第2話: 学ぶ魔法使い⑧・結



「ミーナ! 魔法を解いて!」

 ミナイーダの唇が青い。魔力が底を尽くまで魔法を使用すると現れる、一種の衰弱症状だ。命を失うことはないがあまりひどいと高熱を出して何日も寝込むことになる。そもそも彼女の魔力は一般人のそれと大差はなく、アイテムの力でかさ上げしているのに過ぎないのだ。彼女は凍えたように肩を震わせてうずくまっているのに、しかしそれでも台風タイフーンの魔法のコントロールは手放さなかった。

「ん……、でもあとちょっとだから……。何かすごい、風の流れがあるの……。聞いた事のない、強力な風の流れ……。とても抑えきれない……っ!」

 俺は懐からハンカチを取り出してエリスに渡し、エリスはそれでミナイーダの額ににじむ汗をそっとぬぐってやる。だが、拭いた端からたまのような汗がしたたり落ちた。落ち着かせるように、ゆっくりとエリスが言う。

「大丈夫、もうここで終わりにしよう。もう十分、十分すぎるよ。だってこんなすごい景色、世界の誰も見たことがないよ!」

 エリスの言葉に、ミナイーダはすっかり青ざめた唇を笑みに歪めて抵抗した。

「もう……、もう少しだけ、がんばりたい……。きっとみんな、世界の端がどうなっているか、知りたいでしょう……?」

 笑顔さえ浮かべるミナイーダの姿に、俺は自分の胸が熱くなるのを感じた。だが、これ以上の無理はさせられない。

 俺は彼女の傍らで結跏趺坐けっかふざして重力を制御している魔法使いの一人に「スミマセン」と声をかけた。

「ちょっとだけ無理をお願いしたいんですけど……」

「なんだい……」

 二十代前半と思しき彼の額にもかなりの量の汗が浮いている。ミナイーダほどではないにしろ、こちらも相当の消耗が見て取れた。

「水晶球の向き、変えられないですか? 下に向かって見下ろすんじゃなくて、こう、視線が大地と平行になるように」

 俺は先生からの言付けを伝えた。重力の魔法使いはにやりとして、「なるほど……ね」と笑った。

「はは……、簡単な事だったな、やってみよう……。じゃあ君たちも、席に戻って、ショーのクライマックスを楽しんでくれ……!」

 それでもエリスはミナイーダの傍を離れたがらなかったが、「そうしてくれた方が嬉しい……。私だって、エリスに喜んでほしいもの……」とミナイーダからも言われ、元の座席へ慌てて駆け戻った。

 目を閉じ、再び世界の高みへと昇った。視界を重ねている送信球の回転が始まる。それは疲れ切った体を無理に引き起こすように、全身を縛り付けられた巨人が、残った首だけで抵抗しているかのように、どこまでも鈍重でぎこちない動きだった。その力のかかる動きぶりに、観客たちも繋ぎ合った手を殊更ことさらに握りしめる。

 ぐぅ、ぐぅ、と綱で手繰り寄せるように視界は持ち上がり、ついに視線は地上と平行を保つ向きで固定された。俯瞰ふかんから真横に向いたのだ。そして、そこで俺たちが見たのは……

 あれは、なんだろう?

 そこに『線』があった。

 とても美しい曲線だ。青みがかった大地があり、深く青い海があり、夜を背負う空があり、そしてそれらは謎の曲線できっぱりと分けられていた。

 すると、あれが世界の端なのか。あれは地上と空とを明確に切り分ける境い目なのか。

 そうだ、あれこそが水平線だ。船乗りたちが見つけたという、世界の謎を解いた線だ。

 なんて雄大なカーブだろう。この大地が巨大な球体だなんて、話を聞いただけではまるで納得がいかなかった。本でいくら理屈を読んでも、水晶テレビで風水師や占星術師が事細かに説明しても、全く実感が湧かなかった。でも今は船乗りたちの言い分が真実だったと実感できる。水平線はそれほどまでに美しいのだ。

手を繋いだ誰もが言葉を失うほどに感動しているのがわかる。もしかしたら中継水晶は視界だけでなく、その心まで繋げてしまったのかもしれない。誰もがその曲線に心を縛り付けられているのだ。

 衣擦きぬずれ一つない沈黙が場を支配した。こんなに大きなれ物に俺たちは生きていた。この星に生きていたのだ。

 限りなく透明に近い沈黙は数分のあいだ続き、それに見守られて眠りにつくように、映像が溶暗を始めた。魔法使いたちの魔力がいよいよ底を尽くのだ。やがて細く、長い吐息をつくように世界の景色は薄暗く染まり、視界がすぼまってゆき、

 そして、閉じた。

 ああ……、終わったのだ。

 長編幻術のエンドロールに監督の名が現れた時のような、そんな終幕感。すべてが終わった後の、長い旅路を振り返っているみたいな時間。暗転した劇場に再び灯りをともすように、揃って閉じられていたみんなの目が開かれ、固く繋がれていた手と手も離れた。ゆっくりと訪れた虚脱感に、俺たちは少し酩酊する。その場の誰も、一言も発せない。


 ぽす、ぽす…… ぽす、ぽす……


 誰かが沈黙を破った。その音が拍手である事に、そして誰よりも先に手を打ち合わせたのがディンキー先生であることに俺が気づいた時にはもう、拍手は大喝采となって、巨大なうねりとなって、ホールを圧していた。大きな音は不得意であろうシスティーナも、周りに負けないくらい一生懸命に両手を打ち合わせている。

 舞台の中央でへたり込んでいたミナイーダや三人の重力使い、それと実は一番消耗していたチューリン先輩は、自分たちに向けられた拍手に応えようとヨロヨロと立ち上がり、片手を掲げてから一礼した。一層大きな拍手が湧き上がる。

 エリスは俺を急かして水筒を取り出させると、矢のように飛び出して行ってそれぞれに注いで回った。アルマに手伝ってもらいながら用意した、魔力賦活ふかつ効果をもつ薬草水。みんな苦そうに顔をしかめつつも、それでも一気に飲み干して笑い声をあげていた。耳をろうするような拍手の中、責任を果たしたエリスとミナイーダが瞳に涙を浮かべて抱き合っていた。

「私が思ってた通りだったよ!」

 左隣が騒がしい。見れば、母の膝上から飛び出したシスティーナがぴょんぴょん跳ねてまくしたてている。

「あのね! あのね! ずっと想像してた! 鳥になったらどう見えるだろ、もっと高いとこから見たら何になるんだろって! そしたらね、あのね、よくわかんないけど思ってた通りだった! たぶん思ってたのと一緒だった! すごかったねお母さん! 今日はホントに来てよかったね!! あーっ、次はモグラになりたいなーっ! モグラになって地面の中どこまでも掘ってみたい! あ、でも魚もいい! 一番深く、湖の底までもぐれる魚ってなにお母さん! あ、あとねあとね……!」

 もう次のことを考えているのに笑ってしまった。モグラか。いつかその夢が叶う日は来るのだろうか。もちろん答えはわからないが、体の内の興奮に突き動かされて跳ね回るシスティーナの元気を見ると、地中を潜る程度、訳ないと感じられた。いやそれよりもまず、この子が光を取り戻すことから始めないと。それなら今日から数えてもそれほど遠くないはずだ。

 エリスが戻ってくる。システィーナの母がそれに気づいて娘に耳打ちすると、システィーナはぱっと頭を下げて「ありがとうございましたっ!」と元気に礼を言った。エリスもお姉さんみたいな顔をして微笑んだ。

「楽しかった?」

「すごく! すごくすごくすっご〜〜〜〜く楽しかった!」

 腕をぐるぐる回して感動を体現し、あれが見えただのそれが大きかっただのモグラがどうしたのと、さっきの会話を繰り返して大騒ぎするシスティーナ。最初の印象が礼儀正しい良い子だったので、大人しい子供なのだとばかり思っていたが、こっちが地なのかもしれない。いつかヴィッキーと引き合わせたら相当やかましいコンビになるだろう。

 システィーナは5分かそこらを一人で喋り切り、それから急に大人しくなったので母親が「どうしたの?」と聞くと、力のない声で「ちょっと、眠い……」なんて言うので、みんな笑ってしまった。そりゃあ身も心もクタクタだろう。

 それをしおに、母親は娘を抱え上げて席を立った。

「娘も疲れたようなので、私たちはそろそろ行きますね」

「はい、今日は本当にお疲れ様でした。システィ、またね」

 エリスが手を振った時にはもう、彼女は安らかな寝息を立てていた。ふたたび笑いがおきる。

「エリスさん、今日は本当にありがとうございました」

「あ、いえ、こちらこそありがとうございます!」

「お恥ずかしい話なのですが、娘がこれほど素直に感情を表に出したのは本当に久しぶりで……。あの、あつかましいことをお願いするようですが、今日、娘にかけていただいた魔法をまた……」

「はい、機会を作ってまたお招きします。今度はもっと落ち着いた雰囲気で、動物とか花とか街とか、色々なものを見て楽しんでもらえたらって思っています」

 珍しく時宜じぎにかなったエリスの回答にシスティーナの母は深々と礼をして、もう一度謝意を述べてから俺たちのもとを離れていった。そのあとは関わった魔法使い全員に感謝を伝えるつもりなのか、片端から礼を言って回っている。

「よかったな」

 エリスに声をかけてやる。

「うん。システィもだけど、お母さんもすごく楽しんでくれたみたいだったね。ほんと、良かったぁー」

 力の抜け切っただらしない顔でそう口にした時、横から「エリシェル君、今日はご苦労様でした」と声をかけられた。

「私も、とても楽しかったですよ」

 車椅子に深くくつろいで座るディンキー先生の表情も、いつも以上にやわらいでいた。

「ありがとうございます! でも先生、体の調子は大丈夫ですか?」

「あーンむ……。私は寝てばかりいる方が酷に感じるのです。たまにはこうして体を動かし、外の空気を吸い、血中に驚きを摂取しないといけません」

「驚いてもらえました? 」

 笑顔で聞くエリスに先生はすぐには答えず、鼻でゆっくりと空気を吸った。人がこういう表情をするの、どっかでよく見るなあと感じたが、思い出した。ウチのランチで満腹したお客さんの顔にそっくりだ。

「あーンむ……。今日は、とても感動しました」

「ほんとですか? よかった!」

 先生はなごやかに微笑み、頭に被った黒のキャップのツバ先をそっと指でぜた。『ディンケンス監督の黒いディレクターキャップ』は、ファンの間ではつとに有名な品で、一種の象徴みたいなものだ。たぶん現役時代の癖だったんだろう、エリスに良かったところと直し甲斐のある点を指導しつつ、しきりにツバに手をやってはくいくいもてあそんでいる。

 かと思うと、先生はツバをつまんでキャップを脱ぎ、エリスをちょいちょいと招き寄せ、俺が「え」と声をあげてる横でそのままエリスに被せてしまった。

「わ、いいんですかこれ」

「あーンむ……、もちろんですよ。お守りみたいなモノです」

「わー、ありがとうございます。大事にしますね」

 おいおい、なんかすごいモノもらったぞコイツ……。

 大監督の、大のお気に入りの品である。ファン垂涎すいぜんの品なんてものじゃない、いずれ幻術博物館が作られた日には重要展示品となってもおかしくないレベルの……。ていうかコレ、もしかして衣鉢いはつがせた、とかそういう意味なのか……? いや、可愛がられてるとはいえさすがにソコまでは……。

 しかしもらった当人はコトの重大さに微塵みじんも気づく様子もなく、嬉しそうに「似合う?」なんて俺に聞いてくる。お前には百万年早いですと真実を口にしかけたが、今回の成功に水を差すのもさすがに気が引けたので、ひとまず「いいんじゃないの?」と曖昧あいまいな回答で済ませてしまった。でもいいんだろうか、マジで……。

 まあお守りと言ってたし、先生もあちこちで気に入った人間に配ってるのかもしれない。

「あーンむ……。それでは私も、そろそろ部屋に戻るとしましょう。怖いお姉さんたちに叱られる前にね」

 先生は手を挙げてノラン上級研究員を呼び寄せた。ノラン氏はメガデブゲとともに先生の片腕とも言える人だが、すでに新進気鋭の幻術演出家として独立を果たしている。なので氏はもう常任の研究員ではない。今日のような大きな行事のある時に出てきて、先生の身の回りの世話を焼き、このあとも打ち上げに冒頭だけ顔を出しつつ支払いは全て済ませてくれる、神様みたいな人なのだ。そしてこの人こそ、自他共に認める先生の後継者なのだが……。

 ノラン氏は黒キャップをかぶったエリスを認めると、目を丸くして驚き、それから声に出して笑った。

「よかったな、似合ってるぞ!」と屈託もなく笑っている。その様子から、この人も同じ物をもらっているのだろうなと、何となくわかった。

 そうして、ノラン氏が車椅子を押して病室に戻ろうとした時、先生はもう一度エリスに向かって、

「今日は本当に、良い物を見せてもらいました。ありがとう」

 と言い置いてから去った。

 ふいに、俺にはそれがどこか遺言めいて聞こえて、夏の光の向こうに消えてゆく先生の後ろ姿から目が離せなくなる。

 エリスが俺の手を握る。こいつも同じことを感じたのだろうか。

「……さあて、わたしたちも後片付け手伝わなきゃ!」

 エリスは努めて明るい声を出し、拳を固めて気合を入れた。

「そうだなぁ……。俺もせいぜい手伝うかあ」



 真夏の昼の夢は終わった。実験は大成功だった。システィーナの手元に、例の水晶玉セットが届く日も少しは近づいただろうか? そういえば今年のマジカルグランプリはどこが勝ったのだろう? 学園祭はもうすぐ終了の時間だけど、まだイベントやってるトコどこかあるかなあ。少なくとも火炎魔法科のキャンプファイアには間に合うはずだ。

 魔法使いたちの夏祭りが燃え尽きようとしている。来年はなにをやろうか? みんなきっと心の隅で考えてる。

 そうして秋がやってくる。コーヒーが一番旨い季節の到来だ。




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