第3話
(3)
ホデリがその事をホオリから聞いた時、彼は大変驚き、そして周囲を憚ることなく衆面の前でホオリを面罵し、激高して怒った。
何故ならばそれはヒムカ王の証として大事なものなのである。
自分はホオリと交換した鹽盈珠(しおみつるたま)は眠る時も肌身外さず、また不意に損なわれ失わぬよう大事にいつも手元に置いていた程なのに、まさかホオリはこともあろうに海へ泳ぎに行った際、浜へ脱ぎ捨てた衣服もろとも満ちる潮の中へ水没させてしまったのだ。
これはホオリの人格的おおらかさというより王権に対する軽薄さと崇拝を欠いた行いだとホデリは思った。
だからこそ、衆面で面罵し、激高して怒った。それは弟(おと)の不真面目さを叱る兄(え)として自分はホデリを責めたつもりだった。しかしそれは誤解を生んでしまったかもしれない。
ホデリの激しい怒りとホオリのあまりの軽率さを聞いた倭王は直ちに宝剣の十束剣(とつかのつるぎ)とを砕かせ、それを釣針に変え、子の失態に対する詫びとしてホデリに贈った。
ホデリは倭王の贈り物を見て、瞬時に自分の愚かさを知り、逆に激しく自分を恥じた。
若さ故だったとはゆえぬ愚かさだった。
――自分はホオリの兄(え)ではないか。自分は兄(え)として弟(おと)に対する寛容さを持ち得るべきである。例えそれがヒムカの王たる大事な証を失くしたとしてもだ…
それだけではない。それ以後、自分に対する隼人の族長達の視線がどこか冷ややかになった。
隼人は武と優を愛する。卑小な心は猜疑心を生む力であり、剽悍な隼人では嫌われる。自分はそんな隼人族を率いる日向隼人(ヒムカハヤト)の王なのだ。であれば尚更の事、ホオリを許す寛大さの優を持つ兄(え)でなければならない。その優が自分に有れば倭王の持つ宝剣十束剣(とつかのつるぎ)も破壊され、このような釣針になる必要も無かったのだ。
――それらを兼ね備えてこそ、日向隼人(ヒムカハヤト)の王ではないか、なぁホデリよ
そうした族長達の非難の視線にさらされる度、ホデリはあの時の自分を恥じ責めた。自分は弟(おと)への優を示すべき兄(え)として、またヒムカの日の御子(ヒルコ)として優を示さなければならなかったのだ。
後悔が鹽盈珠(しおみつるたま)の表面を流れて落ちた。
衆面で罵倒して罵った自分は武に優れていても卑しき隼人にきっと映ったに違いない。
ならばこそ…、そんな卑小な心根の王よりもおおらかさと優を持ち、また纏向の王族と倭王の血筋を持つ日向御子(ヒムカノミコ)ホオリをいずれヒムカの新しき王として掲げるほうが、伊都国を始めとする倭の争乱に対抗する力として隼人が結束して当たる時、その下で動く方が存分に力が出せるだろうと隼人の諸氏族の長たちは考えたのだろうし、実際にそう決めたのだろう。
だからこそ、自分は今こうして都城を焼かれ、一人追われて、まさにこうして剣を垂れて岩に腰かけているのだ。
ホデリは鹽盈珠(しおみつるたま)を見つめた。
そしてホデリは思う。
(日向隼人(ヒムカハヤト)の日の御子(ヒルコ)としての証である釣針は失われた、しかしだからと言って吾(あ)はこの鹽盈珠(しおみつるたま)を破壊しない。是は正当な阿曇族の王族の証でもあるホオリのもので、それは図らずも今は日向隼人(ヒムカハヤト)を率いる日の御子(ヒルコ)の証でもあるのだ。この珠はヒムカの勝者として新しい王になるだろうホオリが持つのが相応しい)
そう思うと不思議と笑みがこぼれた。
今自分はあの時、ホオリに対して失っていた優を鹽盈珠(しおみつるたま)へ見せている。
ホデリは息を吐いた。それから鹽盈珠(しおみつるたま)を膝の上に置くと、やがて垂れ握っていた剣を首筋に沿わせ、静かに喉に当てた。冷刃の感触が汗と共に喉に伝わる。
そうなのだ。ホデリは隼人の日の御子(ヒルコ)としての武を示し、つまり隼人の勇気を見せて自死するのを決めたのだ。
やがて自分を裏切った隼人の族長達は自分の亡骸と壊されず残された鹽盈珠(しおみつるたま)を見て日の御子(ヒルコ)の自分は決して臆病でも卑小でもない、優も武も兼ね備えた隼人だったと思うだろう。
祭られたくはないが、隼人達はそんな自分に優をみせ、せめてもの弔いとして野犬共の餌にされること無く亡骸を丁寧に葬ってくれるに違いない。
喉に当てた切っ先に汗が滴り落ちて行く。やがてこの汗が流れ落ちた時、自分は刃を引き、鮮血の中で斃れるだろう。
(隼人達よ)
ホデリの心が哭いてる。
(…確かに吾(あ)には優が足りなかったかもしれぬが、しかし武が無き臆病にあらず)
ホデリは自分の肉体に残る僅かな力を腕に込め、瞼を閉じた。鼓膜にヒムカの潮騒が聞こえ、鼻腔の奥に潮の香りがした。
その時だった。
正に喉を切り裂こうとするホデリを呼ぶ声がした。
「待て、ホデリ。いや、日の御子(ヒルコ)よ」
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