蜜柑色の空、君と交わした約束。

傘木咲華

前編

 今日は二月十四日。

 俗に言うバレンタインデーであり、中学二年生の笹木野ささきの蜜柑みかんも意中の男の子にチョコレートを渡すつもりでいた。


 しかし、蜜柑は今――自室のベッドの上にいる。

 昨日、確かに伝えたのだ。


 明日の放課後、教室に残っていてくれませんか?


 ……と。

 緊張したまま家に帰り、トリュフを手作りしようとしたところまでは良かった。でも、失敗してしまったのだ。

 酷くショックを受けて、誰にも相談できないまま時間が過ぎる。どうしようの先に辿り着いたのは、自転車を走らせてチョコレートを買いに行くことだった。

 しかし、その時の天候は雨。

 長時間雨に打たれてしまった蜜柑は翌日、風邪を引いてしまったのだ。


翔琉かけるくん……」


 大人しく横になりながら、蜜柑は想い人である七海ななみ翔琉の名前を呟いた。

 窓から差し込む景色は、すっかり茜色に染まっている。

 本当だったらもう、彼にチョコレートを渡している時間だ。なのに自分は家にいて、チョコレートも渡せなかった。馬鹿みたいだと、蜜柑は小さくため息を吐く。


 だって、もう……この想いを伝えることはできないのだから。


 蜜柑がそう決め付けてしまうのには訳がある。それは――。


「……?」


 気分が下へ下へと沈みそうになったその時、インターフォンの音が聞こえた。

 自分には関係ないだろうと思っていたら、ややあって母親の「お友達が来てくれたわよ」という声が聞こえてくる。

 いったい誰だろう。

 見当もつかないままベッドから起き上がると、コンコンと扉がノックされる。


「はーい、どう……ぞ」


 蜜柑が返事をすると同時に、扉が開く。

 少し。本当に、ほんの少しだけ。

 来てくれたのが翔琉だったら良いなと思っていた。

 でも違う。その人はセーラー服に身を包んだ女子のクラスメイトだった。


「お、大鳥おおとりさん……えっと、あの。こんばんは」


 あまりにも予想外な人物の登場に、蜜柑は挙動不審になってしまう。

 大鳥莉子りこ

 蜜柑のクラスメイトで、才色兼備の委員長で、そして……。


 いつも翔琉の隣にいる女の子だった。


「これ、プリント。渡してきてって先生に頼まれたから」

「あ、あぁ、そうなんだ。ありがとう」


 変におどおどした状態のまま、蜜柑はプリントを受け取る。

 デコ出しポニーテールで、つり目で、背も高くて。見るからに優等生感に溢れている莉子は、どこか冷たい視線をこちらに向けてくる。


 そして、彼女は何でもないことのように言い放つのだ。


「それから、あなたに話したいことがあるんだけど」


 ……と。



 ***



 七海翔琉。運動神経が良くて、野球部に所属していて、男子も女子も関係なく明るく接してくれるスポーツ少年。

 大鳥莉子。才色兼備の委員長で、面倒見の良いクールな人。仲の良い子からは「リリコちゃん」と呼ばれている。

 そんな二人は何かと一緒にいることが多くて、付き合うのも時間の問題なのではないかと囁かれていた。蜜柑だってお似合いだと思っていたし、このまま自分の恋を諦めようと考えていたこともある。


 だから、このバレンタインを最初で最後のチャンスにするつもりだった。

 なのにチョコレート作りに失敗して、風邪を引いて、結局渡せなくて……。


 本人にすら告げられないまま、この恋は終わるのだと思っていた。


「あなた、翔琉のことが好きでしょう?」

「…………えっ?」


 ――まさか、自分ではない誰かに言われてしまうなんて思ってもみなかった。


 一瞬だけ頭が真っ白になりながら、蜜柑は小さく聞き返す。

 思わず莉子の視線から逃げて、手元を見つめる。すると、自分の鼓動が速くなっていくのがわかった。


「チョコレート……」


 莉子が、可愛くラッピングされた箱を手に持っている。

 どう見たってバレンタインのチョコレートで、蜜柑の動揺は加速してしまった。


「えっ……と。そのチョコって、私に……? え……あ、そういう三角関係?」

「は……? そっ、そんな訳ないでしょ! ……私も、翔琉に渡す予定だったのよ」


 馬鹿じゃないの、と顔を真っ赤にさせる莉子。

 彼女が声を荒げている姿を見るのは初めてで、蜜柑はついつい口をポカンと開けてしまう。


「翔琉から聞いたのよ。笹木野さんと約束があったけど、休んじゃってて心配だって。彼、寂しそうな顔してたわよ」

「……いやいや、そんな」


 そんな訳ない、と言わんばかりに蜜柑は首を横に振った。

 確かに約束を果たせなかった訳だから、気にしてくれるのはまだわかる。でも、寂しそうな顔というのは流石に話を盛っていると思った。

 しかし、莉子はこれ見よがしにため息を吐く。


「何、無自覚なの? 彼、いつも笹木野さんのことを気にかけてるのに」

「へっ? いやそれは、私が転んだりしてドジをしがちなだけで……」

「ふぅん?」

「だ、だいたい、大鳥さんの方が翔琉くんと一緒にいて……」

「それは私が積極的に話しかけてるだけ。私も翔琉のことが好きだから」


 さらりと言い放つ莉子に、蜜柑は「え」という声すら出ないまま固まってしまう。

 彼女が翔琉のことを好きなのは、わかりきっていたことなのかも知れない。でも、蜜柑はどうしても気になってしまうのだ。

 だったらどうして、バレンタインのチョコレートを手に持っているのだろう、と。


「あぁ、これ? あなたが今日渡せないなら、私も渡せないと思って」

「……それって、どういう……」

「だって、あなたは私のライバルだから。先に渡すのは何かが違うって思った」


 ――ライバル。

 こんなことを言われるのは、十四年の人生で初めてのことだった。

 何故だかわからないけれど、心に小さな炎が灯る。

 窓の外を見ると、相変わらず夕陽が眩しく輝いていた。まるで自分の心を表しているのかようで、蜜柑はひっそりと握りこぶしを作る。


「蜜柑色の空」

「……いきなり何?」

「って、昔……翔琉くんが夕陽のことをそう言ってたんだ。急に思い出しちゃって」


 言いながら、蜜柑は照れ笑いを浮かべる。

 ほんの少し前までは、辛い景色だと思っていた。本当だったら蜜柑色に染まる教室でバレンタインのチョコレートを渡すつもりだったから。

 それができなかった――なんて、過去形にしたくはない。

 今はそう、強く思うことができる。


「良いじゃん、それ」

「え?」

「ライバルっぽい顔つきになってきた。私には小学生の頃の思い出とかないから、羨ましいよ」


 莉子は腰に手を当てながら、得意げに微笑む。

 こんなにも楽しそうな莉子の姿を見るのは初めてで、妙に嬉しい気持ちに包まれた。

 何故だろう?

 強力なライバルが目の前にいるはずなのに、前向きな気持ちが止まらなかった。


「翔琉、明日の放課後も待っててくれるみたいだから。ちゃんと風邪治して、渡してきて」


 莉子の言葉に、蜜柑はすぐに頷いてみせる。

 ついさっきまで「もうこの想いを伝えることはできない」と決め付けていたはずなのに、不思議なこともあったものだ。


「明日、私もこのチョコを渡すから。今度は待っててあげないから」

「わかってる。明日は絶対渡すよ。……リリコちゃん」


 莉子の愛称は「リリコちゃん」だ。

 決意を伝えるためにも呼び方を変えてみた……のだが。

 何故か莉子は露骨に嫌そうな顔をした。


「その呼び方は嫌」

「ええー……」

「…………あなたには莉子って呼んで欲しい。私も蜜柑って呼ぶから」

「っ!」


 ぼそりと呟くと、莉子は照れたように背を向け、「じゃ、要件は言ったから」と部屋から出ていこうとする。

 蜜柑は慌ててその背中に声をかけた。


「今日はありがとう……莉子」

「ん。また明日。蜜柑」


 こちらを見ないまま、莉子は小さく呟く。

 その声はいつもよりも優しいものに感じられた。

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