第20話『─────其れは、無い』
緋色坂なつきを新入部員として創作部に入部させることで、顧問の三野から下されたミッションはしっかりと遂行する事がが叶った。
おかげで、罰とやらは食らわずに済みそうである。
おかげで俺は平穏の日々を取り戻し、今現在……昼休みにゆっくりと机に顔を俯かせていた。
「ねぇ、氷室くん」
「……ん、んん」
「その寝たふり、そろそろやめたらどう?」
彼女が相も変わらず冷たい声で聞いてくる。
……そうだな。寝たふり、やめるかぁ─────じゃねぇよ。これ、寝るふりじゃなくて普通に眠かっただけだからな。
「おい。何勝手に寝たふり認定してんだ。俺はただ普通に眠かっただけだ」
「……そうなの? あまりにも陰キャ過ぎて、分からなかったわ」
「ハイ萎えたー」
「どうでもいいいかも」
「ちょ」
顔を起き上がらせて、逢瀬の方へと振り向いた。
隣の住民は自慢の黒髪ポニーテールを見せびらかすように輝かしいながら、コチラをジッとゴミを見るような目つきで見つめていた。
なんだよそれ。
またなんか俺、やっちゃいました?
違う。
何もやってないし、何もやられてない。
だってのに、なんでこんな事を言われなくちゃいけないってんだ。これが公の場なら、「横暴やで、あんた!」とか叫んでやる所だったぞ。
まぁ、俺にはそんな叫ぶレベルの度胸はないけれど。
……いや、俺は公の場。公然の場所で叫ぶとかいうモラルの無い行動はしない紳士だからな。自分の道徳心が、欲望を抑制しているのだ。
いや、はい。
本当は度胸がないだけですけれど。悪かったな、陰キャで。
「そうは言うけど、逢瀬は眠くなったりしないのか?」
「ええ、しないわ。貴方と違って真面目だから」
「む。俺だって真面目だぞ?」
「……?」
やはりコイツは俺という存在を勘違いしている気がする。俺だって、こんなふざけた生活を送っているが。勉強はそれなりには出来るし、運動はまぁ……アレだけども。
一応、至って普通の男子高校生だぞ?
─────なにも不真面目なんて要素は一つもなにだろうに。
おかしい。……何故、俺は勘違いされているのだろうか。
その勘違いが恋心だった良かったのだが、彼女の気持ちは「俺に対する侮辱」である。最悪や。
「じゃあ聞くが、お前には自分が真面目だと言い張れる証拠なんてあるのか?」
「証拠? 証拠、か。そうね……それなら、これはどうかしら」
「こりゃ、ノートだな」
俺は彼女に手渡されたノートに目を配る。
そこにはびっしりとこれからやるであろう高校数学や、高校での物理などの予習が描かれていた。まるで芸術作品の様に綺麗に纏まっており、圧巻と言うしかない。
……かなりマジな証拠を出してきやがった。
「ぐ、これは認めるしかない─────」
「でしょう?」
「これ、返すわ」
俺は一通り見終わり逢瀬にノートを返す。同時に、俺の手が彼女の左手首付近を掠ってしまった。
「痛っ」
そして彼女が反射的にそう呟いた。
彼女は左手を一瞬にして引っ込める。
……え? その時、思わず自分の体が硬直した。
「ど、どうした?」
「……、なんでもない。わ」
「いや、全然大丈夫そうな声じゃなかったぞ。まぁ布越しだからないと思うけれど、もしかすると少し切れちゃったりしてるかもしれないからな?」
そう。そんな心配もある。
だから俺は彼女の左手を無理やりにでも確認しようと、彼女の左腕。その二の腕を掴み制服の裾をめくった。
「い……っ、いやっ! やめて!」
「え?」
─────だがソレを見た俺は思わず、手を離してしまって。
呆然としたオレは、顔を上げる。自然と逢瀬と視線が合い、そして今更に気付く。
「…………本当に、ばかっ」
逢瀬雫。彼女が涙目になっている事に。
隣の席の住民はそう言い残し、すぐさま立ち上がり……まだ授業があるというのに、彼女はそのまま逃げる様に鞄を持って廊下に飛び出していってしまった。
教室には、啞然とするオレだけが不思議と目立つ。
だがそんな下らない思考はすぐさま霧散する。
……なにせ、俺は見てしまったのだ。
彼女の秘める事を。
そう。
─────彼女の左手首には、惨い赤色の線が数本描かれていたのだ。
ノートが当たった程度でそうなるはずがない。
俺は……逢瀬雫、彼女がリストカットなるモノをしているという事実を、知ってしまったのだ。
◇◇◇
そのまま昼休みが終わり、五限目。
彼女は帰ってこない。
……昼休みに昇降口でボッチ飯をしていた木下の証言が正しければ「泣きながら、ナニカから逃げる様に正門から走って出て行ってしまった」らしい。
憂鬱な気持ち。
先程の自身が起こした愚行を悔いても悔いても、悔いきれない。
きっとさっきのは、彼女にとってかなりのダメージを与えてしまっただろう。
人の闇に触れるとは、実はそういう事だ。
案外、人間とは軽く壊れる。
そんな人間は今まで沢山見てきた。
……だからこその危機感。
今日は運がいいのか悪いのか、五限目の授業は……数学。見据える先にある黒板には、いつも通り気だるそうにする三野響の姿がある。
窓から空を観察すると、すっかりと曇り空になっていた。不穏な空気が流れつつも、俺は手を挙げた。
「先生」
「氷室……か。どうした?」
「いや、ちょっと具合悪いんで保健室行ってきます」
振り返った彼女の視線は、心なしかいつもより寂しさが籠っていた。
「そうか……行ってくるといい。ゆっくり休め」
「ええ、はい。ありがとうございます」
三野の声が重い。教室の空気も同様である。さて、教師兼顧問の許可も取ったのだし、行くか。
俺はゆっくりと立ち上がり、教室を後にした。
目的地はどこだろうか。
考えていない。だが少なくとも、保健室ではないのは確かだろう。俺は静かに、手ぶらで、逢瀬雫と同じ様に正門を超えて外へ出る。
─────言ったはずだ。
此処には甘ったるいラブコメの様な幻想も、架空も存在しない。
そんな砂糖ばかりの人生はつまらない。
だから、在るのは掛け値なしの現実。
現実とは実に残酷だ。
時に、唐突に、取り返しの付かない理不尽が襲ってくるのだから。
だからこそ、その想いは強く燃え上がる。
『きっと此処にも、俺の求めている青春は無い』と。
「逢瀬雫。お前の
静かに、オレは独りで歩きながらそう呟いた。
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