妖精郷(Ⅱ)
イリーナは黄金酒を口にする。
この一献は冥界に生きる生者たちを救う試練の始まりとなる。
酒は体内を燃やすように染み入った。
途端、イリーナはその味に眼を見開く。
エルフに供されたその酒はまさしく妖酒、否、神酒と呼べる程の代物であった。生命樹の蜜から醸造されたゆえか陽のように熱く、熔けるような美味である。現世にあってこのような酒にはまず出会えぬ。イリーナはそう確信を持った。
「このお酒……めっちゃうまいですよ」
「なに? ちょっと、私にも呑ませろ」アルマはいそいそイリーナの隣に並んだ。
エルフの小娘から供された杯をぐいっと傾けて呑みくだすと、アルマはすっかり赤ら顔になった。「こんなにいい酒を呑んだのは、学院から賢位を授かったとき以来だ!」
「ええ。こんなにおいしいものを口にしたのは久しぶりです。思えば冥界に来てからアルマさんの薬ばかり飲んでいましたから……」
「あたしの出す薬が不服か?」
「いえ……まさか」アルマの薬には幾度も助けられた。むしろ傷を負ってばかりの自身の未熟だとイリーナは自省する。
「あれ作るの面倒なんだぞ。冥界の環境で外傷の回復を期すために薬草の力能を活性化させて体内から賦活するべく……」
「なるほど、すごいんですね」
「そうだ! でも感謝する必要はない。魔術師ならできて当然のことだ。ただ人目を惹くだけの奇芸を見せてほら魔法でございという顔をするような詐欺師とは違うんだ!」アルマは一気に酒を呷った。「しかしこの酒はうまい! 人を招き容れて酒まで振る舞うとは書物で読むよりも気が利く種族なんだな、エルフというのは!」
「酒ならばいくらでもある。存分に呑め。そなたらの呑みっぷりは見ていて心地がいい」エルフの長老は余裕の表情で杯を傾けた。
イリーナは負けじと酒を呑む。これは試練。手加減をして勝ちは得られない。
「本当においしいね、これ」
隣から聞こえた少女の声にイリーナは思わず酒を噴き出した。
酒杯を片手に座したラナはイリーナを振り向き、首を傾げた。「どうしたの」そしてまた酒を呑み、喉を鳴らす。
「大丈夫ですか、ラナ。このお酒、強いですよ」
「そうなの?」ラナが杯に口を付けるたびその体は強く光を放った。「だいじょうぶよ、ぜんぜん」
「知りませんよ……」イリーナは首を振って、再び酒を呑み始める。(この勝負、いったいどこに行き着くやら……)そうした疑問も、やがては酒に呑まれて消えていったが。
宴は続いた。人もエルフも呑み続ける。段々と皆、眼が胡乱となってくる。
「イリーナと言ったか。そなたも大したもの。魔力もない尋常の人が冥界にまで来ようとは。そこは最も死に近い場所だというのに」濁る瞳で杯を傾けながら長老はその眼を眇めた。「否、僅かに魔力も見えるか。それは……」
イリーナは首を振り、言葉を遮る。「私は騎士です。この手に多くの人の命を奪ってきました。死など恐れはしていません」
「そうか。人も変わったもの」長老はつまらぬ顔をした。「だが冥界の敵は人などでは済まない。なぜそなたは冥界にて戦う」
イリーナはしばし沈黙する。酒がそうさせるのだろうか。彼女は自然と自らのことを語り出した。
主家が暴君に叛逆したこと。王女と共に戦ったこと。戦に敗れ、主家と同胞を失ったこと。己は生き延び王女を救いに行ったこと。
「だから私は、殺したのです。処刑のその日、その場で王を、この棍棒で撲殺してやったのです」
いまいち呂律の回らない舌でイリーナは語る。皆、酒の手が止まっていた。
「しかし王女は冥界に向かいました。私が殺した王を救うために……。そしてあの方は冥界に棲むドラゴンに攫われたのです。私は、王女をお救いしなければなりません」
話し終えてイリーナは酒を呷った。その眼にじわりと涙が浮かんだ。「王女よ。どうして、あなたは」声の震えを抑えるようにまた酒を呷る。しかし言葉は留め処なく溢れた。「酷い話じゃないですか。私はあなたを救おうとしたのに。そのために戦っていたのに。そしてまた私は戦わなければならないのです。私にも、わかりません。なぜこのようなことを繰り返さなければならないのでしょう」
それが騎士という生き物なのだと天が定めたかのようだった。イリーナは悲哀を呑み込むように酒を呑み続けた。
「呑め、呑め。いやなことは忘れよう。あたしだって冥界になんか来たくはなかったさ!」アルマは小娘から酒瓶をひったくって酒を注いでやった。
エルフの長老は愉快そうに笑っていた。「そなたらは面白い。弱き者が苦しみながら戦っている。面白いなあ」
あたりには酒気が立ち込め妖精も人もひたすらに酒を呑んだ。やがてそれも終わりが訪れる。一時の夢のような宴の終わりが。
生命樹の下にあるのは死屍累々の惨状であった。否、それは酒に酔いつぶれたものたちの酔態であった。
アダマスは初めに倒れてからそのままだ。アルマは目を開いているが気絶している。イリーナは地面に突っ伏し「もう無理」などと呻きを上げていた。エルフの長老とて指一本動いていない。
その中で一人、ラナは杯を傾け喉を鳴らしていた。
ラナは杯を呑み干して唇を舐める。なぜかその体は強く光り輝いていた。
「……いつまで呑むつもりですか、ラナ」
イリーナの声を聞き、ふと周囲を見回す。そして首を傾げた。
「ふ、ふふ……」地に伏せたエルフの笑い声が響く。エルフの長老は苦労して起き上がり、居住まいを正した。「さすがは光の化身。黄金の酒すら呑み干すか」
「……光の……」ラナは長老の言葉をよく聞き取れなかった。視界が霞みがかったようにぼやけている。
やがて視界が揺らぎ、ラナは倒れる。イリーナがその身を抱き留めた。
安らかな寝息が聞こえる。それと共に、光は徐々に治まっていった。
「終わった、か……」アダマスが起き上がった。彼は頭痛を払うように頭を振る。
「アダマス殿……ご無事で」イリーナは彼の身を案じた。
「大事ない。むしろ、生き返ったかのような気分だ。これは……」言葉通り、彼の眼は以前にない生気を宿していた。
「面白い。生命樹の蜜を口にし、生を帯びたか」エルフの長老は告げた。「しかし、それも一時のこと。冥界の闇が去れば、そなたは生き永らえられぬ。あるいは他者の血を奪い、仮初めの生を生きる怪物と化すか」
「構わぬ。一時であれ生者として戦う力が戻ったならば。この戦いを終えたとき、儂は亡者として冥界の闇と共に去ろう」アダマスはとうにその覚悟を決めていた。たとえ死に生きる道が残っていたとて、己は滅びるのだと。「……して、試練はどうなった」
「試練?」
「我々を試していたのではないのか」
「……ああ。そうだな。いいだろう。この森に人間を受け容れる」長老はあっさりとそれを認めた。「ただし、ドラゴンの討滅に手を貸すことが条件だ。わたしたちは共に戦うためにこそ手を取り合おう」
エルフの長老は手を差し出す。アダマスはその手を取り、友誼を交わした。
結局酒が呑みたかっただけではなかったのかとイリーナは思うが胸の内に秘めた。美味い酒を呑めただけ儲けものだと。
やがて人々はエルフの森に入り、その辺縁の領域に小さな村を与えられた。
建物は森の木々を組んだもので、建築はエルフが一夜のうちに終えた。それこそ魔法のようにして、森に一つの村が生まれたのだ。いずれも小さな小屋だったが、人々はありがたがって各々の屋根とした。
生命樹は長老の魔法により姿を隠し、見えなくなっている。もし生命樹の黄金の果実を口にすれば、その者はエルフの世界に属する他なくなるからだ。人々もまた、敢えてエルフの住まう森の深淵に踏み込もうとする者はいなかった。
そのように画された村の一角、アダマスの小屋にイリーナらは集っている。
「色々とありましたが、当面の目的は果たせました。この村なら人々は安んじて暮らせるでしょう……」イリーナは胸を撫でおろす。ケイから託された役目をその一端でも果たせたのだという微かな自負も感じていた。
「まさか本当にエルフが人間を受け容れてくれるとはね。人間と妖精が分かたれてからすでに悠久ともいえる長い時が経過している。だが、ドラゴンは全てに対する脅威だ。それほどにエルフもドラゴンを恐れているのだろう」アルマは魔術師らしく講釈した。
アダマスはアルマに同じて頷く。「既に長老と話は付いた。エルフはドラゴンの討伐に向け戦士を募る。我々もそこに加わり、共にドラゴンを討つ」
「……しかし、どのように戦えばいいのでしょう。まだ、敵の居場所も掴めていませんよ」
「一つ、心当たりがある」アダマスはそう述べた。「かつてよりホルンの西の湖にはドラゴンの骸が眠っていた。ホルンの地が冥界と化したことが、かの骸に影響を与えたのやもしれぬ」
「ドラゴンが亡者として甦ったと……?」
これにアダマスは重く頷いた。
「……それは、考え難いことだが。あたし達がこの目にしてきた冥界は亡者の世。より正しく言うならば、人の亡者の世だ。犬や猫が亡者となって彷徨っているわけではなかった。恐らく亡者として成立するにはある程度の魂の規模が……。その規模を越えた魂は……」
アルマは椅子を揺らしながら考えに耽る。
「あるいは闇の妖精が使役するために甦らせたのか……。そうか。それならば敵の居城は湖にあるかもしれない。面倒だが、あたしが探ってみよう」大義そうにして立ち上がり、アルマは小屋の扉を開いた。
「よくわかりませんが私も行きます。王女はその城に囚われているかもしれません」
「あくまで偵察だよ。一人で充分だ。きみは英気を養っていてくれ。戦いになったらまた無茶をするだろう、きみは」
これには言い返せずイリーナは浮かしかけていた腰を落ち着けた。アルマは口笛を吹きながら小屋を去っていった。
小屋にはアダマスとイリーナが残る。イリーナは言い返せなかった己に腹が立って不貞腐れていた。
「……儂も己の仕事に取りかかるとしよう」アダマスが立ち上がる。その手には宝器である盾の残骸があった。
「どこに行かれるので」
「エルフから鍛冶場を借り受け、盾を修復する。エルフはドワーフにも劣らず鍛冶に秀でた種族。この盾の素材となる神鉄もあろう。しばし待て。その暁にはおぬしに再び盾を託す」
「……よろしいのですか」イリーナはそう問うていた。「あのとき私は軽々しくその盾を手にしました。しかし今となってはその盾がどれ程の銘品であったのか理解できます。なぜ私のような未熟者にその盾を託してくださったのでしょうか……」
「道具は道具。所詮は身を守るための鉄にすぎぬ。それはおぬしにこそ必要なものだった」それだけだと言い終え、アダマスは小屋を立ち去っていった。
そしてイリーナは、手持ち無沙汰になった。
思えば己は戦うことしか知らないのだ。他に得意なことは何もなく、戦ですら何度も死にかけている。酒に強いつもりではあるが、それはあまり役に立つことではなかった。
己は、誰の、何のためになるのだろう。
……王女は、私が助けに来ることを望んでいるだろうか。
イリーナは考えを振り払った。いつまで不貞腐れているつもりかと。彼女も立ち上がり、アダマスの小屋を後にした。
イリーナはラナを探しに外を出歩いた。
村の広場では子供らが走って遊んでいた。中にはエルフが混ざっていた。ラナの姿は見えなかった。
村の外周を見回る。この村は森の中でも小高い崖に囲まれた土地に形成されていた。夢の中の世界とは思えぬほど、この森は自然が生む地形そのものの形をしていた。
やがてすぐ、その姿を見出した。少女は村を見降ろす高台に一人、佇んでいた。
少女は振り返る。イリーナはその隣りに座り込んだ。
少女は何も言わなかった。イリーナはぼんやりと森の光景を見ていた。
「なんだか遠くまで来ましたねえ」
「……そうだね。あなたと出会って、まだそれほど時は経っていないけれど」
ラナの眼はいつかの時を見据えていた。
光の化身、とエルフの長老は口にした。それは取りも直さずこの少女の特異さを表した言葉だ。
イリーナは思う。この少女と己はなぜ出会ったのだろう。それはただの偶然だったのだろうか。
偶然ではあった。だが意味なき偶然ではなかったはずだ。イリーナにはそのように思えていた。
「私には、記憶がなかった。いいえ。きっと私には過去すらなかったのね」
ラナもその場に座り、膝に顔をうずめた。
「あなたと出会うまで、私は自らの存在すら知覚していなかった。不思議ね。そのことにも気付いていなかったなんて」
「……そうでしたか」イリーナは、ただそのように認めた。この少女は自然に生を受けたものではない。只人である己には遠く理解の及ばぬ存在。しかして……。
「イリーナ。私は何者なの。人間。妖精。そのどちらでもない存在。それは、世界に居ていいものなの? 私は一体……」
「あなたは、私の友人です。ラナ。たとえ何者であっても」
慰めになどならずとも、それのみがイリーナの知る真実だった。
冥界という遠い地にて、苦しき旅を共に歩んだともがらだった。
ラナも、その答えに満足したらしい。「確かに、そうだね。そうだったね。ばかみたい」そう言って、彼女は笑っていた。
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