まさかのフリージア


 わたくし、田崎フリージアは屋上からグラウンドを観察している。


 豆粒みたいな生徒たちがボールを追いかけ回している。感情が薄い私には何が楽しいかわからない。


 俯瞰の視点で状況を把握する。



 ――あら、武志様が珍しく真面目にやっていますわ。



 武志様の対戦相手は立てる人間がいなくなっていた。

 三年C組は弱い相手ではない。むしろ、この学園で三年まで生き残れた生徒たち。無能なわけではない。


 相手が悪かっただけですわ。


 全ての敵を打ち破った武志様はクラスメイトと喜びを分かち合っていた。


 ……私はそれを見ても何も思わない。だって、私には感情なんてないですもの。あそこに入りたいなんて思いませんわ。

 ……少し鼻息が荒くなっているのは空気が悪いからですわ。



 幼い頃から私は普通ではなかった。

 喜怒哀楽を感じ取れない。感情が全くないわけではない。人よりもそれが薄くて、他人の痛みが分からず共感性というものがなかった。


 自分と他人の能力の差を頭で理解していた。


 誰かが泣いてもどうでも良かった。誰かが怒っていてもどうでも良かった。悲しんでいても共感出来なかった。


 旦那様がボロボロの武志様を屋敷に連れてきた時も、何も感情が浮かばなかった。



 **********



「あら、ネズミが一匹いらっしゃいますわね。出てきてもよろしくてよ」


 学園の屋上に音もなく現れたのは、一年S組の九条綾鷹。私も武志様も警戒している相手。


「……部外者は立ち入り禁止だ」


「あら、学園はメイドの在中を禁じていませんわ」


「お前みたいなメイドがいてたまるか。お前がいるとあやめの気が休まらん。……少し痛い目を見てもらうとするか」


 九条の感情は理解できる。鬼瓦あやめを散々痛めつけたのはこの私。彼は鬼瓦あやめの腹心。

 私にとってはどうでもいいこと。


 私は躊躇なく屋上から飛び降りる。

 九条の舌打ちがかすかに聞こえた。





 校舎のくぼみを利用して地面まで降りた私を待ち構えていたのは、黒い服を着た屈強な男たちであった。

 明らかに学生ではない。鬼瓦家の護衛たち。


 ――あら、用意周到ね。



 **********



 戦うのが私の日常だった。

 誰かを守るのが私の仕事であった。


 ……それなのに、私はあの日、武志様に助けられたわ。


 私にとって武志様はどうでもいい存在だった。

 玲香様以外にお守りが増えただけ。そう思っていた。


 武志様のそばにいて、私は珍しく驚く事があった。

 頭の回転の早さも運動能力も同年代の子供のそれとは違った。

 ほんの少しだけ私に劣る。初めはそう思っていた。

 いつしか、私は武志様を投げ飛ばすのが難しくなっていった。


 武志様からは嫌われていると思っていた。

 私をみるといつも嫌そうな顔をする。

 そんな顔をしても私は何も動じない。だって心なんて自分にはない。命令だけあればいい、そう思っていた。


 武志様との鬼ごっこを何度も繰り返した。

 昼夜問わず武志様と私はずっと二人で過ごす。

 別に親愛なんて沸かない。住む世界が違う人間。

 いつも武志様を探している自分がいるけど、仕事だと思うことにした。


 好きでも嫌いでもない。だって私には人の心なんてわからないもの。心の奥で疼くものを感じそうになると、自分を戒めた。


 武志様が家出をしそうになって、慰めたのだって仕事の一貫。


 あの人は単純だからころっとほだされてくれた。

 これで旦那様の教育もはかどるだろう、それしか考えていなかった。そう思った自分がほんの少しだけ嫌なものに感じた。


 ……私の部屋で寝てしまった武志様は悪夢にうなされていた。


『母さん……、どこ? ……父さん……、置いてかないで……、俺は……』


 ――別に私が絆されたわけじゃないわ。私の仕事は武志様のお守り。だから、膝の上に武志様の頭を乗せて……落ち着かせて上げただけよ。




 ************




 黒服が地面に崩れ落ちる。

 私は一息をついて、黒服の処理をしようとした。


 背筋に嫌な気配を感じた。電流が流されたみたいに、頭がしびれる。

 私は自分の感覚を信じて瞬時に前方へと身体を倒した。


 転がりながら移動をすると、さっきまでいた場所に銃撃が走った。当たりどころが悪ければ殺傷できる程度の威力の口径。

 あのままとどまっていたら私の足が負傷していた。


 ――まさか区内の、しかも学園で銃を? こんなメイドごときに? さっきの黒服は九条の罠?


 思考を絶やさず、私は銃撃から身を防ぐために校舎内へと隠れた。



 ************



 私はいままで学園になんて通った事がない。

 勉強は田崎から教わった。女性らしさはローズマリーや他のメイドから教わった。

 私にとって学園とは不要な場所だった。

 他人なんてどうでもいい。


 だから、武志様が小学校を転校して、泣きわめいていたのが不思議でたまらなかった。

 あれだけ優秀な彼がなぜそこまで学校に固執する?

 一晩考えても答えは出なかった。


 ある時、武志様は私に言った。


『ていうか、フリージアも学園一緒に通おうぜ! 絶対楽しいだろ? なあ、親父に頼んでみようぜ』


 私は首をかしげるだけだった。学園になんて通う意味がない。いまさら勉学する必要性を感じない。

 それに私は常に学園のどこかしらにいて、武志様を監視兼護衛をしていた。


『あーー、そっか。確かにいつもいてくれるけどさ、フリージア一人で寂しくないか?』


 私は更に首をかしげた。

 寂しいという気持ちがわからない。一人ぼっちで何時間も同じ場所で隠れたりしているけど、これは仕事。寂しいなんて子供じみた感情は邪魔なだけ。


 私は武志様の考えている事が理解できなかった。





 …………そう、あの時までは。


 玲香様の代わりに攫われた私は死を覚悟した。

 そういう風に教育されてきた。

 悲しみも恐怖もなかった。ただ私がミスをしただけ。

 私がいなくなっても、武志様には代わりのメイドが付く。それでおしまい。


 だから……、だから、私はあの時、なんであんな感情を抱いたか理解できなかった。


『おう、遅くなったな! さっさと逃げようぜ!』


 言葉も出なかった。叱りつけてやりたかった。なぜ旦那様が許可を出したか理解できなかった。


 私は武志様を生きて帰らせる。そんな使命が出来てしまった……。


『ったくよ、フリージアは真面目すぎんだよ。この戦いが終わったら学園に一緒に通おうぜ!』


『あっぶね!? 俺が牽制するからフリージアは回り込んで制圧してくれ。いいか、絶対怪我すんなよ。これは命令だ』


『ははっ! フリージアが怒ってんの初めた見たぜ』


 私達は結果的に助かった。

 崩れ行くビルの前でどちらからともなく、わたくしたちは手をつなぎ合わせる。

 その時、感じたことのない感情が心を支配した。


 それが何かわからない。ただ、私は一生武志様を守るとその時誓った。




 ************




 制服を着ている私は、校舎に入り生徒に紛れ込もうとした。

 隠れるように廊下を移動する私は誰かに手を掴まれた――


「よっ、学園に通う気にはなったか? 制服似合ってんな」


 私の制服姿を見て意地悪そうな笑顔を浮かべる武志様であった。


 私の心が穏やかなものに切り替わる。

 周りの不穏な空気も霧散していた。もうここで襲われることはないだろう。


 私は武志様を見つめる。

 ……本当に帰ってこられて良かったですわ。




 **********




 武志様が行方不明になった――

 私は副執事長の指示で、その日だけ違う仕事をしていた。武志様には違う護衛がついていた。


 私は自分の身体に何が起こったか理解できなかった。

 全身が震え、立っていられなくなり、顔を手で抑えていた。

 嗚咽が止まらない。嫌な感情がどんどん押し寄せてくる。


 その時、私は初めて――恐怖と寂しさと悲しさと後悔を知った。

 武志様と一緒にいられた時間の喜びと愛しさを理解できた。


 そして、私は――激怒というものを理解した。

 人形だった私に心をくれた武志様。


 奇しくも武志様がいなくなって、初めて自分に感情があると知ってしまった。


 私は田崎にお願いをして辞表を出した。

 武志様を救いに行くために――


 長い長い旅に出た。





 武志様とスラムで出会えた時は、私は知らぬ間に武志様を抱きしめていた。

 胸の奥からほわんとしたものが浮かんできた。

 嫌な気持ちではないけど、切ない気持ちにもなった。


『……ここから出たら今度こそ一緒に学園に通おうな!』


 武志様のあの時の笑顔が忘れられない。

 私は武志様の期待には答えられない。学園に通える身分なんかじゃない。

 淡い期待をしてはいけない。

 スラムで過ごす日々が自分の気持ちの正体を感づかせる。

 鈍感であろうとした。


 それでも気持ちが抑えられなかった。


 恋をする、そんな感情は知らなかった。


 こんなに苦しいなんて思わなかった。


 これなら死んだ方がマシだって思えた。


 それでも私は心を隠す。


 一緒に学園になんて通えるわけない。


 武志様はいつか他の誰かと結婚して、私が生涯それを見守る。


 そばにいられるだけでいい……。




 だってこれ以上そばにいたら気持ちが抑えられない。私達の関係は今がベスト。そう思わないと駄目。


「フリージア、やっぱり学園には通えないのか? 玲香も喜ぶぞ」


「あなたは本当に女性の心がわからない人ですわね……。はぁ……、私は学園に通う必要なんてありませんわ」


 学園に通いたい。武志様とずっと一緒にいたい。

 それは叶わぬ夢。私にとって武志様と過ごしスラムでの一年間が一番幸せだった。


 もしも学園に通ったとしても、玲香様や天童様と愛情を育んでいる姿を見たら……私はとても、寂しくて……苦しくて……。


 だから、私は陰で見守っているだけで――



「またその顔だ。ったくよ、結構わかりやすいんだよ。ほれ、付いてこい」


「武志様? ど、どこへ行くの? わ、わたくしは……ただのメイドですわよ!?」


 武志様はため息を吐いた。


「はぁ、違えよ。フリージアは俺にとって家族みたいに大切な人なんだよ。ただのメイドじゃねえ」


「で、でも……」


 いつもなら武志様は私が否定したら引いてくれる。

 今日はなぜか違った。


 武志様が足を止める。

 そして私を見つめた。その瞳に吸い込まれそうになった。


「ツンデレは素直じゃねえって学んだんだよ。俺は二度と後悔したくない。フリージア、職員室行こうぜ。もう田崎のおっさんにお願いしてお前を編入できるようにしてあるんだよ」


「えっ……」


「言っただろ? 生きて帰ったら一緒に学園に通うおうな、って……」


 私は激しい感情が渦巻いて、それに身を任せるまま武志様の胸にすがりつく。


「……ほ、本当は、武志様と、学園に、通いたかったですわ……。で、も、わたくしは、それをしては……」


「たまには俺に甘えろ」


 わたくしはこの時、本当の自分がわかったのかもしれませんわ。



 武志様の前では寂しがり屋で甘えん坊で……、武志様の事を――愛している事を――




 私は武志様の胸の中で嗚咽をこらえながら咽び泣く。

 今はただ、愛しさだけを感じていたかった。










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