君臨する軟体5

 人間が大自然の中で生き抜くのに必要なものは何か?

 力だ、と答えるモノがいたとしよう。そいつはどうしようもなく。自然界の中で恐ろしいものは、人間を直接喰らう獣ばかりではない。一口齧るだけで身体が痺れて動けなくなる果実、鎧の隙間から忍び込む爪先ほどに小さな毒虫、足を入れるだけで不治の病を患う沼、食べると口の中が爛れるネズミ……

 ドラゴンすら討伐する屈強な冒険家は歴史上幾度も現れたが、いずれも最期は病や飢えで命を落としている。大体強くなければ生き残れないのなら、今頃虫も花も一匹残らず駆逐されているだろう。力だと答える連中はそうした生き物を無意識に見下しているのだ。巨大なドラゴンなんかより、虫や植物の方が圧倒的に繁栄しているのに。

 では何が必要か? そもそも複雑怪奇な自然界の『弱点』を一言で纏めようとする事自体が愚かさの極みであるが、人間が生き抜くために最も必要なものを挙げるとすれば――――知恵だとスピカは答える。

 例えば今、スピカ達に迫りくるスライム。猛然とした勢いで動くそいつと、真正面からぶつかり合うのは愚行を通り越して自殺願望だ。よって取るべき方針は逃走であるが、ただ追い駆けっこするだけでは勝機が薄い。


「ふんっ!」


 そこでスピカは腰にぶら下げた袋の一つから、掌ほどの大きさの玉を取り出す。その玉をスピカは大地に叩き付けた。

 瞬間、玉は勢いよく破裂。大量の粉塵を撒き散らす!

 これは煙玉と呼ばれる道具だ。煙の成分は人畜無害な、本当にただの煙幕。しかし半径二メトルほどに一瞬で広がり、相手の視界を塞いでくれる。


「プギ、ジュオッ!」


 スライムも『獲物』の姿が一瞬で消えた事に驚いたのか、僅かに身体を強張らせた――――が、そのまま突撃を続行。目眩ましだと理解したというより、まだそこにいるという本能的確信による行動だろう。

 実際、煙幕を展開しても何時までもそこに留まっていては意味がない。スピカはウラヌスを抱え、素早くこの場から跳んだ。スライムの突撃は空振りに終わり、一先ず最悪の事態は切り抜ける。

 尤も、スライムの猛烈な突進で生じた風により、煙幕は吹き飛ばされてしまったが。早いと思う反面、役割は果たしたとスピカは納得する。終わった事に固執するのもまた、自然界では死を招く危険な考え方。長年冒険家をしてきたスピカは思考の切り替えも心得ている。

 悪態を吐く暇があるのなら、突撃によりスライムの体勢が崩れている今、逃げ出す方が優先だ。


「逃げるよ!」


「何! 戦士が背を向けるなどと――――」


 逃げる事を提案すれば、ウラヌスは反対の意見を述べようとしてくる。

 しかしその回答は予測済み。何しろ殺されそうになっても、スピカに助けを求めなかったぐらいなのだ。死より名誉を重んじる考え方なのは簡単に想像が付く。

 故にスピカはウラヌスの話など聞かず、彼女を抱えるように持って有無を言わさず逃げ出した。少女的な見た目の割にずしりとした重さがあるが、持てないほどではない。すたこらさっさと走る事は難しくなかった。


「ぬぉ!? な、何故逃げる!? 戦いがそこにあるのだぞーっ!」


 抗議の声を上げるウラヌスを無視して、スピカは全力疾走。ひたすらスライムから逃げる。

 このまま振り切れれば一番良いのだが……そうもいかない。

 バキバキと落ち葉や枯れ枝を踏み潰し、猛然と追い駆けてくる気配がある。素早く後ろを振り返れば、滑るように大地を疾走するスライムの姿が見えた。

 音から判断するに、段々と距離が詰まってきているらしい。人間であるスピカは倒木や根があれば跳び越したり潜ったりしなければならないのに対し、巨大で力の強いスライムは直進して全てを吹き飛ばす。何より単純にスピカ達よりも足が速い。どう考えても振り切るのは無理だ。

 この状況で生き延びるには、二つの方法があるだろう。

 一つは帝都まで逃げ込む事。スライムは強大で恐ろしい生物であるが、決して無敵の生命体ではない。帝都の城壁に備え付けられた大砲で攻撃し、弱ったところを兵士百人で攻めれば……退却には追い込める筈だ。とんでもない怪物を連れてきたなと糾弾され、恐らくスピカ達は(処刑の通知が出されるという形で)帝都への立ち入りが禁止されるだろうが、自分の命が助かるのだから形振り構ってはいられない。

 しかしその作戦は無理だ。スピカが帝都から出立し、既に半日ほどの時間が流れている。いくら慎重な歩みで進んだ道のりとはいえ、そんな長距離を走り続ける体力はスピカにはない。何より、恐らく帝都に辿り着く遥か手前でスライムに捕まる。逃げ続けても未来はなさそうだ。

 だとすると二つ目の作戦――――どうにかしてスライムを撃退するしかない。撃退してしまえば追われる心配はない。なんと天才的で確実な作戦なのだろうか。

 一つこの作戦の欠点を挙げるなら、そんなものがあるなら最初からやっている事だけだ。


「(考えなさいスピカ! 自然界相手に人間が圧倒的優位を持っているのが知性! 頭を使って、奴を撃退する!)」


 自分に言い聞かせるように頭の中で叫びながら、思考を巡らせるスピカ。

 されどスライムはスピカを見逃してはくれず。


「プ、ゥウウウウウッ」


 スライムが

 生物なのだからスライムだって呼吸ぐらいするだろう――――等とスピカは一瞬でも思う事はなかった。彼女はスライムがどんな生物であるかを知っている。その大きな息継ぎの意味するところも知っていた。

 だからこそスピカは真横に跳んだ。

 人間の身体は横への跳躍に向いた作りをしていない。勢いよく跳べば着地に失敗し、転倒してしまうのは道理。スピカの身体もその道理に従い転んでしまう。

 転べば当然前には進めない。ならば何故スピカは横に跳んだのか。その答えは、それが一番『マシ』な選択だったから。

 もしも避けなければ、スライムが『眉間』から射出した一撃を受けていたに違いない。


「プジャゥッ!」


 スライムの額に穴が開くのと同時に、スライムは頭突きでもするかのように頭を上下に激しく動かす。すると額の穴から塊が放たれる。

 額から出てきたものは粘液だった。

 それも巨大な、砲弾のような粘液である。吐き出されたものはスピカがいた場所を通り過ぎ、やがて地面に着弾する。

 途端、地面が爆発した。

 ちょっと地面が弾けた、なんて規模ではない。土が数メトルは浮かび上がり、衝撃波がスピカ達の身体を転がす。肺から空気が追い出され、息も満足に出来やしない。

 それほどの衝撃を生み出す力だ。見れば大地に大きな窪みが出来上がっており、さながら(スピカは噂でしかその威力は聞いた事がないが)大砲の如し。直撃したなら、今頃スピカもウラヌスも粉々の肉片と化していただろう。


「こ、これは……!」


 これには流石のウラヌスも驚いた様子だ。

 しかし恐慌状態に陥ってはいない。自称とはいえ流石は戦士と言うべきか。そしてその状況はスピカにとっても都合が良い。


「兎に角今は逃げるよ! あんな化け物とまともに戦っても勝ち目なんてないんだから!」


「う、うむ。流石にこれは、良くない。一度体勢を立て直そう!」


 改めて説得すれば、今度のウラヌスは素直に頷いた。自分の足で立ち上がり、くるりと背を向ける。

 スピカもさっさと走り出そうとする。このまま二手に分かれれば、ウラヌスとスピカのどちらかをスライムは追うだろう。恐らく追われるのはスピカ。そうなればウラヌスは安全を確保出来るだろう。

 それで良い。どうせ撃退するなら一人の方が気楽だ。今までスピカはそうやって生きてきたのだから。

 スピカがウラヌスの顔を見れば、ウラヌスはこくりと頷いた。どうやら彼女も同じ事を考えていたらしい。もしかするとスライムはウラヌスを追うかも知れないが、その時は恨みっこなしだ……言外にその気持ちを伝えようと、スピカはウラヌスの瞳をしばし見つめる。

 そしてスピカとウラヌスは同時に走り出す。

 ……ウラヌスはスピカの真横にぴたりと付いてきた。気付いたスピカが右へ左へ動いても、逃さないとばかりに。


「ちょ、ちょぉぉぉぉ!? なんでアンタ一緒に来てんの!?」


「うむ! 一人では奴を倒せない! だが二人ならきっと出来る! 確かにお前の気持ちは受け取った!」


「逆よ逆! 私の心を捏造すんなッ!」


 返ってきたのは、全く当たっていない答え。二人の気持ちは何一つ通じていなかった。というより、あれだけ力の差を見せ付けられたのに、未だウラヌスはスライムを倒す気満々な様子だ。それが出来ると信じてもいる。

 ここでようやくスピカは理解した。

 このウラヌスという少女、結構な自信家かつお馬鹿であると。


「プジュアアァアッ!」


 当然スライムは二人の背中を追ってくる。かの軟体動物は今頃ほくそ笑んでいるだろう。

 今からでも二手に分かれるべきかともスピカは思う。しかしこのウラヌスお馬鹿はどうにも納得してくれそうにない。無駄話で時間を潰すぐらいなら、諦めて次善策に取り掛かるべきか。

 つまりスライムを撃退する。


「ああクソッ! 直接対決なんてしても勝ち目はないし、作戦練らないと駄目か……!」


「作戦か! どうする!? 我ら二人の力を合わせ、奴の身体を拳で打ち抜くか!」


「だから直接戦闘したって勝ち目はないっつってんでしょうが! あのぬめりは格上の力すら逸らすんだから無理! そもそも二人になったからって何が出来ると――――」


 未だ好戦的意識を剥き出しにするウラヌスに、スピカは強い言葉で戒めようとする。だがその言葉は途切れた。

 二人になったからって何が出来る?

 いや、出来る事は山ほどある。正直分の悪い賭けだと思うし、そもそもウラヌスの実力という『不確定要素』に頼るのは、合理的な考えを優先したいスピカとしては癪だ。

 しかし癪だの不確定要素だの言うのが、既に合理的でない。

 現状思い付く中で、一番成功率の高い方法なのだ。それを迷いなく選ぶのが、一番合理的というもの。何より他の作戦があるなら兎も角、ろくな案もないのだから、それに反発するのはワガママ以下の行いである。

 強いて切り捨てる要素を挙げるとするなら、このウラヌスという少女が自分を見捨てて逃げ出す可能性がある点だが……その心配はまずいらないだろう。彼女の言動を鑑みるに、それこそ呆れるほどに性根が真っ直ぐなようなのだから。


「……一つ、一つだけ作戦を考え付いた」


「おっ。なんだ? どうするんだ?」


「やる事は簡単。私が誘導するから、アンタは隙を見てある場所でアイツをどつく。簡単でしょ?」


「おお、簡単だな! それで、何処でやるんだ?」


 倒す方法があると聞いたウラヌスは、目に見えて活力を取り戻す。期待に満ちた瞳がスピカをじっと見つめてきた。

 スピカはその期待に対し、にやりと不敵に笑ってみせる。


「水場だよ。自分が一番強いと思ってるアイツを、水の中に叩き落としてやる」


 そしてまるで子供のイタズラのような作戦を、臆面もなく語るのだった。

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