ボールはともだち
広いグラウンドであった。
子供の頃の俺はグラウンドで遊ぶのが好きな普通の男の子であった。
父さんも母さんも優しくて俺は二人が大好きで、毎日がとても楽しかった。
学校では友達も大勢でき、ずっとこんな幸せな日々が続くと思っていた。というよりも、その幸せな日々が普通だと思っていた。
……父さんと母さんが死んだ。
一応、病気という事であったが、今までそんな素振りを見せた事はなかった。
俺は悲しみに沈み、どうしていいかわからなかった。
父さんが俺のために残してくれた遺産を巡って、今まで見たこともなかった親戚が押し寄せてきた。
俺は子供の頃から人の感情に敏感だった。
どいつもこいつもクズ人間だった。
俺は大人たちに必死で抵抗した。それこそ父さんたちの死を悲しむ暇さえなかった。
子供の力は無力だ。
とある極悪な親戚に身柄を拘束されて海に沈められそうになった。もう生きることを諦めた時、あの男が現れたのであった。
東郷剛。俺の今の親父だ。
あいつの横には子供の頃のフリージアがいた。あの頃からフリージアは特殊であった。もちろん田崎もいた事を覚えている。
田崎が部下を率いて俺の親戚たちを次々とワゴン車へと乗せて、どこかへ消えてしまった。
フリージアの銀髪に見惚れていたら、東郷剛は俺に言った。
「……ふんっ、貴様は軟弱だ。とてもハヤトとアスナの息子だと思えん。あいつらは甘やかしすぎだ。俺が鍛えてやる」
それが、俺と親父との出会いだった。
*************
審判がキックオフを告げていた。
俺は身体を無意識に動かし、初戦の対戦相手である三年Cクラスと対峙する。
「おい!? 東郷、ぼけっとしてんじゃねえよ! 俺にボール回せ!!」
俺は龍ケ崎の言葉を無視してサッカーボールを蹴った――
**************
「こんな問題もできないのか? 俺とアスナは小学生の頃には完璧にできたぞ」
「また失敗したのか。……プッシュアップ(腕立て)百回追加だ」
「田崎、お前は甘すぎる。来週から俺がいた部隊へこいつを送る。学校には休学手続きを取れ。……俺も仕事の調整もしておけ」
「貴様、なぜわからん? 同じレベルの人間と切磋琢磨しなければ成長しないんだ。玲香の言う通りあの小学校はもう行く必要ない」
東郷の親父は厳しかった。
いや、厳しいというレベルではない。小学校高学年になると、人としての人格がある程度形成される。世間というものがわかる。
明らかに世間と隔絶したおかしい教育方法であったが、俺は負けたくなかった。
事あるごとに東郷の親父は俺の父さんの事を引き合いんい出してきた。
「お前の父は常に二位だった。俺がいたから一位になれなかった。お前は負け犬になりたいのか?」
俺は悔しくて悔しくて、歯を食いしばりながら東郷の親父の教育に耐えた。
一番悲しかったのは、思い出が詰まった小学校を転学する時であった。
俺のためにクラスがお別れ会を開いてくれた。
俺に告白してきた女の子もいた。その頃の俺は恋心っていうものがわからなかった。だから、「ごめんなさい」としか言えなかった。
最後にはみんなで作った餞別の色紙をくれた。
悲しさを嬉しさがごちゃまぜになった気持ちで家に帰ると、親父は手に持っている色紙を奪い取った。
「こんなものは感情の邪魔になる。情に流されすぎるな。あの中で、再び出会う生徒はいない。感情を殺せ。そうすればこの腐った世界でも生きやすくなる。あいつらは優しすぎたから……くそっ」
親父は田崎を呼んで色紙を「処分しろ」と言い渡す。
俺は、親父に逆らえなかった。
親父の金で食わせてもらっている。親父なりに最高の教育を受けさせてくれている。
頭では理解できた。だが、何も動けない自分が情けなくて悔しかった。
***********
あの時の気持ちをサッカーボールに込めて蹴り放つ。
ボールは弾丸となって三年Cクラスの司令塔である男子生徒の腹にのめり込む。
ボールの殺人的な回転がギュルギュルという音を立てて摩擦する。
交通事故にあったかのように、男子生徒が吹き飛んでしまった。
……俺もよくフリージアに吹き飛ばされたな。
*********
「弱っちいですわね。これでは私のご主人様になんてなれませんわ」
あの頃はフリージアの事が怖かった。
小さい身体のくせに俺よりも全然強くて、賢くて、一切の感情を表に出さない。
文句と言っても冗談を言っても反応しない。ただ俺をけなすだけであった。
そんなフリージアは俺のお目付け役なのか、常にそばにいた。俺は堅苦しいのが嫌だからどうにかフリージアを撒こうと必死だった。
「あらあら、そんな愚鈍な動きではいけませんわ」
鬼ごっこのつもりなのだろうか? あいつは俺がどこに隠れていても見つけてしまう。見つけるたびに俺を投げ飛ばす。俺はむきになって応戦するけど、最終的にはぼこぼこにされてしまう。
俺は我慢していたけど、こんな生活が嫌になってきた。義妹の玲香は俺に冷たい。嫌われていると思っていた。
親父は俺に厳しい。殺されると思った。
フリージアは何を考えているかわからない。田崎は親父の手先だと思っていた。
誰も信じられないと思っていた。
俺は家出をしようと決意した。今思うと、経済力のないガキが馬鹿な事してんじゃねえ、って思う。まあ、ガキだったんだよな。
そして、みんなが寝静まる真夜中に家を出ようとした。
家を出た瞬間、俺は投げ飛ばされた。フリージアだ。
そして、フリージアは俺を引きずりながら自分のメイド室へと運ぶ。
そのときのフリージアはなんだか悲しそうな顔をしていた覚えがある。無表情だけど、ずっと一緒にいるから表情の違和感でわかったんだよな。
「……情けない男ですわ。……あなたにはもううんざりですわ」
言葉と表情が一致しない。フリージアは部屋に入っても悲しそうであった。
そして、フリージアは奥の机から一枚の色紙を取り出して俺に見せてきた。
「……本当は秘密ですわ。……旦那様が大切に預かってくれって」
その色紙は俺が小学校転学の時に餞別でもらったものであった。
それを見た時、俺は感情が決壊して泣いてしまった。
誰の前でも泣いたことがなかったのに……。
嫌いなフリージアの前で泣くなんて悔しかった。
「おもてをご覧になさい……」
扉を少しだけ開けて、隙間からの覗き込む。
そこには焦った顔をした東郷の親父が何度も廊下を行き来していた。田崎はそれを見守るだけ。
「あなたの行動なんて旦那さまにはお見通しですわ。……あのね、本当は言いたくなかったですけど、旦那さまはあなたのことが心配で――」
俺はなんだかおかしくなって笑ってしまった。
いつもはあんなに威厳がある親父が人の子みたいに心配そうにしている。
なんだ、俺、ここにいてもいいんだ。この時、俺はそう思っていた。
そして、その夜、俺はフリージアに小学校の頃の思い出を語った。フリージアは静かに俺の話を聞いてくれた。
いつの間にか、俺はフリージアの部屋で眠ってしまったのであった。
俺が寝入る寸前、薄目で見ていたフリージアの表情が忘れられなかった。
優しい微笑で俺を見守っていた――
なぜだか俺はアスナ母さんを思い出した。
***********
サッカーボールは再び俺の元へと戻る。
「おい!? てめえ後輩のくせに何しやがるんだ!! ぶち殺してやる!!」
ボールを足を抑えていると、男子生徒がスライディングをしてきた。
明らかに俺の足を狙っている。
俺はボールを軽く浮かせて、足裏でボールを再び押しつぶすように抑える。
小さな悲鳴とボールが破裂する音が聞こえた。
俺は審判に向かって新しいボールを持ってくるよう要求した。
そして、俺の元にボールが来る。
グラウンドの雰囲気が静まり返っていた。
*********
天童の事件の前に、俺は大きな事件に関わった。
それは玲香誘拐事件であった。
実際は玲香が攫われたのではなく、玲香のフリをしたフリージアが攫われたのであった。
東郷の親父も田崎も冷酷であった。
玲香が無事であるならそれでいい。敵対組織を潰す。
フリージアは死んだものとして考えていた。
俺はいてもたってもいられなかった。
嫌いだったはずのフリージアから何かよくわからない感情が芽生えていた。それを壊したくなかった。フリージアが傷つくのを見たくなかった。人が死ぬのを見たくなかった。
だから俺は親父に単独侵入でのフリージア救出作戦立案をして、実行した。成功率1%と言われたが、十分だと思った。
思えばあれが俺の初めての闘争だったと思う。
緊張の連続で神経がすり減り、心が研ぎ澄まされていく。
大切な人を助けたい。
結果的には傷だらけの俺とフリージアが手と手を取り合い、崩壊していくビルを二人で見つめた。この時、俺とフリージアの間には恋愛でも友情でもない感情が生まれた。
俺とフリージアの無事を確認した親父は感情をこらえながら書斎へと引っ込んでしまった。
なにやら大泣きしている声が聞こえてきたが気にしないようにした。
田崎はこの時泣きながら、俺に親父の次に忠誠を誓ってくれた。
ほんの少しだけ家族と歩みよれたと思った。
だが、玲香だけは違った。
そもそもそんな事件が起きたことさえ知らない。
「あ、あんた気持ち悪いのわ。学園で話しかけないでくれる!」
平和な女だと思った。親父も玲香には何も言わない。
「あ、あのね、武志、わ、私、来週、た、誕生日で……」
「さ、財布……、えへへ……。あっ、べ、別にあんたからもらったプレゼントなんて嬉しくないわよ! こんな安物の財布……。あんたはあっちの部屋に行ってなさい!」
「はっ? なんであんたと、喫茶店にいかなきゃいけないのよ? べ、別に行きたく……ないわよ」
「武志、え、え、映画を……、う、ううん、何でもないわよ! どっか行っちゃいなさい!」
「すー、はー、た、武志、修学旅行はわたしの警護として一緒に回りなさい! いい、クラスメイトなんかと一緒に回らないで。これは命令よ!」
この頃は玲香の気持ちなんてわからなかった。
玲香は玲香なりに必死で自分を変えようと頑張っていたんだろうな。
俺もガキだった。
玲香も子供だった。
ただそれだけの事だ。
俺は父さんと母さんに感謝している。
不器用だけど素敵な家族に引き合わせてくれた事を――
だから俺はそんな想いを乗せて、サッカーボールを蹴り続けた――
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