第5話 蠢く影と刃の男
理緒と横浜を目指し旅立ってすぐ。私達は車に揺られながらアスファルトの上を進んでいた。
渋谷ヴィレッジの管理事務所に出入りする知り合いのご厚意でキャラバン隊が使っていたジープ型の車を借りられる事になった為、キャラバン隊が使っている道を進み、日を跨ぐことなく神奈川に入ることが出来たからだ。
普段徒歩でヴィレッジの外を行く私にとって、社内の空気の籠もった感じや尻から伝わる振動に慣れずにいた。
しかし、ひとつだけ良かった事がある。私は助手席で座っている理緒の方を一瞥した。
「スー……スー……」
車に乗る前まではその無骨なフォルムや軍用だったであろう暗いオリーブグリーンの塗装に目を輝かせていたというのに、車に揺られ一時間もしたらエンジン音にかき消されるくらいの静かな寝息を立てている。
走っている内にスモッグの範囲から抜け出していたらしく、早い内に窓を開けることが出来てよかった。車の中の籠もった空気が嫌いだから。きっと自分で車を手に入れても余程遠出でもない限り乗ることはなさそうだ。それこそ関東から出るでもない限り。
僅かに開かれたドアガラスの隙間から入り込む風にきれいな茶髪が揺らめいて、閉じた瞼からピンと伸びるまつ毛にかかる。砕けたアスファルトの高低差にガタガタと車体が揺れていても動くことのないその姿にどこか退廃的な美を感じてしまった。
しかし、二度見した時に口の端から涎が垂れているのを見てしまい私の抱いていた美が宙へ霧散していく。
少し悔しくなって指で横腹をつついた。
「んがっ……。あ、あれ、寝ちゃってた……?」
「車に乗ってすぐよ。涎垂れてる」
私がそういうと理緒は顔を赤くしながら慌てて口元を袖で拭った。
思わず「ハンカチとか持ってないの?」と言ってしまったが理緒はそれを言われ思い出したかのように席に座ったまま腰を浮かせ、もぞもぞと一分丈のズボンの尻ポケットを弄ると綺麗に折りたたまれたハンカチを取り出して申し訳程度に口元を拭う。いや、もう遅いと思う。えへへ……恥ずかしそうに笑う理緒を見たらそれ以上なにも言えない。
ハンカチは綺麗な白い麻でできていた。汚れもほとんどなく、色褪せている様子も、変色してる部分も無い。
「それどこで手に入れたの? 随分綺麗だけど」
「コロナから貰った。隅っこに赤く〝天〟って刺繍がされてるんだよこれ。なんかカッコよくない?」
理緒がハンカチを広げると、さっきまで見えなかった部分が見える。確かに、ハンカチの隅に筆で書いたような和を感じる字体で〝天〟と赤く刺繍されている。
以前ヴィレッジを歩いていたら背中に〝龍〟や〝惡〟と刺繍されたジャケットを着た子供達が公園で木の棒片手にチャンバラごっこをしているのを見かけたのを思い出した。
この年頃の男の子は漢字一文字が強調されているものにロマンを感じるらしい。多分、その文字自体の意味はそこまで関係はないのだろう。
「そうね。コロナの私物?」
「さぁ? でもコロナから渡されたしあいつがサルベージや盗みはすると思えないし、自分のだったか買うかしたんじゃないかな。『男でもハンカチくらいは持っておくものだよ。キリッ』とか言っちゃってさー」
絶妙に似ていないコロナの声真似をしながら渋い顔をする理緒。
どうやら二人の仲は良いようだ。と思っていたのだが理緒はどこか不満げに遠く、窓の外を見つめて目を細めていると溜息を漏らした。
「僕、コロナのこと、正直よくわからないんだ」
「なに、嫌いなの?」
そんなことはないけど、と言葉を濁す。理緒は嘘つくのが下手だし、きっと自分でも本当によく分かっていないのだろう。
私も理緒も、そこから言葉が出ず、沈黙が車内を支配する。外から聞こえるタイヤがアスファルトを舐める音がさっきより大きく聞こえる気さえした。
ある程度舗装され、車での行き来が可能になったキャラバン隊が行き交う道は一部の人間から蛇の道とも呼ばれるほど直線的な道がなく、舗装しやすい道路を探して直していった結果ぐねぐねとした道ができてしまった事からだそうで、実際走ってみたらわかったがまるで速度が出せない。ちょっと真っ直ぐ進んだら直ぐに右へ左へ……。
いくつもの交差点を通る度に事前に知らされていたキャラバン隊の目印を見て車を走らせる。人生の選択肢もこのくらい正しい道への目印があればいいなとか思ってしまうのは、どこを見ても崩れかけのビルという代わり映えしない景色に飽きてしまったからだろうか。
「あいつ――」
黙っていた理緒が意を決したのか、それとも吐き出さなきゃやってらんなくなったのか、ぼそりと呟く。
「――見た目でどうこう言うわけじゃないけど、あの如何にも苦労を知らなそうな傷ひとつ無い白い肌、人間離れした目の色、歳が近いのに、どこか大人びた雰囲気、なんか苦手というか……苦手とも違うんだけど。やっぱり、よくわからないや……」
独り言のように空を見ながら呟く理緒。その横顔を見てふと思う。……嫉妬しているのだろうかと。
理緒もコロナも背伸びしがちな所がある。こんな世界だからこそ子どもと大人の境界は曖昧で、言葉を覚えて聞き分けが良くなると直ぐに仕事に駆り出される社会の中で、無理矢理大人にさせられる子ども……。大人を演じることが出来るかどうかで大人からの扱いも変わる世界で、理緒はまだそれを苦手としていた。
コロナは大人を演じるのが得意だった。というよりも求められているのを自覚し、自分を殺すことを自然と身につけていた。それが良いこととは私は思わないけど、私と暮らす中でようやく素の自分を出すことができてきた子どもである。大人になろうとしてなりきれない理緒、大人になることを辞め始めているコロナ。ここには大きな違いがあった。
理緒は理緒なりにコロナのカリスマを感じたり、その言動に自分の理想を重ねながら、その理想になれない自分とそれの体現者であるコロナとの差を感じているのだろう。
曲がりくねった道をゆっくり進みながら、どう返すべきか考える。それと一緒に早く横浜ヴィレッジについて話題を変えたいとすら思ってしまう私が情けない。
「……嫉妬しているの?」
「嫉妬、嫉妬……そうなのかな。……そうなのかも」
繰り返し、嫉妬という言葉を繰り返して、そうなのかと自問自答する理緒。
「直ぐに答えを出す必要はないわ。私も、後回しにしてるものはある。モヤモヤしたり、不安になることもあるだろうけど、大丈夫よ」
「うん」
大丈夫よ。それは私自身にも向けた言葉。こんな言葉ひとつではなんの慰めにもならないことぐらい、私は知っている。けれど、それ以外に言える言葉が無いのだ。
下手にみんな似た悩みを抱えているなんて言えない。ひとりひとり抱えているものは本人だけのもので、それを他と同じだと切って捨ててしまうのは冷酷すぎる。
苦悩が露出した時、直ぐにどうにかしてしまおうと周りがしてしまえばその苦悩はより強いものへと変わってより人を腐らせてしまうかもしれない。
時間をかけて、ゆっくりと自分の気持ちに向き合うように本人に仕向けていくしかない。私やコロナでもない、理緒自身が自分の心の行く先を決めなければならない。
なるべく棘がないように、優しい口調を自分の中で探した。
「理緒、好きに生きて良いのよ思うように」
「……そう言うけど前に僕が〝俺〟って言い出した時やめさせたよね」
「あれは、理緒が強がって無理してるように見えたからよ。実際そうだったでしょ?」
「うっ……」
バツが悪そうに下を向いてしまった理緒。
ハンドルを握る手が少し熱っぽくなる。ああ、ここがアウトバーンだったら私の中の黒い塊が追いついてこないくらいに車を飛ばすのに。
「虚勢を張らず、あるがままに、自分がやりたいことやしたいことをするのよ。その自分勝手で他人を傷つけない範囲でね」
「……難しいよ」
「そう、難しいのよ。だから今すぐ考えたり、行動したりなんてしなくていい。焦らなくていい。ある時ふと解決することだってあるのよ。それがいつ来るかわからない事がもどかしいのだけれど、けど、そんなものなのよ」
理緒は一度だけこくり、と頷いて見せた。今はそれでいいと思う。存分に悩めばいい。問題はそれを引き摺らない事、悩む時とそうでない時との切り替えが出来ること。理緒にはまだ難しいことかもしれないけど、それが出来たら成長だと思う。
ハンドルを切って何度目か分からない曲がり角を曲がる。――その時だった。
「――っ!? ステアー! 危ない!」
理緒の言葉よりも先に私は銃を抜いていた。ブリガンドだ!
車が入った道の先、二百メートル程に男が一人、銃を持ってこっちを狙っていたのだ。車のエンジン音を聞いて先回りでもしていたのだろう。
案の定ひとりではない。理緒は目の前の驚異に釘付けだが正面の道の左右にもひとりずつ灰色のビルの影に身を潜めている。
正面の男は立ったままスコープのないウッドストックの猟銃のような物を両手で構えている。
「ハンドル握って」
私が早口にそう言うと理緒は一瞬驚いた様子だったが直ぐにハンドルに手を伸ばす。
「握ってることしかできないよ!」
「上等よ」
言いながら肘で窓ガラスの操作盤を押して全開にし身を乗り出す。アクセルを踏む足が吊りそうになり足が震える。しかしそんな事を気にしてられない。止まれば狙い撃ちにされる。
理緒が片手でハンドルを握っているが固定するのが難しいのか僅かに車が左右に揺さぶられる。しかしそのおかげか向こうの銃もゆらゆらと左右に揺れている。殺るなら今だ。
TMPを構え、男に向けて引き金を引き絞った。
ドトトトトッ――!!
揺れる車で不安定な姿勢、しかし、私の放った弾は確実に男の銃を弾き飛ばし、肉を抉り、骨を砕いた。遠くで血を滴らせ後ろへと倒れていく。
銃声を聞いて慌てて出てきたビルの隙間に隠れていた男二人。右と左に一人ずつ。ウッドストックに黒い銃身の猟銃を手にこっちを狙う。しかし車を襲うのを慣れていないのか迫りくる車に、どこを狙ったものかと銃口があっちへこっちへと揺れている。そんな相手に遅れは取らない。手早くひとりひとりにフルオートで数発食らわせると二人とも額から血を噴いて膝から崩れ落ちた。
確認せずとも始末出来ただろう。世の中には頭を近距離から拳銃で撃たれても生きていた人間がいると聞いたことがあるが、そんな奇跡的な事がそう何度も起こるはずは無い。
「ス、ステアー、まだ?」
理緒に声をかけられ、急ぎ体を車内に引っ込めると直ぐに運転を代わった。
運転を代わってすぐにごとんっと車体が少しだけ浮いた感覚がした。路上で私達を狙っていた男の死体を踏み越えたのだろう。
そこで私は車を止めた。理緒が何をするか理解したのか、車を止めた後すぐにシートベルトを外して外へ飛び降りた。私も車を降り、周囲に片付けたブリガンドの仲間がいないか警戒しつつ、車の後ろで倒れる男に近寄る。
車に轢かれ転がり血を飛び散らせて倒れる男に歩み寄る。当然ながら起き上がる様子はない。傍らには猟銃も転がっている。
猟銃を手に取り、中から弾を抜き取る。私が使う銃とは弾が合わないが、金として使えるだろう。男の方も服のポケットを弄ると予備の弾がいくつかとナットやボルトが少し。
三人組で活動していたら稼ぎは山分けだろうし、こんなもんだろうか……。
思ったよりしょぼい所持品に落胆していると、他のブリガンドの死体を物色していた理緒が駆け寄ってきた。
「ねぇ、これ、なんだと思う?」
差し出されたのは小瓶だった。握り込めるくらいの小ささの透明なガラス瓶の中には白い粉状の物が入っていた。塩や砂糖ってわけじゃないだろう。ラベルには汚い字で〝SDD〟と書かれている。
嫌な予感がして、その小瓶を手に取ると理緒の了承を得ずに自分の懐に収めた。
「ステアー?」
「多分だけど、ドラッグの類でしょうね。でも一応こういうのは一旦医者に見せた方がいいかもしれない。私が預かるわ」
「う、うん……それと――」
理緒が拳銃とその弾倉とライフルの弾をじゃらじゃらと、両手いっぱいに持って見せてくる。
「――ほら、あいつらの持ってた金目のもの」
「ありがとう。でも銃はいいわ。かさばる割に大した値にならないし、弾倉だけ抜いたら捨てちゃっていいわ」
私がそう言うと理緒は手にした弾倉を指で挟んでライフル弾をポケットにしまい、器用に拳銃から弾倉を引き抜くと拳銃だけ捨てた。
「弾、どうしようか?」
「半分は理緒の物にしちゃっていいわ。とりあえず今は全部理緒にあずけておく。管理、できるわね?」
「っ! 任せてよ!」
理緒は私の言葉に目を輝かせ弾倉を手にしたまま小さく飛び跳ね喜ぶと笑みを浮かべながら手にした弾をしまい込んだ。
人に頼られるのが余程嬉しいらしい。
頼れるかどうかはこの際どうでもよかった。理緒が喜んでくれたのならそれで。
「道路の真ん中のやつはキャラバンが通る時邪魔だからどけておきましょ」
「はーい」
死体を廃ビルの中へ放り込むと妙な収穫と共に車に乗り込み、再び横浜へ向かった。
******
横浜ヴィレッジ――。
関東のヴィレッジで数少ない規模の大きなヴィレッジで、理緒も以前世話になった教会は孤児院の役割も担っており、子どもの教育レベルが高いとか。
元はシェルター部分だけだったヴィレッジは元から教育は進んでいる方なのだが、ここ横浜ヴィレッジは地上部まで規模を拡大して人口も多いにも関わらず治安はそこそこ。
警備隊の練度が高く、川崎ヴィレッジがブリガンド集団に襲われた時には加勢してもらったことを思い出す。
ヴィレッジの入り口である横浜駅の東口に向かうためにヴィレッジを囲う川を渡るため、橋を通る。四百メートル程遠くに既に孤児院兼教会のビルが見える。ここ一帯でも一際手入れされて綺麗な高層建築だからか穴だらけ欠損だらけの廃ビル郡が並ぶ景色の中でランドマークとなっていた。
キャラバンの仕事の邪魔にならないよう、入り口の隅に車を停める。すると即座に武装した警備員が三人組で駆け寄ってきた。内一人は既に銃を構えている。
「そこの車。車を降りて両手を挙げながら名前と所属と目的を言え」
先頭の警備員が車の前に立ちながら声を張ってこちらに支持を出す。
理緒は初めての事でビビっていたが、抵抗する理由もない、私は指示通りにいそいそと車を降りて手を挙げると理緒もそれに倣った。
「渋谷ヴィレッジから来た傭兵のステアー、目的は仕事の途中に立ち寄っただけよ。長居はしないわ」
「お、同じく傭兵の川手理緒、同行者です!」
警備員の一人が理緒の方を見て首をかしげる。
「川手……? なんだシェルター生まれか。しかもその服、ウチのヴィレッジの孤児院で支給されるやつじゃねえか」
その言葉に銃を構えていた警備員も警戒を解いたのか銃を下ろす。
「ここの元居住者か。それに、ステアーっていやあ確か川崎ヴィレッジに住んでたやつだっけか」
「そうよ。ブリガンド襲撃の際に一緒に行ってくれた人かしら?」
「ああ、近隣ヴィレッジが襲撃された時はよく派遣される。あの時は大変だったな……」
私と警備員の会話を聞いたのか、三人組のリーダーらしき先頭にいた警備員の顔がもういいか……とでも言いたげな面倒くさそうな表情になっているのに気付く。
案の定、リーダー的な警備員が欠伸混じりに「中に入るなら入り口の事務所で名前書いていけ。小僧、お前もだ」とだけ言うと早々に去っていってしまった。
他の二人もそれについて行くように直ぐに他の警備員の巡回の中へ消えていく。
それを見届けてから理緒の方を見ると顔色が悪い。眉を下げて不安げな表情のまま、去っていった警備員の方を見ていた。
「……どうしたの理緒?」
「え、あ、いや、なんでもないよ。行こう、ステアー」
理緒はそう言うと少し早足で車に戻ると鍵の確認をし、そのまま駅の中へ入っていってしまった。
「理緒……」
やはり、まだ川崎ヴィレッジが襲われた時のことを恐れているのだろうか。警備員との話を聞いて思い出してしまったのだろう。
あの様子を見るに新しくなったと聞く川崎ヴィレッジの方へ行かないで良かった。
理緒を追いかけて私も横浜ヴィレッジへと足を踏み入れた。
******
ここに立ち寄ったのは単なる補給の為。気づけば昼過ぎ。早朝から車を走らせていて少しだけお腹が空いていた。
今後何があるか分からないし、少し保存食や予備の弾薬等を買い込んで車に積んでおくのもいいだろう。
理緒と二人で買い出し。渋谷ヴィレッジでは休日が被った時にたまにする程度ではあったが、遠出で二人きりでの買い物となるとなんでもない筈なのにいつもと違った感覚。
機嫌が戻ったのか、理緒も笑顔を取り戻して露店に並ぶ商品に目移りしながら私の横にぴったりついて歩く。
露店街に入ると干し肉や水、米も少し、銃の弾等を買い足す。ひったくりを最初は警戒していたが、露店街の入り口に〝盗人、即射殺 ――横浜ヴィレッジ警備隊〟と書かれた看板があったため少しは気楽に買い物ができた。
「大分買ったわね……」
その昔、買い物をする度に店側が使い捨てのポリ袋を用意し、商品をそれに入れて持ち運びがしやすいようにしてくれるシステムがあったらしい。しかもビニールよりも環境に優しくエコで、燃やしても有害物質が出ないとか。
便利なサービスだと思ったが、今の時代にそんな大量生産大量消費の極みのようなサービスがあるわけもなく、紙くずやボロの布切れなど適当な包めるものに包まれていれば上等、基本的にその場で手渡し。そんな訳で事前に袋や鞄を用意するべきだったが、私は普段動くのに邪魔にならない程度の、服などに装着できるポーチ程度に収まるくらいしか買い込まない。
やっちゃったなぁ……と、腰回りの収納に入り切らなくなった米の入った麻袋を小脇に抱え思っていたら理緒が徐に防弾法衣の裾のポケットから折りたたまれた布を取り出した。
「はい。こーれ」
目の前で広げられたのは布の手提げ袋だった。なんて用意の良い。
出された袋を見て驚いていると理緒がへへっと得意げに笑う。
「いつも買い出ししてるから。それ入れてよ」
「……流石ね」
まるで主夫。用意が良いというかなんというか。
言われるがまま米の入った袋をそのまま手提げに入れる。すると理緒は自分で買った物も適当に隙間に入れて手提げがいっぱいになるとそのままそれを腕に通す。
このくらいは持ち慣れているといった様子で理緒はわざとらしく「お腹すいたなー」と呟いた。そういえば私もお腹が空いた。
「昼食の後はもうここを発つわよ。やり残したことは無いわね」
「無いかな。じゃあご飯にしよー!」
拳を突き上げて高らかに、理緒は鼻歌交じりに歩き出す。
私達が寄る店は既に決まっていた。横浜ヴィレッジには何箇所か食事を出す店があるが、元々駅ビルだった建物の中がヴィレッジの管理部門のオフィスや警備隊の詰め所などがあったりで、その中に入っている食堂が比較的治安が良いという事を知っていた。
川崎ヴィレッジに近いだけあって顔なじみもいるこの地で、知人とすれ違う度に軽く挨拶だけしていく。
しかし足は止めない。思い出話に花を咲かせたくなかったから。
******
目当ての店に到着した私達は中に入ると空いている席に着いた。木の板を雑に繋ぎ合わせた隙間だらけの丸テーブル。周囲を見れば私のような余所者らしき武装した人が多く、中には休憩中だろう警備隊員の姿もあった。
向かいに座った理緒は周囲を見渡すこともなく壁に貼られたメニューを見ている。
理緒の背後の席や隣の席を見る。テーブル席で向かい合って食事する人々は別に家族というわけではない。店が混めば相席は当たり前。貧困街に住むボロを纏った髭面と管理部の高給取りが額を突き合わせて食事、なんてのもどこのヴィレッジでも見られる光景だ。ここも例外ではない。
壁も屋根もしっかりした良い建物の中にある店ではあるが高級料理やでも公務員専用食堂というわけでもなく、良い立地の定食屋のような場所であるここは多くの人間が出入りしている。
店内の騒がしさの中で耳を澄ませてみれば傭兵や警備隊、スカベンジャーがそれぞれの立場を忘れ、やれあそこは危険だあそこは汚染が酷いだと、砕けた口調で食事しながら情報交換しているようだ。
中には金で情報を売る情報屋なんかも混じっており、テーブルの上で金勘定をする者もいる。
「何にするの?」
声をかけられ、ハッと前を向く。理緒だった。
テーブルに肘をつき頬杖をつきながら私の顔を睨んでいる。口をへの字に曲げて鼻から溜息を吐くと顎でメニューを指す。
「まーたそうやって難しい顔して周りを気にしちゃってさー、僕の声も聞いてないんだから」
「……ごめん」
「今度は何を盗み聞きしてたわけ?」
「別にそういうつもりじゃないわ……注文決まったの?」
「こっちのセリフ」
思わず苦笑してしまった。そんな私を見て理緒も少しだけ表情を緩めてくれた。気を取り直してメニューを適当に見渡し、店員を呼んだ――。
――少しして、注文した物が私と理緒の前に並べられた。熱と湯気が顔に触れる。
理緒は素早く両手を合わせると小声で「いただきます……!」と囁くと目の前に出された焼肉とマッシュポテトにかぶりついた。教会で教育されたにしては上品ではない。しかし、それを見て逆に変な洗脳のようなもの等を施されてはいなさそうだと少し安心した。
言葉より、行動の端々にその人間の素が出るという。食事の仕方とかにもそうだ。
理緒は既に切って出された肉を大口で頬張る。なんともせわしない食べ方だ。それでもなんだか、安心する。
「……今度はジロジロ見ちゃって、ステアーの分はそっちにあるでしょー」
「ああ、そういうつもりじゃないわ。……いただきます」
ガヤガヤと人々が言葉を交わし、食器の音が交わる空間で、このテーブルだけが黙々と食事をする。
幼かった頃、食事しながらべちゃくちゃと話していたら父に怒られたことを思い出してしまう。
理緒から折角これからどうしようとか、料理おいしいね等と話しを振られるもつい短めに返事して話を切ってしまう……。
気づけば理緒も黙ってしまっていた。微妙に空気が重くなり始める。……そんな時だった。
「二人揃って黙りこくって。それがシェルター暮らしの作法か?」
嫌味ったらしい男の声。振り向けばそこには、見慣れた顔があった。
「……!? 〝バヨネット〟何故ここに!」
私も理緒も、目の前の男に驚く。理緒は言葉も出ないようだ。
コロナと同じ青紫の瞳を持つ男だが、その目はコロナのような優しさと高貴さが同居するようなものと違い、自信の高さと攻撃的な目は猛禽類のような威圧感がある。
黒く長いライフルを背負ったトレンチコートの裏には鍔にリングのついたナイフ、銃剣がぶら下がっている。
遺伝子改造によって生まれた、尋常ならざる力を持つ、最強の傭兵……。
「ふん、まるで葬式だな。死体と同じく地下暮らししてたらそうなるのか?」
「なんだと……?」
理緒だった。バヨネットに食ってかかろうと腰を浮かせる。シェルター暮らしを馬鹿にする地上の人間の典型的な挑発だ。
「理緒、こんな挑発に乗るのは馬鹿のすることよ」
「でも……!」
「フフッ、ガキのお守りは大変だな」
バヨネットがくつくつと嘲笑を理緒に浴びせる。こいつ、遊んでるな……!
「てめぇ!」
理緒がバヨネットに駆け寄り拳を突き出す。しかしそんな怒りだけの正直過ぎるパンチは私でも簡単に捌ける。
制止させようと声を出そうとしたが、もう遅かった。
飛びかかった理緒の拳をバヨネットは軽々受け止める。握りこぶしをそのまま包むような大きな手。そのまま理緒の手を引っ張り込み踏み込んだ足を蹴り上げると理緒の体制は一瞬で崩れてしまった。
「あっ! ……っ!」
バヨネットは理緒の手を話すと同時に前のめりになって見せた背中に軽く拳を下ろすと、理緒はあっけなくうつ伏せで床に倒されてしまう。
ドサリと鈍い音が店内に響き、周囲にいた客が喧嘩を期待して立ち上がる。即座に店員まで駆けつけて、瞬く間に店内の注目を集めてしまった。
「店内での暴力行為をする奴は出禁にするぞ。それが殺し屋だろうがな」
腕っぷしの強そうな店員が腕まくりをしながらバヨネットににじり寄る。
店員の方を見ながら、バヨネットはクククッ……と堪え笑いをすると肩をすくめる。
「なぁに、同僚同士のちょっとしたボディランゲージってやつだ。もう終わった」
「チッ……おい客ども、見せもんじゃねえぞ。さっさと食うもの食って席を空けろ!」
店員がそう言いながら去ると客も言われた通りにいそいそとそれぞれの食事に戻っていく。
それを見回しながらバヨネットは倒れた理緒の腕を掴んで床から起こした。
私は、いつの間にか席から立っていたものの、理緒に駆け寄ることが出来なかった。
「もう終わっただと……ふざけやがって!」
「現実を教えてやっただけだ。寧ろ感謝して欲しいところだな小僧」
バヨネットの手を振りほどこうとする理緒だったが、その圧倒的な力に振りほどけない。
「小僧じゃない、理緒だ! 同僚とか言うなら名前ぐらい覚えろ!」
「勢いだけ一人前では、女ひとり守れず死ぬぞ」
「なにを……!?」
再び一悶着起こしそうな二人。一触即発な空気にバヨネットへの苛立ちが湧き上がる。
「いい加減にしなさい二人とも」
「ス、ステアー……」
「ふん……」
理緒の手を大人しく放したバヨネット。理緒はまだ不服そうにバヨネットを睨みつけながら服の汚れを払うと大人しく席に戻る。
そして今度は、私はバヨネットの襟を掴んだ。
「事務所に顔を出さないと思ったら、こんなところで何をやっているの」
「おーおー、そう怖い顔を近づけるな。言っておくが、お前らの事務所に名を連ねさせて貰ったが、何から何までお前達の指示通りに動くつもりはねぇよ」
「なんだと……!」
「事務所に入る時にした約束は守っている。もうブリガンドだろうが悪徳商人だろうが、相手を選ばずに仕事を請け負うなんてしてねぇ」
バヨネットが真っ直ぐ私を見つめながらそう言うと、掴んだ襟から手を放した。理緒にしたことを大目に見るつもりはないが。
確かに、現実を直視させられたのは事実だ。
相手が百戦錬磨のバヨネットとはいえ、あんな安っぽい挑発に乗るのは未熟過ぎる。
だが、バヨネットもこんな事をするためだけに顔を出したわけではないだろう。
「……理緒をからかうためだけに顔を見せるなんて、暇なのかしら?」
「くくっ……ああいう生意気な奴はついからかいたくなってな」
「それだけならこれでこの話はおしまいよ。これ以上おちょくる気なら、今度はお前が床を舐めることになる」
私の静かな怒りを当然感じただろう。しかし、バヨネットは私の言葉を聞いても尚、余裕の表情を崩さない。
長年過酷な地上を生き抜いてきた。歪んだまま完成した性格の持ち主をこの程度で大人しくさせることなど出来ないとは分かっている。しかし、一度は膝をつかせた相手だ。この男も私の力は分かっているだろう。
「ふっ、まぁこのくらいで遊びはやめておくか……」
「なに?」
バヨネットは急にニヤけた顔を引き締めると、徐にトレンチコートのポケットに手を突っ込んで、持っているものを私の前の突き出した。
開かれた手の中には小瓶がひとつ。中にはみっちりと白い粉が入っていた。つい最近見たことのあるような……。
「〝SDD〟」
「え?」
「SDDという新種のヤクだ。コイツの出どころを追っている」
聞いたことのない名前だった。ヤクと聞いて、枸杞の顔が脳裏に過ぎった。彼は奴隷にされ薬物漬けにされていた経験を持つ子だったからだ。ヤクのせいで一度死を経験している。
枸杞に使われていたものとは違う。
私はここに来る前の事を思い出して持っていた小瓶を取り出した。SDDと書かれた小瓶を。
それを見てバヨネットは眉を一瞬ピクつかせた。私が持っていても仕方がない。それをバヨネットの手の上にある小瓶の隣に置くとバヨネットは黙ってふたつとも自分のトレンチコートに収めた。
「ここに来る途中、ブリガンドが持っていたわ。大きな組織の奴らではなさそうだった」
「だろうよ。一流の売人は自分でヤクなんぞ使わねぇ。……ここ最近いきなり流行りだしてやがる。組織化されてないちんけな小悪党から、スラムの貧民どもを中心に広まってきている」
「あなたの依頼主は?」
「そんなもんいねぇよ――」
そんなもの……いない?
この男が慈善事業で動く男とは思えない。金が貰えれば何でもやるが、そうでないなら誰の味方にもならない。そんな男だ。
目の前の冷徹そうな男は刃のような鋭い眼差しで遠くに向けた。その先は店の壁などではない。もっと、遠くのなにか。
「――昔つるんでた奴がやっちまったのさ。フリーの傭兵の私生活だ。誰も止めるやつなんていやしねぇ。……久々に会いに行ったら、俺のことさえ覚えちゃいなかった」
「それは、どうしたの?」
「殺したよ。この俺を撃とうとするなんざ、余程頭の中が空っぽだったようだしな……」
涙は流していなかった。表情のひとつも変えなかった。でも、私には見えた。
心の中の刃から涙が滑り落ちるような。怒りと憎しみを押しのける程の悲しみを。
「弔い合戦という訳ね。私も今の仕事の後に手伝うわ」
正直、噂話を追うよりも目の前の驚異を優先させたかった。しかしどんな依頼だろうと途中放棄する選択肢は無い。
あの亜光という男も、ろくな人間ではなさそうだが他人の嘘を見抜けないような間抜けではないだろう。てきとうな嘘を並べて仕事を投げたら面倒事になりかねない。
バヨネットの恨みに便乗するつもりはないが、この悪意に満ちた世界で更に悪の芽が出てきたならば、それは摘み取らねばならない。根っこから確実に。
「弔い合戦? 俺が殺ったてのにか。笑わせる」
「バヨネット?」
「復讐とでも言えばいいんだろうが、俺は単純に、頭にきてるだけさ」
バヨネットの額にシワが寄る。歯を食いしばりながら言うような、くぐもった声は悲しみを怒りに変えていく。
「その怒りで仇討ちするという事なら復讐でしょうに」
「どう思おうが好きにしろ。俺はただ理由が欲しいのさ。殺して、満足出来る理由がな……。お前と同じさ」
そう吐き捨てて、バヨネットは店を出ていく。
背を向けて歩き出すその肩を掴もうと伸ばした私の手は、肩に届くどころか背を私は追えなかった――。
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