君臨する軟体2
帝都と外の世界を区切るもの。それは巨大な門扉である。
高さ四メトル(一メトルは百セメトと同じ。四メトルは四百セメトなので、スピカの身長の約二・三八倍の高さになる)もある大きな門は、基本的には一日に三度開く。一度目は早朝、二度目は昼間、三度目は夕暮れだ。
実際には外から『助け』を求められれば、規定の三回以外にも開ける事はある。門扉の前には帝国兵が門番として常に配置されており、門扉の開閉は彼等が行っているからだ。しかしそれは所謂緊急事態であり、人命を優先した結果。特別な事情がないのであれば、門は時間まで硬く閉じたままである。この国を収める帝王や貴族の命令なら無理も効くかも知れないが、高々成金程度では門番兵士にあしらわれるのがオチ。一般市民なら言うまでもない。
そして冒険家もまた一般市民の一人だ。
『手紙の配送』という依頼を受けた翌朝、スピカは門扉の前で大人しく朝の開門を待っていた。昨日と同じく肌にぴったりと張り付いた革製の服を着ていて、綺麗に磨かれた弓と矢も背負っている。十以上付けた腰の巾着袋の中身もパンパンだ。
「(そろそろかなぁ。こういうのって、あと一目盛りって時が一番長く感じるのよね)」
ちらりとスピカが視線を向けたのは、門扉の上の方。
門扉の上には巨大な時計が設置されており、これが時刻を示す。時計には二十四の目盛りが記され、中心から伸びる針の先が指している目盛りが現在時刻だ。頂上をゼロ番とした場合、目盛りが九番目のところを刺した時に門扉は開く。
ちなみにこの時計の針は、内側で門番数名が動かしているらしい。時間そのものは内部に設置した日時計で測っているとかなんとか。あくまでも噂であり、実は裏側に巨大絡繰があるという話も聞く。どれが本当かは門番兵士しか知らない。逆に門番は知っている筈なので、訊けば分かるだろう。尤も、帝国兵士は堅物が多く、市民との無駄話には興じてくれないだろうが。
特に、朝の忙しい時間帯となれば尚更だ。
「(いやー、久しぶりに帝都に戻ってきたけど、相変わらず此処は人気が多いなぁ)」
門扉の前は大きな広間となっているが、大勢の人でごった返した状態だ。スピカの周りにも人がいて、その大半は革製の鎧や短剣を装備した冒険家達。彼等に護衛を頼んだ商人(及び荷引き用の馬)や市民もいるが、それらはごく少人数だ。
そして冒険家達は比較的落ち着いている者が多いものの、市民や商人の多くは緊張した面持ちを浮かべている。
「開門!」
しかし表情が違えども、門が開いた後の行動は誰もが同じだ。
門扉を閉じていた巨大な『閂』を兵の一人が引き抜いた後、六人の門番が門扉を素手で押す。門扉はゆっくりと開き、完全に開いたところで門扉の前にいた兵士達が退いた。
兵士がいなくなってからぞろぞろと、門扉前に集まっていた人々は外に向けて歩き出す。スピカも同じく前へと進む。綺麗に整列した、整然とした動きだ。
ただしそれは門扉を潜るまでの話。門扉の外に出た後は、各々が目的地に向けて進むからだ。此処の門扉は王都南口。西へ東へ南へ、三方に人々は散っていく。
スピカも同じだ。此度の依頼で手紙を届ける方角は南。他の人々が散り散りになる中、自分の道を行く。いや、行かねばならない。
「(さぁ、気合い入れてこ)」
心の中で喝を入れ、しっかりと歩む。
目の前に広がる鬱蒼とした森に、彼女は堂々と足を踏み入れるのだった。
……………
………
…
帝国首都である帝都の周りに広がるのは、鬱蒼とした森林。木々の高さは大きなものなら二十メトルはあるだろう。木は枝葉を広げて空を覆い尽くし、地上はかなり薄暗い。地面を覆うのは降り積もった落ち葉で、下草の姿は殆ど見られない状態だ。
これだけ森が豊かなのだ。生命の数は豊富であり、さぞや賑やかに違いない――――と、初めてこの森を訪れる冒険家はよく思う。だが突き付けられた現実の光景に、得体の知れぬ不安を覚えるだろう。
静かなのだ。
音が殆ど聞こえてこない。鳥の鳴き声も、獣の雄叫びも、何一つ。聞こえてくるのは風で木々が揺れ動いて鳴らす葉擦れ、または落ち葉が落ち葉の上に落ちた時の音ぐらいなもの。気配も殆ど感じられず、もぬけの殻であるように思うかも知れない。
しかしこの森に何度か訪れた事があるスピカは知っている。この森にはちゃんと生き物が、森の規模に見合う程度には存在しているのだと。
だからこそ、静かな森に一層強い不気味さを覚えるのだが。
「(今日もこの森は静かだなぁ。嫌になるぐらい)」
何も知らなければ安らぎすら覚える静寂に対し、スピカは心の中でぼやくように独りごちる。
しかしどれだけぼやいても、周りの警戒は怠らない。
歩みは一歩一歩着実に。もっと早く出せる歩みを、あえてゆっくりと行う。時折立ち止まって周りの様子を窺い、安全を確かめてからまた進む。少しでも違和感を覚えたら立ち止まり、違和感がなくなるまでは動かない。
徹底的に慎重な歩みだ。もしもこの歩みを普段通りの、都市を歩く程度の速さで行えば、目当ての村に辿り着く時間を半分に出来るだろう。それでもスピカは決して歩みを早めようとはしない。
何故ならどれだけ慎重でも、足りないぐらいだからだ。
もしも警戒していなければ、スピカは背後から近付いてくる僅かな『気配』を感じ取れなかったに違いない。
「むっ……」
気配――――風のない時に遠くから鳴った落ち葉の音を聞き取ったスピカは、素早く樹木の裏に身を隠す。息を潜め、身動ぎもしないよう樹木にぴたりと身体を付けた。
そうしてしばし待っていると、やがて森の奥から巨大な生物が姿を表す。
体長は凡そ五メトルぐらいだろうか。背丈は三メトル以上あり、がっちりとした体躯をしている。その身体は太く長い茶色の毛で覆われていて、触ればこちらの手が傷付きそうな剛毛だ。
大地を踏み締める四足には硬い蹄があり、地面に落ちた枝や細い根を踏み潰す。あんなもので踏まれたら、人間の胴体など潰れて真っ二つにされてしまうだろう。
そして大きな頭部。頭だけで小柄な人間の背丈ほどはありそうで、しかも口からは二本の牙まで生えている。豚鼻が少々間抜けにも見えるが、そこから吐き出される重苦しい鼻息を聞けば恐怖心が掻き立てられるもの。
「(カリュドーンか。これはまた面倒な奴に出会っちゃったわねー)」
巨大猪カリュドーン。それを確認したスピカは顔を顰めた。
「フ、フゴ……フシュゥゥゥ……」
カリュドーンは静かな鼻息を鳴らしながら、周囲の臭いを嗅いでいた。涎を口からだらりと流し、目は血走っている。鼻先で地面を掘り返している動きは、忙しないというより苛立っているようだ。
そうして何ヶ所かの落ち葉をひっくり返した時、突然頭を激しく動かした。顎を開閉させ、明らかに何かを咥え直している。
じっと観察してみれば、そこにいたのは人の手よりも大きなネズミだと分かった。
カリュドーンはネズミの頭を噛み、その息の根を完全に止めた。大人しくなった獲物を咀嚼し、最後はごくりと飲み込む。しかしこれだけでは全く足りないようで、再び苛立った動きで地面を漁り出す。
特徴的なのは、そうした一連の動きで殆ど音がしない事。
鼻先で落ち葉をひっくり返した時などは流石に音が鳴っていたものの、歩みは極めて静かだ。ネズミを仕留めるため頭を振り回していた時も、体幹はしっかりと固定され、殆ど足音を鳴らしていない。精々ネズミの苦し紛れな呻きがあった程度である。
巨大な獣として、異様な立ち振る舞いだ。
果たしてこの異様な大型生物の前に姿を表す事は、賢い行動と言えるだろうか?
無論、否である。
「(あれは腹ペコね。それも相当な)」
カリュドーンは雑食性の動物だ。植物をよく食べているが、それは単純に植物の方が自然界でよく見られるというだけ。動物質の方が好みであり、今し方ネズミを食べたように、自分より小さな動物であれば好んで食べる。
人間の大きさはネズミよりも遥かに巨大であるが、カリュドーンからすれば半分以下の『小動物』に過ぎない。満腹ならば兎も角、腹ぺこなら襲い掛かってきてもおかしくない。
「(このまま立ち去ってくれるとありがたいんだけど)」
物音を立てればカリュドーンに気付かれる可能性が高い。スピカは息を潜め、木の陰でじっとする。
カリュドーンは左右を見渡し、しばらくするとこの場を去っていった。カリュドーンの気配が遠退いてもしばらくスピカは動かずにいたが、やがてほっと息を吐く
「シュゥゥゥー……」
直後、聞こえてきた甲高い鳴き声にビクリと身体を震わせた。
スピカは再び木陰から身を乗り出す。するとそこにいたのは体長五メトルの『大蛇』が地面を這っている姿が見えた。紫色に輝く鱗を持ち、その鱗を逆立たせている姿は極めて攻撃的に見える。
大蛇……ナーガという種だ……はスピカやカリュドーンの進路とは別方向に進んでいく。視線はスピカに向いていて、攻撃的であるが――――仕掛けてくる素振りはない。先の鳴き声は、『大型動物』であるスピカに対する威嚇のようだ。
スピカが動かずにいたらあっという間に、ナーガは物音一つ出さずに横を通り過ぎていった。
こちらは戦って勝てないような相手ではないが、ナーガは猛毒を持っている。万一噛まれれば解毒剤を使う暇もなく身体が動かなくなるような毒だ。その後何日も掛けて丸飲みにされ、更に何十日も掛けて消化されてしまう。大人の人間を丸飲みにする事は(大き過ぎてナーガ自身も身動きが出来なくなるので)まずないと言われているが、全く例がない訳でもない。
そして仮に飲まれずとも、何日も自然界で横たわっていたら他の動物の餌食だ。噛まれれば『終わり』と考えて良い。
「ふぅ。一息吐く間もないわね」
ぼやきながら木の陰より出てきたスピカ。言葉では悪態を吐きながら、軽い足取りでスピカは『旅』を再開する。
立て続けに危険な生物と遭遇したが、こんな事で慌てるようなスピカではない。というよりこの程度で慌てる冒険家は三流か、なりたての新人ぐらいなもの。
この世界における旅とは、このようなものなのだから。
――――帝国には、都市の外に出る事に許可や資格は必要ない。
文字の読み書きが出来、手続きさえちゃんと行えるのなら子供でも単身外に出る事が可能だ。しかしそれは賢明な行動とは言えない。普通は冒険家と共に行動し、彼等を雇えない者は大人しく都市に引きこもる。冒険家でもない人間が外に出たなら、それを助けようと思う者は、そいつの親や恋人以外にはまずいないだろう。
何故なら、都市の外は危険だからだ。人を突き殺すほどの牙を持った猛獣カリュドーン、人をも丸飲みにする大蛇ナーガ……人間など簡単に捻り殺す生物が、帝都のすぐ側であっても頻繁に見られるほどに。
町や村は自然界の中で比較的人間の管理がしやすく、何百年と掛けて安定させてきた土地だ。その領域を出れば、自然は容赦なく牙を向いてくる。そしてこの世界の大部分、九割以上が人間の管理下にない『大自然』。町と町の間には常に自然が横たわり、人の行き来すらも阻む。
人間とてこの状況を良しとはしていない。どの国も開拓を進め、人の版図を広げようとしている。特に世界一の勢力を持つ王国はその技術力と経済力を惜しみなく投じ、事に当たっている。しかし危険な生物達の(野生動物である彼等に『攻撃』の意思はないだろうが)襲撃により、大半が頓挫、時として苦労して確保した領地が奪われる始末。人間の領地拡大は遅々として進んでいない。
人の手の及ばぬ大自然。何時、何処から降り掛かるか分からない危険。その道程はどれだけ短いものであろうとも『冒険』と呼ぶに相応しい。
故に都市の外で活動する者達を、冒険家と呼ぶのだ。
無論、冒険家だから外で活動出来る、等と因果の逆転した勘違いをしてはならない。冒険家か都市の外で動けるのは、自然に対する深い知識を持っているからだ。一攫千金を求めて冒険家になった者の八割は、一月以内に命を落とす。残り二割の大半は一年以内に死ぬ。自然を甘く見た者は残らず死ぬ。
尤も、真面目に勉強し、自然を甘く見なければ生き残れる訳でもなく。
「(……あら。こんなところに人が)」
歩いていたところ、仰向けに倒れている人間の姿を見た。
キョロキョロと辺りを見回し、獣の気配がない事を確認。安全を確かめてからスピカは倒れている者の傍に歩み寄った。
倒れている人間には、顔がなかった。
顔面の肉が削がれていたのだ。他にも腹が食い破られ、内臓が外に出ている。カリュドーンなどの獣に襲われ、喰われたのだろうか。着ていた革製鎧の大きさなどから恐らく男の亡骸だと分かるが、数日もすれば判別不能になるだろう。剥き出しになった内臓や肉に虫がたかり、腐敗が始まっているからだ。やがてこの遺体は土に還る。或いはカリュドーンのような獣に見付かれば、一日で糞便にされてしまう。
顔がないので正確な年齢は不明だが、年季の入った装備を見るに、それなりにベテランの冒険家だったに違いない。油断はしていなかっただろうが、しかし人間というのは常時完璧でいられる存在ではない。恐ろしい獣と死闘を繰り広げ、疲弊したところを後ろからぐさり……これを卑劣だ姑息だというのは人間の価値観だ。死んだらそれまでである。
「……この辺かな」
そんなそれまでな亡骸を、スピカは漁る。腰回りを探ってみれば、一枚の金属板……冒険家の資格証が見付かった。
資格証が金属で出来ている理由は、そうすれば獣に食べられ難い、または食べられてもそのまま排泄される可能性が高いため。
冒険家は何時命を落とすか分からない。それ故に、冒険家は仲間の遺体を見付けたら、スピカのように資格証の回収を行う。資格証があれば、例えそこにあるのが顔のない遺体だとしても、ギルドで誰のものであるかが判別出来るからだ。遺体に遺族や友人などがいれば(故郷が遠ければ時間は掛かるが)連絡が行き、その死を悼んでもらえるだろう。
この行為は冒険家としての規則などではなく、あくまでも善意の行動であるが……大抵の冒険家は積極的に行う。何故なら『徳』を積めば、自分の資格証も、誰かに拾ってもらえる気がするから。
一種の
加えてスピカには目的がある。『アレ』と出会った時、死にたくないなどと惨めな姿を晒すなんてしたくない――――
「……ふぅ。こんなところで考え事なんてするもんじゃないわね」
首を横に振り、考えを頭の中から追い出す。
自然界は平等だ。どんな悪人も、どんな善人も、等しく全てを餌として喰らう。当然昔の事を思い出し、決意をしている人間だって構わず襲って美味しく食べる。
考え事なんて『油断』をしていたら、食べてくださいと言っているようなものだ。考え事は安全な場所でするに限る。一旦思考を外に追い払い、改めて自然と向き合う。
そう、自然界で油断などしてはならない。それは冒険家にとっての常識であるし、冒険初日の新人以外であれば誰であれ身を以て理解している事だ。
故にスピカはこの後、大変な混乱に陥る。
何処からか、美味しそうな肉の香りが漂ってきたのだから……
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