第2話: 学ぶ魔法使い⑦


 しかし、二人にいつまでも尽きぬ会話をさせておく訳にもいかなかった。それは舞台がハネた後にでもじっくり楽しんでもらうとして、今はこちらの余興にも付き合っていただかねば後の進行に差しつかえがでてしまう。

 そろそろ次の段階に進んでもいいんじゃないか、と司会のメガデブゲを一瞥いちべつしようとして……、おもわず俺は「ギョッ!?」とそのまま声に出してしまうくらいに驚いた。

 あの、メガネでデブでハゲで陰湿で姑息こそくで独善的で自己中心的で自己陶酔的なカミンスキーは、今、乙女のように両手を口に当て、肩を震わせながら泣いていたのだ。

 それはまさに号泣であった。両の目から滂沱ぼうだの涙を滝のごとくに流してむせんでいた。メガネでデブでハゲで陰湿で姑息で独善的で自己中心的で自己陶酔的なのに、親子愛に大感激しているのである。そのメガネも今や濁流に飲み込まれんとする橋脚きょうきゃくの如しであった。

 見たくないものを見てしまった……。思わず顔を背け、救いを求める思いでエリスを見ると、あっちもあっちで難しい顔をして俺に助けを求めていた。なにぶん手を離すと視力の魔法が途切れてしまうのでシスティーナの背中にひっついていなければならないのだが、あからさまに場違いなお邪魔虫なのだ。感動の母娘ははこの横で、ただひたすらに存在感を消そうと必死に縮こまっている。あれでは声をあげるどころか身動きひとつできまい。

 ならば、と周囲に目を回す。するとアズミ先輩と目が合った。エリスの先輩で、今日は黒のロングヘアーをポニーテールにまとめている女性幻術研究者だ。その彼女の指がまっすぐ伸びて俺を差し、それからカミンスキーの方を差した。何だ? 何を言いたいんだ?

(((な・ん・で・す・かー?)))

 大声を上げると今の空気をさらにぶち壊しにしそうだったので、俺は口の動きだけでアズミ先輩に問い直す。すると彼女は再び俺をツンツンと指差し、そしてまたカミンスキーを……、いや、ん? よく見れば奴が持つマイクロ角笛ホーンを指示していた。そして再び、俺を指す。つまり先輩が言いたいのは……、え。脳がぶっ壊れたカミンスキーにかわって、俺に進行をやれと言っているのか? いやちょっと待って!

 待て待て待て待て待て待て待て待て待て!!

 俺はブンブンブンブン両手を振り回して、そんなの無理だ、絶対無理だ! 俺ただの使い魔だよ!? あんたたちの使いっ走りだよ!? と重ねて意思表示する。

 しかしアズミ先輩に両手を合わせて『お願い!』と重ねて指名される。それから先輩はぐる〜っと上半身で舞台全体を示して、大きくバツを描いた。なにがいな? と一瞬思ったが、少し考えたところで理解した。散らばった魔法使いたちにはそれぞれ割り振られた仕事があって一人も空きがなく、カミンスキーの代役をやる暇がないのだ。

 一時の感動から覚めてきた一部の観客が異常に気付いたのか、場が少しずつざわつき出した。「これで終わり?」なんて声も聞こえてくる。まずい。雰囲気が濁りはじめている。けど、そう言われても、急に司会を代われったって……。なにしろ台本はペラ紙一枚程度の内容でしかなく、司会進行はほぼ全てメガデブゲの裁量で行われるはずだったのだ。

 俺がまごついていると、アズミ先輩だけでなく、チューリン先輩やその他のメンバーにまで拝まれた。マジで困る……。もう一度、エリスの方に救いを求めるが、おしっこを限界まで我慢してる初等部のような顔でむしろ俺に助けを求めていた。

 う〜〜ん……、俺がやるしかないのか……。ええい……、

 ええい、くそ! メガデブゲめ……!

 俺は意を決した。いよいよ膝を折って号泣しだしていたカミンスキーの手からマイクロ角笛ホーンをもぎ取り、深呼吸した。まったく、なんで使い魔でしかない俺がこんなバクチを打たにゃあならんのか!

「え〜〜、テステステス。あー、あー、あー、少しよろしいでしょうか」

 母娘の間へ割り込んだ俺の声に、観客が夢から醒めたような雰囲気で感動の水底から現実に浮かび戻ってくる。メガデブゲみたいにもっと人を煽るようなセリフ回しができればいいのだろうが、そういう才能は俺にはない。無粋でもなんでもいいからとにかく先に進めるのだ。

 幸い、俺の一言で観客席は再びキレイに静まってくれた。使い魔、それも鳥や猫ならともかく、カバンの姿をした使い魔が突然出てきて喋り出したもんだから「そういやアレは一体なんなんだ?」と驚いているのだろう。

「あー、感動の場面にお邪魔して申し訳ありませんが、この辺りでもう一つ、魔法使いからの贈り物をお届けしたいと思います。なお、こちらのし物、会場の皆さんもご一緒に楽しんでいただけますので、どうぞそのままでお待ち願います」

 俺の言葉に会場のお客さんからは『おおーっ』と声があがり、舞台上や舞台袖で待機していた魔法使い、研究員たちが一斉に行動を開始した。

 舞台中央には今回の助っ人を請け負ってくれた時空魔法の使い手が三人。それから風魔法の研究員を示す、モスグリーンの法衣に身を包んだミナイーダ。彼女はもう一セット用意された白の送信球を持っていて、三人の時空魔法使いたちと一緒に魔法の仕掛けを作り始めた。

「準備の間に、皆様にご紹介したい方がいます。幻術科を導く大賢者であり、世界的な幻術監督でもいらっしゃいますブロウニー・オズ=ディンケンス先生です。先生、お願いします」

 観客席から『おー』と小さくない歓声が上がった。カミンスキーと同期であるノラン上級研究員に車椅子を押されて、黒キャップを被ったディンキー先生が舞台の上へとあがり、帽子をあげて一礼した。それに大きな拍手が送られる。カミンスキーの段取りでは確かここで先生から数分間のコメントをもらうはずだったが、俺がマイクを渡そうとすると先生は「いいよいいよ」と左手をふらふらと振ったので、俺は飛ばす事にした。

 先生の体調は確かに良さそうだが、それでも体をむしばむ苦痛が消えた訳ではないはずだった。病棟のベッドから離れれば、先生に常時かけられていた治癒魔法の効果も当然失われる。時空ごと進行を留めていた病状も動き出し、体にはそれこそ寿命を削るような痛みが襲ってきているはず。それほどの病身を押して先生がここにいるのは、どうしても今からの実験に立ち会いたいという先生たっての希望だった。いさめようとしたカミンスキー、ノランの両上級研究員を現役時代さながらの剣幕で黙らせたという先生を、誰が止められるはずもない。怒れる鬼ディンキー監督の前では学校長だって無力だ。


 そうこうするうちに魔法の準備が終わった。客席も、システィーナたち母娘も、これから何が始まるのかと俺を注視する。

 ホント、進行表読んでおいてよかった……。つか、なんで俺がこんな大それた事してるんだ。もう一度カミンスキーを振り返ってみるが、ようやく涙は止まったモノの、奴はいまだ幼女のようにクスンクスンとしゃくり上げていた。これではキモすぎて人前に立たすわけにはいかないだろう。肝心な時にこのクソメガデブゲ野郎が、まったく……。

 俺は握ったマイクをつかみ直して緊張を押し殺す。

「では、これからの実験に協力していただく方々をご紹介します。まず、風の魔法を研究されているミナイーダ・リザラズさん」

 舞台の中央、白の送信球を何らかの魔法装置にセットしていたミナイーダがこちらを振り向いた姿勢で一礼する。

「つづいて今注目の時空魔法、重力制御魔法を研究されている方々」

 ミナイーダの周囲にいた三人の魔法使い達が立ち上がって客席に会釈えしゃくしたり手を振ったりした。一人一人の名前は完全に忘れてしまったので紹介は割愛かつあいさせてもらう。許せ。

「それでは実験の説明をさせていただきます。えー、こちらの四名の方々にご協力いただきまして、例の白い球、送信球ですね、あれを風と重力の魔法でここから上へと上昇させてゆきます。そして送信球から送られた映像を、あちらのチューリン研究員が抱えております黒い球、受信球で受け取ります」

 チューリン先輩が観客によく見えるように受信球をかかげた。観客の顔にはこれから何が始まるのか? という疑問が浮かんでいるばかりで今のところ特に表情はない。

「つまりですね、白い球をこの会場のずっとずっと上空に飛ばし、そこから見える地上の様子を、そこの黒い球へ伝送するわけです。これはおそらく世界で初めての景色となるでしょう」

 客席に驚きの波が広がる。『おお、すごい』の声もあがる。だがどう贔屓目ひいきめに見ても『ああ、なるほど』くらいの関心度でしかない。まだ自分には関係のない、遠いところの話と感じているからだ。

 ならばここが勝負所だ。

「では観客席のみなさま、左右の座席の方と手を繋いでいただけますでしょうか」

 観客席が一気に動揺する。当たり前だ、見知らぬ他人といきなり手を繋げといわれてハイと従えるのは幼稚園児かうちのエリスくらいのものだ。だが、

「先ほどシスティーナさんのご協力で実証されましたように、あるいは実験の前説で一部の方に体感していただいたように、この魔法道具マジックアイテム・中継水晶には、映像受信者の体のどこかに触れることで、触れた人にも受信者と同じ映像体験を共有できるという能力があります。映像が伝播でんぱするわけですね。さらに、その人に次の方が手を触れることでも同様に、さらにその次の方が触れればまたその方にも、そして次の次の方にも……、というように人の手が繋がれば繋がるほど映像はリレーされていきます。そしてこの会場の全員が手を取り合うことで、世界初の映像を、みなさん同時に体験できるというわけです」

 客席がオオオ————! と一気に湧いた。そして誰も彼もが隣人と手を繋ぎたがった。なかなか面白い光景だった。

 この企画の原型を提案したのはエリスだ。システィーナに視力を一時的にでも取り戻させ、母の姿を見せ、じゃあ次に何をして楽しませるのか? そんな議論を重ねていた時、エリスが思い出したのはあの日のディンキー先生の授業だった。先生が現役時代に撮り残したという、超高空からの俯瞰ショット。現在の魔術水準では夢物語だった視野。

 ところがそこに中継水晶が現れた。撮影杖スタッフを持った魔法使いを空へ打ち上げるのは不可能だが、水晶球ひとつなら難易度はぐっと低くなる。魔法で送信球を空中へと舞い上がらせ、球が得た視界を地上の魔法使いが受信球で受け取ればいい。安全かつ簡単だ。

 また、水晶球を上昇させるのに重力制御魔法は最適だった。風の魔法、たとえば竜巻サイクロンなんかを使えば球は瞬時にしてはるか上空へ到達するだろうが、猛烈な風で巻き上げられる球体に視覚を同調させようものなら、会場は瞬時にしてゲロまみれの地獄絵図と化すだろう。その点、先端総研にある昇降器リフターのように、抑制を効かせながら一定のペースで上昇できる重力制御魔法は理想的なのだった。

 ところが実地試験してみたところ、さらに新たな障壁が現れた。送信球が上空にいくほど、風の影響を受けてしまうのだ。とりわけある程度の高度に達すると突如吹き始める謎の気流には悩まされた。その風圧はゴーレムの張り手にも等しく、重力魔法でゆらゆら上昇していた送信球はあっという間に吹き飛んでいってしまったのだった。

 風のことは風使いに聞くのが一番。ということでエリスが助けを求めた先はもちろんミナイーダだ。あれこれ考えた結果、彼女にか細く絞った魔法の台風タイフーンを作ってもらい、その中心を上昇航路にしようと思いついた。台風の目は、暴風の中にあって無風の空間というわけだ。それがこの舞台の中央にミナイーダと三人の重力使いがいる理由だ。そして先日、魔法使いたちは上昇制御実験を遂に、完全に成功させたのだった。

 俺は舞台の段取りが順調に進んでいることを確認し、エリスとシスティーナ母娘をうながして観客席の最前列、ディンキー先生の横の座席へ移動した。エリスは右手で先生と手をつなぎ、左手は娘を膝に抱いた母親と重ねた。その母親の左隣には黒の水晶球を受け持つチューリン先輩が座る。

 俺は角笛ホーンを握り直してエリスの膝の上から観客席に呼びかけた。

「皆さん準備はいいですかー?」

 客席全体から『はーい!』と子供みたいな返事がきたので俺は吹き出してしまう。ついさっきまで見知らぬ人たちばかりだったというのに、この一体感はなんなんだろうなあ。

 エリスの肩によじ登って客席を振り向くと、最後尾近くに良く知った顔を見つけた。レティと、ヴィッキーと親方だ。よかった、三人とも中に入れたのか。このことをエリスに耳打ちしてやると、エリスが小さく「やたっ!」と声を上げた。

 それから、要所に配置した魔法使いたちから目や頷きでOKの合図があった。実は中継水晶の伝達能力は未完成で、間に魔力の弱い人間が入ると徐々に解像度が落ちてしまうという問題を持っている。そこで観客席に幻術科の魔法使いを一定間隔で散らばらせ、増幅器アンプ代わりにしたのだ。これで客席は万全、舞台上のミナイーダ、三人の重力使いたちからのOKサインも受け取った。俺は頷いた。

「それじゃ一緒にカウントダウンお願いします。ゴー!」

 ごぉー! と間髪入れずに大きな声が返ってくる。さっきのメガデブゲの真似だけど、この反応の良さは確かに楽しいなぁ。

「よんー」『よんー!』

 天窓の一部が魔法によってオープン状態になり、まばゆい夏の日差しがミナイーダたちを天啓のように射した。

『さんーー!』

 白い水晶球に重力制御魔法、浮遊フロートの魔法が与えられ、重力のくびきを外されてスッと宙に浮く。同時にミナイーダの台風タイフーンも起動し、遥か天空まで続く風の道が開かれた。

『にーーーー!』

 ふんわり、ふんわりと、ついに浮上してゆく白い送信球。だが受像レセプトの魔法はまだ入れない。魔法が入るのは水晶がポジションについてからだ。

『いちーーーーー!!』

 送信球はぐんぐん上昇、もう少ししたら天窓を抜ける、という所まで昇る。そしてそこで一旦ストップ。球に埋め込まれたレンズがその場でクルリと客席を向いた。

『ゼローーーーーーー!!!』

 そして受像レセプトの魔法がチューリン先輩が持つ黒い水晶球の中で発動した。

 息をむ場内。受信球がほのかに光った瞬間、その場の全員の視界が黒いもやに包まれた。

 ……いや、違う。靄ではない。自分の視界に、もう一つの視界が重なっているのだ。メガデブゲによる前説の経験から観客たちは続々と目を閉じ、新たなる視覚体験へとその意識を委ねる。

 一瞬の沈黙のあと、視界に重なった映像の正体を素早く感じ取った人から『お〜〜!』と歓声が上がるのがわかった。俺の目、いや意識でも黒い靄が晴れ、二重映しの詳細が見えてくる。それは、天井近くの高い位置から見下ろされる自分たち自身の姿だった。

『オ——————!!!!!!』

 大きな歓声が上がった。と同時にちょっとした悲鳴も飛び交う。たぶん高所恐怖症の人たちだろう。送信球が浮いているのはちょうど足元がすくむような、スッとする恐怖を感じさせる高さだったのだ。

 その一瞬の騒ぎが落ち着くと、間もなく人々はあるものを熱心に探し始めた。群衆の中にあって一番見つけたくなるもの……、つまり自分の顔だ。見下ろすほどの高みから観る自分の姿がどう見えるのか、俺も急いで観客席の最前列を注視すると——

 いた。エリスの膝の上に座って、頭上を仰ぎ見る俺の姿が。見上げる自分を見下ろす、というのはなかなか滑稽こっけいで、アレが客観的に見える俺の姿なのかと思うとどこかこそばゆかった。思わず笑ってしまう。

 するとここで小さなハプニングが発生した。後ろの方から見えない、見えなくなった、と声が聞こえてくる。どうも受像レセプトのリンクがどこかで崩れたらしい。

 いったい何が? と思っていたら、あちこちから「手を離しちゃダメじゃん〜!」なんて笑いあう声が聞こえてきた。どうやら自分の姿を探しおおせた人々の幾らかが、うっかり手を振ろうとして繋いだ手を離してしまったようだ。映像は当然そこで途絶えてしまい、後ろに続く人々への中継が切れた、という訳だ。もちろんうっかり者は慌てて隣人の手を取り直し、リンクも無事回復した。どうやら人というのは、離れた視点から自分の姿を見ると、反射的に手を振ってしまうものらしい。

 そんな風に人々をしばらく楽しませてから、天の目は再び上昇を始めた。天窓の枠を過ぎ、ホールの屋根を飛び越えて屋外に。外は学園祭に来た人々でぎっしりで、世界のどこを探してもこれくらい人の集まる場所なんて他にないと思うくらいだった。なか呆然ぼうぜんとしてエリスがつぶやく。

「すごい……。人がゴミのようだ……」

「オイ」

 言葉を選べ、言葉を。ただ、無数の人混みをそれなりの高さから見下ろすと、人の顔もろくに判別できなくなってちょっと不気味なくらいだった。客席の後ろのほうから子供が「アリだー!」と騒いだのが聞こえたが、なるほど、ちょっとカラフルなアリの群れに見えないことも無い。水晶球はこの様子を楽しめるようにしばらく滞空していたが、再び上昇を始めた。

 やがて俺たちのいるホールとその周囲が、俯瞰して見えるほどの高度に届いた。このあたりから『鳥の視点』というところだろうか。演劇ホールやその他の施設の周囲をたくさんの小さな点が往来している。見入っているのか、ずっと盛り上がってきていた観客席が少しずつ静かになっていた。

 この高度からだと円形闘技場コロセウムの姿がよく目立った。今はアホの祭典、マジカルグランプリの特設競技場となっていて、たくさんの人が集まっているのが確認できる。……つか、なんか巨大で、ドス黒くて、すごく不吉なカタマリが見えるんだが。アレたぶん重力制御魔法の暴走に見えるんだけど、大丈夫なのかなあ……。

 そのとき、横手から「ふーンむ」と満足げな嘆息たんそくが聞こえた。エリスの右手と繋がっているディンキー先生だった。

「懐かしい。本当に、懐かしい……」

 感傷にひたる先生の声に続き、学校関係者を集めた招待席エリアからもため息が漏れた。自分が毎日通っている、あるいは住んでさえいる建物の全体像を自分の目でじかに見たのだ、コレはちょっとした驚きである。塔やドーム、その他形容しがたい直方体が野放図のほうずに建ち並ぶ景観には改めて呆れるものの、俺もそこに愛着を感じないわけにはいかなかった。

「大正門をご覧なさい。わかりますか? 名残なごりを、感じられますか?」

 え? 思わず先生の方を振り向きそうになる。ああ、そうか。俺とエリスは少し前の、夏の日の講義を思い出していた。

「公女の休日の階段広場……。こんな姿をしていたんですね」

 目を閉じたまま呟いたエリスに、先生は「そうです」と実に嬉しそうに言った。

「美しいでしょう? 私には、とても懐かしい……」

 上空から見下ろす大正門の周囲には人が多くいて、流れが絶えない。それでも敷石の並びに、あるいは柱の建ち並びに、人の流れ様に、かつて存在したという半円状の大階段の輪郭を感じ取ることができた。知らなければ気づかないし、たとえ知っていたとしても、その意味に興味がなければ見過ごしただろう。

 しかし、かつての記憶をそこに重ね合わせた時、その姿は心に刻み込まれた物語とともに蘇ってくる。名画とよばれるほどの幻術には、そういう力があるのだと痛感した。

「ふーンむ……。懐かしいですねえ、本当に……」

 先生が病身を押してまで見たかったのは、この景色だったのか……。

「そのまま画面を引いていきなさい。ゆっくりとね」

 と先生が言った。そんな先生の指示が聞こえたかのように、水晶球が再び上昇をかけた。視界にいっぱいだった学校の全体図も一気に小さくなり、いよいよ都市国家全体がフレームに納まってくる。

「ちょっと、速い」

 今度は苦笑しながら先生が演出に文句をつけ、エリスがくすりと笑った。

 都市の全図が見えても、それでも大正門はよく目立っていた。白く輝く正門を中心に、放射状に広がっている夏のプルメリア。あふれるほどの緑と光に包まれた魔法の国の姿は、俺が想像していた以上に美しかった。

 すると、となりのシスティーナ母娘が小声で何か囁き合っている。母が何かを教えて、娘はそれにはしゃいでいる様子だった。いや二人だけじゃない、観客席のあちこちから似たような響きの歓声が幾つもあがっていた。なんだろう?

「ねえカバン君、ウチってどこ?」

 方向音痴なエリスから情けない声が上がる。あ、そうか。みんな今度は自分の家を探しているんだ。

「普通に通学路逆算して探してみろよ。まず校門があって、トリュフォニュウム通りをまっすぐいって、そっからコリウス通りはいって……、あ、あそこだ」

 家々が密集した区画の中に見慣れた壁色と、あまり見慣れないこげ茶の屋根。となりにレティの雑貨屋、orangeの姿。

「えー、わたしわかんないー。指でさしてー」

「無茶言うな、まぶた閉じてんのに。あ」

 そうこうしているうちに視点が更に引き上がった。店の在り処を探しきれなかったエリスから「あーっ!」と悲鳴があがったが、もちろん急上昇に歯止めはかからない。

 これまでは土地鑑とちかんからどうにか想像のつく世界であったが、これほどの高みになってくると、瞼の裏に広がるこの景色が、自分が今いる場所の延長と感じられなくなってきていた。もはや人影など欠片も見分けられない。

 この高度でまず目につくのは道だった。人家がごちゃごちゃ密集した都市よりも、広い土地を亀の甲羅のように区切っている道路の存在感が強力だ。だが幹線道路も国の中心から外れていくほどに区切りが雑になり、建物もまばらになっていった。

 ただ、それなのに、どこか見覚えがあるこの姿は……。ああ、そうだ! これは、地図の世界だ! 伝説の冒険者、ワードナがのこした地図マッパー記憶宝珠メモロブがいかに正確なものだったのか、今それが証明されているのだ!

 水晶球はここで更に上昇の速度を上げた。多彩な地形に囲まれたプルメリアの姿が見える。何本もの街道が混じり合い、交易の要衝ようしょうとなっているのがよくわかる。

 高度がここまで届くと、もはや想像も絶する、としかいえなかった。

 しかし、自然ばかりが目につく景色の端に、なにか角張った、人の手によるものと思しき区画が見えてきた。その近くだけ道も整然と、しかし複雑に入り組んでいる。

 ……ってことは、つまり他所の国が見えてきたんだ。なら北に見える四角い建築物の集合体はきっと近傍きんぼうの都市国家クエル・ナ=バーガだ。美しく区画され、色調も白をベースに格調高くまとめてあるのがよくわかる。クエルは医術に優れた中規模の国家だが、街並みにはその几帳面な国民性がよく現れていた。

 ならば、南西の山あいに市街を食い込ませているのはケンメンドルフ公国に違いない。プルメリアとは犬猿の仲にあるが、その姿たるや堅忍不抜けんにんふばつ、常在戦場の武装国家に相応ふさわしい男の城だった。国土すべてが自然の要害であり、往来おうらいを複雑に入り組ませた街作りは難攻不落だ。

 そして水晶球はさらに次の高度へ。もうだんだん地図で得た知識ですら追いつかなくなって来ているが、視野の端に写り込んでいるのはまず間違いなく超大国・メルキア共和国と、その資力の源となっているメルキア大河だろう。

 が……、この広い湖はなんなんだ? おいおい、今までこんなの聞いたことないぞ。それにこの白くて巨大な塊って、まさかコレは山……、でいいのか? 山頂に雪をかぶった山? 待てよ、今は夏だぞ? いくらなんでも巨大すぎる。これじゃあ街より……、いや国より大きいはずだぞ?

 すげえ……! 初めて見たどころか、初めて知ったものばかりだ……。こんな大きなものがあったなんて、地図にも本にも新聞にも載ってなかった!

 いま、『世界』はもう俺たちの知識を遥か超えたところにあった。夢にも思わなかった世界の真実がここにあった。世界は、俺たちが知っている以上に、とてもとても広かったのだ!

 なんだかよくわからないが、俺の内側で嬉しさがこみ上げてくる。誰も知らなかった大きな大きなことの突端に、俺たちは手を触れたのだ。知らなかったことを知りつつある楽しさにただひたすらワクワクする。そんな期待を越えた大きな驚きに包まれながら、俺の中には更なる期待が芽を出し始めていた。

 そして、みんなも同じことを感じているのだろうか、知らぬ間に場が完全に静まり返っていた。それでいて、隠し切れない熱をはらんでいた。期待が高まっていた。ここまできたなら俺もぜひ見てみたい。大陸の中心近くに位置するこの国の人間にとって、全く無縁な存在だと信じていた、世界のての姿を。

 その熱に応じようというのか、水晶球は再び高度を上げ始めた。たぶんこれが最後の上昇だ。先ほどの大山さえも、巨大湖すらも、またも小さく遠くになってゆく。それでも世界はどこまでも広がって終わりが無く、俺は恐ろしささえ覚えはじめていた。見えている大地はほとんど緑一色で、高度を上げるごとにその色味が薄まって、徐々に青っぽくなっていった。青い空の中に入れば入るほど、見える物もやっぱり青くなることに俺は感動する。

 そして、その瞬間がやって来た。

 もはや自分の国さえどこにあるのか判別がつかなくなった高度、その視野の端に、遂に現れ始めたのだ。青い、明らかに青い領域が。


 『海』が——。


 がくん、と上昇が止まった。なぜだ。海はまだその片鱗へんりんしか見せていない。俺たちはもっと見たかった。船乗りという異国の冒険者から伝え聞く海の大きさを。これまで俺たちを驚かせ続けてきた山や湖よりなお、なお巨大だという海の大きさを。もっともっと高いところから、海の広さを感じてみたい。伝説の真偽を確かめたい。

 しかし上昇は止まったまま。いったい何を勿体もったいつけてるんだ。しびれを切らした俺は目を開いて受信球の支配を脱し、『通常の視点』に帰った。かなり長いこと目を閉じていたせいで少し足元が覚束おぼつかないが、平衡へいこうを取り戻してミナイーダたちの方に目線を転じると、その時になってようやく彼女たちの異変に気づいた。ミナイーダがしゃがみ込み、苦しげな表情を浮かべながら魔法を維持している。あれは……魔力限界が来ている!

 エリスに事態を耳打ちすると、エリスは映像のリンクが途切れないようシスティーナとディンキー先生の手を繋げてから立ち上がった。大慌てでミナイーダの元に駆け寄ろうとする俺たちに、先生が

「エリシェル君、一つ伝言を頼みたいのですが」と注文を付けた。

 その内容を確かめてから、俺たちはミナイーダのところまで走った。




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