第2話
(2)
倭王が此処に来た時、彼女には子が居た。ツクへ逃れた折、そこで生んだと聞いている。その子はホデリより僅かに年下で、ホオリと呼ばれた。
初めて会った時は互いにまだ幼子ではあったが今はホオリが倭王の将軍として今自分の統べる都城を攻めているのだ。
ホデリは燃え盛る都城を見ながら初めてホオリと話した時の事を思い出した。
――武に長じる隼人の王、日の御子(ヒルコ)ホデリ。私は君を兄(え)としてこれから末長く兄弟の情を持ちたいと願っています。
故に、ホオリは兄の長幸を願う者として、互いの幸を交換し、それを契としたいのです。その為に私はあなたにツクの宝玉であり、また阿曇王族の証である鹽盈珠(しおみつるたま)を渡したいと思っています。
額にかかる黒髪が潮混じる風に吹かれ、降り注ぐ陽光を受けた切れ長の一重の瞼の下から覗く瞳が自分を見ている。
ホデリはその時のホオリの眼差しを忘れていない。没落し、流亡した彼等を匿った日向隼人(ヒムカハヤト)に対する恩と深い感謝が、倭王の御子としての立場を越えてその眼差しからホデリの心に伝わって来たのだ。
ホデリの心深い部分に響いたホオリの言葉は人間としての嘘偽りない兄に対しえる弟の言葉だった。
大陸に蜀という国があり、その国には桃園の誓いという義兄弟の契りの話があるのをホデリは聞いたことがあった。ならば我らもそれに倣って死ぬる時は同じであろうと思えばホデリは心揺さぶられ、いや、この頃は纏向王族の王子として日向御子(ヒムカノミコ)と呼ばれていたホオリに対して慇懃に言った。
――優しき日向御子(ヒムカノミコ)ホオリよ、ならば私からあなたにこれを渡そう。これは私の母が持っていた釣針だ。これは代々日向隼人(ヒムカハヤト)の王が海人族である所以として持つものであるが、是をホオリに渡そう。
互いの王族の証を交換し、それをいつまでも大事にしてこのヒムカで兄(え)と弟(おと)として隼人も阿曇も互いに繁栄するのだ。
ホデリとホオリは釣針と珠を交換すると自分達を照らす太陽に向き直り、手を握った。それはヒムカの日の御子(ヒルコ)と流亡する日向御子(ヒムカノミコ)との兄弟の契りだった。
(しかし…)
ホデリは唇を強く噛んだ。
その兄弟の契りは何処にいったのだろう。蜀の桃園の誓いは永遠に破られること無く果たされたと聞いているのに我らの契りは既に破られた。
ホデリは叫びたくなるほどに自分の純粋さを呪った。自分は弟であるホオリに攻められ都城を焼かれ、あろうことか同族の隼人である有力氏族達にも裏切られてしまった。
純朴さは古来より隼人の骨柄を映し出す人鏡だ。その純朴さをホオリはこともあろうに踏みにじった。
ホデリは苦渋に歯ぎしりする。
(吾(あ)は余りにも純粋過ぎたのかもしれん、ゆえに人の心には蛇が棲んでいるのだということが分からなかったのだ!!)
しかしながら何という周到さなのだろう。ホオリはいつ日向隼人(ヒムカハヤト)の有力氏族達を纏向海人側に取りこんだのだろうか。
ホデリは思う。
それは彼が持つ、自分とは違った大らかな性格が隼人族の心を吸い込んだのかもしれない。
隼人は武もまた優も互いに愛する。ホデリは自分の事を武に優れ、その立ち振る舞いと気概は伝え聞く楚の項羽に似ていると思っている。またホデリは優に優れ、それは漢の劉邦に相似しているかもしれない。
(そして今…)
日向隼人(ヒムカハヤト)の諸氏族の長達は自分を棄て、倭王の王子ホオリをいずれ新しいヒムカの王として担ごうとしている。助けに来てくれる隼人の族長達は誰もいない。
だから自分は唯々、言葉無く血塗れの顔で剣を垂れて、海と都城を見下ろす小さな山砦に立ち、燃え盛る都城を見ている。
同族の隼人達に囲まれ攻められる様はまるで楚の項羽だ。四面を囲まれの楚人の歌を聞く楚王項羽。
(…四面楚歌の項王、それはまるで今の吾(あ)の事だ…)
もはや王としての威風堂々さは消え、敗残者としての心持だけが溢れて自分の肉体の内に敵と戦える力はどこにもなかった。
ホデリは力なく岩の上に腰を落とすと彼は懐に手を入れた。そこにはホオリが自分に渡した鹽盈珠(しおみつるたま)があった。
それをホデリは静かに取り出すと磨かれた表面に映し出された血潮まみれの自分の顔を見つめ、それからある事を思い出した。
それはホオリが釣針を失くしたと言った時の事だった。
今思えば、あのときの自分の立ち振る舞いが今の自分の状況を作ったのではないかと思いながらホデリは鹽盈珠(しおみつるたま)に映る自分の相貌を見つめた。
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