第8話 少年の戦い
僕の家族は、みんな死んだ。
川崎ヴィレッジがブリガンドに破壊された時にお父さんもお母さんも、殺されてしまった。
僕は孤児として横浜ヴィレッジの教会に預けられることになった。
けど、それもたった三ヶ月程度のこと。けれどその間の生活は思い出したくもない記憶しかない。
そんな過去の亡霊が、今になって僕の前に現れた。
「よくも僕の前に姿を見せれたな、
同じ場所で訓練し、同じ防弾法衣を纏うアイツは僕が孤児院に入った時、既に訓練された殺し屋だった。同い年の先輩。
戦いの素人だった僕を姿を消すあの日までずっと小馬鹿にしてきた。
思い出したくもない記憶の一つ……。
そんな百地が以前と変わらずの人を見下したような挑発的な表情で見つめてくる。
周囲に舞う砂埃が遠くにいるステアーさえ見えなくさせ、百地の亜麻色の髪と似た背景にそのシルエットがぼやける。
「その名前は捨てたって言ったろ? オレはお前と違って簡単に過去を捨てれる男なのさ」
「なんだと……?」
性格の悪さを現したかのような歪んだ表情で笑い声を上げる百地。
ステアーと分かれ僕が孤児院に引き取られた後、教会の幹部であるアスンプト神父が裏でブリガンドと繋がっており、孤児院の子供を里親に出すと見せかけブリガンドの兵隊にしていた。
教会やヴィレッジに対する反逆行為が発覚して教会での立場が危ぶまれた際にアスンプトがブリガンドを従えてヴィレッジ内で戦闘が起こった事件。
コイツは事もあろうにアスンプト側に就いて孤児院の仲間や戦えない教会関係者を殺した。正真正銘の外道。
僕も殺されかけた事があったけど、その時は蛭雲童に助けられた。
今、蛭雲童はいない。ステアーもあの変なガンマンとの勝負で……って何考えているんだ川手理緒! 最初から助けを期待するなんて――。
こいつは、アスンプトが死んだと知った途端行方をくらませやがった。
過去という言葉でぼかしてはいるが、こいつは、自分の名前だけでなく人も簡単に切り捨てる残忍な奴だ。
忘れたいと思っていても、お前の方から出てくるなんて、本当に腹が立つ奴。
「今日はお前という、オレの過去を捨てに来たんだ。一度だけとはいえお前には膝をつけさせられたからな……」
教会で同じ孤児院の仲間を殺していた百地を止めるために戦って、結局決着はつかなかった。
百地が逃げたからだ。だがそれをずっと根に持っていたらしい。
それで、僕を殺せば帳消しに出来ると、そう思っているみたいだ。
僕がここで死のうが生きようが、お前が背中向けて逃げたことには変わりないのに。
そんな事よりも気になることがあった。
なぜ突然僕の前に現れたんだ?
「狙ってやって来たような言い方だな」
「そうさ。あの男、ビャクライが受けた仕事の中でステアーって名前を聞いてもしかしてと思ってね」
あのガンマン、最初からステアーの邪魔をするためにここまで来たのか。
なぜ行き場所がバレた? 今は気にしていても仕方がない。聞いても吐かないだろうし。
今出来ることは、コイツをこの競技場から生かして帰さないことだ。
「あの男は一体何なんだ。アイツもヤバくなったら見捨てるのか?」
「大人なんて自分が生き残るための道具でしか無い。孤児院だろうが神父だろうが傭兵だろうが関係無い。強い奴の側につくだけ」
他人を利用することに躊躇いがなく、利用するだけして情はない。
誰もがいつ死ぬかも分からない時代でそう考えるのも仕方ない。
だが、僕はそういう人間じゃない。
コイツとは、分かり合えない――!
「他人に寄生することでしか生きられない……見下げ果てた奴!」
「お前もだろう理緒くぅん? ぬくぬくと
「お前みたいに自分のためだけに他人を蹴落としたり利用したりなんて考えちゃいない! 一緒にするな!」
勢いでクロスボウを構えると待ってましたと言わんばかりに小苦無を構える百地。
素早く構えて百地に向け
二十メートルもない近距離。一撃で仕留めてやる!
空気を抉る矢は真っ直ぐ百地の胸目掛けて飛んでいく。砂嵐の中を鈍く光る鉛色が突き抜ける。
例え防弾法衣と言えど、弾丸より鋭利かつ大きく重い矢であればその強靭な繊維もある程度は抜けるはずだ。
一発で殺せなくてもいい。一発で動きを止めさせればそれでいい。
「それでオレを殺ろうって?」
「……っ!?」
クロスボウから矢を放った瞬間までは確かに二〇メートルは離れていた筈の百地は一瞬の内に一〇メートル、五メートルと距離を詰めてきている!
放った矢を避けたのかと思ったが、よく見れば百地はその手に矢を掴んでいた。
走りながら矢を掴み、それを投げ捨てる百地の姿に驚いていると百地は手にした小苦無を投げ放つ。
突然顔面に投げつけられた苦無を咄嗟に避ける。
避けることには上手くいくも、避けたせいで装填する手がもたつく。
「う……わ……っ!!」
慌てて次の矢を番える……そんな時間はない!
「そういやぁお前達、
目の前に迫った百地はいつの間にか投げつけて来た苦無よりも一回り大きい
「なんの話だ!?」
「鈍いなぁ。聞いてるんだよ、
「っ!? お、お前ぇ!!」
言葉と同時に放たれた腹部への刺突を避けるも距離は詰まってしまった。
しかし僕はそんな事よりも別のことで気が散ってしまう。
まさか、こいつ……昨日のブリガンドは……。
戦いの最中、タツの顔が脳裏に浮かんだ。火を囲んで談笑する姿が浮かんだ。
「お前がけしかけたのか!!」
「横浜ヴィレッジを出た所を見かけてね。お前の連れの女、見ただけでやり手だと分かったから殺気を殺すのが大変だったなぁ……。 この辺のブリガンドは飢えてるから釣るのは簡単だったよ」
下品な笑みを浮かべながら、殴りかかる拳は中指と人差し指の間から親指が出ていた。
フィグ・サインをしたパンチはただの挑発。
クソ野郎が!
「他人を利用して……死んだんだぞ! 関係ない人が!」
怒りに任せて近づいてきた百地をクロスボウで殴りつけようと振り回す。しかし、そんな単純な攻撃が百地に当たるわけがない。
僕を嘲笑いながら風のように右へ左手ギリギリの所で避けていく。
「関係ないね」
「この野郎、人の命をなんだと――」
「お前が守りきれればよかったんじゃねぇのか? そんなに大切ならさぁ!」
「……!」
一瞬、時間が止まった気がした。心臓が止まった気がした。
理屈じゃない。それを言われた瞬間に本能が言葉を飲み込んで、その通りだと納得させられてしまった。
そうだ、あの時、あの夜、こっそり一人で出ていこうとしたタツを呼び止めて、口論になって、そしたらブリガンドに襲われたんだ。
あいつらは僕を狙っていた。けどタツが突然僕を庇って……。
それすら押し退けて戦っていれば、タツを早く逃していれば……。
「ほんっと。弱いよなあ」
「あ……」
気づいた時には百地の蹴りが腹を抉っていた。
「カハッ……!」
なんとか痛みに耐えながらよろめいた体を元に戻し、すかさず迫る苦無の刺突を間一髪避ける。
後ろに飛び退いて最早重いだけのクロスボウを百地に向けて投げつける。
「未だにそんな支給品の十字架を模したクロスボウなんて使ってさぁ。何処に行っても未練タラタラじゃん。顔と同じで女々しいよねぇ!」
予想通りに百地はクロスボウを避けるために真っ直ぐ突っ込んでこず、その僅かな時間で僕もナイフを抜けた。
孤児院にいた頃、手合わせで百地に一度も勝てたことはなかった。
最後の最後に一度だけ、アスンプトの一派が総崩れになって教会の武装神父隊やヴィレッジ警備隊が総出で残党狩りを始めたせいで百地は僕との勝負を辞めて逃げたんだ。
それを百地は負けたと思ってるんだ。最後まで戦っていたらどうなっていたかは分からない。
いや、分かってる。僕が認めたくないだけで。
「腰が引けてるじゃないか。やっぱり、お前にオレは倒せない」
お互いに至近距離に迫り、リーチもほぼ同じの得物を手ににらみ合う。
「やってみないと分からないだろ!」
「倒せないさ。賭けてもいい」
ニヤリと笑いながら片手で来いよと手招きして挑発する百地。
その手に乗るか。
呼吸を整え、百地の動きを見据える。
「来ないならこっちから行くよ。理~緒~く~ん?」
猫なで声のような気持ち悪い声を出す百地。
しかしそのふざけた声とは裏腹に繰り出される突きが、鋭いっ――!
視界の下に滑り込んでくる猛スピードの突きを避け、伸びた腕を掴み捻る。
「見える!」
「馬鹿がっ!」
百地の腕を捻ったが、目の前で意味不明の光景が広がり僕の足が一瞬にしてがくんと曲がる。
捻った方向へ百地は宙返りして見せるとそのままローキックが僕の膝裏を射抜いたようだ。
「うぐっ……!」
次の瞬間、大苦無の後ろ部分、リング状の鉄の塊で鼻の頭を殴られて視界に星が飛ぶ。
一発、二発。顔面を殴りつけられ百地の腕を掴んだ手を放してしまった。
地面に膝をついた状態から髪の毛を引っ張られ、更に顔面を殴られる。
「げふっ……ぐっ……」
「どうしたオイ。これで終わりじゃないよね」
強引に髪を引っ張られ、仰向けに引き倒される。
ナイフでなんとか抵抗しようとしたが……。
「教会にいた時より弱くなってるんじゃないの? それでこのオレを殺ろうとかさ、笑わせないでよ」
ナイフを振った手を掴まれ、強引に手から引き剥がされると百地は自分の苦無を収め、僕に跨る。
僕の上で百地が僕のナイフと手にニタニタと笑みを浮かべる。
喉の方に流れてくる何かの気持ち悪さで咳が出ると口から赤いものが飛んだ。鼻血だ。
それを理解した瞬間から額が、耳が、冷たくなっていくのを感じた。
口で息をしようにも、風に混ざる砂が口に入ってじゃりじゃりになる。
「理緒、お前はずっとオレの神経を逆撫でしてきた」
「なに……?」
百地の顔から余裕の笑みがスッと消え失せ、瞳孔の奥が冷たく光る。
殺す相手を見る獰猛な目でも、見下している相手を馬鹿にする目でもない。
それは静かな怒りだ。
ヘラヘラして他人を舐め腐るという仮面を脱いだ本当の顔。
「〝理由がなければ殺す必要はない。〟〝無意味に他人を傷つけるな。〟テメェは誰よりも甘ちゃんで、誰よりも地上で生きる事を舐めてやがった」
「戦えない人間や抵抗できない相手を殺して生きる事となんの関係がある。それにそれは教会の教えでもあったろう」
「教会の品性だの秩序だの道徳だのが何の役に立った? その甘っちょろい考えが、今からお前を殺すのさ!」
僕のナイフを握りしめ、振り上げる。
抵抗しようにも、畜生……貧血でもないのに指先が痺れて力が入らない。
ステアー、ごめん……。
パンッ――!
突然遠くから響いた乾いた音。
そして続けざまに聞こえたのは、銃声が二発。
ステアー達の勝負が着いたのか?
「くっ!?」
鼓膜に響くような金属音は目の前からした。
突然百地が手にしていたナイフが手から無理矢理引き剥がされたかのように吹っ飛び、地面に転がる。
チャンスだ――。
そう思った瞬間に僕の体が内側から熱が湧き出てきて、自然に体が動いていた。
百地の腕を掴み取って引っ張り込むと同時に腰のバネだけで上半身を起こし、顔面に頭突きを叩き込む――!
鈍い音と共に百地が仰け反ると、掴んだ手を放して固めた拳を顔面に見舞った。
「お返しだ! おらあ!!」
「クソッ……どうなってる!?」
何が起こったか分からず狼狽する百地は鼻を抑えてよろよろと後ずさる。
転がった僕のナイフは根元から少し曲がっていた。
落ちたナイフを拾い上げると百地も大苦無を抜いて僕を睨みつける。
「お前はいつもそうだ。何かあれば必ず意味のわからねえ事が起こって……お前だけ、何故……!」
「……」
手元のナイフにふと視線を落とす。何か、胸騒ぎがする。
……ステアー?
「小僧共!」
砂嵐の向こうから、男の声が聞こえてくる。
あの西部劇の保安官みたいな男、ビャクライとかいったっけ。
茶色の風の中から現れたビャクライはどこか急いでいるように見える。
そして、その体に傷はない。ステアーの姿はない。
「ステアー?」
思わず出た自分の声が、自分でも驚くぐらい弱々しく、震えていた。
「理緒とか言ったな小僧。お前、女ひとり運べるか」
「なん、で……?」
ビャクライの言葉に、僕は何も考えたくなかった。
次第に声だけじゃなく手や足が震え始める。
膝が笑っている。いつの間にか手元からナイフが落ちていた。
今、自分はどんな顔をしているのだろう?
「ビャクライ邪魔しないでよね。コイツはオレの獲物だよ」
「やめろ。こんな状態の子供を殺すような奴は悪だぞ」
「……チッ」
ビャクライの前ではどうやら猫を被っているようだ。
本当なら他人の制止なんて聞きやしないだろうに。
渋々ながら武器を収め、肩をすくめながら両手を開いて戦いの意思は無い事を示すとビャクライは黙って頷いた。
「説教は後だ。理緒、ついてこい」
言われるがまま、早足で歩くビャクライの広い背中を見上げながらついて行く。
なんで大人しくついていってしまっているのか。何か聞くべきなんじゃないのか。
しかし、声に出せなかった。
聞くことが怖くて――。
見たくなかった。
いつの間にか風は止み、競技場の全貌が見渡せるほどになっていた。
グラウンドの真ん中で人が一人、倒れている。
誰かなんて分かりきっていた。
「あ、あ……」
口の中が急激に乾いていく。
喉が血と砂で詰まって今にもズタズタになりそうで。
駆け寄る足も空を踏むような違和感。
現実味がない。
初めて見た。ステアーの倒れる姿を……。
「ステアー? ステアー!」
「……聞こえてる、わ」
薄目を開けて僕の顔を見るステアーの顔色は白い。
腹部に置かれた手の下の服は血を吸って赤黒く変色し、白く照っている。
僕の背後でビャクライが突然指笛を吹きだした。
「コフィン! 来い!」
そうビャクライが大声を出すと何処からか重い足音が近づいてくる。
リズミカルに地を蹴る音の主はすぐに現れた。
馬だ。真っ黒でとても大きな六足の馬。
馬のミュータントは料理の時に捌いた事があるから分かる。
大体のミュータント馬は異常に増えた足が未発達で、殆どの場合足としての機能を持たない。
神経や筋肉なんかも上手く作られておらず、動かすことすら出来ないのもざらだ。
それなのに、今ビャクライの元に駆けつけたこの馬、コフィンは全ての足が完全に発達している。六本の足がしっかりと地を踏んでいる。
ビャクライが巨大な馬であるコフィンの鞍に手をかけ飛び乗ると手綱を握る。まるで本当のカウボーイだ。
あのブーツの拍車は飾りじゃなかったのか。
「理緒よ。お前はその女の正義を信じるか」
「……? なにを言ってるんだ」
「どうなんだ?」
正義なんて知らない。
僕達はいつだって生きるのに必死なだけで、自分の心に信じながら頑張ってるだけだ。
「正義とかどうでもいい」
「なに……?」
馬の上から見下ろすビャクライの目を見つめる。
僕は、正義とか悪とかそんなものどうだっていいんだ。
「ステアーの事を信じてる。いつだって」
僕の言葉を聞いて、ビャクライは馬を歩かせる。
その表情は硬く、口をへの字に曲げていた。
いつの間にかビャクライの後ろに百地も乗っていて、二人はその場を去ろうとしている。
「医者を呼んでくる! それまでステアーを信じて守ってやれ!」
振り返ることなく大きな声でそう言うとビャクライは馬を全力で走らせ、瞬く間に見えなくなってしまった。
遠くで馬の足音だけが聞こえて、それすらもすぐに聞こえなくなった。
僕の前で倒れたままのステアーに視線を落とす。
出血は多くも少なくも無い。だが位置的に呼吸が浅く、ステアー自身苦しんでいる様子はあまりない。
「応急処置は、ビャクライがしてくれたわ」
「一体何が、ステアー負けちゃったの……?」
ステアーの視線が空へ向けられる。
さっきまでの砂嵐は何だったのかと思えるほど、静かな風が緩やかに吹いている。
釣られて僕も空を見れば、そこには雲ひとつ無い夏空が広がっていた。
日差しが強い。
こんな所にずっといたらよくないだろう。
「よくわからない。私は、アイツを撃たなかった」
「え……?」
「なにかに誘導された気がして――」
ステアーはコートのポケットから僕が貸した拳銃を取り出すと僕に手渡す。
受け取って、そのままホルスターにしまう。
「――
それは、その方向は……。
僕は弾き飛ばされたナイフの事を思い出した。
いや、そんなまさか。でも、そうでもなきゃ説明がつかない。
急な突風でナイフが歪んだり、百地の手から武器をもぎ取れる筈がない。
でも、僕の危機をステアーが何故分かったかが分からない……。
「……ステアー、ここは日差しがキツい。支えるから、動ける?」
「多分ね……手、借りるわね」
こんな弱々しい姿を見たのが初めてで、僕はいつの間にかステアーは無敵で誰にも負けない人だって思い込んでいた。
人間に絶対なんてない。ましてやこんな世界で、怪我をしない人なんている筈がない。
そんな事分かりきっていたのに。
僕は、僕は馬鹿だ……。
よろよろ二人して何度も転びそうになりながら進む。
ステアーの肩を抱いて、日陰に入る。
「私達、ボロボロね」
「え?」
「顔に痣ができてるわよ。それに鼻血も」
伸ばした手が、僕の頬に触れる。
ステアーは痛みを誤魔化すように苦笑して見せるが、その表情が余計痛々しい。
こんな時に自分のことより僕のことを気にしてるなんて……。
「こんな傷、男ならいつもの事さ。そんな事よりステアーの方が大変じゃないか。僕に出来ることとかない?」
「そうね……」
ステアーは目蓋を閉じると一拍置いて、小さく囁いた。
それはステアーが僕に初めて言った言葉で。
「手、繋いでてくれる……?」
ああ、僕は最低だ。
こんな状況なのにも関わらず、僕はその言葉を聞いて少し嬉しくなってしまったんだ。
恥ずかしさと悲しさと自分に対する怒りが合わさって、僕の手の平には嫌な汗が出ていた。
汗でびっしょりの手を尻で拭き取り、慌ててステアーの手を握る。
「ごめんね」
ステアーの口から呟かれた言葉に僕はなんて返せばいいのか分からなかった。
黙って、ステアーの顔を覗き込む。
心なしかさっきよりも表情は穏やかになった気がする。それでも時々痛みに歯を食いしばっているように見えた。
「私、横浜ヴィレッジで理緒が教会に預けられた時、悔しかったの」
「悔しかった……?」
「私には引き取れる能力が無いって判断されたみたいでね。でも今日の事を考えたら、本当にそうだなって……」
「そんな、そんな事ないよ。ステアーに僕は救われたんだ」
それは事実だ。
あの時ステアーが何を思ってかこっちに銃を撃たなければ百地にそのまま殺されていた。
でもステアーは顔を横に振る。
ぽつりと違うのと呟くとか細い声が続く……。
「私がこうなってたんじゃ、理緒を守れないわ……」
「それは違う」
「え……?」
僕の言葉に驚きの声を漏らすステアー。
でも、僕も自分の言葉に驚いていた。感情的になって、つい口走ってしまったからだ。
僕は自分の感情をどう形にするべきか、自分が今何を考えていたのか探ってみる。
なぜ勝手に言葉が出てしまったのか。
「どっちかじゃ、どっちかじゃ駄目なんだよステアー」
「自分も守れなきゃって事でしょ……?」
「いや、そうじゃない。お互いが、お互いを支え合うのが一緒に暮らすって事だと僕は思ってる」
「理緒……」
ステアーの手を強く握る。
大丈夫。まだステアーの手には握り返してくる力がある。
「一緒にこれからもやっていこう。ステアーのピンチには僕が支えられるように頑張るから。一緒に頑張ろう」
「……いつの間にか、かっこよくなったわね。理緒」
感情のままに考えもせず出てしまった言葉。
だけど、本心でもあった。
勢いのまま出た言葉を、ステアーは受け止めてくれた。
そうだ、僕もしっかりしなきゃ駄目だ。
いつの間にかステアーにずっと頼ってきた。でも頼りっぱなしじゃ駄目だ。
僕も、強くならなきゃ……!
******
しばらくして、駆けつけてきた医者にその場で手術をするという緊急オペを施されたステアーは車の荷台で寝かせられた。
麻酔なんて無く、相当の痛みに耐えた疲労から、手術後は泥のように眠ってしまった。
日も傾いて、いつの間にか夕方になっていた。
僕も疲れていた。戦いの傷とかじゃなく、ステアーが心配で。
ステアーの側で膝を抱えながら船を漕いでいると、外から拍車付きのブーツの音が近づいてきた。
「理緒」
「ビャクライ」
僕はこの男の事がわからなくなっていた。
突然仕事の邪魔をしてきたかと思えば真剣勝負を挑んできて、ステアーを撃っておいて医者を呼んでくると去ったと思ったら本当に医者を呼んできた。
こいつの事が本当に分からない……。
「あんた、一体なんなんだよ。撃った相手を助けるなんて。それで助かった事には礼を言うけど」
「ほう。まさか礼を言われるとは思わなかったぞ。地下育ちは礼儀正しい者が多いと聞くが、本当のようだ」
「答えろよ。あんた何のつもりなんだ」
ビャクライを睨みつけるもその程度で動じるやつじゃない事くらい分かってる。
けど、睨まずにはいられない。
なんなら今ここで銃を抜いて一発お見舞いしてやりたいくらいだ。
そんな事しても、今勝てる相手じゃないことも分かってる……。
僕の顔を見てビャクライは真剣な表情で僕の目を見つめる。
「見定めている。どっちが正しいのか」
「はぁ?」
「お前には関係のない事だ。俺様はその話をしに顔を出したのではない」
「じゃあ何しに来たんだよ」
「車、運転できないだろ」
それを聞かれ確かにそうだと思った。
ステアーがこんな状態じゃ車での移動なんて出来ない。
僕が肩を貸して徒歩で横浜ヴィレッジまで帰るとしてもどれほど時間がかかるか、ブリガンドに襲われた時どうするか考えるとどうしようもない状況だ。
「俺様が横浜ヴィレッジまで車を動かしてやろう」
「……本当に横浜ヴィレッジに行くのか? そのまま変な所に連れてったりしないだろうな」
疑いの眼差しを向けると何を思ったのかビャクライはニヤリと含みを持たせた笑みを見せる。
だがすぐにその緩んだ頬を締めると、突然腰の銃を抜いた。
そしてまるでタバコでも吸うかのように自然に始めたガンプレイに僕はただ唖然とした。
「言っただろう。俺様は正義のために戦う男。そんな卑怯な真似はしない」
かっこいい事を言ったつもりなんだろうが、華麗に水平スピンを決めて話されても気が散って仕方がない。
「お前はそうだろうけどお前の相方はそういうタマじゃないぞ」
「クロカゼの事か。確かにアイツは教会育ちにしては躾がなってない奴だ。だが、そういう者も長い目を見て教育すればいずれ俺の正義も分かる時が来るだろう」
あいつが聞き分けよく他人から学んだりするもんか。
という言葉を吐きそうになったが、見ず知らずの僕がそう言った所でこの人は例え短い付き合いだろうが身内を信じるだろうな……。
会って数時間、それでも言動を見てれば分かる。
それでも、忠告だけはしといた方が良いのかもしれない。
あいつは言った、自分のために利用しているだけだと。つまりいつでも他の誰かに乗り換える気でいるということ。
何も知らないまま裏切られると思ったらこの人が不憫すぎる。
「正義の味方ってさ、案外身内に背中を刺されたりするもんだよ」
「その時はその時だ。もしもで他人を罰するのは悪だ」
「そりゃそうだけど……」
駄目だ、僕の頭ではこの人にあいつの本性を納得行くように教える言葉が思いつかない……。
一頻りガンプレイをして満足したのか空中に放った銃をキャッチしてホルスターに収めると、催促するように手の平をこちらに見せてきた。
「ホラ、鍵を寄越せ」
信じていいのか? この男を……?
しかしこのままステアーの放置したまま夜を迎えたくはない。
また百地に買収されたブリガンドに襲撃されたらと思うとここからは離れなければ。
「……これもステアーを安全なところへ運ぶため。騙したら許さないからな」
「お前はそのままステアーの様子を見ながら、もし後ろからブリガンドに襲われたら応戦しろ」
「言われなくても」
僕の返事を聞いて親指を上げてニッと笑うとビャクライは真っ直ぐ運転席の方へ回っていった。
そしてその時に百地の姿もコフィンの姿も無いことに気づく。別行動しているのだろうか?
そうなると自分の移動手段の無いビャクライは最初から車を運転する気だったということか。
なんだか利用されているようで手放しで喜べないが、それで安全にヴィレッジに行けるなら今はよしとしよう……。
ビャクライが鍵を回すとエンジンの振動が車体を伝い、体を揺らす。
それでもステアーは目を覚まさない。
眠ったままのステアーの手に触れると少し冷たかったが、それでも競技場で横たわっていたよりは温かい方だ。
「ステアー……」
動く車に揺られながら、僕は何もすることが出来ずタイヤが小石を砕く衝撃が走る度に、虚しさが込み上げていった。
ステアーの前では強がってはいたけど、今はやっぱり駄目だ。
自然に涙が溢れる。
必死に堪えながらも啜り泣き。
運転に集中しているビャクライが走行音の中でこんな声聞こえるはずもないのに、人目を気にして唇を噛みしめる。
死と隣合わせの世界と分かっていながら、いざその片鱗を垣間見た瞬間にどうしようも出来ない自分に覚える。
どんな言い訳を思いついても慰めにすらならない。
日の沈みゆく廃墟街を行く車は暗く重たい空気に包まれたまま、真っ直ぐ横浜ヴィレッジへと向かった――。
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