事も思い出す。
自分は無事だ。では、自分を突き飛ばしたウラヌスは無事なのか? こうして話し掛けてくる以上、生きてはいる。だが……
最悪を考えて、スピカは声がした方を見遣る。そこにいたウラヌスはしっかりと二本の足で立ち、堂々たる姿をスピカに見せた。
ただし、二の腕全体に広がる大きな切り傷、そこから流す血を滴らせながら、右腕がだらんと垂れ下がっていたが。
「ウラヌス! アンタ、まさか……」
「うむ。先程の奇襲で腕をやられた。ちょっと脱臼した程度だから、大した問題じゃないぞ」
「大問題でしょ! それに血もそんな出て……!」
つらつらと出てくる叱責。その度に、スピカは自分の胸がきゅうっと締め付けられる。
何故ウラヌスは怪我をしたのか?
考えるまでもない。まともに周りを見ていなかったスピカを助けるため、突き飛ばすなんて余計な行動を取ったから逃げ遅れたのだ。それをしなければ、恐らくウラヌスは怪我なんてしていない。
全部、自分の所為なのだ。それを自覚して心が痛まないほど、スピカは無感情な人間ではない。
「そんな事より、これからどうする? 逃げるのか?」
そしてウラヌスの言葉が、ますます自己嫌悪を強める。
この状況に置かれても、ウラヌスは自分の考えを訊いてくる。
普通、自分が怪我した要因に今後の方針を相談なんてしない。見捨てるか、無視するか。されどウラヌスは悪態一つ吐かず、今すべき最善の決断をしていた。
対して自分は、うじうじと後悔するばかり。
過去を引きずっている場合ではない。『今』、目の前にある危機をどうにかしなければ、後悔をどうにかする機会すら潰えてしまうのだ。気持ちを奮い立たせ、なんとかスピカは自分の意識を待ち直す。
とはいえ、ではこの状況をどう打開すべきか?
圧倒的な力を有す捕食者を前にして、何をすれば生き残れるのだろうか――――
「(落ち着け……まずは観察しないと……!)」
興奮する自分の頭に言い聞かせるように心の中で呟きながら、スピカはキマイラを見据えた。
キマイラの方もスピカ達を見つめている。今正に再び襲い掛かろうとしている、という訳ではなく、スピカと同じようにこちらを観察しているようだ。
恐らく、キマイラはウラヌスを警戒している。奇襲攻撃が失敗に終わったのはウラヌスがいたからだ。スライムのようにろくな知性もない軟体動物ならば兎も角、キマイラは大きくて立派な頭を持った獣。その見た目に違わず、知能はかなり高いとスピカは書物で読んだ覚えがある。失敗の原因を理解したとしてもおかしくない。勿論それはそれで極めて厄介な性質だが、猶予があるという意味では有り難い。
幸運にも得られた猶予を用いて思考すれば、一つ疑問が浮かんだ。
「(コイツ、どうやって私達を奇襲したの?)」
確かにあの時のスピカは、お世辞にも周りの警戒が出来ていた訳ではない。しかしながらそれは足下など、見えない場所に関する話だ。視界内の景色ぐらいはちゃんと見ていたつもりである。
そして此処は地平線まで続くだだっ広い草原地帯。草丈は腰の辺りまでしかなく、見晴らしは極めて良い。体長十メトルの猛獣がいれば、何百メトル離れていようと確認出来た筈だ。
なのにどうしてコイツの姿は、今まで見えなかったのか?
草むらに隠れていた? あり得ない。頭の大きさだけでスピカ達の背丈ほどはありそうなのだから、どれだけ頑張ってしゃがもうと丸見えだ。
では遥か遠方から、猛烈な速さで駆けてきたのだろうか? これも考えられない。確かに猛獣達の駆ける速さは人間とは比べようもなく優れているが、だからといって物事には限度がある。ウラヌスが気付いてから突き飛ばすまでの時間から考えるに、ほんの一〜二秒で距離を詰めてきた筈。数百メトルの距離を二秒で駆け抜けるなんて、いくらなんでも速過ぎる。
何か、こちらの目を欺く力を使った筈だ。一体どんな力を使ったのか――――
考えようとするスピカだったが、流石にその答えが出てくるまでキマイラは待ってくれない。
「グゥウルルルル……!」
喉の奥から響く重低音の鳴き声。本能的に畏怖の念を抱かせる声と共に、キマイラは前足を高く持ち上げた。
どうするつもりなのかは明白である。今度はスピカも、ちゃんと動ける。
キマイラが前足を振り下ろして攻撃してきた瞬間、スピカは横に跳んでこれを回避した。ウラヌスの方も受け止めようとはせず、怪我をしているとは思えない軽やかな跳躍で避ける。
強いて問題を挙げるならスピカとウラヌスの距離が離れてしまった事。これではこっそり作戦会議も出来ないが、元より獣相手にこそこそと話す必要はない。大きな声で呼び掛ければ意思の疎通は十分可能だ。
「ウラヌス! 一旦逃げるよ!」
「分かった! 分が悪いようだから仕方ない!」
スピカが逃走を指示すれば、ウラヌスはすんなり受け入れた。一緒に旅をすると決めた際、さらっと交わした「私の指示には従え」という約束は忘れていないようだ。
行動方針を統一出来たなら、次は具体的にどうするか。つまり、何処に逃げるべきかを決めねばならない。
例えば、つい先程までいた村の方。
「(あっちに戻るのは論外……!)」
村人を囮にして自分達は逃げる、というのは『合理的』な作戦かも知れない。少なくとも、自分が助かるという意味では。キマイラの心など全く読めないが、獣が人間を襲う理由など喰うためぐらいなものである。自分達以外の人間を差し出せば、キマイラは極めて寛大に見逃してくれるだろう。
しかしそれは人間として、超えてはならない一線だ。いくら合理的に振る舞うのが自然界で生き抜くコツであり、そうありたいとスピカも思っているとはいえ、ものには限度がある。
仮に、スピカに人間の心がなかったとして……それでもやはり村に逃げるのは却下だ。ハッキリ言って、訓練を受けていない一般人など烏合の衆と変わらない。戦力としては全く期待出来ず、むしろ助けを求める人に捕まって身動きが取れなくなったり、厄介事を持ち込んだ輩として現状を無視して糾弾されたりする可能性もある。押し付けてしまえば無事逃亡成功、なんて考え自体が甘い目論見だ。
加えてキマイラからひしひしと感じる力の大きさを思えば、村にある建物の残骸など簡単に蹴散らす。吹き飛ばされた瓦礫は矢の如く勢いで飛び、鋭い木片は容易く人体を貫くだろう。キマイラの攻撃は目の前の獲物に向かうと予想出来るが、蹴り飛ばされた破片の行く先など予測しようがない。そんな真っ只中に身を置くなど、他人を巻き込んだ自害というものである。
合理的に考えても、感情的に考えても、村に戻るという選択肢はない。ならば向かうべきは、村とは真逆の方向だ。
「こっちよ!」
「おう!」
スピカが走り出し、ウラヌスもその後を追う。
無論、キマイラも。
「グゴアッ!」
キマイラが咆哮と共に駆け出し、巨大な爪の備わった前足を振るってくる。
今度もスピカは警戒していたため、なんとか攻撃を躱す。とはいえキマイラの腕力は凄まじく、前足を叩き付けた大地から、スピカの身体が浮かび上がるほどの衝撃が伝わってきた。
まともに受けたなら、恐らく一撃で挽肉にされるだろう。
スライムと生身でやり合ったウラヌスでも、この一撃は流石に耐えられまい。万全なら受け流す事は出来たかも知れないが、今の彼女はスピカの不注意により負傷中だ。ウラヌス自身それは分かっているようで、スライムの時に見せた勇猛さは少なからず鳴りを潜めている。常にスピカの傍にいて、回避に専念していた。
余裕があるとは言い難いが、頭が真っ白になるほど必死でもない。
「(うん。避けられはする……ちゃんと見ていれば)」
キマイラの攻撃を避けつつ、スピカは観察を続けていた。情報から突破口を得るために。
そして早速、一つの希望を見付ける。
それはキマイラの攻撃が『大振り』である点だ。一撃の力は人間を肉片に変えるほどの威力であるが、予備動作が大きく、攻撃が何処を狙っているのか分かりやすい。
恐らく、これは大物を仕留めるための技だ。相手が巨大であれば俊敏な動きは難しくなり、大振りな攻撃でも当てやすい。反面皮膚や筋肉が分厚く、生半可な攻撃は通らない。故に大物相手には大きく、衝撃が奥まで届く攻撃が望ましいと言える。
キマイラの身体の大きさから考えるに、普段の獲物は相当大きな生物の筈だ。詳細は不明だが、自分と同じぐらいの大きさの獣を好んで獲物としているのかも知れない。対してスピカ達はキマイラと比べ遥かに小さく、最高速度では劣るものの、機敏に動き回れる。これに大振りな攻撃をしてもまず当たらないのに、それでもやってしまうのは、キマイラに小物狩りの経験がないからだろう。
回避を続けるだけなら、そう難しくはない。とはいえ問題は二つある。
一つは相手が獣である事。つまり生物であり、上手くいかない出来事に試行錯誤を行うだけの頭がある。大振りな攻撃が当たらないとなれば、隙のない小さな攻撃への切り替えは試みる筈だ。当然慣れない攻撃方法なので動きはぎこちなく、これもまた回避しやすいだろうが……繰り返せば技は研ぎ澄まされ、鋭い一撃と化す。恐らく、そう何時までも避け続けられるものではない。
そして二つ目の、一番の問題は。
「(なんでコイツの存在に、今の今まで気付かなかったのか……!)」
攻撃は大振り。駆ける速さも、スピカ達より上とはいえ、ある意味身体の大きさ通り。少なくとも地平線の彼方から、ちょっと余所見した瞬間に肉薄してくるような速さではない。
まだ隠している技がある筈。その技を見破らなければ、この猛獣から逃れる事は困難だ。果たして一体どんな技を使うのか……
何か兆候があるのではないか。そう思い観察していたスピカだったが、答えに気付くよりも前にキマイラがそれを実践してみせた。
ただし、見せられてもスピカにはまるで理解出来なかったが。
何分キマイラの姿が光り輝くなんて、予想もしていなかったのだから。
「――――え?」
思わずスピカは瞬きをする。野生動物に襲われている最中なのに、あまりにも間抜けな行動だった。
そうこうしているうちに、キマイラの放つ光は強くなる。あまりの眩しさに思わずスピカは目を細め、そして気付く。
キマイラの体毛の光り方が、西日のような明るさであると。
「(クソッ! コイツ、西日を反射しているのか!)」
光の源が分かるのと共に、スピカ達への奇襲攻撃が成功した理由も判明する。
キマイラはその美しい体毛で太陽光を反射し、自分の身体を煌めかせられる。無論これだけではキラキラ光って目立つだけだ。しかし光の中であれば、逆に自分の影……輪郭を消し去る事が出来る。
恐らくキマイラは西の方からスピカ達に迫っていた。目視でそれを確認していたスピカだったが、光り輝くキマイラの姿は西日に隠れてろくに見えない。結果その姿を見落とし、襲われたのだろう。
今になって光り出したのは、動き回っているうちに西日を浴びやすい立ち位置になったからか。果たして意図していたかは不明だが、その効果は絶大で、スピカは驚きと困惑から足を止めてしまった。
そしてキマイラは小さく構えた腕を、素早く前に出す。
最悪の時に、最悪の攻撃だ。いや、だからこそ繰り出したのか。小さな構えから繰り出した速度重視の一撃とはいえ、例えるならば人間が羽虫を叩くように、当たれば人間にとっては致命的な打撃となるだろう。どうにか躱したいが、一度止まった足を動かすには少しばかり時間が必要だ。残念ながらその時間はなさそうである。
「(あー、クソっ。ほんの一瞬目眩ましを受けたばかりに……)」
一瞬でも晒してしまった隙を突かれ、命を落とす。
悔やんでも悔やみきれない死に方であるが、しかし自然界における『死』というのはこんなものだ。ほんの一瞬の失敗が命に関わる。
人間からすればあまりにも理不尽な世界だが、むしろ人間が享受している安全な暮らしがおかしいのだ。生き物達にとって死とは身近なもの。迫りくる全ての死を跳ね除けたものだけが、生き延びて子孫を残す。大半はそのまま死ぬ。だから虫は何百も卵を生み、ネズミは年に何度も子を作るのだ。
人間が特別に扱われる事はない。自然界に身を置いた時点で、人間もまた一つの生物でしかない。うっかりだろうがなんだろうが、死ぬ時は死ぬ。
しかし諦めるのはまだ早い。
まだ自分は死んでいない。キマイラの攻撃は恐らく凄まじい威力だろう。だが向こうにとってもこれは慣れない一撃だ。力加減を誤っている可能性は十分にある。
避けられないなら防御を固める。腕の骨や肋が折れるかも知れないが、それで済めば御の字。生きていればまだなんとか出来るかも知れない――――
瞬時に下した判断。だが、スピカのその決断が意味を成す事はない。
スピカとキマイラの間に割り込む者が、一人だけいるからだ。
「う、ウラぅぐっ!?」
その者の名前を呼ぼうとして、しかし最後まで言い切る前にスピカの胸に衝撃が走る。
ウラヌスが自分を突き飛ばしたのだと、すぐに分かった。
スピカが顔を上げれば、スピカのいた位置にウラヌスが立っていた。そこにキマイラの腕が迫るも、ウラヌスに退く素振りはない。全く臆する事なくキマイラと向き合い、それどころか無事な方の腕を構えているではないか。顔には獰猛な笑みまで浮かべている。
どうやら彼女は、この猛獣と真っ向勝負をするつもりらしい。
無謀を通り越した大勝負。逃げてと叫ぼうとするが、スピカの口よりもウラヌスとキマイラの方がずっと早い。二者は間もなく激突する。
だが、一人と一体よりも、更に速いモノもいた。
「ピィァアアアアアアアアッ!」
空から聞こえてきた悲鳴染みた叫びに、誰もが視線を向けるのだった。
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