第10話 正義という呪い
エレベーターの扉が開かれる。
そこに飛び込むのは人間ではない。幾つもの矢。弾丸よりも大きく、一撃で悪魔をも滅ぼす神罰を宿した杭。
微かな発射音も重なれば
裁きの具現化として使われてきた矢は空虚な力となって、鉄の箱の内側を叩いて床を転がった。
矢を
「行くぞ」
誰かの声。それに続く五人の声。声の主達は一斉にエレベーターに近寄ってくる。
一人がエレベーターに足を踏み入れた瞬間、僕は舞い降りる。
法衣を纏った男の子の両肩を踏みつけながらTMPを抜き、眉間を撃ち抜く。
慣れない反動に腕が震えるも、目と鼻の先にある額に穴を空けるのは容易い。
声をあげる間もなく絶えた。手応えもあった。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い――!
「なんだお前! お前もアスンプト神父に従わないつもりか!」
耳障りな声が耳に入る。
僕の服装から同じ少年部隊の一員だと即座に判断した結果、攻撃するのを躊躇したようだった。
「上に言われれば疑いも抱かない。だからお前らは、お前らは自分のしてる事にも疑問を抱かないんだ!」
手にした銃は一発撃ったらおしまいのクロスボウとは違う。引き金を引けば、弾の続く限り……殺せる!!
引き絞ったその指宙を薙ぐ。薙ぎ払う。
僕が馬鹿だった。他人から与えられた正義の言葉になんの疑問も抱かずに生きてきた。
与えられた好意に何の疑いもなく、目の前に差し出された餌の為に自分の
流れに身を任せて、そうしていれば自分だけはもう苦しまずに生きれると、なんの確証もないのに確信していた。
だけどそれも終わりだ。
「おいおいこんな所で何してるんだ? ハブられちゃった理緒くぅん?」
「お前……!」
百地だった。自分の仲間が目の前で殺されたのにも関わらず、落ち着き払った様子で壁にもたれかかりながら相変わらずのムカつく笑みをこっちに向けている。
本当に気に食わない野郎だ。だが僕はその姿を見て、少し安堵してしまった。
そう、僕の敵である事に安堵したんだ。
「これで」
「遠慮なく」
「「ぶっ倒せる!!」」
同じ事を考えていたらしい。つくづくムカつくやつだ。
百地は袖に仕込んだ小苦無を抜くをこっちに素早く投げつけてくる。だが、物を投げつける動作よりも銃の引き金を引く方が断然速い!
銃を撃ちながら放たれた苦無を避け前進する。百地は接近戦も得意だが、距離をとったら取ったで何をしてくるかわからない恐ろしさがある。
走りながら銃も撃つもやっぱり慣れない、全然当たらない! 百地は鼻で笑いながらポケットから筒状の何か取り出す。それを僕の前に投げてきたのを反射的に避ける。
こんなビルの中で破壊力のある手榴弾なんて使わないだろうけど……。そんな事を思ってる内に投げつけられたものは即座に煙が上がる。
爆発は無い。その代わりに勢いよく煙が噴き出し広めの廊下をあっという間に充満する。
煙幕だったのか。と思った瞬間に煙の中から手が伸びてくる。
「百地!」
「馬鹿だよねえ! 逃げた連中と一緒に路頭に迷っちまえばよかったものをのこのこ死にに来るなんてさあ!」
「ああ馬鹿だよ」
「あ?」
「自分の安全ばかり考えて逃げてばかりいるのが頭がいい立ち回りっていうのなら、オレは馬鹿でいい!」
「ハハッ! 開き直りか救いようがないよねえ!!」
百地にTMPを掴まれ銃口を下に降ろされ、その瞬間に顔面を強か殴られ視界が揺らいだ。
頬に殴られただけでただ痛いだけの一発。だがその一発で僕の中の何かに、火が点いた。
僕と百地の声と殴り合いの音が煙幕の中で混ざり合う。殴り殴られ、といってもお互いにまともな一発が入ることはない。
煙の向こうに動く影だけを見ながら反射的に避けたり受け身をとったりしている内に若干煙の濃度が薄くなる。反撃開始だ。
一気に飛び退いて、気配のする方向へTMPの弾幕を浴びせる。聞き慣れた銃声がここまで近くで聞こえて、こんなに大きな音が出るんだと今更思ったのは神経を研ぎ澄ませているからか。
白い煙をぐにゃりと歪ませえぐり取りながら無数の銃弾が飲まれて消えた。
静まり返る廊下内。殺ったのだろうか。
割れた窓ガラスから煙が逃げていく。煙が薄まり視界が広がっていく。
晴れる煙幕。死体はエレベーター付近で転がっていた奴しか無い。しかし百地の姿が無い。
「……っ!」
「遅いんだよ!」
振り向いた時には百地の苦無が手の甲に突き刺さっていた。
煙の中に紛れていつの間にか背後に回って潜んでいたというのか。
痛みが走って声も出ない。手が震えTMPを落としてしまい、そっちに気を取られた瞬間もう一発、苦無が今度は僕の胸元へを迫る。
「強くなりたいからって俺の真似して自分の事をオレって言っちゃってさあ。ようやって形から入るのって女々しいよねえ! 顔と同じでさあ!」
「何を……!」
「分かりやすいねえ。お前はそうやって誤魔化すことも出来ずに言葉を詰まらせる。馬鹿正直は長生きしないねえ! さっさとあの世に逝っちまえよ!」
速い……! 避けれない……!
迫る黒い刃、鋭利な切っ先が法衣の寸前まで伸び、そのまま濃紺の繊維を貫く……事はなかった。
防弾法衣は銃弾に対しある程度抵抗力のある強力な防具でもあるが、刃物に対してはそこまで防御効果は期待できないのだ。
そんな防弾法衣を苦無は貫くことはなかった。
自分の胸に硬い感触が伝わり痛みが走る。何か硬いものを押し付けられた。そんな感覚だ。だがその痛みも絶えれないほどではない。
驚いたのは僕だけじゃなかった。百地もだ。そして、僕は百地よりも早く動き出せた。
「うおおおお!」
百地の苦無を握った手の手首を掴み取り、百地の顔面に裏拳を叩き込む。続けて握り込んだ拳で鼻っ面をぶっ飛ばす。
「ぐっ!」
胸に走った鈍い痛みの正体を思い出し、百地の
それは銃だった。小さく、光沢のない黒い拳銃。
お父さんの持っていた銃。それを百地に向けた。最早悩みはしない。終わりだ、百地!
「殺せた筈なのに……何故! 何故だ!」
手にした銃を見せつけるように銃口を百地に向ける。
何故だろう、クロスボウで銃の類でも感じる殺したという手応えに気持ち悪さを感じてあまり好きではなかったのに、クロスボウの何倍も小さく軽い拳銃が凄く頼もしく感じる。
銃を構える僕の手を上から何かが包み込み、しっかりと握らせてくれているような、不思議な感覚。それが僕に勇気をくれる気さえした。
「お父さんの銃がお前から守ってくれたのさ。そして、あの世に行くのはお前だ!」
「ふ、ふざけるな! 俺はお前なんかにぃ!」
鳩尾を押さえながら後ずさる百地の弱々しい姿。こんな百地は初めて見た。
見苦しい。そう思った。
「こ、この屈辱……いずれ晴らす。絶対に……!!」
ずりずりと後退し、百地はガラスの割れた窓の縁に足をかけた。
何してやがるんだのこ馬鹿。こっから下に落ちたら潰れたトマトより酷いことになる!
僕に殺られるくらいなら自分で死ぬってか? ふざけるな!!
百地が飛び降りる前に取り押さえようと銃を構えたまま駆け寄る。しかし、百地に迷いはなかった。僕に背を向け、夜空の向こうへを飛び込む。
「待て! このお!!」
手にした銃で百地を狙って引き金を引く。僕が、僕が倒すんだ。ここで……!
一発の銃声、真っ直ぐ飛ぶ銃弾。それは百地のふくらはぎを撃ち抜く。それでは致命傷にはならない。もう一度撃つもそれは夜空の中へ消えていく。
何発撃ったか覚えてない。慌てて撃った銃弾なんて当たるもんじゃない。そんなの分かってても、僕は撃ち続けていた。
全ての弾を撃ち尽くしてやっと我に返る。
煙幕も無くなり、静寂が受けた傷の痛みを思い出させる。銃を仕舞い、手の甲を押さえながら窓の方に向かう。
外からの風が顔にぶつかり、目を細めながら恐る恐る窓の外を見る。
「死んだか……?」
念の為左右と上を確認し、そして下の方を見る。
そこには百地の肉片と血の海が……というスプラッターな物は無かった。
それよりも精神衛生上よくないものがそこにはあった。
鉤縄だ。下の階の窓に鉤縄が引っかかったままになっていて、百地の姿はない。更に下の階に飛び込んだのか、少なくとも落ちて死んだという事はないようだ。
「あの野郎。ヤバいと思って逃げたか。アスンプトを置いて……」
元から忠誠心で従っているって奴でもなかったし、逃げるのもまあ理解できた。だが逃げたら逃げたで腹が立ってくる。
だが腹が立っている暇もないと、窓の外を見ていて気づく。
横浜ヴィレッジの外で黒煙が上がっている。それにいくつかのマズルフラッシュのような光と銃声。
ブリガンドがヴィレッジのすぐ外で警備隊と戦闘を行っているようだ。
そしてこのビルの前にも数十人もの武装した人影が微かに見えた。こっちも警備隊の人間だろう。
もう警備隊が上がってくるのも時間の問題だろう。
警備隊にアスンプトを任せてもいいが、捕まってしまってはもう話す機会などないはず。
殺しに来るようなら容赦はしない。頼みの綱だっただろう部下の部隊はもう殆ど残っていない。
一番優秀だったやつは、もう逃げたしな。
後ろ髪を引かれる思いはしたが、警備隊がビルを上がってくる状況下で僕を後ろから追いかけるような度胸は百地には無いだろう。
落ちていたTMPを拾い上げ弾を確認し、転がってる死体から使える弾を抜き取りアスンプトの所へと向かった。
横浜ヴィレッジを一望できるこの
元々はレストランだった場所。今では孤児院や教会の関係者専用の食堂として使われている。
割れた窓ガラスがない修繕された広い広い食堂。僕とアスンプト二人きりだと嫌に広く感じて、冷たい空気に喉が凍りつきそうだった。
優しげな視線が僕に向けられる。その柔らかな表情の裏で今までどんな事を考えてきたのか考えるだけでゾッとする。
「アスンプト……何故こんな事を!」
「理緒君。君には私側でいて欲しかったが。なるほど、百地君が
肩を揺らして苦笑するアスンプトを見て僕は腹が立った。
自分の知らない所で僕に関係する物事が起きていて、それを僕だけが理解していないことに腹が立った。
「何を言っているんです?」
「彼は君を一方的にライバル視していましたからね。いや、敵視と言った方が合ってるでしょうか。どっちにしろ、子供の身勝手な行動で私の計画が水の泡になるなんて、最期まで恩知らずな問題児でした」
「恩知らず……? 教会の
「本当なら貴方にもこの計画の内容は知らされる予定でした。しかし、百地君がそれを邪魔して貴方に話がいかないようにしていたんでしょうね。本当なら今日の貴方には任務など
「そういう大事な事は直接話しに来るべきでしたね。話したとしても恩を仇で返す真似に加担なんてしませんが」
そう言った途端、アスンプトは突然笑い出す。
この状況で笑うなんて何を考えているのか、
くつくつと口元に手を当て笑うアスンプトは前を開けたカソックの内側に手を差し入れ、それを見て僕は急ぎ銃を構え直す。
「君ならそう言うと思っていました。だからしっかりとした説明をしたかったんですがね」
アスンプトは懐からクロスボウを抜く。グリップ付近にあるボタンひとつで展開させるタイプの折りたたみ式のクロスボウだ。
僕の持つクロスボウより一回り大きく見えたそれは専用の矢を使うもの。まるで杭のような太さの矢を放つ。
その破壊力は鉄鼠と呼ばれる硬い外皮を持つネズミのミュータントの鎧のような外皮を貫き、人に放てば即死は免れない。一射必殺のクロスボウ。
「私はヴィレッジの外の人間でした。ブリガンドの子供でね。ヴィレッジの探索隊に両親が殺され、私は孤児院に引き取られました」
「その復讐に教会を乗っ取ってヴィレッジを混乱させようと?」
「そんな下らない理由でこんな事しません。私はヴィレッジの中と外の暮らしを経験してます。そして気づきました。この世の格差社会とはヴィレッジの壁のせいだと」
「ヴィレッジの、壁……?」
「理緒君もここに来て味わったはずです。貴方のヴィレッジはシェルター式で文明崩壊前の技術や文化、価値観が色濃く残る環境だったはずです。そこからこんな――」
片手にクロスボウをぶら下げながら、窓の向こうへ腕を広げる。
壁一面に張られた窓の向こうには壁に囲まれた横浜ヴィレッジと外の世界が広がっている。
少し前までそこにいた。夜の廃墟の中で疎らに光る人の営みの明かり。
壁の向こうにはさっき見た時より多くの黒煙が上がっている。
「――君から見れば掃き溜めのような場所に出てきて気付いたはずです。生まれや育ち、格差による差別。渡りきらない物資の奪い合い。スリ、恐喝、強姦、殺しが横行するヴィレッジの地上部を。横浜ヴィレッジは地下にシェルターもある複合型の特別規模の多い珍しいヴィレッジです。地下部分を独占する管理部と地上の住民とは溝もある。私はね、壊したいのですよ。壁をね」
「壁……ヴィレッジの壁を?」
「ええ、そうです。先程私の事を裏切り者と言いましたが、私は
「そんな事、出来るわけがない。そんな事して何の意味がある……」
ブリガンドを教育して武器を取り上げる。その言葉に僕は川崎ヴィレッジで起こったブリガンドの襲撃の光景を思い出す。
壊し殺すことしか頭にない野蛮な連中。学もなく、自分で何かを生み出すこという事もせず、欲しいものは他人から奪い取ることしか出来ない、人の姿をしたケダモノ……!
吐き捨てるように出来るわけがないと言った僕にアスンプトはまた微笑みかける。
「昔の姿に戻すのですよ。この地を。町と町との境界が無かった横浜の景色を取り戻し、やがて関東を統一し、秩序と法の中で今以上に多くの人が安心して生きられる世を目指す。理緒君のような戦いによって親を亡くすような哀れな孤児が減り、多くの人間が笑って過ごせる世界。夢物語と思ったら本当にそうなってしまいます。誰かが、やらねばならないのです」
「それが今で、貴方がやると?」
「思いついた者がやらねば誰がやるのですか? 誰かがやってくれるまでこの混沌とした世界で埃を被りながら生きていろと……? ただ待つだけでは状況なんて変わるわけがない。貴方だって分かっているはずだ。貴方が慕っていたあの
眼下に視線を向けるアスンプトはゆっくりとクロスボウを僕に向けた。
そして僕を見る。よく見ればアスンプトの指は引き金にかかっていない。
「遅くなりましたがお聞きします理緒君。私と二人なら下から上がってくる分の警備隊を殲滅することは可能でしょう。私も杭打ち神父と恐れられた事もある男。そして貴方は少年部隊で最高の戦士。ブリガンドと共に管理部を潰したら教会での出来事はブリガンドの襲撃によるものとし、ヴィレッジ住民には教会が管理部の仕事を引き継ぐと説明し復興作業に尽くす。今外で戦っているブリガンド達は今の暮らしに嫌気が差し、安定した仕事と物資を求めている言わば求職志望者の集まり。身なりを整えてもらい、入植者として迎え入れて手綱を握れれば失った人的資源の確保にもなる。私と共に、新しい世界を築きませんか?」
「言いたいことはそれだけですか」
僕の言葉に、アスンプトは初めて口元を忌々しそうに歪めた。
眉間に皺が寄り、手元が一瞬震えるのを見るに最早取り繕ってる余裕も無いのだろう。
そらそうだ。話から察するに、僕の協力無ければこの状況をどうこうする事が出来ないと分かっているのだから。
「アスンプト神父……いや、アスンプト。あんたの考えは凄いと思うよ。立派な考えだ。僕だってこの世界に色々思う所はある」
「でしたら」
「だからって、だからって僕の友達を脅かし、世話になった恩人を傷つけて得られる世界なんてゴメンだね。そんな中で生きていても後悔しか残らない」
「もっと大局を見るのです理緒君!」
「それにあんたは勘違いしてる」
僕はこの思い違いに苛立ち、思わず語気を強める。
「な、なにを……」
「ステアーは大義名分の為なら身内すら切り捨てるみたいな考えの人間じゃない。僕の慕うステアーは、きっと僕と同じ事をする。ステアーは割と理想を夢見るような所もあるけど、感情を、自分の抱いた思いを優先する。そんで自分のやった事がどうなっても前に進む。そんな女性だ。覚えておけ!」
勢いでアスンプトを指差してしまった。
何も考えずに、本能というか心のままというか、自然に出てしまった言葉に後から恥ずかしくなってきて耳が熱くなる。
早口で捲し立てるように放った僕の言葉と指を見てアスンプトは唖然としている。
一瞬の間。しかしその間が嫌に長く感じた。
こんな時に何やってるんだ僕は……と思った瞬間、アスンプトは肩を震わせながら笑い出した。
「くっ……くふっ……」
「な、なにがおかしい……」
「あの人の事を相当気に入っているんですねぇ」
何気ない言葉でも状況的にかなり恥ずかしい。耳どころか顔全体が熱くなってきた。髪の毛が逆立つような感覚。カタカタと銃を握る手が震えた。
「私に足りないものはもっと身近な人間を懐柔する能力でしたか……残念だ!」
改めて僕に狙いを定めるクロスボウに慌てて僕は引き金を引いた。
僅かに残ったTMPの残弾を全て吐き出した。
響く銃声の中でクロスボウの発射音は聞こえなかった。いや、矢すら出なかった。
「なっ……なんで……?」
老朽化したガラスに銃数発もの鉛玉がぶつかり、カソックの前を開けた状態だったアスンプトの体からは血が溢れ出す。
よろめき後退するアスンプトの背にはひび割れた窓。
アスンプトは一発も撃たないまま、一歩一歩下がっていく。
「諦めたのかよ! その程度の正義だったのかよ! 自分が正しいと思うなら、抗えよ!! 本気で!!」
答えは返って来ない。
腰を捻り、背面撃ちで後ろのガラスに向かってクロスボウを放つ。
杭の如き太さを持つ強力無比な一撃は、人に放てば一撃で即死させ、ミュータントすら致命傷を与えられる裁きの一撃は窓ガラスを粉々に粉砕する。
食堂に吹き込む突風に思わず顔を守るように腕が前に出る。
吹き込む風に割れたガラス片が手や頬にぶつかり、突き刺さる。
「待て! 待てよアスンプト!! 投降して、罪を償え!! アスンプト!!」
僕の叫びは届かない。
まるでそこに壁があるように夜空に向かって寄り掛かって、そのまま落ちていく。
吹き飛ばされないようにしているだけで精一杯の中、アスンプトは夜空の中へ消えていった。
薄目でアスンプトを追いかけようとしたが、間にあるテーブルが邪魔をする。
テーブルの上にあった燭台や花瓶が舞い上がって足元に散らばり、その度に川崎ヴィレッジの記憶が脳裏をよぎる。アスンプトが余計なことを言うから……!
あの時、川崎ヴィレッジが襲われた時、僕は声を殺しながら恐怖の中物陰に隠れていることしか出来なかった。
ブリガンドが乗り込んできて何もかもを壊して殺して、物と人が音を立てて床に散らばっていったのを泣きながら見ているしかなかった。
もうあんなのは沢山だ。
「アスンプト! アスンプトォォォォォ!!!!」
僕の叫びは風に掻き消され、喉の痛みだけが残された。
喉の奥にまでガラス片が入り込んだような、ザリザリとした感触に吐き気が込み上げてくる。
吹き付ける風を全身に受けながら、よろよろと割れた窓へ向かって歩く。
一歩一歩前へ進む度に足や手についた傷が痛み、血がカーペットに染みを作る。
「へっ、どうせ、どうせあんたも百地みたいにそうやって逃げるつもりだろ。そうはいかないんだからな……」
窓枠に手をつき窓の外を見る。
風の音がうるさい。足元でガラスの欠片を踏み砕いた音さえ遠く感じる。
見下ろせばどうせそこには何もない。そう勝手に思っていた。
ここから地表までどの程度の高さかは分からないが、下の警備隊が円を描くように広がっているのは分かる。
豆粒程度にしか見えない人の波とそれが形作る円の中心に見える点がひとつ。
ああ、分かってた。分かってたさ。百地みたいな奴の方が特殊なだけで、人間普通ビルからダイブして落下しながら鉤縄を窓に掛けて下の階に逃げ込むなんて芸当出来るわけないんだ。
背後で扉を蹴破る音がした。
直後に怒声が飛ぶ。鋭い視線と銃口がこちらを向く気配を感じ取ってはいた。けれど、僕は地面に倒れるアスンプトから目を離せなかった。
「ヴィレッジ警備隊だ! 動くな!!」
動くなと言われても、こっちは動きたくても動けない。
突然緊張の糸が切れたのか、それとも見慣れない高さから地面を見下ろしたせいかわからない。
足の感覚が無くなって、僕は危うくアスンプトの後を追ってビルから落ちる所だった。
いきなり背後から腰を抱きかかえられ、ビルの内側へ引っ張り込まれる。
ああ、こんな事で死にかけるなんて情けない。
「おい、大丈夫か。しっかりしろ」
やけに明るい髪色をした人が僕の顔を覗き込む。けど、顔がぼやけてよく見えない。
それどころか、声も出ない。
急に、目蓋が重くなって――。
******
声が、声が聞こえた。
以前どこかで聞いたことあるような声。
暗闇の中で誰かが呼んでいる。
声が聞こえた時から急に全身が冷気に包まれたように感じて寒い。
「おい、起きろ」
「ひゃい!?」
寝ていたらしい。
声をかけられ飛び起きると目の前に全身防具を身に着けた黒尽くめが立っていた。
長めのソファーに寝かされていたみたい。
固いビニールのソファーはあちこちヒビ割れている。
「変な声出すんじゃねえ」
「あ、ごめんなさい……。えっと?」
目の前のお兄さんは装備から横浜ヴィレッジの警備隊だと直ぐに分かった。
しかし他の人と違う点があるとすればそれは明るいオレンジと赤色の髪をしているということ。
この人、どこかで見た事あるような……?
そう思っていたら向こうも同じ事を思っていたのかお兄さんは少しだけツリ目を見開いて驚きの色を微かに見せた。
「よく見たらお前、以前教会の最上階で落ちかかった孤児院の子供」
「あの時助けてくれた赤髪のお兄さん」
お互いに以前会った時の事を思い出しなんとも微妙な空気が生まれたと思ったが、お兄さんは頭を掻きながら壁際に置いてあった丸椅子を運んでくると僕の隣に座り込んだ。
周囲を見渡す。あまり見慣れない場所だった。
一見する限りそこは廊下だ。
冷たく白い壁、白い床、白い天井。天井に張られた四角い有機EL照明が並び煌々を周囲を照らす。
ソファーにちゃんと座り直すと正面には扉。縦横二〇センチメートル程度の磨りガラスが
「ここは……?」
「横浜ヴィレッジの地下」
そう言われ、過去に一度だけここに来たことがあったなとぼんやり思った。
あの時は薬物の禁断症状に苦しむ枸杞をデトックスする為に運び込んだんだっけ……。
当時の事は過酷な日々の訓練のストレスだったり急なことでごたついたりであんまり覚えていない。
来たことある筈なのに言われるまで気づかないほどだ。それに、シェルター型のヴィレッジは結構間取りが似ているというか、造りが似ているというか……。
川崎ヴィレッジも渋谷ヴィレッジの地下もここも殺風景で似たような作りだったから、起きた瞬間に本当に今どこにいるのか混乱してしまっていた。
「カウボーイ気取りの傭兵が急患だなんだと騒いでお前とステアーをここに運ばせたんだ。『丁重に扱え!』とか偉そうに言ってやがったな。傭兵って言えば聞こえはいいが、大体のやつは根無し草のその日暮らし。無職同然の奴が偉そうに……って、お前に言っても仕方ないか」
カウボーイ……ビャクライだ。僕が寝てしまったのを起こさずに運ばせたのか。そのお陰で嫌な夢を見る羽目になった訳だ。
寝心地悪い場所で寝かされていたからか悪夢を見たからか体中が痛い。
「あ、いえ、迷惑をかけたみたいですいません……」
「お前が謝る必要はねえよ。それに偉そうにしてる奴の相手はこの仕事してれば嫌でも慣れる」
そう言って自嘲的な笑みを浮かべるお兄さんを見て僕も釣られて愛想笑い。
お互いに乾いた笑い声が僅かに溢れ、冷たい空気が少しだけだが暖かくなった気がした。
わざわざ運んでくれた相手は以前も助けてくれた相手。しかし、あの時は助けてもらった後一度も顔を見ることはなかった。
僕は孤児院の一人の子供。お互いが日常に戻ってしまえば
「あの、貴方は?」
「俺は
「川手、理緒です……」
ほーん、と気の抜けた声を出すと火野さんは片足を椅子に乗せ、膝に肘を当てながら頬杖をついて向かいの扉を見据えた。
「ステアーはこの病室で寝てる。俺が運んだ」
「知り合いなんですか?」
「他人以上友達未満だろうな」
「顔見知りって位?」
「そんな所だ。……取ったりしねえよ」
突然言われた言葉に全身が飛び跳ねそうだった。
この人突然何言ってんの!?
「な、ななな、なんで!? 別にそういう関係じゃないですし!?」
「何キョドってんだお前? まあそうだろうよ。前にアイツとちょっとだけ話して思ったがアイツはそういうタマじゃないだろうしな」
「はあ……」
いきなりの事で心臓がバクバクして落ち着く様子もない。なんなんだよこの人。
そりゃ顔もかっこいい系だし赤髪は綺麗だし、風貌も何年も使ってそうなシワや傷だらけのコンバットアーマーや背負っている長い狙撃銃でエリート戦士ってオーラ出てるし、もしかしてって一瞬思っちゃったけどさ。
まあでも一安心して良いのかな。悪い人って訳でもなさそうだし。
でもまさかあの時の警備隊の人とまた会うことになるなんて思いもしなかった。
「あの、病室入っても良いですか?」
「どうせ寝てる。静かにしてろ」
こちらを向くことなくぶっきらぼうに言うがその声には嫌味がなく、多分バヨネットや蛭雲童に同じ言葉を同じ口調で言われたらムカついてたんだろうな、なんて思ってしまった。
なんというか、よくも悪くも誤魔化したり茶化したりせず、ありのままを言う人なんだな。
「すまないな」
「え、何がですか?」
「お前の分のベッドは無かった。大怪我ってわけじゃないようだったし、ここはベッドの数が年中足りなくてな」
口調は淡々としているし、眉一つ動かしていないのに、何で本当に申し訳無さそうに話しているっていうのが理解できてしまうのか、それが自分で分からずにいた。
ベッドが余ってるヴィレッジなんて殆どない、というかいくつかのヴィレッジを見てきて思ったけど医療技術が充実していても医者やベッド数に余裕のある場所なんてのは無かった。
川崎ヴィレッジみたいな完全にシェルターの中だけの規模だと部屋もベッドも空くことはあった。けど横浜も渋谷も地上にまで規模を広げている場所は怪我人病人で溢れている。
地上だとヴィレッジの敷地内だからといって死の恐怖が遠い訳でもなく、道端に死体が転がっているなんて日常風景だ。
だから、分かっているつもりになってたのかもしれない。
「分かってます。僕はただ疲れていただけですから気にしないでください」
「泣き疲れたんだろ」
「え、いや、そんな事は」
「……そうか」
僕の顔を見つめ、ステアーに会う前に顔洗っとけと一言。目ヤニでもついてただろうか。
応急処置として顔を拭う。
思えばこんな怪我人しかいない医療区画、火野さんは何しにこんな所に来たのだろう。
様子でも見に来た、にしてはそういう仲じゃないって言ってたし。
「火野さんはこんな所で油売ってていいんですかぁ?」
「そうだな……そろそろ休憩時間も終わりだ。俺は行くぞ」
重い腰を上げるようにゆっくりと席を立つと歩き出す。
「ステアーの事見なくて良いんですか?」
「お前がぐっすり眠ってる間に見たさ。後はお前に任せる。じゃあな、理緒」
「あ、あの……!」
「なんだ?」
火野さんは振り返ると仏頂面で僕を見下ろす。
硬い表情からは何を考えているかも感情も読み取れない。
にもかかわらず何故だろう、この人からを疑おうという気が起きない。あの時救われたから……?
いやそんな最初の恩からなんていうものじゃない。よく分からないけど、僕みたいな子供にも真っ直ぐに、真剣に目を合わせて話してくれる。その姿に重なったんだ。
ステアーの姿が……。
「僕、夢を見たんです。あの時の夢を」
「……そうか」
「何が正しいかよく分からなくなってしまったんです。自分の選んだ行動が正しかったのか……」
そこまで言って気付いた。僕は何を言っているんだろう。
大した付き合いもない、過去に一度世話になっただけの相手に何故こんな話をしてしまったのだろうと。
言っても大丈夫な気がしたから、という曖昧過ぎる感覚でうっかり話してしまったけど、変な奴だと思われたら最悪だ。
聞かなかったことにしてくださいだなんて今から言ったらもっと変な奴だと思われてしまいそう。
「あ、え、えっと……すいません」
「お前はなにかする前にそれが正しい事だと確信を得られなければ何もしないのか?」
「えっ……」
そう言うと火野さんは再び椅子に座り直すとジッと僕の顔を見た。
その目は僕の目を通して僕の頭の中を覗き込むような真剣な眼差しで、思わず目を逸してしまいたくなる。
「そもそも物事には表裏が必ずある。誰かが正しいと思ってもそれを正しくないと思うやつは必ずいる。お前が言ったのは
「出来ない人間……?」
「無能な人間は自分が行動しない事に理由や言い訳を作る。アレをやりたいけど今忙しいからやらないだとか、急ぎじゃないからいいやだとか、誰かがやるだろうしいいやだとか。正しいか分からないからやらなくていいやなんて言い出したらお前、何もできなくなるぞ」
「そ、そんなつもりじゃ」
「怖いのか? 失敗するのが。
背筋が凍るような感覚。まるで何人もそういう人を見てきたようにピシャリと言い当てられてくる。恐ろしさすら感じてしまう。
洞察力に優れているだけでそこまで分かるものなのだろうか? それとも僕が自分で思っている以上に分かりやすいのか。
百地の言葉が脳裏に
そうだ、僕は怖い僕はずっと昔からステアーと一緒にいて、そしてステアーが生きている事が当たり前だと思っていた。
強くて頼りになるステアーの背中を見て、誰にも負けない誰よりも強い人と思っていた。何があっても死なないと思っていたんだ。
けどそんなのありえない。人間生きている以上いつか死ぬし、死ぬ危険は何処にでも転がっているんだ。
「ステアーが、死にそうになった時、僕は何も出来なくて、怖くて……」
思い出すだけでも足が震えてくる。火野さんが見てる前だと言うのに、すぐそこでステアーが眠っているというのに、膝がガクガクする。
自分が情けない。
「もし、傭兵とかがいなくてもいい、ステアーとかが戦わなくていい世界になったら、こんな思いせずに済んだのかなって……」
「だが今はそんな世の中じゃない。壁の外じゃ化け物もいればブリガンドもいて、時には傭兵同士も仕事であれば殺し合う。そして俺もお前もステアーも、暴力を生業にしてる。だったら戦うしかねえんだよ。一切悩まずやるってのは難しいけどな」
「火野さんも悩むことあるんですか」
「悩まずやれる人間なんて何も考えてねえ馬鹿か散々悩み抜いた後に何か悟ったような奴くらいだ。俺の事はどうでもいい。それよりお前だ。ただ悩むだけならまだしも、お前の状態を見るに、そのままだと本当に恐れていることが現実になるぞ。恐れは今みたいに考えにも出れば、行動にも出る」
「そんな事まで分かるんですか」
「俺はこの仕事をして一〇年になるが、同期の人間は一人残らず死んでる。先輩も後輩も何人死んだか分からない」
サラッと言ってのける辺り本当なんだろうし、きっと火野さんにとって誰かの死というのは日常茶飯事なんだろう。
そんな人が僕にそう忠告する。つまりは死んでった人達にある共通点か何かを火野さんは知ってるんだ。そして、その共通点を今の僕が持っている、と。
僕は、揺らいでいる。
どうしたらいいのか分からない。前へ進むのが怖い。そして、それが表に出てきた時、死ぬかもしれない。火野さんはそういう事を言っているんだ。
だからって、だからってどうすればいいんだろう。
どのくらい経ったのか、僕は何も言えないまま、いつの間にか火野さんから目を逸らして俯いていた。
「……俺が教えることじゃなかったな」
火野さんがそう言うと突然立ち上がり、背を向けてしまう。
「え、あっ……」
「こういう事はもっと信用できる奴、そうだな、それこそステアーが目を覚ましたら聞いてみろ。……お節介が過ぎた。じゃあな」
足早に去っていく火野さん。その背中に向かって思わず手が伸びたが、そこまでだった。
僕は通路の曲がり角で消える火野さんに声すらかけられなかった。
このまま、僕は戦い続けても、良いのだろうか。
僕は、ステアーの隣で戦う資格、あるのかな……。
再び冷たい空気が流れ出した無機質な空間の中、硬いソファーの上で膝を抱える。
そんな自分がどんどん惨めに感じてきて、考えれば考えるほどどうしようもない不安だけが押し寄せてくる。
気がつけば僕は再び眠りの中へ意識を沈めていった。考える事から逃げるように――。
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