天童菜月


 かすれた声だけどはっきりと聞こえてきた。

 ――お兄ちゃん、行かないで――


 玲香に腕を掴まれた俺は動けないでいた。振りほどくのは簡単だ。言葉が俺を拘束する。

 正直焦っている。俺は玲香に嫌われていたと思っていた。


 ……相変わらずプライドは高そうだけど、前と様子が違う。こんなにも小さくて痩せていたのか? 全然成長していないじゃないか?


 俺は玲香の腕をそっと剥がす。

 玲香は一瞬だけ身体をビクッとさせる。


「とりあえず今日はこの屋敷にいるから安心しろ」


「あっ、べ、別に、わ、わたしは……あっ……」


 玲香は言葉を言い切る前に床に崩れ落ちる。意識はない。貧血かなにかのたぐいだろう。

 田崎が動く前に俺は玲香を抱きかかえる。


「ベッドまで運ぶぜ。田崎のおっさん、薬とかあるなら持ってきてくれや。玲香の部屋の場所は変わってねえだろ?」


 気配を消して俺たちの様子を伺っていた田崎は恭しく敬礼をする。

 俺は玲香を抱きかかえて屋敷の中へと入った。






 ベッドに寝ている玲香をじっと見つめる。

 玲香はあの日から全く変わっていなかった、

 時折、「お兄ちゃん、お兄ちゃん……、いかないで――ごめんなさい、玲香のせいで……」という寝言をつぶやく。


 この二年間に玲香の身に何が起こったかわからない。

 俺も生きるのに精一杯だった。

 玲香は俺が手渡した財布だけは離さないでいた。


 まさか俺がこんな気持ちになるとは思わなかった。

 ……親父はこれを見越していたのか。俺を縛る鎖として放置していたのか? 親父の事は後回しだ。


「なあ、田崎のおっさん。玲香は学園でどんな生活をしているんだ?」


「……申し訳ございません。わたくしからは説明できません。お嬢様から直に聞いてください」


 玲香のブラウスの上からでもわかる青痣。血色の悪い顔色。全然成長していない身体。

 俺には想像が出来ないような辛い事があったんだろうな……。


「親父は?」


 短い言葉だったけど田崎は理解してくれた。


「旦那様は『試練』、と申すだけです。玲香お嬢様はお一人で戦っていました」


 ああ、そうだろうな。あの親父が玲香を助けるわけねえ。


 俺は玲香の肩をそっと触る。

 玲香は意識を段々と取り戻し、そして……俺の手を乱暴に振り払った――


「い、いやぁぁ!?!? や、やめて、もうやめて……。私に構わないで…………、あっ……、ち、違うの、お兄ちゃ、ちが、あっ、あなたの事じゃないわよ……」


 飛び起きた玲香が怯えるようにベッドの端で縮こまる。

 俺は何も言わずにもう一度玲香の肩を触る。びくりと身体を震わせたけど、今度は振り払われなかった。


「た、武志?」


「……おいおい、玲香。驚きすぎだろ? ったく、俺はお前のお兄ちゃんだぜ。乱暴な事するわけねえだろ! ――田崎」


 田崎は俺の意図を組んでくれたようで、薬と水を玲香に手渡す。

 玲香は深呼吸をしてからそれを飲む干す。


 そして俺の顔を見てなにかを言おうとしていた。

 だけど、言葉がうまく紡げない。感情が抑えられないようであった。


 俺は玲香の肩から手をゆっくりと離す。


「あっ……」


 俺はその呟きを無視して立ち上がった。

 田崎に命令を下す。


「なあ、田崎のおっさん。俺の部屋はまだあるのか?」


「もちろんでございます。坊ちゃまはあの試練を生き延びた、この東郷家の正式な後継者でございます」


「今日から学園に編入ってできるよな?」


「もちろんでございます。すでに手続き済みでございます」


 勝手だな……。まさに俺の行動を見越していたんだろうな。


「しゃーねえ、一人暮らしはまた今度にすっか。玲香、お前はいつもどおりの口調で構わないぜ。『お前は使えないのよっ!』とか言ってろよ。泣いてんじゃねえよ」


 玲香は口をモゴモゴさせていた。そして――


「う、うるさいわね。な、泣いてないもん!! バカ武志!!」


「おう、わりいけどちょっと学園に行ってくるわ。また後でメシでも食おうな」


「えっ……、た、武志……、か、帰ってくるの……」


 俺は玲香に向かって微笑む。


「違えだろ」


 玲香の嗚咽が止まり、一瞬考える表情になる、


「……え、えっと……か、帰って来ないと……許さないんだから……」


 俺は玲香の頭をくしゃくしゃに撫でる。

 玲香は顔を赤くしてジタバタするけど構わない。


「よし、田崎、俺は学園に行く。って、お前なんで泣いててるんだよ!? 護衛兼執事だろ? しっかりしろよ!!」


 田崎は微動だにせず男泣きをしていた。

 冷酷な男のはずなのに、なんだか人間臭いところもあるんだな。


 田崎は他の使用人を呼びつけて、俺たちは玲香の部屋を出るのであった。














「み、みんな、HR中だけど、一旦中断する。い、今まで休学?? していた東郷武志君が帰ってきたから改めて紹介……」


 この学園に来るのも久しぶりだ。田崎の娘であるメイドのフリージアの案内がなかったら迷子になっちまったかも知れねえ。

 田崎フリージアは職員室で先生方と舌戦中だ。あいつはメイドの中でも恐ろしく有能だったからな。あの父娘は敵に回したくねえ。



 フリージアの事は置いていて、この学園は相変わらずだな。

 芸能に秀でているものもいれば、帝数学チャンピオンもいる。オリンピック候補や官僚を目指しているやつもいる。

 資産家の令嬢、子息も大体はここに入学する。


 この学園は、金や権力よりも実力がものを言う場所だ。劣等生はそれ相応のクラスに配属される。


 俺は玲香と同じクラスに復学した。……復学なのか? 俺って中学卒業してねえよな。




「あ、あがっ!! た、武志? 本当に武志!!! ちょ、冗談じゃないよね?」


 俺を指さして驚きおののいている女子生徒。……天童……なんだっけ? 

 その周りには昔から見たことがある取り巻きたちもいる。


 このクラスは学園で言うと最上級ランクのクラスだ。

 文武両道で各方面実績を残している生徒たち。

 一癖も二癖もあるクラスメイト。そんな中に玲香はいた。中学の頃は友達が一人もいなかった。多分いまもいないんだろうな。


 一人の男子生徒が手を上げる。


「先生、失礼します。……東郷家、確かに強い力を持つ家柄です。しかし、この学園は実力主義のはずです。ただでさえうちのクラスには無能な東郷玲香がいるのに、これ以上お荷物は御免です」



 男子生徒の横にいる女子生徒もひらひらと手を上げる。

 けしからん短さのスカートで、髪はピンク色の巻髪だ。ど派手なメイクにカラフルなファッションタトゥが太ももに入れてある。そんな格好を許されているってことは学園に多大な貢献しているだろう。


「さんせー、武志君だっけ? ちょい地味すぎっしょ〜、これ以上バカはいらないし〜。きゃははっ」


 この二人が教室の空気の中心だ。先生さえも空気に飲まれている。


「ちょっとずるいわよね。いきなりS組に編入するなんて」

「君って頭いいの? それとも運動できるの? 演技がうまいとか? ああ、見るからに無能そうだから」

「あっ、もしかして僕たちの憂さ晴らし要員で来たんじゃない」

「そうだよ、女子は玲香がいるけど、男子にはいないよ」

「花京院君が手配してくれたのかな。やっさしいな!」


 集団の空気の流れは渦がある。その中心にあの男子生徒、花京院が中心だ。


 俺は曖昧な笑みを浮かべる。


「あははっ、俺って東郷家だけど引き取られたガキだから元庶民なんだよな。しかも中学卒業してねえし。高校の勉強なんかわかるわけねえっての。……まあ、そんな感じで今日からよろしく!!」


 俺が自己紹介をすると教室は一瞬だけ静寂に包まれる、そして失笑の渦へと変わる。

 慣れ親しんだ視線だ。他者を見下し、笑いものにし、人を人だと思わない。


 ふと、天童を見ると、空気を読んで笑っていたが、目が笑っていなかった。

 玲香みたいに何かの感情を抑えているような感じであった。

 あいつとは、中1の夏休みに色々あったけど、学園が始まったらまた嫌われちまったからな。

 俺がいなくなった事は些末なことだろう。


 俺はクラス中から笑われながら先生が指さした席へと向かうのであった。






 その後、俺は休み時間のたびに男子生徒から馬鹿にされたり、小突かれたり、ノートを破られたりして過ごした。

 他者よりも優れた部分があるからこそ、増長して人を見下す。

 なんとも醜い心の持ち主が多いこと。


 女子からの視線も痛い。あいつらは直接的に何かをしてくるわけじゃない。この教室独特のルールでもあるのか? ただひたすら俺の陰口を言うだけだ。新しいおもちゃを手に入れた子供みたいだ。


 天童ももちろんその陰口の輪の中に入っている。俺の子供時代を唯一知っている女子だ。

 俺のバカ話を肴に盛り上がる。


 そんな天童が俺の横を通り過ぎる時、机の上にメモをそっと置いた。

 俺は誰にも見つからないようにそれを読む。


 そして、放課後になると、天童のメモにかかれてあった場所まで移動する事にした。

 ……いじってくる男子生徒を振り切るのが面倒だったけどな。






 *********






 私、天童は何度も深呼吸をする。

 数々の大舞台をアイドルとして経験してきたけど、こんな緊張は初めて……。


 学園からかなり離れた寂れた喫茶店に東郷武志を呼び出した。

 近くだと万が一にもクラスメイトに見られたら面倒だから。


 チリン、という音が入り口で鳴った。東郷が来てくれた。来てくれないと思っていたから安堵の吐息が漏れる。


 というか、元々かっこよかったのに、この二年間で何があったの?

 多分分かる人にしかわからない。一見超地味男に見えて、ボサボサな髪で制服も汚れていてみすぼらしいのに、存在感がすごい。

 思わず見惚れてしまう……。


 東郷が私に気がついてこちらに向かってくる。私は緩んだ顔を強張らせる。


「よう、こんなところに呼び出してなんのようだ?」


「あ、あんた……、この二年間どこ行ってたの!? 死んじゃったかと思ったじゃない!!」


「まあ色々あったんだよ。人には言えねえことってあるだろ? そんな感じだ」


 やっぱり、私が変な事言ったからいなくなったの? 気づかないふりをしていた罪悪感が奥底から湧き上がる。


「……ね、ねえ、もしかして……、わ、わたしがいなくなっちゃえって言ったから……」


「うん? そんな事言われたのか、俺? 全然覚えてねえわ。ていうか、天童の名前ってなんだっけ? 久しぶりすぎて忘れちまったよ。ん? なんだその顔は? もしかして心配してくれてたのか?」


 覚えていない――

 多分、東郷にとって私はその程度の存在。

 わたしは……あの東郷と過ごした夏の日を忘れられない。


「し、心配なんてするわけないじゃない……。あ、あんたは馬鹿でキモくて……、ちょっとエッチでいじめられっ子だし……。ほ、本当だったら超絶アイドルの私と喋れる身分じゃないのよ……」


 こんな事言いたいわけじゃない……。でもうまく喋れない。東郷と一緒にいると自分がおかしくなる。喋れば喋るほど、言葉の刃が自分を切刻む。



「そっか。なら俺はもう家に帰るぜ。じゃあな、また明日学園でな」



 東郷は私になんて興味がない。それで構わない。

 ずっとずっと祈ってたの。あの夏の日に二人で約束した大きな木。幼馴染と偽ってくれた東郷。

 毎日あそこで祈っていた。雨の日も風の日も、嵐の日だって私は祈っていた。


 駆け出しのアイドルだった私が有名になれば、東郷はどこかで見てくれるかも知れない。

 そう思ってアイドル活動も必死で頑張った。


 胸が締め付けられる。自分のプライドのせいで素直な気持ちを言葉に出せない。

 それでも私は必死に言葉を繰り出す。


「え……、あ、ま、まって……」


 席を立とうとする東郷の動きが止まった。私の瞳を観察している。


「ち、違うの。こ、こんな事いいたくて呼び出したわけじゃないの……」


「ていうか、今朝も俺の悪口言いまくってたじゃねえかよ。お前に嫌わてんのは慣れっこだから構わねえけどな」


「……だ、だって、それは……」


 泣きたくなってきた。本当に私は馬鹿でどうしようもない。

 ずっと会いたかった人が目の前にいるのに――




「あ、あんたのバカっぷりが変わってなかったからよ……。ふ、ふん、こ、これから同級生としてあんたと一緒にいてあげるわ。か、感謝しなさい」




 私は自分がそういった瞬間、自分の顔を自分でひっぱたいた。

 こんな事を言いたいわけじゃない!! 私は……、私は――


 東郷と、友達に、なりたいだけなのに……

 でも、あのクラスでは……


「しゃーねーな……」


 そう言って東郷はコーヒーを飲まずに席を立つ。どこかへ去ってしまった。

 私は東郷の後ろ姿を見れない。自分の馬鹿な行動に心底呆れてしまう。

 溢れてくる涙が止められない。

 どうしてこんなに私はバカなの。歌って踊ることしかできない。自分勝手でプライドだけは一人前で……。


 その時、私のスマホにメッセージアプリから通知が来た。

 鬼瓦おにがわらあやめ、からだ。花京院かきょういんと鬼瓦。この二人がS組にいる限り、私達普通の生徒には自由がない。

 私はメッセージを見ずにスマホをカバンの中へ放り投げる。


 メッセージ……、思いを言葉にできないなら手紙を書く。……あっ、もしかしてこれなら東郷に――


 私は急いでペンとノートを取り出す。悲しむ暇があったら行動するのよ。泣いている暇があったら手を動かすのよ。


 私は思いの丈をノートに書き綴る。言葉では伝えられない思いをペンにのせる。

 いつかそれを手渡せばいいんだ――





「おっ、何書いてるんだ?」


「ひゃっ!?!? と、東郷!? か、帰ったんじゃなかったの……」


 東郷が席に座っていた。集中していたから全然気が付かなかった……。

 ノ、ノートを隠さなきゃ!?


「嫌なら見ねえよ。……お前あれだろ、あれ。あの夏のときに言ってたじゃねえか」


「へ? あれってなによ……」


 私は言葉を失った。なぜならウェイターさんが私の目の前にろうそくがついたケーキを持ってきてくれたからだ。

 突然の事態に思考が停止する。昨日は私の誕生日であり、二年前の大切な夏の日であった。家には誰もいない。今年も誰も祝ってくれなかった。一人ぼっちの誕生日。誕生日があった事自体記憶から消していた。


 なのに――

 なのに……


「誕生日おめでとう、天童菜月。わりいな、行方不明になってて。……ん? おい、どうした? 」


 その言葉が私の心をぐちゃぐちゃにかき乱す。

 自分がどんな顔をしているかわからない。東郷の笑顔だけしかみていない。

 嗚咽がこらえきれない。私は――



 言葉を発することが出来ずに、ただ……東郷にノートを押し付けた――



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