第9話 祈りの宮殿

 一日目はまだよかった。


 二日目には、スティーブン・メイヤードが倒れた。くそ。慣れないヤツが無駄に動き回るからだ。


 水の残りは少なかったが、スティーブになるべく多く回した。


 少しずつ飲むように促したが、奴は一気に飲み干した。


 見かねて朔が自分の分を与えた。


 莫迦が。死ぬぞ。


 俺はイライラして、まだ探していない地下の倉庫がないか調べに入った。


 倉庫はあったが、水はなかった。


 外の嵐はやみそうもない。


 スティーブが水を受け付けなくなっていく。


 後は体力と運だけだ。


 朔はスティーブに自分の水をわける以外は、リーダーの言うことを聞くことの大事さをよく知っていた。


 リーダーの指示に従うことが、生き延びる確率をあげる。


 動けと言ったら機敏に動いたが、何もするなと言ったら何も言わずにじっと座っていた。


 化粧はすっかりはげ、下からでてきた幼い素顔は、美しいが年相応だった。


 部下がふざけると楽しげな声で笑った。


 どいつも彼女の笑い声が聞きたくて、小さい頃の失敗談など進んで話をした。


 おかげでひたひたと忍び寄る死の恐怖が少し和らいでいた。


 恐怖でパニックになっても仕方がない。


 最先端のモデルにしてはこの状況に、よく順応していた。


 感心したのは水の飲み方だった。


 朔は俺が飲むのと同じタイミングで水を飲んだ。


「お前はもう少し飲め」


 俺は、とうとう自分の水を分け与えた。


「お前と俺では鍛え方が違う。俺はここに慣れているが、お前は違う」


 少女はそれを断るという愚かな選択もしなかった。


 黙って頷くと水をゆっくり口に含んだ。


 夜中絶え間ない低い声で起きた。


 朔だった。


 悪い夢を見ているのか。聞き慣れない言葉を叫んで目を覚ました。


「どうした。悪い夢をみたのか」


「……大丈夫」


 俺は今更ながら、朔がこの国の言葉を流暢に話すのに気がついた。


「フランス人なのか?」


「いいえ。日本人です」


「日本人? ペルシャ語はどこで勉強した?」


「ここに来る前に、ペルシャ語ができるスタッフから教えてもらったんです」


 そこまで言って朔はぶるっとふるえた。よく見るとニカブの中は、薄い布一枚だった。


 なんてこった。俺としたことが。何も言わないから、気がつかなかった。


 俺は着ていた上着を脱いで朔に投げた。


「少しはマシだろう」


 よほど寒かったのだろう。朔はお礼を言うと、すぐに、それを着込んだ。


 燃やすものがなくなり、炉の火はとっくに落ちていた。部屋はすっかり冷え込んでいる。


 体力は落ちるばかりだ。


 俺は有無を言わさず朔を自分の絨毯の中に入れ込んだ。


 朔は一瞬体を硬くしたが、何もしないとわかるとすぐに全身の力を抜いた。


「いくつだ」


「十六になります」


 なんてこった。


 まだ子どもじゃないか。


 末のマリヤムより年下だ。


 俺はその幼さに安心して、少し力を抜いた。


 夜は、俺と朔を饒舌にさせた。


 砂漠や星の美しさ。市場の活気。人の所作。


 朔の視点は面白く、俺は知らず知らずにこの国の経済と歴史。自分の考えている国作りについて話をしていた。


 それは、カリムにも誰にも話をしたことがなかったものだ。


 不思議な感覚だった。


 何を考えても、何を言っても、朔には赦されていると思わせた。


 俺の話しに朔が笑う。


 花の残り香が、俺の鼻の奥を強く刺激した。


「ムスリマでないのに、何故ニカブを着た?」


 俺は、ずっと疑問に思っていたことを朔に聞いた。


「最低限の礼儀です。日本には「土足で踏み込む」という言葉があります。日本は履き物を脱いで家の中に入るのがマナーなのですが、履いたまま入るのは大変なマナー違反です。そこから、相手の気持ちを傷つける無礼な言動、無遠慮な態度のことを言います。ムスリマではないので、むしろスカーフくらいのほうが良いかとも思ったのですが、ペルシャ語を教えてくれたスタッフがこれを譲ってくれて。おかげで砂漠では命拾いをしました」


「そいつは正解だ。それは戒律ではなく自然と共存するための装束でもある」


「はい」


 朔は嬉しそうに顔を赤らめた。


「親は? 何の仕事をしている?」


「いません。二人とも死んでしまいました。今は日本のモデル事務所でお世話になっている社長さんが、後見人として、弟とわたしの面倒を見てくれています」


「家族は弟だけか?」


「はい。二つ下の弟です。かわいいんですよ」


 そう言いながら、朔は小さなあくびを一つした。


「もう一度眠れ。朝には嵐もやんでいることを祈ってろ」


「はい」


 少女はモソモソと体を動かすと、すっぽりと俺の胸の中に収まった。


 動かなくなったと思ったら、すぐに眠りに落ちたようだった。


 無防備な寝顔だった。


 長いまつげが顔に影を作っている。


 微笑んだような赤い唇が、白い肌をなおいっそう白く見せた。


 長い夜になりそうだった。





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