第2話: 学ぶ魔法使い④



「ディンキーせんせーっ」

 病室に入るなり騒ぐエリスを「こら! ここ病院!」と慌てて叱ってみたが、当のディンキー先生が寝ていたベッドから身を起こして、

「あーンむ……、エリシェル君は、今日も元気がよい。よろしいですねえ」

 などと孫を慈しむように甘やかしてしまったので、俺が困ってしまった。

「先生、調子はいかがですか?」

「あーンむ。お陰様でね、この通り。たいへん元気ですよ」

 痩せた体を焦げ茶の病院着で包み、丁寧に整えられた総白髪と白髭が長患いの病人ながらも紳士らしさを忘れていない。頭の上でちょんと飛び出た寝癖を除いては。

 ブロウニー=オズ・ディンケンス先生。現役時代は世界的に名の知られた幻術使いだったが、一線を退いた今はエリスたちの偉大な師匠だ。ちなみにエリスとは曾孫ひまご曾祖父そうそふ以上の歳の差があったりする。

「あーンむ、それでは出席を取ります。エリシェル君」

「はぁい」

「カバン君」

「ハイ」

 左の目に片眼鏡モノクルをつけ、サイドボードの上の出席簿になにやら書き込む。先生はいつからかエリスのおまけでしかない俺の出席まで取るようになった。他愛ないことをするのが好きな人なのだ。

 書き込みを終えると先生は「結構結構」とにっこりして、

「エリシェル君は……、あーンむ、前回は観客の視点まででしたか?」

「そうです。お客さんの気持ちから見てわかりやすい構図、のお話でした」

 俺が手渡したノートを見返しながら答えるエリスに、先生は「結構結構」と再び頷いた。

「それでは今日は一歩踏み込んで、お客さんが見ていてハラハラするような画の見せ方……、そうですねぇ、カットバックの追っかけあたりからお話ししていきましょうか。あーンむ、カットバックの意味はもうお話ししましたでしょうか」

「二つの異なった場面シーンが同時進行していて、その様子が交互に現れるんです……よね、確か」

「あーンむ、その通りです。これには観客の没入感や緊張感を素晴らしく高める効果がありましてね、たとえば13年前の作品の……」

 二人の講義が始まった。俺も講義のご相伴にあずかりつつ、撮影テイクの魔法が封入されたレンズ付き箱型メモロブ、『撮影杖スタッフ』を回して講義風景の念写を始めた。

 俺がこの記録を撮るようになったのは、特に何か理由があってのことではない。ただ、せっかく世界一の先生から幻術の講義を授かっているのに、なにも残さないというのももったいないと思っただけである。出来の悪い主人のための講義メモを撮りつつ、俺のちょっとした実践練習も兼ねているわけだ。もちろん先生からの許可はもらっている。


 病室をぐるりとレンズで巡る。個室だとやはり部屋の主の好みが反映されるのか、全体を包むシンプルなベージュの中にも要所に紅のマグカップや薄紫の花をつけた小さな鉢植え、深緑の小物棚などの色味が差し、こぢんまりした中に細やかな美意識がしつらえられていた。現役時代、小市民の暮らしの悲喜交々ひきこもごもを好んで題材にとったディンキー先生らしさを感じさせる。

 無駄を削ぎ落とした演出手法や、何気ない生活の一端を切り取って『人生』を表現する先生の物語構成は、近年さらに評価が高まって諸外国からも賞賛の声がやまない。俺もエリスと一緒に先生の幻術を何本も見た。内容のすべてを理解できたとはとても言わないが、その世界に引き込まれ、登場人物たちに共感し、幻影の中の彼らとともに詩情豊かな一日を過ごした。

 現役の頃のディンキー先生は、撮影杖スタッフを預けた部下の魔法使いたちに対し鬼のように厳しく当たり、徹底的に質を要求したという。あまりの気迫にオーガとすら渾名あだなされていた。が、いま俺の前でエリスに薫陶くんとうを授けている先生の姿からはとてもそのような過去を想像することができない。もし先生がまだ鬼ディンキーの異名を取り続けるような人格のままだったら、果たしてエリスは先生の講義を選択していただろうか。

「んっ……、んっ……、……こふ」

 こふ……こふ……んっ、こふ……こふ

 先生がせきをはじめた。エリスが寄り添って背中をさする。

「先生、お水」

 先生の咳き込みが収まるのを待ってエリスがベッド脇の吸い飲みを差し出した。その水を一口飲みこみ、先生は細い吐息をつく。病室の空調は完璧だが、それでも夏がこたえるのか、最近は咳まで弱々しく聞こえていた。

「あーンむ……。申し訳ない、息を吸うのに少し慌ててしまったようですねえ」

 妙な言い訳をする先生に、エリスも俺も思わず笑ってしまう。

「先生、ちょっと休憩もらっても良いですか? わたし喉が渇いちゃった。お茶淹れてきますね」と立ち上がったエリスに、先生はやはり「結構結構」と繰り返し言った。

「私には濃い〜のを頂けますか。どうもまだ少し、頭が寝てしまっているようです」

「はぁーい」

 俺から茶道具一式を受け取り、エリスは給湯室へゆく。もちろん病室で寝ているような老人にそんな刺激物を飲ませることなど許されないが、薄く出した紅茶で、濃い紅茶を飲んだ『ような気にさせる』技術に関しては、エリスはプルメリアの中でもかなりのものだった。安物を使ってしっかり満足させるのが個人経営喫茶店にとっての勝利の鍵であり、それは幻で人を喜ばせる幻術士の本懐に一脈通じているものがあった。

 ……と、俺たちはいつも言い訳している。

「あーンむ……、どうですか、私は男前に撮れていますか?」

 先生が片眼鏡モノクルを外しながらこちらを見て微笑んだ。

「素材が良いですからね。シブい哲学人の昼下がり、って感じで映えてますよ」

「あーンむ……。しかしそこからではいかにも順光が厳しいですねぇ」

「あれ?」

 俺は後ろを振り返る。夏は日差しが強烈すぎて時間経過による傾きに気付きにくい。いつの間にか自分の予想以上に窓から陽光が入ってきていて、先生を思っていたのと違う姿に見せていた。順光は被写体を平坦に見せる効果があり、記録モノには向く。その反面、被写体の味を消しやすい。この念写は確かに講義を記録するためのものだが、俺が一番残したかったのは先生の人間味だ。

「こういう時はもっと角度をとって……、そうそう、そのくらいの位置で得られる斜光がよろしい。んっふっふっふ」

「ありがとうございます。夏の昼の光ですね」

「そうそう、照明はとてつもなく大切なものです。そこに在るすべてを光で描き切るのが、撮影杖スタッフを与えられた者の仕事なのですから」

 俺は自分の中から取り出した手帳にちゃっと病室の構図を書き付け、注意事項を付け加えた。そこに在るすべてを光で描く、と。それから光の入射角を見ながら位置を変え、自分で程よいと思えるところへ水晶レンズの向きを調整する。

「んっふっふ、面白いでしょう? 被写体が自然のものなら柔らかな影が、人工物であれば切り立つような影が光との境に生まれます。見ている人に手触りの差を印象付けるんですねぇ。あーンむ」

「なるほど……、光と影の手触りですか。勉強になります」

 頭を下げた俺に先生がニコニコ微笑みかける。そして病室の扉が開いてエリスがポットとカップの紅茶セットを載せた盆をもって戻ってきた。口の中でほどけるよう、苦心して焼いたやわらかクッキーも皿に盛られている。

「お待たせしましたー、って二人で何の話?」

「ふふ、光り輝くようなお話ですよ。さあお茶が来ましたね、少し休憩にしましょう」


 エリスが色だけ濃く出したセイロンティーを淹れて「はいどうぞ」と渡し、先生は一口飲んでほっと一息をつけた。

「そういえば最近、とみに夢を見るんですねぇ……」

「夢? どんなのです?」俺の分の紅茶を淹れながらエリスが問う。

「あーンむ……。過去の記憶の小片……、のようなものがチラチラと、雪のように。そのときそのときは明確に思い出せるんですがね、あーンむ……、目が覚めると、茫洋ぼうようとして、消えてしまう。なにやら切ない気持ちにさせるんですねえ」

「先生の夢だと、構図やカット割りも工夫されてそうですね」

 俺が口を挟むと、先生は「はっはっは」と元気に笑って見せた。

「いやいや、私はそういう方面はあまり良くありませんでしたね。ローポジばかりやるから嫌がられるし、ことあるごとにイマジナリラインを越えては撮影杖スタッフマンとぶっつかっていましたから。あーンむ、そうですねぇ、視点でいうなら妙に客観的な視点の夢でしてね……」

 そこで先生はふと何かを思い出したように視線を上げ、戻した。

「スライス・オブ・ライフ、という言葉があります。幻術の構成方法の一つでして、人生の断片と言い換えてもいいでしょう。人の一生をいくつかのパートに分けて、その一瞬一瞬を切り、撮る。わかりますか?」

「ええと、短編集みたいなものでしょうか?」

 エリスの回答にディンキー先生はにっこりと微笑む。

「まあ近いですね。ただし、オムニバスとは少し違うんですよ。主題はあくまで一人の人間の人生です。自分という小さな人間の歴史です。記憶の中の嬉しかった瞬間、楽しかった瞬間、喜んだ瞬間、もちろん哀しい瞬間、辛い瞬間。繋げて一本の線にすれば、きっと誰の人生でも鑑賞に耐えるだけの豊かな起伏があるはずですよ。

 ……私が見ている夢が丁度そのような感じでして、記憶に濃い部分の一瞬一瞬だけが連続してドラマになっているのです。ンむ……、これも性分でしょうか、スライス・オブ・ライフにして見ている自分の夢を、幻術にして人に見せたらどうだろうとか、つい考えてしまうんですね……」

 それから先生はあーンむ、といって小さくあくびした。なんとなく、俺とエリスは目を合わせる。

「それを新作にされたらいいじゃないですか。先生のファンの皆さん、新作が出たらきっとものすごく喜びますよ。わたしたちもです」

「んっふっふ、退院できたら考えてみましょうか」

 能天気なエリスの提案に、のどかに答える先生。だが……。俺は察する。先生のスライス・オブ・ライフが完成する時、それは先生の人生の完結なんじゃないのか。それが遺作になるのではないか、と。ならば、その走馬灯のような幻術を見るのはまだまだ先に伸ばしたい。

 ふと、俺は以前から気になっていた疑問をぶつける気になった。

「先生、不躾ぶしつけなことをお聞きしたいんですが」

「ええ、どうぞ」

「ありがとうございます。では伺いますが、先生はなぜ幻術を? 幻術を始める前に天候の魔法と空間の魔法で賢者認定をお持ちだったんですよね? 空間系魔法で賢者といえば大企業からの援助も期待できる花形魔術だと思うんですが」

 俺の質問に、先生はあごの先にチョロリと伸びた白髭をしごきつつ、

「あーンむ……。それ、時々聞かれるのですがねぇ……。幻術がまだ始まったばかりの分野ということで好奇心が働いたのもあったのでしょうが、一番の理由は幻術が人々に必要な道ではなかったからですねぇ、きっと」

「必要でない?」

「無駄ってことですか?」

 口々に反応する俺とエリスに先生はうんうんと満足そうに頷いて、

「幻術の表現力が進歩して、より現実感を増し、より臨場感を高めようとも、市井しせいの皆さんの暮らしぶりが向上する訳ではありませんね? 幻術はただ人を楽しませるだけのものです。目で見て、耳に聞いて、笑ったり泣いたりする人がでてくる。そこまでです。一週間のうちのほんのひと時だけ楽しめる、それだけの魔法なのです。そんな、生きるのにあくせくしていないところがね、魅力に映ったんでしょうねぇ……。あーンむ……」

 先生はニコニコしていた。エリスが『今の話、わかった?』という目で俺に向いたが、俺は小首を傾げて見せた(つってまぁ、ほぼ顔しかない俺が首をかしげると全身が折れ曲がるのだが)。争いの深い国では技術が発達し、平和を得た国では文化が発達するというが、つまり、そういう事だろうか?

 この大陸はまだまだそこかしこで国と国、民族と民族の衝突が飽きる事なく続いているし、この魔法都市国家にしたところで平和主義には程遠いのが実情だ。特に隣国のケンメンドルフ公国とは犬猿の仲で、何度となく小戦争を繰り返している。彼らとこの国との間で国境線が解放されることは、向こう百年、まずありえないだろう。

 そういう国にあって、人を傷つける手段に転用される恐れの小さな幻術は、数ある魔術の中でも相当幸せなポジションにあるのかもしれない。先生が言いたいのはそういうことだろうか。

 理解したとは言いがたい様子を見せる俺たちに、先生はオマケのヒントを与えるというように思い出話を継ぎ足してくれた。

「あーンむ……。わたしが幻術を始めたきっかけは、ンーむ……、そうそう、チリアーニ監督からの協力依頼でしてねえ……」

 幻術監督、イリアス・チリアーニ。50年以上活動している西国の巨匠で、元は画家だという。彼自身は魔法使いではなかったが、魔法使いの一団を指揮して数十に及ぶ幻術作品を物していた。初期は難解な作風が目立ったが、中期頃からは娯楽作やミステリアスな作品を数多く残し、人気を博した。老境に至るもいまだ現役である。

「あの人が私に言うにはね、一つの場所ロケーションで一年という季節を表現したい、しかし念写期間が三ヶ月しかない。だから天候の魔法であたり一帯の季節を一ヶ月毎に変えてくれって話でしてねえ」

「えー⁉︎」

 無謀な注文内容にエリスが思わず悲鳴をあげた。

「ムチャですよそんなの! 魔法ってなんでもできるわけじゃないのに……」

「初タッグの『黙示録の顛末』ですね。地獄の底から黙示録の軍団がやってきて、世に混沌をバラ撒こうとしている。しかしこれを察知した魔法使いと娼婦と大工と投資家の一団が荒野に偽の街を作って軍団を誘い込み、彼らをペテンにかけた。まんまと騙された黙示録の軍団は偽りの街を一年かけて徹底的に荒らし、満足して帰ってしまう、という」

 いま思い返してもものすごくヒデェ筋書きだと思う。というか話なんてあって無いようなモノで、要は墓穴からぽこぽこ出てくる奇妙なモンスター軍団を映したかっただけの一発芸百連発みたいな幻術だ。しかしその大らかさが当時のスタンダードであり、『黙示録の顛末』は受け入れられ、興行面でもスマッシュヒットを記録した。

 先生はウムウムと頷いてくれた。

「懐かしいですねぇ。そう、ある日、彼がどうしても今日中に豪雨が必要だと騒ぎ出しまして。でもそこは砂漠のように乾いた土地で、一年通して雨なんてほとんど降らないんですねえ。地下水脈の一本もないようなところでは天候の魔法もお手上げです。雨雲のもとすらないのですから」

「それでどうしたんですか? 諦めたんですか?」

 俺は既にこの事件の結果を幻術雑誌で読んでいるが、まだ知らないエリスは身を乗り出して聞いている。

「あの人は諦める事が何より嫌いでしてねぇ……、あーンむ……。あんまりうるさくせがむものですから、仕方ないので、大道具なぐりの親方に大きな大きな如雨露じょうろをやっつけで作ってもらってね、それを撮影杖スタッフ水晶鏡レンズの前だけにどっと降り注がせたんですね。こうすれば大雨が降ってるようには見えるわけなんですね」

 エリスが口を開いたままぽかんと上を見上げ、当時の様子が想像できたのか、「あー」と間の抜けた声を出した。要はレンズの手前にでっかいジョウロで水滴の幕を一枚用意して、それ越しに役者たちを念写したのだ。

「じゃ、魔法でもなんでもないんですか?」

「基本はそうなりますね。あとは画面越しでも雨の姿がよく見えるよう、インクを混ぜてみたりしました。ただ、そのままだと雨粒がいかにも大きく、ボタボタと落ちて自然でないというので、偽物の雨が通る空間だけ圧し縮めましてね、雨粒を細く長く、まあそれらしく見えるようにした、と。あーンむ……」

 だが実際の天気は大いに快晴。撮影杖スタッフのレンズの前だけは雨だが、演技をしている役者達は雨粒一滴も濡れていない。仕方ないので役者は本番前に自らバケツで水をひっかぶり、濡れネズミ状態のまま撮影に入ったのだとか。それでも観客の中でその事実に気づいた人はほとんどいなかったという。これも白黒時代らしい逸話だ。

「彼も欲深な人でしたから、豪雨の念写に成功したら、すぐに大風は撮れないか、大きな虹は撮れないかってねだるようになりました。私もねえ、できませんなんて答えるのもしゃくなものだから、あれやこれやと苦し紛れのようなことばかりやっているうちに、何やら楽しくなってきてしまいましてねえ……。思っていた以上の幻影が撮れた、なんて大喜びされるとこっちまで嬉しくって……。あーンむ……、あの幻術の念写が終わる頃にはすっかり虜になってしまってましたよ。んっふっふ」

 そうしてチリアーニ監督の特殊念写担当としてキャリアをスタートさせたディンキー先生は、その後も色々な演出家とコンビを組んでは独創的な幻影を作り上げ、さらには自身も演出家としてデビュー。それまでの派手派手しい特写映像から一転、例のこぢんまりとした、家族的で、かつテーマの奥底に生々流転しょうしょうるてんの侘しさを秘めた独特な作品群を残してゆくのだった。

 エリスがメモに『モクシロクのテンマツ』と書き付けていた。このあとレンタルメモロブ屋で借りてくるつもりなのだろう。思いがけずバカバカしい内容に爆笑するエリスの顔が今から思い浮かぶようだ。そういう幻術に関しては、俺とエリスの趣味は似通っているのでよくわかる。

 メモから顔を上げてエリスが聞いた。

「先生ご自身は、思っていた以上の幻影っていうのを撮れたことってありますか?」

「あーンむ……。そうですねぇ、大体は思い描いたのに近いモノになるまで頑張ったつもりでしたが、どれもこれも後から考えるともう一工夫ひねれば、という気持ちもありますね、んふふ。それに……、ああ、そういえば一つありましたね。いつか、どうにかして撮ってやりたいと狙っている角度が」

「なんです、その角度って?」

 稀代きたいの大幻術士が思い残した画面……。気になる話だった。

 エリスの問いに答える前に、先生は病室の窓から空を覗き込んだ。真っ白いほどの太陽が照りつける、夏の蒼穹だ。

「あーンむ……。空に、昇りたかったんですね。そう、空に。鳥のように」

「空に……」

「ええ。撮影杖スタッフを上に向けて青空を撮るのではないですよ? 視界が空にすーっと浮かび上がってゆくんです。最初は俳優の目線で。それが段々と引き上がっていって、家々の屋根が見えて、そこから浮き上がってゆくとともに視点が見下ろしになってゆく。街全体が見えて、やがて国も俯瞰して見渡せる……。とても大きい画になることでしょう。そして、それがずっと、一つのカットで繋がってるんですね。小さく始まって、大きな終わりになって……」

 先生の視線が上を向き、細まってゆく。空を飛ぶ鳥を、見つけようとするように。

「カットの頭には何か大きな目印を入れておくといいでしょう……。高く見下ろしても、すぐに見つかる大きいものから……。あーンむ」

「それは、学校の大正門とかですか?」

 見上げる先生を覗き込むようにエリスが言うと、先生は「んっふっっふ」と笑った。

「ああ、正解です、エリシェル君。そう、開明の門が良い」

 正解、と言われてエリスが頬をほころばせる。

「いまでは賢者の門などとも呼ばれていますが、元は凱旋門でしてね、ご覧の通りに立派な作りですから数々の幻術にも出演してきました。では、エリシェル君は『公女の休日』を見たことはありますか?」

「あ、はい、もちろん。お姫様可愛かったー」

 エリスの回答に先生はにこりと微笑んだ。不朽の名作の呼び声高い『公女の休日』は、皇帝の血族に名を連ねていたとある少女がお忍びで街に遊びに出かけ、ひょんなことから事件に巻き込まれたり、思いがけない恋に落ちたりする、いそがしくも微笑ましい大冒険を描いた黎明期の幻術作品だ。世間知らずな公女は街の暮らしの些細なことに何度も驚き、そのたびに表情をくるくると変え、そんな彼女の可憐さに世界中の観客が夢中になった。

 また、公女セーラを演じた新人女優フェルト・プリンシプルはこの一本で世界の頂点に立ち、そこから早すぎる引退までのわずかな時間に出演した、全ての幻術で大ヒットを記録し続けた。まさに伝説の女優である。

「あれで、主人公が魔法使いの爺さんとジェラートをなめながら会話する場面があったでしょう? あの大階段がまさしく大正門の過去の姿だったわけです、あーンむ……」

「あれってここの大正門だったんですか⁉︎ え……、でもあんな大きな階段なんて……」

「そうです。今はもう、階段広場は取り払われてしまいました。表向きは機材搬入の馬車が出入りするのに不便だ、という理由でしたがね」

 表向き? 思わず俺は声に出す。

「裏向きがあるんですか?」

 あれほど鮮やかな後味を残す幻術に、なにか後ろ暗い事情があったのだろうか。先生は首をほぐしながら俺の問いに答えてくれた。

「あーンむ……、あの幻術が世に出たのはこの国が出来る直前くらいのことですから、もう何十年と経ちますか。前の国が消えて、プルメリア魔法国が生まれて、魔法使いたちが国を左右するようになって……。つまるところ、前の国の名残なごりが邪魔だったんですね。あーンむ……」

 新たな国が生まれるとき、古い国の象徴はその痕跡ごと拭い去られるのが世のならいだ。亡国の戦勝を歴史する凱旋門なんてなおさら、ということなのだろう。

 それでも門をまるごと壊さず、魔法大学校の正門として再利用する方向に動いたのは、きっと魔法使いたちが持ち前の合理主義を発揮したからだ。前の国が誇っていた勝利に自分たちの勝利を上書きしたというわけだ。

「しかし私はあの幻術の最後を飾る、あの大きなが大好きでしてね、ええ。一番大好きなんですよ」

 先生が視線を落として嘆息する。過ぎ去りし日のことを思い出しているのだろう。それは先生にとっての青春の一枚であり、さっき言っていた先生のスライス・オブ・ライフの中で欠かせない光景だったのだ。

「広場なくなっちゃったの、寂しいですね。わたしも階段に座ってアイス食べたかったなあ」

 失われた光景を惜しんでいるのか、アイスが食べられないのを悔やんでいるのか分かりにくい表情で肩を落とすエリスに、先生は顎のヒゲをちょろちょろいじりながら言う。

「実は、今でも名残を探すことはできるんですよ」

「ほんとですか?」

「高みから見下ろすことです。大階段は大きく削られましたが、基礎ごと破壊したわけではない。だから、大正門の見張り台あたりから見下ろすことでその輪郭をじゅうぶん感じ取ることはできるんです。敷石などの痕跡からね」

 エリスが顔を上げた。

「あ。それが、先生の撮りたかった、角度……」

 なるほど。人の目線から始まって、鳥の視点へと続くカット……。先生は大階段の面影をその目で見たいのだ。

「いろいろと工夫はしてみたんです。メルキア製の小型気球を借りてみたり、長い長い竿を用意して、それに撮影杖スタッフをくくり付けて門の天頂から垂らしてみたり。ですが、こればかりはどうにも操作する魔法使いの身が危険だという事で……。華の都のラストに使いたかったのですけれどね。あーンむ……」

 嘆息たんそくしながら先生は両目を閉じた。再び当時を思い出しているのかもしれない。

 華の都というのは、正しくは華都物語かとものがたりといって、ディンキー監督の最も知られた代表作のこと。この国の都心で働く若い夫婦と、息子を訪ねて片田舎から上京してきた、老いた両親との親子関係を題材にとった作品だ。上映時間の約2時間、かさついた都会の生活と土臭い田舎での暮らしが徹底したコントラストで描かれ、観客は年月を経てはかなくなった一家族の有り様を追体験する。ディンキー先生がいつも主演に指名していた女優ミードゥ・パサージュの、物静かでしとやかながら、芯の強さが伺える台詞運びがファンの間で今も語り草となっていた。

 その物語の最後に鳥のような高みからの俯瞰ショット。地に足のついた作風で知られているディンキー監督だけに、その演出は先生らしくない選択の気もしたが、同時にそのバージョンもぜひ見てみたいと素直に思った。

「……ですが、この念写についてはエリシェル君やノラン君たち、次の世代に託す宿題としましょう。あーンむ……。さて、休憩はここまでにして……、それでは授業を再開しますよ?」

「はいっ」


 それから5分と経たないうちに、ベージュの制服を着た治癒科の女魔法使いがやってきた。時間を20分もオーバーしている事を、ちょっとお怒り気味に告げにきたのだ。実は先生の講義は面会用の限られた時間を使って行われている。普通であれば講義などできる状態ではないのだ。先生の体調を誰より熟知している彼女が怒るのならば仕方ない。

 先生は名残惜しそうに「あーンむ……」と呻いたが、

「すこし早いですが、今日はここまでにしましょう。あんまり熱心にやると病院の皆さんがもうここで授業させないと怒るんです、あーンむ……」

「はぁい。本日もありがとうございました」

「ありがとうございました」

 エリスに続いて俺も頭を下げる。先生はにっこり笑って、

「紅茶、御馳走様でした。それではまた来週」

 再び二人で礼をして、病室を辞した。

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