第3話:大人気(おとなげ)なき戦い・コリウス通り死闘篇⑧




 あわてて物陰に身を隠し、そこから様子を覗いてみれば、カウンターテーブルを挟んでリーゼント頭の弟分がエリスに食いつかんばかりの距離まで詰め寄っていた。恐れていたことがピンポイントでズバリ的中していた。

 だがエリスはそれに対して、ひるむどころか背筋をピンと伸ばし、しっかり相手の目を見据みすえつつ敢然かんぜん対峙たいじしている。普段のエリスからは180度見違えるような姿勢だ。

「ですから、ウチは別の方のお世話になる事とすでに話がついております。どうぞお引き取りください」

「オォ? 最近のウェイトレスは接客がなァ〜〜んもできてぇねえのか? オラ、堅気カタギのガキだからって甘い顔してやりゃあツケ上がり腐りゃあがってコラァ! あんま調子おろしてやがっと身ぐるみ剥いでそこいらのフロ屋にブチ込むぞォ? この街にゃあテメェみたいなのを投げ込む店には事欠かねえんだよ! イキがってねえでとっとと責任者呼んできやがれ!!」

「わたしが店主です。ウェイトレスではありません」

 口角こうかく泡を飛ばしてドスドス詰め寄ってくるリーゼントに対し、エリスは冷淡ともいえるような目つきで訂正をいれた。怒気どきで赤黒くなった男の額にみるみる青筋が浮き上がってゆく。そんな二人のやり取りを見ながらアルタイプとレティが呆然と言った。

「……な、なんであの子はヤクザを前にしてあんなに毅然きぜんとした態度を取れるんだ?」

「今日のエリちゃん、別人みたいに凄いわね……」

 驚愕の表情を浮かべる二人だが、俺だって驚きだ。だが、こうなった理由はなんとなく読める。

 感情の消えたあの顔つき、あれは毅然なのではなく余裕の無さからきているもの。それは目の前のヤクザにおびえて? 違う。そこで我を失うならもっと普通に怖がっているはず。俺は自信を持って断言した。

「ありゃ覚えたセリフを声に出すのに一杯一杯で、他の事は何も目に入ってないな」

「はあ⁉︎ ありえねえだろ、この状況で!」

 俺の分析にアルタイプは呆れ返り、レティも呆気にとられた顔で俺を見た。

「何も……って、あの目の前のやくざも?」

「たぶん。『自分は覚えたセリフをこの人に向かってしゃべり切らなくちゃいけない』ってことだけを考えてるんだと思う」

「んなバカな……」

 そう、バカなのである。コイツは色々な面で、あらゆる場面で予想もしないバカを踏む。

 その後もリーゼントが脅しをかけ、エリスが平然とはねのけるシーンが何度か続いた。あんまりキッパリと跳ねのけるもんだから、俺たちはすっかり飛び出すタイミングをいっしてしまった。たぶんヤクザの後ろで控えるデローザさんも似たような状態なのだろう。

「ガぁ〜ンツ。もうええわ」

 俺たちと同じく、黙って事の推移を観察していた小デブの方のヤクザが口を開いた。くみやすしと踏んだはずの相手が思いもかけず強敵だったので(勘違いだが)、手下では力不足と感じたのだろう。

「兄貴! しかし!」

「ええって。わしに譲れ」

 くわえていた葉巻を灰皿に押し付け、金縁きんぶちのサングラスを外してシャツの胸ポケットに突っ込む。その眼光は、思っていた以上に鋭い。

「なぁ〜、お嬢ちゃん。若いのにシッカリしとって立派なもんやなァー、おっちゃん感心したで。ただなぁ、この街に一本独鈷いっぽんどっこでやってくにゃあナンボなんでも若すぎるなあ。ここはコイツみたいにイカツイ顔した若衆も少なくないんやで?」

 そういって腹をするようにして低い声で笑う。笑いながらエリスの顔色を確認し、間合いを計っているのだ。ここでエリスが僅かでも追従ついしょう笑いをしようものなら勝負は決まっただろう。なかなかどうして、向こうも結構な役者である。

ところがエリスはニコリともしないどころか呼吸一つ乱れなかった。兄貴は自分の笑い声を徐々に消した。

「せやからペンローズさんとこが心配して声かけてくれたんやないの。誰もが知っとるおっきい企業やで? そがい立派なお方が先に目ェかけてくれたゆうんに、なんや、アトからシャシャリ出てきたどこぞのアバラ屋と手形かわしてもうたやて? こらアカン、筋違いっちゅうもんや。失礼に当たる。仁義もなあでこの先やってゆかれへんで。どれ、おっちゃんが一緒に頭下げたるさかい、今からそのアバラ屋に一言断り入れにいこか。心配せんでもええ、おっちゃんはそういう揉め事の、ゆうたらプロなんやで」

 兄貴は舌も滑らかに言う。物わかりの良さそうな言葉を選んでいるが、その実、エリスを否応無く従わせようと言う腹積はらづもりだ。どんな態度を張ろうと所詮は小娘、プレッシャーを掛け続ければ訳無く落ちる、そう読んだのだろう。

 だがエリスはやはり表情を変えない(状況が目に入っていないだけだが)。ぬくもりの欠けた視線で兄貴分を見据えたまま、低い声で言い放つ。

「ウチは賭場シキじゃあないんですから、アトもサキも無いんですよ、お兄さん方」

「な……」

 エリスが思いがけず彼ら自身の専門用語を言い放ったのに驚き、兄貴とその手下はたじろいだ。

 俺の横でアルタイプが「違う違う違う! それデロさんのセリフだ、君のじゃない!!」とささやき声でツッコミを入れているが、むろん二人組がそんな事情を知るはずも無い。どうやらエリスはセリフを丸呑みで覚えてしまったらしく、どれが誰のセリフなのかの区別も付いてないようだ。

「おうガンツ、こらどういうこっちゃ。トーシローの店とちゃったんかい」

「あ、兄貴すんません! 自分が聞いたのは、確かにガキが店番やってる以外は平凡な店だと……」

 いえ、その認識であってます。魔法使いとその使い魔がやっているちょっと不思議な喫茶店というだけで、決してどこぞの極道が一枚噛んでる、ちょっとのことで喧嘩を売るような剣呑けんのんな喫茶店などではございません。

「こない胆の座ったガキが平凡なワケあるかい、ド阿呆あほう! ……なぁお嬢ちゃん、ゆうたらアレかい、どこぞの組が後ろについとるんか。それとも契約したっちゅう後ろ盾がいずれの筋モンかいの? どないにせよウチらの界隈かいわいでこない横着されたんじゃ黙っとれんわなァ! おォ!?」

 兄貴分の放つオーラが徐々にヤバイものに変わってゆく。そろそろ緩めの空気の一線を越え、本物の危険に突入しようとしていた。エリスの応答次第では、アイツの身に何か起こらないとも限らない。しかし今、エリスは空気を読むという点について普段以上に無頓着むとんちゃくである!

「のう嬢ちゃん、その歳で誰ぞのスケいうこともなかろうが、おまんをそがいに強気にさせとるんはドコの誰じゃ? 言うてみいッ!!」

 兄貴分がドンと足を一歩踏み出し、一瞬だけその本性を垣間見せた。何かあったらたとえかじり付いてでも止めようという覚悟で構えていた俺は、その一喝でいとも簡単に震え上がってしまった。

 だがエリスは、さらりと次の一言を口にした。

「相手の家柄を確かめておかないと喧嘩は売れませんか? まるでお見合いですね」

 兄貴はいよいよ言葉を失い、俺たちは顔色を失う。俺の横でアルタイプがガクガク震えながら「だからそれはデロさんのセリフなんだって〜〜!」と小娘みたいな黄色い悲鳴を上げる。

 そして兄貴がついに激高した。

「上等じゃあ!! ドコの誰でもええ、そのボケカスを今すぐ引っ立っててこんかい! 今すぐじゃい!!」

 決定的なエリスの一発で、越えてはいけない一線を越えたのを悟った。兄貴はエリスから目を離さないままカウンターを離れ、店の真ん中のテーブル席にどっかりと腰を下ろす。梃子テコでも動かぬ、という意志が全身から放たれていた。リーゼントが小走りに駆け寄って何かを耳打ちするが、兄貴は「そんなもん要らんわ。恥や」と突っぱねた。何を拒否したのか分からないがとりあえず怖い。この国のヤクザは刃物や火薬などを使わず、強力すぎて一般に流通させられないレベルの火炎魔法や破砕魔法などの記録宝珠メモロブを使う。そのテのはマジで勘弁してくれないと本当に死ぬし店が焼ける。

 そして、兄貴の座ったその奥のテーブル席では、いまだ無言を貫くデローザさんが不敵な笑みを浮かべて暗がりに潜んでいた。

「ていうかデロさんはなんで黙ったままなんだ!?」

 見咎みとがめたアルタイプが非難の声を上げるが、一流俳優だろうが一流格闘家だろうがこの状況で割り込める人間はまずいないだろう。アルタイプは俺たちの方を振り向いて、

「おい! おい! 俺たちこんなとこで悠長に眺めてていいのか!? どこかで収まりつけないとヤバいだろコレ!!」と小さな声で叫んだ。

 言わるまでもない。俺だってエリスが怪我をする前になんとかしなくてはならないと考えている。

 しかし、腕力でどうこうできる相手でないのは確実なのだ。俺はもちろん、アルタイプやデローザさんが束になってかかったところで喧嘩のプロには全く歯が立たないだろう。ウチには人を傷つけるようなメモロブなんて無いし、武器になりそうなのも調理器具くらいのものだ。もちろん包丁やお玉で刃向かうわけにはいかない。

 街の治安を守る首都警騎士団シティウォッチに助けを求めるか。レティかアルタイプに頼んで、大急ぎで騎士団を呼びにいってもらえば。

 だが……やはりダメだな、役に立たない。ここは魔法の国なだけに、騎士団の質が低いという実情があるのだ。それにどうせこいつらの組織と騎士団は裏で通じているはず。この街で客商売をする者にとって、ヤクザと揉めたところに騎士団の庇護ひごを求めるのは問題解決を先送りにするだけの拙策せっさくというのが一般的な認識だ。

 ならばどうする? 手元に残されている手札は一枚っきりだけ。このまま放っておけば今にもウチの主人は張り倒されかねない。

 なら単純なことだ。俺は切り札を切ることにした。

「こうなったら仕方ない。フランチャイズへの加盟を承諾しよう」

 彼らが此処へ来た理由、つまりこの店を差し出してしまえばいい。後でエリスは泣くだろうが、事態がこうなってしまっては背に腹は代えられなかった。

「そんなのダメよ! あなたとエリちゃんの二人でやってきたお店じゃないの!」

 レティがそう悲しんでくれるのは嬉しかったが、俺は首を横に振った。

「今はこの混乱の収拾を最優先にしないと。まあ、看板を付け替えたところで中の俺たちがスタイルを見失わずに商売を続けたらいいだけのことさ。それよか、あのヤクザの兄貴が加盟の話だけで納得してくれるかの方が心配だな……。今はかなり頭に来てるようだから、注意してタイミングを見計らないと店だけで収まりそうにない」

「そんな……。あ! コーエンさんは!? あの人って前に自分のこと退役軍人か何かって言ってなかったかしら!」

「いくらなんでもお客さんを危険に晒すようなことはできないよ。大丈夫、新しい店でも常連さんを失望させないような工夫はするから」

「そんな……」

 ふと、アルタイプがウチにやってきた時の会話を思い出す。この男はウチとお客さんとの交流を「気分的なアレ」といい加減な言葉で表現した。それを俺は不快に感じたが、落ち着いて考えたら実際その通りなのかもしれなかった。本当にお客さん第一でいつづけられるなら、店の看板くらい大したものではない。全ては俺たちの気分ひとつ、心構え次第でどうとでもなるということじゃないか。

 ……とはいえ、こんな展開になるはずじゃなかったのに、という思いは否定できない。俺はつい本音を口にしていた。

「ちょっとした茶目っ気のはずだったのが、ずいぶん大きな代償になっちまったなあ……」

 意地の悪い小芝居が、気づけばCafeにちようび最後の日になってしまっている。人生の落とし穴はどこに潜んでいるか、わからないものだ。

「お、俺のせいだって言いたいのか……」

 アルタイプがたじろぐ。俺は別にそんなことを考えてたつもりじゃなかったが。

「俺はヤクザが来るなんて一言も聞いてなかったんだ!」

「いや違うって。落ち着け落ち着け」

「それに、あの子が筋書きを丸々変えちまうし……。こんな展開にしようなんて思ってやってたわけじゃないんだ、マジで!」

「だから落ち着けって、誰もそんなこと言ってないから。もし狙ってこんな状況にできるってんなら、アンタは運命を司る神かなんかだよ」

 そのスキルはどちらかと言うとエリスの持ち物だ。ただし、そこに居るだけで無用の混乱を招く混沌の化身けしん、としてだが。

 さて……、店内を再確認すると、例の兄貴がエリスにむかって「早う呼んでこんか!」と怒鳴りつけているのが見えた。呼ぶも何も、うちのケツ持ちをやっている用心棒など居るはずもない。エリスがそれを兄貴に打ち明けるタイミングで出ようと思った。対戦相手がいないと知って拍子抜けすれば、兄貴の怒気も多少は抜けるだろうからだ。

 ところが、ここで再び計算が狂った。デローザさんが腰を浮かせ、エリスに目線を送ったのだ。

「おいおいマジかよ! デロさんここでこの状況に絡むつもりか!?」

 同じく気づいたアルタイプが驚愕するが、デローザさんの表情には怯えはなく、むしろ余裕すらあるように見えた。俺はデローザさんの意図を探る。

「いくらなんでもデローザさんだってアレに喧嘩売ったりはしないはず……。冷静そうだし、何か考えがあるんじゃないのか?」

 何を考えているのかは知らないが、それで場が少しでも落ち着くのならそこからが俺の出番だ。だが……。

「ないな……。考えてなんかない……」

 今度はアルタイプが言下ごんかに否定する。

「なんでそんな言い切れるんだ?」

「あの人は……、デロさんは一度役に入ったら舞台以外の何も見えなくなるんだ。お前のご主人様と同じだよ……、あの人も魔法使いなんだ」

「は? デローザさんが魔法使い?」

「そんな話、聞いたことないわよ!?」

 訳のわからなくなる告白に、俺とレティは二人してる。アルタイプは店内の様子から目を離さないまま言葉を続けた。

「事実だ。つっても、使えるのは化身アバターっていう魔法一つだけどな……。デロさんは演技にはいる時、化身アバターの魔法で役に見合う歴史上の人物を自分に上書きし、役を作るんだ」

 化身アバター……。自分の意識に他者の意識を乗り移らせ、精神的支配を許すことでその人物に成り切るという特殊魔法だ。憑依術士シャーマン死霊術士ネクロマンサー、それぞれの先天的素養が同時に必要なので、使いこなせる人材がかなり限られているレア魔法でもある。言葉遣いや立ち居振る舞いの全てにおいて完璧な役作りを徹底するデローザ・アプローチの秘密は、それか。

「じゃあ、いまデローザさんに降りているのは……」

「詳しくは聞いていないが、ヤクザに抵抗するための人間を選んだろうから、当然ヤクザかソッチ系だろうな……。それもかなり大物の」

 てことは、いまウチでは歴史に名が残るほどの伝説級ヤクザの目の前で、見知らぬヤクザが大暴れしてるって事か。……それって、一触即発どころか火薬庫の横でキャンプファイアみたいな状況なんじゃないのか!?

「そんな大事な情報を何で今になって! 俺はデローザさんの冷静さを当てにしてたのに!」

「あの人の商売道具の秘密だぞ!? そうペラペラ喋れるかよ!」

 ……クソ、これで俺のプランBはひっくり返された。今までノーマークだったデローザさんが突如現れ、怒り心頭の兄貴に水を差してくれればと思ったのに、これじゃ火に油……、いや待て! そうなりゃデローザさんの安全だって危うい! 万が一にも殴り合いになってしまったら、身体にも社会的立場にも破滅的な影響が出る! それにこの後でヤクザたちの組織がデローザさんに脅迫でも始めようものなら……!!

 すると、それまで膝立ちで事態を見守っていたレティがすっと立ち上がった。

「私、ちょっと首都警騎士団シティウォッチを呼んでくる。急いで連れてくるから、エリちゃんとデローザさんが危なくなったらなんとか時間を稼いでよ?」

 俺は頷いた。こうなってしまえばもう選り好みしている場合ではない。とにかく誰かがケガをする前に、まず現状を落ち着かせないといけない。

「あっ、それだ! いや待った、俺も行く!」

 レティを追いかけるようにアルタイプも立ち上がった。この土壇場から逃げ出せる口実をみつけた喜びが丸出しだ。

「あなたはせめてこの場にいなさいよ! 事態をココまでもつれさせたのは自分でしょう!?」

「だから俺はヤクザが来るなんて一言も聞いてなかったんだー!」

 まあそうなんだが……。アルタイプはほとんど命乞いでもするかのような姿でレティにすがり付く。

「とにかく俺も行く! ほら、アレだ! 騎士団ってやる気ねーから一人で呼びに行ってもすぐ動きゃしねえし、ヤクザが絡むとなりゃ尚のことだ! けど俺はホラ、週刊誌の編集者だから、書くぞって脅せば騎士団のやつらだって少しは……」

「なら名刺一枚くれれば十分よ! いいから黙ってエリちゃんの盾になりなさい! 男なんだから一発二発殴られたって大丈夫よ!」

「ふっざけんな!! あいつらプロだぞプロ!? 骨とか折れちまうだろうが!」

「なんでもいいから早く行ってくれ!」俺は店の様子を覗きながら、ほとんど叱りつけるように叫んだ。

「もう余裕がない!」

 俺が叫んだそのとき、エリスと兄貴の冷熱した問答に変化があった。エリスがやおらに胸をそらして態度を大きくし、威圧するような目で二人のヤクザ者を射竦いすくめたのだ。

 だからなんでお前はそう、事態を逆の方、逆の方に持っていくんだよ……。

 一瞬心の中で突っ込みを入れかけたが、直後に俺は気づいた。エリスがなぜ態度をデカくできたのか。この、ここぞという瞬間にエリスはエリスの切り札を切ろうとしているのだ。つまり用心棒デローザさんを、だ。まずい、いまデローザさんの存在を明らかにされたらどんなに急いでも騎士団が間に合わない!!

 しかしエリスは 体を、力強い声で呼ばわった。

「先生、よろしくお願いします!」

 熱い緊張の空気が一瞬、駆け抜ける!

 ……が、何も起こらない。

 冷然と演技を続けてきたエリスが、ここにきて芝居をトチった。

 そう、先生ことデローザさんはエリスの前方でずっと座って待っていたのに、エリスはついうっかり後ろに向かって呼びかけてしまったのだ。

『先生お願いしますってセリフ、つい振り返りながら言っちゃいそうで怖いなあ』

 リハーサルの前、エリスがそんなことを言っていたのを思い出す。緊迫した状況の中でのこのNGカットには、ヤクザの兄貴もさすがに苦笑い……、

 は、しなかった。

 エリスが振り返ったその目線、伸びたその右手が指し示したちょうどそこに、レティに泣きつくアルタイプがいた。それまでずっとしゃがんで隠れていたのに、その瞬間のみ彼はレティにつられて立ち上がっていたのだ。

 そしてそれは、彼の運が底を尽いた瞬間でもあった。

 瞬間的に訪れた圧力プレッシャーにアルタイプ自身も気づいた。

 振り向けば、彼を指し示すエリスの指先と、二人のヤクザが放つ苛立ちに煮えたぎった視線。デローザさんは依然として沈黙のまま鎮座している。

 彼はそれだけのヒントで自身が置かれた状況を正しく判断できた。

「……は? アレ?」

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