君臨する軟体4
跳び退きながらも、スピカはその生物に素早く目を向けた。
焚き火があった場所の中心部分。そこにいたのは体長三メートルはあろうかという、巨大な『ナメクジ』だった。
何処をどう見てもナメクジだ。大きさと身体の側面に大きな『ヒダ』がある事、そして遠目からでも分かるぐらい分厚い粘膜を纏っている事以外、畑で農家達に踏み潰されている害虫と全く同じ。頭の先には二本の角のようなものが生え、その先端にある目玉がギョロギョロと周囲を見渡している。
冒険家であるスピカはこの生物の名を知っている。それ故にコイツにだけは会いたくなかったと、今、心の底から思う。
この生物の名はスライム。
帝都の周りを覆う森林地帯の生態系の頂点に君臨する、最強最悪の捕食者だ。
「ああもうっ! やっぱりこんな奴さっさと見捨てとけば良かったぁ!」
離れた位置に着地した後、スピカは自分の選択を心から悔いる。
匂いに釣られたのか、はたまた賑やかな会話を聞き付けたのか。いずれにせよウラヌスと暢気に話なんてしなければ、スピカがこの最悪と出会う事はきっとなかっただろう。
或いは油断があったかも知れない。スライムは帝都をぐるりと囲う森に生息しているが、活動時期は一年の半分程度。今の時期は休眠期であり、ぐーすか寝ていて遭遇の恐れはない筈なのだ。だから気が緩んでいた……先輩冒険家から、今もスライムが活動していると聞いていたのに。
このゴブリンの少女も、今はスライムが休眠中だと思っていたのかも知れない。故に平然と焚き火をし、何も気にせずお喋りをしていたのか――――
「おおっ、なんだコイツは!? 変な生き物だな!」
否、単純に知らないだけのようだ。ウラヌスのあまりの無知ぶりに、気が抜けたスピカは思わず体勢を崩して転びそうになる。
そして少女が拳を構えてスライムと向き合った時、またしても転びそうになった。今度はあまりにも馬鹿馬鹿しい行動に、意識を持っていかれたがために。
「ちょ……まさかスライムと戦うつもりなの!? あなたコイツがどれだけ強いか知らないでしょ!?」
「ああ、知らない! だが肌でひしひしと感じる! コイツは強い! 故に戦う!」
「はぁ!?」
強いから戦う。全く筋の通らない回答に、スピカは声を荒らげた。
果たしてウラヌスは困惑するスピカに気付いているのか。スピカに一切視線を向けず、されどスピカの疑問に答える。
「我らコバロスの戦士にとって、強者との戦いは誉れだ! それに、こんな強い奴と戦うなんてワクワクするだろう!?」
尤も、その理屈に同意出来るかどうかは別問題だが。
呆けるスピカを余所に、ウラヌスはスライム目掛けて駆け出す。スライムはパチパチと弾ける焚き火をじっと見ていて、動きが鈍い。ウラヌスが肉薄するのに苦労はない。
接近したウラヌスは握り締めた拳を振り下ろす。
そう、ただ振り下ろしただけ。特別な技量は特に感じられない雑な一撃だ。だがスピカはその攻撃を見た瞬間に寒気を覚える。
速い。
単純に、猛烈に速いのだ。その速さは果たして人間が出せるものかと思うほど。攻撃というのは速ければ速いほど、衝撃が大きくなるものだ。ウラヌスの放った強力な一撃は、恐らく猛獣の骨すらも砕くであろう。
ただし強力さ故に野生の獣の警戒心を掻き立ててしまう。
「プジュバアァッ!」
焚き火から一瞬でウラヌスに目標を変更したスライムは、その扁平な身体の下半身を振り上げた。
巨大な軟体動物であるスライムだが、その身体は殆どが筋肉で出来ている。全身をしならせて生み出す力、その力によって振り回す下半身の速度は凄まじい。スライムの攻撃は鍛え上げた大男の骨すら粉々に砕くと言われており、初めて実物の攻撃を目にしたスピカは噂話が事実であると確信した。
では、拳を打ち込むよりも前にその打撃を身体の側面で受けてしまった、見た目幼い少女であるウラヌスはどうなるのか?
「ぬ、うぅうんっ!」
ウラヌスは無事だった。少し唸るだけで、吹き飛ばされる事なく二本足で踏み止まる。それどころか受けた痛みに興奮するように、獰猛な笑みを浮かべた。
まさか受け止められるとは思わなかったのか、スライムも困惑したように身体を強張らせる。生態系の頂点に立つスライムにとって、ウラヌスのような強敵は初めての経験だったのだろう。
そこでがむしゃらな攻撃をせず、一旦後退するのは流石驕りのない獣と言うべきか。スライムは跳躍して距離を取ると、ウラヌスを睨むように見つめる。その態度が、ウラヌスが打撃に耐えた事が偶然の類ではないと物語っていた。
「プ、プジュゥアッ!」
少し考えて、スライムはウラヌスを敵と認めたらしい。正面から向き合い、頭突きをするように突撃してくる。
これは流石に受け止められないと判断したようで、ウラヌスは高く跳んで回避。突撃したスライムは太さ二メトルもある巨木に激突し、その幹を大きくしならせた。当たれば人間など粉々にしてしまいそうな威力だが、それ故に頭からこれを受けたスライムも少し目を回す。
力と速さでスライムとまともにやり合う少女。
それは出鱈目な光景だった。スピカにとっては常識を打ち破られた。だが、スピカはふと思い出す。
ゴブリン。その亜人にはもう一つの呼び名がある。
小鬼だ。誰が何時そう呼んだかは不明だが、小鬼という記述は様々な書物に存在している。その名前から「小さな鬼」という意味だとスピカはこれまで思っていたが……今、ようやく命名者の真意に気付く。
小さな鬼ではない。小さくとも鬼なのだ。
これが、ゴブリンの力だというのか。
「ふっ!」
目を回しているスライムに、ウラヌスは素早く駆け寄る。力強く構えた拳を、脳天に叩き込もうとしていた。
強力な打撃で脳を破壊する……単純だが動物相手には極めて有効な攻撃だ。恐らくククルカンも、そうして討ち取ったのだろう。ウラヌスの強さを見た今のスピカは、もうあの亡骸を作り上げたのがゴブリンの少女だという事は疑っていない。
このままウラヌスはスライムの脳を打ち抜き、この森の生態系の頂点に君臨するだろう。
――――なんて事が可能なら、とうの昔にゴブリンは世界のあらゆる場所に版図を広げているだろうが。
自然界は甘くない。単純な強さだけで頂点に立てるような世界ではないのだ。自然はもっと狡猾で、姑息で、巧妙なもの。
例えばウラヌスがスライムの頭に打ち込んだ拳が、ずるりと滑ってしまうように。
「なっ、にぅっ!?」
拳が滑った事にウラヌスが動揺した瞬間、スライムは身体を横に傾けながらウラヌスの方に跳ぶ。身体の側面にあるヒダを足のように使って大地を蹴ったのだ。攻撃が通じなかった事実に驚いていたウラヌスは、この体当たりを胴体でもろに受けてしまう。
流石にこの攻撃は踏ん張る事が出来ず、ウラヌスは大きく飛ばされた。地面の上を転がり、木にその身を打ち付ける。転がりながら衝撃を逃していたのだろうが、激突の瞬間ウラヌスは小さく呻く。すぐに立ち上がろうとするも、膝を折ってその場に蹲ってしまった。
ウラヌスの顔には苦悶と、それ以上の困惑が現れていた。何故拳が滑ったのか? その疑問の答えをスピカは知っている。
スライムの体表面にある分厚い粘液には、二つの働きがあると言われている。一つは乾燥から身を守る事。畑に現れるナメクジ達と同じように、スライムも身体が乾くと死んでしまう。分厚い粘液は身体から水分の蒸発を防ぎ、乾いた森の大地での活動を可能とする。その乾燥への強さは、焚き火に頭から突っ込んでも平然としているほどだ。
そしてもう一つの役割は鎧。
詳しい原理はよく分かっていない。だがスライムの纏う粘液には、打撃だろうが刃物だろうが、容赦なく滑らせてしまう効果があるのだ。猛獣の爪なども滑らせてしまい、身体には一切傷を負わない。どうにか真っ直ぐ刃物を突き立てたとしても、柔らかな皮膚はぐにゃりと凹むだけ。また粘液がまるで掴んでくるかのように動きを阻み、刃物は奥まで進まない。
身体能力でスライムを上回る生物は、実のところこの森には二種存在している。危険なドラゴン二種だ。だがそのいずれの攻撃も、スライムには殆ど通じない。爪も、牙も、全て滑らせて無力化してしまう。
スライムは特別な能力により、自分よりも強大な生物を下した。彼らにとって自分より強いだけの生物は脅威たり得ない。例えそれが、小鬼であってもだ。
「(……どうする、この状況……!)」
スライムとウラヌスの戦いを見ていたスピカは、ここで思考を巡らせる。
自分に取れる選択肢は二つ。ウラヌスを助けるか、ウラヌスを見捨てて逃げるか、だ。
合理的なのは勿論、ウラヌスを見捨てる事である。スライムの意識は強大な敵であるウラヌスの方を向いていて、スピカは完全に意識の対象外である。今此処で逃げ出せば、ほぼ確実にスライムから逃げ切れる。
今なら奇襲攻撃も出来るだろうが、生憎スピカの武器は弓矢だ。刃物以上にスライムへの効果は薄い。自分の力ではスライムを倒せない以上、手を出しても死人が一人増えるだけ。無駄死にというものだ。
「ぐっ……ま、だ、だぁ……!」
それにウラヌスの戦う意志はまだ消えていない。
助けを求めているなら兎も角、一人で戦うつもりならわざわざ手出しする理由はあるまい。合理的に考えれば選ぶべき行動は明白。
明白なのに、スピカの足は動かない。
「プジュゥウゥウゥゥ……」
スライムは頭をもたげ、そこにある口をウラヌスに見せた。スライムの口は左右に開き、その中には棘だらけの『舌』がある。この舌で獲物の肉を削ぎ落とし、少しずつ食べていく。
特にスライムの好物は皮下脂肪、つまり皮膚の下にある脂身だ。そのためスライムに喰われた獲物は、全身の生皮を剥ぐように、生きたまま食べられる。最後にその身は捨てられ、筋肉の露出した無惨な亡骸だけが残る。
それを残酷だ、と言うつもりはスピカにはない。スライムからすれば美味しい部分を食べているだけであるし、脂肪という栄養満点の部位を選んで食べるのは合理的な行動だ。一度に食べられる分には限度があるのだから、非効率な赤身や筋肉などを食べては栄養が足りなくなってしまう。
ウラヌスも、きっとそういう死体となって大地に転がり、そして最後は森に還る。
ただそれだけの事。それだけの事が――――スピカの心を、ぐちゃぐちゃに掻き回す。
「(いいや、まだ私は死ねない! 死ねないんだから、選ぶしかない!)」
己を律し、気持ちを引き締め、そしてスピカは走り出す。
ウラヌスの方へと。
「ぬ、ぅ、うぅおおおおおおおっ!」
出来るだけ大きな声で、わざとらしいほどに叫ぶスピカ。その声はスライムの意識を惹き、視線をスピカの方に向けさせた。
その瞬間に、スピカはスライムの横を駆け抜ける。
大声を出せば振り向く。今まで意識なんて向けていなかった方角からとなれば尚更だ。野生動物は油断などしないが故に、不測の事態には素早く対処するに決まっている。
振り向く動きに合わせれば、スライムの反応よりも早く通り過ぎる事が可能……とスピカは予想。一か八かの大博打だったが、その賭けには勝利した。
しかしスライムの背後を取ったスピカは、スライムに攻撃なんてしない。
代わりにやったのは、未だ木の傍に蹲るウラヌスの下に駆け寄る事だった。
「大丈夫!? 立てる!?」
「う、うむ。立てるぞ、しかし」
「言いたい事は後で聞く! それより早く此処から逃げないと」
ウラヌスを立たせながら、一刻も早く此処から逃げ出そうとするスピカ。だが、その動きは途中で止まった。
既にスライムは、スピカ達の方に視線を戻していたのだから。口の中に存在する舌を、ぞりぞりと動かす様を見せ付けるように頭をもたげた状態で。
どうやらスピカの事も獲物として認識したらしい。そして恐らく、スピカの力がウラヌスよりも劣る事も、スライムは本能的に察しただろう。二手に分かれて逃げたとしても、追ってくるのは恐らくスピカの方。
つまり、このスライムをどうにか撒かねばならない……スピカが。
「……ああクソ。ほんと、なんでこう、考えと違う方に動いちゃうかなー……」
スピカは悪態を吐いて、自分の間抜けぶりに呆れ返る。とはいえこれは悩みではなく気持ちの切り替え。
今正に新たに現れた獲物であるスピカを喰らおうと、迷いなく動き出したスライムのように――――
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