第2話: 学ぶ魔法使い⑥

 まだまだ暑さの残る、暦だけは秋になったある日曜日。今日はCafeにちようびにとって年に数えるほどしかない日曜休みである。

 まぁ、店主が学園祭に出ているのだから仕方がない。どのみち近所のほとんどの住民が学園祭に足を運んでいるんだし、店を開けておく意味もないというものだ。

 では、それほどの人出を呼び込むプルメリア魔法大学校・学園祭ではどんなことが繰り広げられているのだろう? まず承知しておいてほしいのは、他国で聞くような学園祭とは少し毛色が違うということだ。在学の学生やOBたちが主体となって行われる文化的な催しを学園祭と呼ぶのであれば、プルメリアのそれは、祭りというよりは最先端魔術見本市と呼ぶべき姿をしていた。

 たとえば先端総研の一階で行われている、魔法道具マジックアイテムの展示会。そこでは料理をより素早く簡単にする大火力魔法コンロ、容器に注いだ湯などを時空ごと停止させて状態を維持する最新魔法瓶といった生活に身近な道具が主婦層の人気を集めていた。その一方で、男の子たちは手のひらサイズのミニゴーレムの最新種に目を奪われている。歩いたり腕を振ったりする程度のごくごく簡単な命令オーダーをこなせるものだが、少年たちは数種のオーダーを器用に組み合わせて自慢のゴーレム同士でバトルするのだ。

 さらにその隣りでは全高20mを越す超大型ゴーレム建造研究の経過報告が行われていた。完成した暁には建築業界での活躍を目指す予定だという。ただ、こいつは他国から侵略兵器なのではないかと疑いのまなざしを向けられていて、少々キナ臭くなってきてもいたりもするのだが。

 一方、女の子は同じ手のひらサイズながら、美男美女に創られた自律人形オートマタに夢中だ。小動物以下に抑えられた知能も付与されており、人語は理解しないが服やドールハウスや家族などの人間的な付属品を与えることで実に豊かな表情を見せる。聞けばエリスも大いに遊んだクチだとか。子供時代、ゴーレムやオートマタに夢中になった経験がきっかけになり、長じてからの魔法学校入学につながった生徒はかなり多い。

 展示ばかりでなく、お祭りらしい催しもたっぷり用意されている。たとえば模擬店というやつ。模擬店と言えば他国ではおおかた屋台でやる飲食店のまねごとを指すだろう。しかしこの学校の模擬店は、屋台ではなく怪しげな小屋や胡散臭いテントを広げることが多い。その小暗こぐらい空間で行われるのはいわゆる占いの館だ。恋でも相性でも金運でも健康でもなんでもやってくれる。そしてよく当たる。

 が、安易な気分で訪れるのは、俺はお勧めしない。なにせ魔法使いの本気の占いである、生易なまやさしいレベルではない。使用される道具も占い師の能力も、因果律魔術の最先端・最精鋭なのだ。

 なら好都合ではないか、と考える向きもあるだろう。しかしだ、占いなんてのは当たるも八卦はっけ当たらぬも八卦はっけだから成立するのであって、的中率で8割を超える超級の魔法使いに「お前は女にモテない」などと断言されたらどうだろう? それはもう、占いではなく死の宣告なのだ。自分や家族の健康を占ってもらうのは愚の骨頂。あいつらの中には「あなたは今から十八年後に馬に蹴られて死にます。この運命はまず避け得ません」なんて告死天使じみた精度の宣告をくだす奴までいるのだから始末に負えない。その後で「でもこちらの開運の壷を購入すればもう大丈夫! あなたは死の運命から解き放たれます!」なんてセールスをはじめるならまだ救いがあるのだが、そういうのは無い。占いと未来視を根本的に誤解しているのである。

 模擬店以外の体感系アトラクションだって数多い。たとえばおなじみ、お化け屋敷。もちろん本物の悪霊レイスとか浮遊霊ゴーストとかが出る。

 あるいはびっくり仰天モンスターハウス。当然本物がバンバン出てくる。こちらでは魔法強化された凶悪極まりない武器装備一式の有料貸し出しがあって、用意された合成獣キメラや人造魔竜などの豊富な魔獣たちと干戈かんかまじえることができた。が、どれほど武装が強力でも毎年大量に怪我人がでるのもこのアトラクションの特徴だ。一振りで周囲の空間ごと抉り取る一撃必滅の斧槍ハルバードを渡されたとして、小さな体で跳ね回りながら即石化級の毒液を大量に吐き散らかす手のひらサイズの猛毒蜥蜴バジリスクを相手にどうしろと言うのか。

 これらのイベントには一般市民も参加可能だが、参加する際には『甲は上記規約を理解した上で、自らの意思によって本施設を利用するものであり、その際に生じた一切のトラブル(死亡事故、後遺症のある受傷を含む)に関しては自己の責任に於いて対処することを誓います』とかなんとかいうような宣誓書を弁護士の監督のもとにサインしなければならない。また何であろうと保険は適用されないことになっている。

 誰が出るんだこんなモン。

 ということでこの魔獣狩りモンスターハンターゲームには軍人や傭兵、プロの猟師などの限られた人々が命がけの訓練がてらに参戦するのが通例だ。そんな彼らの勇戦を一般市民が手に汗握り、声を嗄らして応援し、こっそり賭けたりしているという趣旨の演し物なのである。

 なお、敗北して大ケガした勇者には学校が誇る最先端の治癒魔術が無償提供される。そうして治癒科の魔法使いたちに『極めて深刻なケースの実践経験』を積ませるとともに、集まった諸国の軍事関係者どもへ『瀕死だった怪我人がこんなに早く、ホラ元通り! もう戦えるようになりましたよ! さあ買った!』とセールスを始めるのだ。悪魔の方がよほど人道的というものだ。

 そんな理由から地獄の同義語となっている治癒科・外科病棟の前で、エリスはミナイーダと顔を合わせていた。ロビーには盛大に血痕が飛んでいる。

「アルマ、やっぱり今は来られないみたい。手が空かないそうよ」

 中にはいって様子を確認してきたミナイーダが、血糊ちのりから目を背けつつ報告する。おそらくアルマは血の海のなかを泳ぐようにして無数のケガ人に無数の治癒用記憶宝珠メモロブを投げ与えていることだろう。我が友、アルフォンス氏の美しい白毛に返り血が飛ばないことを俺は祈る。エリスは諦め顔で友人に答えた。

「やっぱり治癒科は忙しいよね。今年の魔物はグリフォンだったらしいし」

 有名な魔獣なので説明する必要もないかもしれないが、腰から上が鷲で、そっから下が獅子というアレである。これをタイマンで仕留められるようなのがいたら、そいつは歴史に名を刻む勇者か英雄のレベルだ。

「担ぎ込まれたのはそればかりじゃないみたいね。時空科の因果律班がやってるアトラクション、エリス知ってる?」

「なんだっけ……、鏡の家だっけ?」

「鏡の迷宮。小さなお屋敷が舞台なんだけど、その内側が全部鏡張りになっていてどこを見ても自分の姿が映るの。そのうちに方向感覚が狂って自分がどっちを向いているのか分からなくなるそうよ」

 うへぇ……。概要を聞いただけで頭が痛くなってくるなあ……。

「そういうのって頭痛くなりそう……。でもそれ、どこに魔法が関係してるの?」

「鏡が実は鏡じゃないの」

「ん?」

 ちょっと待ってね、とミナイーダは肩にかけたトートバッグから(俺より高級品である)キレイに折りたたんだ学園祭ガイドを取り出した。

「ええとね……、鏡に見えているのは、実際には時空の断面! 時空の連続性に半円状の切れ目を入れて別の空間座標へ繋ぎました。その切り口が鏡となって皆さんを見つめます。だから、目に映るのは全て数万分の1秒前の、本物の自分……。あなたも過去の自分たちと再会してみませんか? ……だそうよ。わかる?」

「なんにもわかんない。なんかもう、今すっごい眠い」

 エリスの即答にミナイーダもうんうんと頷く。ウチのはともかく、ミナイーダは頭脳面でも優秀な学生なのだが、こういう分野は専門外のようだ。

「でも……、ん? あれ、なんでそれでアルマが忙しいんだろ。鏡の迷宮じゃケガなんてしないよね?」

「あ、それはね、迷宮の最深部が原因らしいの。最後までリタイアせずに一番奥の広間まで攻略すると、壁面いっぱいに映った何十体という数の自分の複製に囲まれるそうよ。そしてそれが無言で見つめてくるんだって。いつまでもいつまでも」

 うわあ。概要を聞いただけで頭がハチ切れそうです。

「実体を持つ自身の複製に見つめられ続け、挑戦者はいつしかとめどない不安を覚え、自分という存在に疑問を抱き、やがて自我を解体され、突発的な再起不能に至る……らしいわ。さっきも病院のロビーに何語かわからないような言葉を絶叫していた人たちが何人かいたわね」

「そんなん、魔法うんぬんで治るのかよ……」

 つい口を挟んだ俺に、ミナイーダは「さあ、どうかしら」と肩をすくめた。

「それはそうと、アルマが言ってたけど先生はもう出発したって。私も重力研の人たちも準備はできてるから安心してね」

「ごめんねー、学園祭なのにウチだけの話に協力してもらっちゃって。先輩や友達から怒られてない?」

 両手を合わせるエリスの頭を、ミナイーダはよしよしとでてやって、

「一番の友達のお願いだもの、無碍むげにはできないじゃない? というかね、話をしたらみんな参加したがってたくらいだから大丈夫、気にしないで。

 じゃ、私もそっちに運搬するアイテムが色々あるから準備するわ。またあとでね」

「ありがと、ばいばい」

 自分の研究室へと戻ってゆくミナイーダに手を振って見送り、その姿が見えなくなるとエリスは「よし!」と気合いを入れた。

「それじゃ、わたしたちもひと仕事しますか!」

「あいよー」



 楽屋と呼ぶのもはばかられるような薄暗い小部屋に俺たちを押し込んで、アズミ先輩は

「出番まであとほんの少しだから、もうちょっとだけ待っててね」

 と言いおいて舞台袖へと走った。後ろ頭から長く伸ばしたポニーテールがひょんひょん揺れる。舞台の方からはメガデブゲの声が途切れ途切れに届いてきていて、合間には笑い声や感嘆が聞こえた。大観衆を前にして思う様煽り立てているのだろう。

「大丈夫? 怖くない?」

 エリスは隣りのイスに座っている白いドレスの少女に声をかけた。緊張で肩を小刻みに震わせているその少女の額から鼻にかけて、凶悪な呪いを押し留める封印のように、真白い包帯が幾重にも巻きつけられている。

 そう、本日の主役、システィーナだ。

「怖くはないです。けど、ちょっと緊張してきました。向こうはたくさんの人がいるんですよね?」

「うん。みんなシスティのこと待ってるだろうね」

「わー……。なんだか恥ずかしい……。エリスちゃん、緊張してないんですか?」

「うん、ちょっと……、じゃないね。めちゃめちゃ緊張してる!」

 そして二人は顔を合わせて自然と笑いあった。エリスとシスティーナがまともに顔を合わせたのはこれで三度目でしかなかったが、二人とも昔からの友達のように自然な会話ができていた。エリスはシスティーナの白い包帯に見つめられてもたじろがない。こういうところ、エリスの数少ない長所である。

 そのとき、書き割りの向こうで、観客がオオーッと一際盛り上がったのが聞こえた。手はず通りにメガデブゲがアレを体験させたのだろう。例の、中継水晶の視界共有体験だ。初めてアレを体験すると、人は独特の歓声をあげる。

 とすれば、もうそろそろか……。そう思いかけたところに、向こうからアズミ先輩が走って戻ってくるのが見えた。

「それじゃあシスティーナさん、えーりん、出番よ!」

「はい……!」

 エリスが左手に俺を抱え、もう一方の手でシスティーナが伸ばした手を取る。立ち並んだ二人は見た目こそまるで違うが、常に信頼しあう姉妹のようにも見えた。システィーナはエリスに引かれ、白杖をつきながらゆっくり前に歩き出す。

「じゃあ、お母さんのトコにいこっか」

「うん!」




 薄暗い楽屋から舞台へ向かうと、一転して眩しいほどの光がひろがっていた。幻術の編集材料に使う演劇や演奏を撮るために用意されたこの小舞台は、学生用としては十分以上の広さがあり、設備もしっかり整えられていた。にもかかわらず客席はすでに立ち見が出るほどの大入りで、イベントの始まりをいまや遅しと待ち構えている。

 そこへシスティーナとともにエリスが舞台袖から登壇する。超満員の観客は、少女の姿を見つけるや万雷の拍手。彼らの構えるハンディ撮影杖スタッフ閃光魔法フラッシュも遠慮なくバンバンかれる。

 そんないきなりの大音声だいおんじょうに、システィーナはその場で棒を飲んだかのように立ち尽してしまった。失った目の分まで耳を澄ましてきた彼女にとって、こうした音の洪水はほとんど暴力的といえるほどの影響があるのだろう。そのうえ拍手に紛れて、観客が飲みこみ損ねた小さな悲鳴や生理的な嫌悪感を込めた雑音も混じって聞こえた。客席には事前に説明しておいたとはいえ、幼子おさなごの顔を幾条もの白い包帯が覆い尽くしているのを見れば、誰でも小声で何事か漏らしたくなるのだ。

 できる限りの対応を用意してきたものの、やはり最低の環境。それでも彼女は泣かず、逃げ出さず、すぅはぁと浅い呼吸を何度も繰り返して普段の自分の鼓動を取り戻そうと努力していた。賢い子だと心から感心した。

「だいじょうぶ? ゆっくり歩こうね」

 囁いたエリスの声は、あるいは喧騒に飲まれてシスティーナに届いていなかったかもしれないが、彼女は白杖と共に恐る恐る一歩を踏み出した。拍手は波が引くように静まっていった。みんな固唾かたずをのんで彼女の足の運びを一歩一歩見守り始める。

 システィーナのことを考え、ステージは足下の障害物を一切取り払って真っ平らにしてある。舞台の端々では二十人以上の魔法使いたちがスタンバイを終えており、その中には他科であるミナイーダの姿もあった。それから、観客席の最前列には車椅子に座ったディンキー先生がいる。今日は具合も良いのか、いくらか血色を取り戻した頬には穏やかな笑みが浮かび、頭には黒一色のキャップを被っていた。現役時代に好んで被ったという、トレードマークのディレクターキャップだ。

 そして今日のもう一人の主役、システィーナの母もまた壇上で娘を待っていた。

 エリスとシスティーナはゆっくり前へ、前へと歩みを進める。二人が舞台の中央まで届いたところで、再び巨大な拍手に包まれた。

「システィーナちゃんです!」

 先に舞台に出ていたカミンスキーが、右手に持った魔法道具マジックアイテム・マイクロ角笛ホーンを使って客席に言わずもがなの説明をすると、観客の拍手は一層のボルテージでうねった。

「そしてこちらは今回の公開実験を担当してくださいます、我が幻術科のアイドル、エリシエル=オッペンハイマー嬢です」

 カミンスキーの恥ずかしい紹介に照れまくるエリスは抱えていた俺を下におろしつつ深く礼をし、お客さんから大きな拍手を頂戴した。そうして頭を戻したら、

「なお、エリスちゃんはコリウス通りにてカフェにちようびという喫茶店を経営してらっしゃいますので、お近くの方はぜひ足をお運びになってくださいね〜」

 などと、言うなと釘を刺しておいたはずの宣伝文句を付け足したものだから、エリスは再び真っ赤な顔で頭をブンブン下げる。そして客席から拍手と、にこやかな笑いがおこった。まあ、こういう雰囲気でなら宣伝されるのも悪い気分はしないな。

「それじゃあ早速ですが、システィーナちゃん準備はいいですか?」

 マイクを向けられたシスティーナが「あっ、は、はいぃっ!」と緊張まじりに答えた。すると当然その音をマイクロ角笛ホーンが拾って拡声し、思いがけず大きな音で返ってきた自分の声に驚いたのだろう、システィーナは慌てて周囲をきょろきょろと見回し……いや、聞き耳を立てた。彼女には、自分にマイクが向けられていた自覚がなかったのだ。

 続いてアズミ先輩からシスティーナに白い球、送信球が渡される。いきなりマイクを差し向けたどこかのメガネでデブのハゲと違って、ちゃんと「今からボールを渡すから、両手で受け取ってね。ちょっと重いから落としちゃダメよ?」と、声をかけるのを忘れなかった。それからチューリン先輩からエリスに黒い球、受信球が手渡された。

 これから始まる『実験』の仕組みはこうだ。まずシスティーナに預けられた白い球、送信球。こちらは魔力をかけることで、この球のレンズに映った景色を、対になる黒い水晶球、受信球に出力する力を持っている。

 で、受信球はエリスが持つ。受信球を持つ者は送信球が視ている映像を、まるで自分の視覚のように体験することができる。のみならず、受信球の使用者が他の誰かと直に接触すると、受信中の映像を触れた相手に伝達する機能も持たせてある。

 だから今回はその一連の流れを活用して、システィーナの前に広がっている光景(視界)を最初に送信球がて、その映像を受信球を媒介にして一旦エリスに迂回させて、さらにエリスが受け取った視界を接触伝達で再びシスティーナの認識に戻そうというわけだ。まさに堂々巡りだが、彼女が失った視覚を擬似構築するにはおそらくこれが世界でただ一つの方法だろう。

 ステージ上、準備が着々と進められる中でカミンスキーが観客に視覚回復のシステムを朗々と説明する。その説明の最後に、奴はいかにも不安そうな顔と声で「果たして彼女の希望は叶うのでしょうか!?」と観客に訴えたので、俺とエリスはつい顔を見合わせてしまった。当然の話だが、今日に至るまでに様々な被験者・状況・状態を相手にしたテストを散々繰り返してきていた。盲目の人はもちろん、健常な青年、老人、ケガでなく病気で視力を失った人などなど。いずれのケースでも中継水晶は機能した。それなのにいけしゃあしゃあと失敗を恐れてみせるメガデブゲの役者ぶりには呆れるのを通り越して感心してしまう。

 とはいえ、システィーナ母娘はこのことを知らない。初めて視界を取り戻した瞬間の驚き、喜びをこの舞台の上で繰り広げてもらいたくて、当人を呼んでのリハーサルは行われなかったのだ。

 そういう都合を持っている俺たちに、メガデブゲを非難する資格があるはずもない。でもまあ、真実を隠す行為かもしれないが、時には秘密を守ることも大切だ。

 今日のシスティーナはフリルとリボンがたくさんあしらわれた、いかにもヨソ行きの装いをしている。姿見も見られない彼女がどういう気持ちで着ているかは本人に聞いてみなければわからないが、それを手ずから着させた母親の気持ちもまた、当人に確かめてみなければわかるまい。地味な濃紺のドレスに身を包んだシスティーナの母親は、すでに涙をこらえるのも精一杯といった風に両手で顔の半分を覆っていた。

 準備を完了させた魔法使いたちがバタバタと配置につき、それぞれが合図を送ったのを確認して、カミンスキーが声を一段張り上げた。

「それでは、奇跡を起こす用意が全て整ったようです。皆様、カウントダウンでその時を迎えましょう! じゅ————!」

『じゅ————っ!』

 ちょ……⁉︎ おいおいマジかよ、それは聞いてないぞ! 普通に「せーの」で魔法をかける流れのはずだろ⁉︎

『きゅ————っ!』

 俺たちが驚いている間にもカウントの合唱は『なーなーー! ろ〜〜く!』と着実に減ってゆく。それに反比例して高まってゆく観客の期待値。段取りと違う展開に、さすがに俺もエリスも落ち着いていられなくなる。

「慌てないでシスティ、練習した通りにやればいいから! なんか急にごめんね!?」

「大丈夫です! 準備おっけーです!」

 いきなり心理的に追いつめられる状況になったことを謝るエリスに、システィーナは慌てることなく答えた。次いでエリスは母親の方を見る。唇を噛み締めて肩を強張こわばらせていた母親だったが、青白い顔で小さく頷いた。

『に〜〜ぃっ!』と観客の大声。

 打ち合わせ通り、システィーナは顔と送信球を下に向けた。最初に見える『方向』を事前に決めておかないと、急に開かれた視界に平衡感覚を狂わされて転びかねなかったからだ。

『ゼロ————っ!』

 カウントダウンが終わる。

 焦り気味のエリスが運命の魔法を少女にかける。エリスの黒い球がほのかに発光し、それに呼応するかのようにシスティーナの白の球も淡い輝きを放ち、水晶球が正しく機能した事を示した。いま、双子の水晶を通して視界は巡り、システィーナの前に世界は再び輝きを取り戻したはずだった。

 びくり、とドレス姿の少女は誰の目にも明らかにわかるほど体を硬直させ、それからたたらを踏んだ。転びそうな姿に、会場中から『あーっ!』と声が上がる。エリスが背中を支えてやる。

 そしてシスティーナは、細く鋭い音で小さな叫びのような声を数度あげた。驚きか、喜びか、恐怖か。感情の極点に穿うがたれた、裂け目のような声。そんな彼女を会場にいた全員が、一声も漏らさず、衣擦れの音すら立てずに見守っていた。

 エリスが彼女の背中をさすりながら「ゆっくり、大丈夫だよ。深呼吸、深呼吸」と声をかけてやると、システィーナは落ち着きを取り戻そうと再び浅い呼吸を繰り返した。下に向けた頭と送信球との同調を馴らすように上下左右に揺り動かし、やがて、ゆっくりと前を向き、

「あ…………、あ……まぁ……」

 ひぅ、と息を吸い直し、何よりも一番に自分の母の姿を正面に捉えた。

「まぁ……、マぁマァぁぁあああああ!!!!」

 何のてらいもない、ただひたすらに、純粋の瞬間だった。9歳の女の子がもう諦めていた母の姿を目にしたのだ。そりゃ泣くだろうし、母親だって泣くだろう。システィーナの目許めもとには白の包帯が巻かれたままだから、彼女は嗚咽おえつするのみだったけれど、そこにどんな涙が隠れているかは想像するまでもない。

 彼女はすぐに母親のところへ駆け出そうとして、慣れない視界に足を取られ、彼女の不意の行動についていけなかったエリスとの接触が断たれて、彼女の視界が再び切れた。

 まずい!

「あっ」

 と誰もが叫び、あやうく転びそうになったシスティーナを、誰より早く動き出していた母親が、つんのめりながら飛び込むようにして助けた。会場の誰も彼もがほっと胸をなでおろした。

 母娘はそのまま強く抱き合い、声を上げて泣いた。それに引き込まれるようにして客席からも感極まって泣き出す人が続々現れる。一人の涙が二人に、二人の涙が四人に、感染するように涙が広まってゆく。少女は母の姿に再会し、母は娘に対する贖罪を僅かでも果たし、見守る観客は心を動かす。そう、全ては事前の目論見通り、カミンスキーが設計した通りのシーンだ。大成功だった。こんなに幸せな事があるだろうか。

 母娘はしばらく抱き合いながら、観客席など一片も目に入らない様子で会話をしていた。面白い事に、その時にはもう水晶球の存在はほとんど横に置かれている様子だった。せっかく取り戻した視覚のはずだが、生まれてからずっと一緒にいる母娘にとっては本音で会話するためのちょっとした切っ掛けにしかならなかったのかもしれない。頭を撫でられているシスティーナが、しきりに母親のことをお母さん痩せたね、お母さん痩せたと繰り返しているのが聞こえる。

 母親は娘を案じるあまりに体重を著しく落としたのだろうか。そして娘がそれを心配しているのだ。仲の良い親子だった。

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