第2話: 学ぶ魔法使い①



「ハンカチはいってる? 教科書は?」

「ハンカチある。教科書もノートもある。ていうかお前自分で確認しろよな、もー」

「だってカバン君にしたら自分の事でしょ? なら本人に聞くのが一番手っ取り早いじゃん」

「だから、そういう問題じゃねえし。使うのお前だろうが」

 今日は週なか、水曜日。思い出させるようだがエリスの本業は喫茶店主人ではなく魔法学校の学生である。週のうち月から金は魔法学校で勉強し、土曜は遊んだり薄らボンヤリしつつも翌日の仕込みをして、そして日曜日に店なのだ。

 いつもの青い厚手の制服に身を包み、肩には白地に赤の縁取りが入ったケープを羽織る。

「よっし、行くよ」

「はいはい」

 エリスは俺を胸に抱えて立ち上がった。


 俺はカバンの身でありつつも、自前の表情かおと細っこい手足を持っているのだから、できれば自分の足で歩きたいと思っている。だが、いかんせんこの小さな茶色の体では、エリスの足に追いすがるのは難しい。しょうがないので移動の際にはこうしてヌイグルミみたいに抱え上げられているのだ。俺としてはまるで赤ん坊扱いで不満なのだが、向こうはこのスタイルを楽しんでいるらしい。なんだか悔しい。

 エリスが玄関を押しあけると、備え付けのガラスベルがしゃららんと涼しく鳴った。途端、真っ白いくらいな真夏の日差しに視界が塗りつぶされる。

「う〜わ、すっごい光! やっぱり日傘とかって持ってた方がいいのかなあ」

「やめとけやめとけ、一日で雨傘を3本忘れてきた記録を持つお前に日傘なんてレベルが高すぎる」

「あれはだって、降ったりやんだりするから〜」

 ごちゃごちゃ弁解しながら、エリスはいつもの制服の内側で微風ブリーズの魔法が入った記憶宝珠メモロブを起動させた。この学校制服には外からの魔力を防ぎ、内には魔力を封じる機能があって、内に放った魔法の力を普通の服より遥かに長持ちさせることができた。

「顔だけ暑い〜」

 玄関に鍵をかけ、俺を抱えたエリスが数歩あるくと、不意に足元から「おはよ、エリちゃん」と声がかかる。驚いて下を向くと、ウチのとなりの雑貨屋『orange』の女主人・レティがシャツ一枚の姿でうずくまって小さなプランターを手入れしていた。長い金髪をアップにまとめていて、覗いた首筋に薄く汗が浮かんでいる。プランターには白と青色の控えめな花が、散りばめられた色彩画の欠片のように咲いていた。

「レティさんおはよーございます。ダリアですか?」

「バーベナ。ダリアっていったら赤い花の代名詞じゃないの。エリちゃんは今から学校? 珍しく今日は遅刻じゃないのね」

「ちょっと遅刻気味なので大丈夫です」

「そう……、って、それ何が大丈夫なの?」

 そんなものは俺が聞きたい。

「全くもう。ちょっと、カバン君がしっかりしないとダメじゃないの」

「無茶いわないでくれ。ベッドから転げ落としてもその場で三度寝しはじめるんだぞ? 横で泣き女バンシーが喚こうが頭上で人面鳥ハーピィが叫ぼうがコイツは余裕でいびきかいてるよ」

 俺の報告にレティが苦笑し、頭上からは「ああ、それで今日はベッドの下で寝てたんだ」と間の抜けた声が聞こえた。こんなのを時間通りに起こそうとする方が間違っているのだ。なにか死なない程度に強力な目覚まし魔法道具マジックアイテムがこの世にあればといつも思う。

「ていうかわたしイビキなんてしないし!」

「知らぬは本人ばかりなりってな。あ、解決策思いついた。今度そのプランターに絶叫草マンドレイク植えてくれない? あれを引き抜きゃさすがに起きるだろう」

 俺のお願いにレティが眉をひそめる。

「それって……、抜いたときの悲鳴を聞くだけで人が死ぬって代物じゃなかった?」

「だからアレは犬を使って抜くんだよ。草と犬を繋いで『待て』をさせて、十分に距離をとったら犬を呼んで走らせてその勢いで引っこ抜く。そうすりゃ悲鳴を聞くのは犬だけで済むから。そのための専用ロープと耳栓なんかも売ってるよ」

「エリちゃん一人起こすために私のプランターで毎朝犬を殺さないで! もういいから早く学校行ってきなさい!」

 なんていう日課の軽いやり取りをこなして、俺たちはレティと別れた。もちろん「ちょっと遅刻」が「かなり遅刻」に進化したが、まぁこれも毎朝のことだ。

 Cafeにちようびや雑貨屋orangeが軒を連ねるセージ・アベニューを少し歩くと、次第に中央噴水広場が見えてくる。毎日ここの中を突っ切って反対側の停留所へショートカットするのだが、幼稚園や一般学校はもう夏休みに入ったのだろう、近所の子供達が夏の太陽の下で走り回っていて、その横では母親達が会話に夢中になっていた。そこには知った顔も何人かいて、どーもどーもと互いに会釈しあいながら公園を横切る。今日みたいな格好の夏日和、近辺の喫茶店は涼を求める客でほどよく繁盛するであろう。誠に羨ましいことだ。

 広場の西口にある停留所には、小さな屋根つきのベンチが二つ設置されている。そこには既に五人が並んでおり、エリスはその最後尾についた。それから左手首に巻いた華奢な細工の金時計に目を落とす。それは誕生日のお祝いにレティからもらった、エリスの宝物の一つだった。


 街道の向こうから“にゅわ〜ん、にゅわあ〜ん”と、かなり独特な音を発する何かがこちらへやってくるのが耳で感じられた。待機客らは懐から小銭やパスなどを取り出し、俺もエリスに学生パスを渡してやる。ほどなくして『緑色をした鋼鉄製の、人より巨大な筆箱』としか呼びようのないものが滑るようにしてやってきた。プルメリア名物、魔動車だ。

 軌条レールに沿って走る、乗り合い馬車のような代物である。先頭車である緑色の鉄箱には六対の大きな車輪が備わっていて、その中には操舵を担う魔法使いと、回転スピン浮遊フロートの魔法が強力にこめられた巨大な記憶宝珠メモロブ、さらには魔力の増幅器アンプが詰め込めるだけ詰め込まれている。この先頭駆動車が後ろに繋がれた客車を馬車馬よろしくいて走るのだ。

 見た目殺風景なソレは、ほわぁんほわぁんと奇妙な駆動音をたてて停留所までやってくると、むふーんとデカい鼻息みたいな排気を立てて大儀そうに停車した。これを耳にした広場の子供たちが一斉に笑い声を上げてきゃあきゃあ喜びだし、その声を背にエリスはステップを上がって客車に乗り込んだ。

 ベージュ色の内装は古びているものの、車内に程よく効いた冷気魔法クーラーがありがたい。9時半という、ラッシュからは半端に外れた時間帯だったが、三輛ある客車は既に満席で、乗客の半数近くが観光客だった。なかには老人も少なくなかったが、立ってる老人が一人もいないというのがこの国の美点と言えるであろう。魔法使いは習慣的に年長者を大切にするものだ。

 吊り革につかまって揺られることしばし。魔法学校の制服を着ているせいなのか、それとも接客業をやっている雰囲気がそうさせるのか、今朝もエリスは目の前に座った観光の御婦人三人からあれやこれやとカタコトのカナル語でなにやら話しかけられ、それに対してどこそこのケーキは美味しいだの自分は幻術を学んでいるだのとぺらぺら反応していた。いつもの光景だ。

 その間も魔動車は噴水広場からコリウス通りを使い、やがて国のド真ん中を学校まで貫く目抜き通り、四つ葉のクローバー通りトリュフォニュウム・レペンスに合流する。魔動車の軌条が横に三本も並ぶ、世界有数の大街道だ。そんな幅広の道路を、あっちこっちと横断する人々、絶えることのない鉄馬車、異国の服装の観光客などがごった返して埋め尽くしていた。

 都心に入ったことで街並は木造から石造りにかわり、四階建てや五階建ての角張った高層建築が幾つも建ち並ぶ。その下では無数の露天商や屋台が軒を並べてバザーを成す。観光客も商売人もごっちゃごちゃ、平日にも関わらず溢れ出すようなこの活気。世界に冠たる大魔法都市に相応しい姿だ。

「こんな暑いのに、今日も人多いね」

 旅行客のオバサンたちからようやく解放されて、エリスが感心するように呟いた。

「この国は緯度が高くて海からも遠いからな。ヨソから来る人にとっては、ここの夏は比較的に爽やかで過ごしやすいらしいぞ」

「あー……、うん。井戸は高いね、うん、その通りだね」

 俺の発言の意味を理解し損ねているのは明白だったが、俺たちの会話はそのとき車内からあがった『おーっ』という歓声でさえぎられた。声の理由はわかってる。魔動車がエメルシン交差点まできたから。このあたりから魔法都市プルメリアで一番のランドマーク、国立魔法大学校とその校門が見えてくるのだ。


 役割上は校門であるものの、その姿はまるで白堊はくあの大聖堂である。高さ20mはあろうかという巨大な鉄扉、大人が十人手を繋いで輪になっても囲いきれない大門柱、見上げても切り妻屋根の破風ペディメントすら視界に収まらないという超巨大建築物だ。屋根の中央には校章である『太陽を釣り上げる三日月』の特大レリーフが据え置かれ、壁の全面には職人による細密かつ壮麗な彫刻が施されている。

 この彫刻は、神話の時代から現在までの歴史をずっと記述し続ける絵巻だ。厳粛なる最高学府の大正門であると同時に、歴史を後生へ語り継ぐ世界最大の史書なのだ。この門は正式の名称を『開明の門』といったが、ツアー客にはもっぱら『賢者の門』で通っている。

 魔動車が門前の車回しに横づけし、腹に溜め込んだ観光客らをぞろぞろと吐き出した。もちろん俺たちもここで降りる。そしてそのまま、視界一杯を埋めつくす大正門の中へと歩を進めた。

 街を覆う夏の熱気は、門の内側に入った途端にスッと押し下げられた。門の内側は白鑞しろめ、つまり白いすずでできている。優しい明るさがあって、中に入ってしまえばやや独特な金物臭さと、夏のさなかでも少しだけ得られる涼感が風味を感じさせてくれた。資材搬入の鉄馬車を通す必要もあって道幅は広く、歩く長さも十分ある。門と呼ぶよりもトンネルと考えたほうが早い。途中で何人もの魔法使いやその使い魔、それからまたもや遭遇した観光客の一団(事前予約制の観光ツアーがある)とすれ違った。騒ぐ旅行客らに愛想を振りまきながら、エリスがぽつんとつぶやく。

「んで、今日の予定はなんだっけ?」

 いったい君はなんのために学校に来ているのか。俺は思わず溜め息をついてしまう。

「今日はね、午前中が先端総研。午後から先生のところ」

「あれ、午前ってカミンスキーさんとこだっけか。総研でなにすんの?」

「いや知らんよ。伝話取ったのお前だろ? ただ、なんか見せたい物があるとかないとか……」

「ふうん」

 ふうん、て。人と約束したことくらい覚えとけよ。

 そんなことを話しているうちにようやく門の出口が見えてくる。再び真っ白けの陽の光に視界が灼かれ、続いて目が醒めるような青い空と、目が回るような重い暑さに包まれた。徐々に目が馴染んでくると、色合いも様式も様々な、新旧とりまぜの建築物群が立ち並ぶ校内の様子が見えてきた。

 丸いの細いの四角いの、土壁、煉瓦、総クリスタル。古い建物には古くからの研究室が入り、手狭になると新しい棟を建て、新興の魔法が誕生するとさらに新しい奇妙な建築物を建て、巨大な実験設備や魔法植物栽培農場、大型魔獣の飼育設備を建て……。なんてことをしているうち、この学校は気づけば子供のラクガキにも劣るほどにトンチンカンで無節操な景観になってしまっていた。魔法なんていう無秩序な術理を扱う連中らしい、混沌の箱庭である。

 そして、混沌カオス坩堝るつぼの中でも一際目を引く、総クリスタル張りというむちゃくちゃに豪華な建物が、現在我々が目指す先端魔術総合研究所、略して『先端総研』だ。

 パッと見は巨大な白クリスタルの立方体という外観をしている。要は、馬鹿でかい白い箱だ。そのクリスタル壁は一種の結界になっていて、外からの様々な魔力的影響……太陽や星の運行、大地の気脈、月の潮汐ちょうせき、世界に常在するそうした外力を遮蔽する能力があった。中で行われている魔法実験の精度を高めるためだ。また一説には、所内で事故が発生したときに被害を外へ拡散させないための封印装置であるとも言われていた。

「とうちゃ〜く」

 人が近寄ると、それを察知してクリスタル扉が自動で開く……という、いかにも魔法的なギミックの玄関を通り抜けて総研の内部へ入る。ここももちろん空調魔法がガンガンに効いていた。魔法学校は屋外に出ない限りどの季節でも常に快適で、世界最高の居住性と他国からは羨望の眼差しで見られている。

 俺たちはまっすぐ中央ホールに足を向けた。先端総研の中に入るにはまず入館許可をもらわなければならないのだ。大理石が多くあしらわれた中央ホールには受付嬢が三人もいて、エリスは左端に馴染みのねーちゃんが座ってるのを見つけてそちらへ歩み寄った。

「おはよーございまーす」

「はいエリスさん、おはようございます」

 落ち着いた、大人の女性らしい話ぶりだ。黒髪ブルネットを遊びを抑えたセミロングでまとめている彼女は、ゆったりした白の法衣に身を包み、肩の力は抜けていながら背筋がすらっと伸びており、常に涼しげな微笑みをたたえて来客者を待ち構えている。この人がウチでバイトやってくれたらなあ、といつも思う。

「今日はどちらですか?」

「えーと、なんだっけ……。いつもの、カミンスキーさんとこなんですけど」

 行き先すらまともに覚えていないエリスに、ねーちゃんは小さく吹き出した。

「じゃあ触媒研究室の第3別室ね。三階の7番教室です。こちらに署名をください」

 そう言って、エリスに魔法マジックペンと来館者名簿を渡して記名を促した。


「ところでグラス、どうしてやめちゃったの?」

 突然、砕けた調子で訳のわからない話を振られて、エリスはびっくり気味に顔を上げる。

「なんですか?」

「メモロスタルのグラス。私もエリスさんのお店に行きたかったんだけど、もうやってないって聞いて」

 ああ、梅雨頃にやったアレのことか。

「それなら財政難です」

「え、あ、そ、そう……?」

 いとも軽々しく赤裸々な真相を告げられて、さすがの受付ねーちゃんも鼻白んだ。ていうかお前も店の内情をそんな気軽に口にするんじゃない。恥ずかしげもなくエリスは笑って続ける。

「あれ、普通のコップの50倍くらいの値段するんですけど、すっごく壊れやすくって、ちょこっとしたことで割れちゃうんですよ。あのまま続けてたら弁償代で今月中にお店潰れちゃうところでしたね。あ、これ書けました」

「そ、そうだったんだ……。ご署名、ありがとうございます……。あ、じゃあメモロスタルがもろいこと、開発チームにも伝えておこうか?」

「開発チーム?」

「あの素材、基礎研究はここでやってたんだよ。5階にある基質研究室」

「あー、そうだったんですか」

 なんだ、アレは身内の発明品だったのか。なんとも狭い世間だ。つってもまあ、ここで魔術の最先端研究やってんだからむしろ妥当というべきなのだが。

「エリスさんのお店の噂を聞いて、ちゃんと使ってもらえたってみんな喜んでたんだけどなあ。だから、すぐ取り扱いやめちゃったって聞いてみんなガッカリもしてたんだけど。でもそんな事情なんじゃ中止も仕方ないね」

「タダでくれたらいつでも再開しますけどね」

「あはは、多分それは難しいね。生産するのも権利を持ってるのもメーカーさんだもの」

 クソあつかましいエリスのお願いに苦笑を重ねつつ、受付のねーちゃんは手元の水晶を操作した。実はこのフロア、あちこちに目に見えない結界が張ってあって、今の水晶でそれを一時的に解除してくれたのだ。国家機密のカタマリみたいな建物なので情報漏洩に対して敏感なのである。

「コストと強度を改善したらまた使ってくれるかも、って伝えておくわね。それじゃ、三階へは奥のリフターを使ってください」

「はい、ありがとうございます」

「いってらっしゃい」

 見送るねーちゃんに手を振りながら中央ホールを後にした俺たちは、そのまま奥のリフトホールへと移動した。


 リフトホールというのは幾本もの柱が並び立つ、ちょっと開けた柱廊空間となっており、足下には一目で高級品と知れる鮮やかな毛氈もうせんが敷かれてある。最先端魔術研究という性質もあって国や企業へ資金や魔術の援助を求めることも多く、そうしたところの偉いさんが来たとき用のハッタリとしてこんな隙のない内装が選ばれているのだ。

 ホール両側の壁に二枚ずつ、都合四枚の扉が設けられている。エリスは左手前の扉を選び、その横の壁に刻まれた△と∇の呪印スペルのうちの△に触れた。

 天井よりもはるかに高いどこかから、何かが動きだしたような気配が聞こえた。

「あのグラスを開発してた人、ウチが使ってたこと知って喜んでくれてたんだね」

「まあ自分たちの仕事が成果出したと知れば嬉しいもんだろうな。誰も使わなかったんじゃ残業を重ねた甲斐がない」

「うん。わたしも、わたしの知らないところで誰かが喜んでくれたっていうの、なんか嬉しいし」

 そんな事を話していたら、『ちん、』と小さくベルが鳴った。目の前のスライド扉が横に開き、そのむこうに十人が立って入れる程度の、何もない小部屋が現れる。エリスが中に入ると扉は音もなく自ら閉じた。

 リフターを初めて体験する人はこの状況になると大抵パニックを起こす。かつて王墓の宝物庫に仕掛けられたという、閉じ込め小部屋の罠に嵌められたような気分になるからだ。実際、初回のエリスも大いに泣き叫んだものだが、さすがに今はもう落ち着いたものだ。抱えられた背中で感じるエリスの鼓動が少し早くなってる以外は、異常はない。

 閉ざされた扉の横にまた呪印スペル。ただし小部屋の外では△と∇の2つだったのが、こちら側には数字の1から5までが刻まれていた。エリスが[3]と淡く光る呪印スペルに触れたその途端、腹にスゥと入り込んでくるような独特の浮遊感が発生する。いや感覚だけじゃない、俺たちは実際に浮いているのだ。

 玄関の魔法ガラス扉に続く、先端総研の最新の成果・リフター。俺たちが今いるこの小部屋は、実は上下が筒抜けの角柱に、なんの支えもなく放り込まれた状態にある。もちろん普通ならそのまま最下層まで落下するはずなのだが、この角柱の内部には新発見の魔術、重力制御魔法(!)が組み込まれていて、一階から最上階まで呪印操作一つで自在に昇降移動できるのだ。先端総研にふさわしい、超最新魔術装置である。

 最先端である重力制御魔法を常時かけっ放しなためコストも高く、学校内でもまだ僅かな施設にしか導入されていないが、老いて腰の曲がった大先生方に大いに受けた事もあって研究資金は潤沢に投資されている。いずれこの魔法が成長・普及したあかつきには、重力から解き放たれた人々による次世代の生活が始まるだろう。建物の上や下という小さな囲みではなく、空に、海に、遥かな旅を始めるのだ。どこまで実現されるかはわからないが、俺は未来を感じさせてくれるこの装置が好きだった。

 などと考える暇もなく、リフターはものの数十秒で目的の三階に到着していた。

 再び『ちん、』とベルが鳴って扉が開く。その途端、俺たちの目の前を背もたれ付きの椅子が一匹、ずだだだだだだだだだーーーーー、と駆け抜けていった。

 いや、椅子?

「……なんだ今の」

「イスが走ってったね」

 リフターから一歩外に出て、走り去った彼の姿を探すと……、いた。背もたれを前に、か細い四脚を馬のような案配で交互に走らせ、草原をわたる美しい風のように廊下を走り去ってゆくイス。速い速い。イスの脚がこんなに速いとは誰が知ろう。

 その直後、背後からずどどどどどどどどどどどどー! と何やらパワフルで危険な怒涛が聞こえた。エリスが思わず体を引っ込めてリフターに退避すると、今度は机が目の前を爆走していった。イスほど華麗ではなかったが、豪壮で、躍動的で、それでいてどこかユーモラスを感じさせる走りは正しくバッファローであった。

 馬イスと、それを追う牛デスクが駆け抜けてしばらくの後、ようやく走って当たり前の物体がむこうからバタバタやってくる。今にも眼鏡がずり落ちそうな二十歳そこそこの女。研究者用の白法衣を身にまとった、どっかの学部の学生だ。先行の二者と比べるとそのスピードと迫力は遥かに見劣ると言わざるを得ない。

「ごめんねーっ! こんなタイミングでリフターが止まるなんて思わなかったからあぁ! ケガしなかったあああああ〜!?」

「あ、大丈夫ですー」

 答えるエリスの前を息も絶え絶え駆け抜けながら、女研究者は再度「ごめんねーっ! 待たんかコラァー! もぉーっ!」と謝りつつも怒鳴りながら走り去っていった。

 一歩間違えれば大ケガにもつながりかねなかっただろう一幕に、俺は思わず鼻息をふかす。

「こんな場所で研究品走らすんじゃねえよ、危ねえなあ。これだから動物園は……」

「まあまあ。アレでみんな真面目なんだから」

 いきどおる俺をエリスがなだめるので、俺は仕方なくほこを収める。


 さて今更な話だが、一口に魔法といっても色々な種類がある。火や水を扱ったり、幻影を広げてみせたり、重力に挑んでみたり。先端総研は雑多にある各ジャンルの最先端研究施設を一箇所に統合、まとめあげた施設だ。異種研究者たちのボーダレスな交流による自由な発想と、高価な研究設備の柔軟な運用を目指すという狙いもある。だからココでは日々、無数の研究と実験が繰り返し行われていた。

 しかし、そうした自由さの中にも定番の研究分野というものが存在した。それは、何かを思い通りに動かすこと、命のない物に意思を与えること。どの学部でも一度は通る道だ。

 先ほど目にした、『イスを動かすこと』を例にとって考えてみよう。木材の組み合わせに過ぎない物体に、どうやって動きを与えるか? まず思いつくのがゴーレムやファミリアといった、イスという器に別の魂を与える手法だ。これは霊能学部憑依科が得意としていて、彼らに動くイスの作成を依頼すると、イスは明確な意思を持ち、命令オーダーを理解し、オプション次第では会話もこなす、生き物のまがい物となって依頼主のところにやってくる。俺たちのような使い魔もだいたいコレに当てはまる。

 それとよく似たのでは人造妖精ホムンクルス自律魔動人形オートマタなどを扱う生命創造学部仮象生命科。こちらはイスに仮そめの命を与えるので、行動も知能もイス自身の個性が現れる。この研究も歴史が古く、かつては王家の墓のような遺跡でみかける人食い宝箱ミミックなどで活用されていた。大金を積んでオプションを追加すれば会話も可能になるが、語彙ごいが少なく感情の起伏にとぼしい。

 他には、風の結界でイスを丸ごと包んで、文字通り風のように走らせる自然魔法学部風魔法科、念動をかけてイスを直接操作する理力部系、対象の周囲の空間を変調させ、復元時の圧力で弾丸のようにぶっ飛ばすという、かなりデンジャラスな時空間魔法系などなど、イスを動かすためのアプローチはいろいろある。

 ついでに加えておくと、魔法が行き届いていない国では火と水で大量の蒸気を作り、その圧をピストン=クランクなる機械仕掛けで指向させて動力を得るという、かなり煩雑な手法が持てはやされている。特に西方諸国で発達しているものだ。蒸気ならば魔法で簡単に作れるので、プルメリア国内でも魔動車以外の公共交通機関に多く採用されていた。

 ただ、肝心のピストン=クランク機構がプルメリアの冶金やきん技術では到底不可能なくらい複雑で、輸入するにしても大変高価となっている。素の値段に加えて関税がやたら高く設定されているのだ。これでは西方諸国に見られる家庭用の蒸気機関車など手に入れようがない。だが、それでも自分専用車が欲しいという傲慢な個人消費家は数多くおり、先端総研ではそんな彼らの資金力を背に受けつつ、今日も乗り心地やスピードを求めて魔法を動力にした物質駆動研究を続けているのだった。

 ……というような事情により、先端総研では常にどこかでイスをはじめとする脚つき物体に片っ端から命や動力を吹き込んでは走らせる研究が行われている。当然、事故も何件となく発生し、ケガ人もちょくちょく出た。そんな目も覆うばかりの惨状にブチ切れた国の為政者いせいしゃから「お前らは動物園でもやっとるのか!」と叱られて以降、総研内で走り回るゴーレムなどを見かけると、『また動物園やって!』と指弾する風習ができたのだった。

 ふと思いついたようにエリスが口を開いた。

「さっきのイスと机、今度の学園祭のかなあ?」

「学園祭? あー、そうか、もうそんな時期か」

 研究を続けるには資金も必要だが、何より情熱が重要だ。そして情熱を燃やすのに最も手軽な手段は良き競争相手ライバルを持つ事である。という事で各研究分野の、それでも懲りない走らせ屋集団はお互いに切磋琢磨しながらスピードを競って情熱を燃やしてきたのだが、その発露の場としては最高の晴れ舞台となるのが、毎年夏の終わりに開催される学園祭内の学部対抗レースイベント、マジカルグランプリである。

 ルールは簡単。学内広場に設けられた特設コースを一番に駆け抜けたチームの勝利。バカみたいなレースタイトルにふさわしいバカみたいな単純さだ。

 しかし、『一番に』というルールがクセモノで、一番になるためなら相手を破壊しようが燃やし尽くそうが氷漬けにしようが時間の流れを局地的に遅くしようが事象の地平の彼方に叩き込もうが、ルール上は問題ない。観客に害を及ぼさなければなんだっていいのだ。

 したがって出場するのは攻守ともに極限のカリカリチューンを施された戦車みたいな連中ばかりで、時にレースは市街戦の様相すら呈した。過去には魔動車1輌まるまる持ち込みやがった馬鹿や、50脚のイスを合体させて人型兵器を組み上げた馬鹿もいる。学園祭の中でも最高に盛り上がる瞬間だ。先日には今年の学園祭に重力制御魔法チームが出走することが正式発表され、新時代の魔法がどれほどの戦闘力を有するのか民間企業の注目を集めるとともに、予想オッズの支持も集めていた。

「今年も幻術科はレースには出ないのかね?」と俺。

「さあ〜? でも幻術じゃイスは走んないしなあ。あ、スタート直後にウチのイスがゴールしたって幻術を観客や審判に見せるのってアリ?」

「それは幾らなんでもルール無用すぎるんじゃ……。ま、幻術科は例年通りに大ホール使って大型幻術の上映か。今日呼ばれた理由もその辺かもな」

「かもね。ウチの幻術、なんだかんだで人気だし。それだったら今年こそあの企画、通したいなあ」

「ばか、やめろって。『恐怖! ナマガキ男がやってきた』なんて誰が喜ぶんだよ」

「だって怖いじゃん! ホラーじゃん!」

「ばーか」

 ナマガキ男とは生意気なガキの略とかそういうのではない。生牡蠣なまがきである。生牡蠣たちが無数に集まって人間の姿形をとり、仲間たちを生のまますすり込んだ人間どもへ積年の恨み晴らしに現れるという復讐の物語である。いったい誰が理解できるというのか。エリス曰く「超怖い! 観客絶叫! そして逃亡!」だそうだが、極一部の特異な人々を除いて観客のみなさんはふつうに途中退席することだろう。

「何にしても、お客さんがガッカリしないようなのがいいなあ」

 エリスが何かを見上げるようにして言った。ナマガキ娘がよく言うよ、まったく。


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