妖精郷
その森は冥界の東に横たわる山脈の山中、平野に流れる川の源流域に広がる。秘された森であり、その存在を知る者は少なかった。まして、その奥に妖精が棲むと知る者など。『何をしている。人間』
魔女アルマは学院からの使命を受け冥界を探索している最中であった。冥界の数少ない生者に話を聞けば、北の山脈にこそこの地の異変の原因がある。山脈に囲まれたこの地にかつて在ったいう小国、その有数の騎士すら、かの山脈の探索を断念したという。アルマは生者の町を拠点とし、この地の外縁を探った。北の山脈を攻略する手掛かりを得るために。
そうして分け入った東の山中の森で彼女は妖精と出会った。人間の男の容をしており、およそ美しいと言って過言ではない存在だ。『何をしている、って……』アルマはまず、この妖精に害意はないかと考えた。この地を支配するのは妖精である。生者の町の騎士はそれを闇の妖精などと呼んでいた。その数も正体も定かではない。明確であるのは亡者を引き連れ生命を刈る恐ろしき敵ということ。アルマにとっても警戒せねばならない存在だ。
しかし、この妖精は亡者を従えてはいない。彼は一人であり、むしろ此方を警戒している。その態度を隠しもない。ある種の高潔さすら感じる佇まいであった。『道に迷ってるんだ。どこか、休めるところは……』『近づくな』妖精は刃物を抜く。その刃は魔法による光に濡れていた。『永遠の夜と化したこの地に、おまえのような人間が不用意に彷徨いているはずもない』『こういう人間だっているさ』アルマは杖を掲げた。魔法の触媒たる宝玉を嵌め込んだ魔術師の杖である。
杖の先に光が満ちる。妖精の男は躊躇せず光の刃を放った。瞬く閃光が樹々を揺るがし霞み消える。アルマは傷一つなく。杖の先にある光の盾を消し、地に落ちた刃を蹴り返す。
『どうだ。人の魔法も進歩しているだろう』『何が目的だ、魔術師』彼は足元の刃を拾い話に応じる。『あたしはこの地の調査に来ただけた。放っておけば世界が崩れかねない。きみ、あたしのために協力してくれないか』『……世界は既に人に明け渡されたものだ』彼は逡巡した後にそう答えた。『立ち去れ。これより先に進めば只ではすまさん』
妖精の男は刃を収めて姿を消す。樹々の奥には暗闇が見えるばかりであった。アルマは杖を見やる。宝玉が割れ、欠け落ちていた。一つ溜め息を吐き、彼女は森を引き返した。
「あたしが妖精の森を見つけたのはそのような経緯だった」「本当に大丈夫なんですか?」イリーナの不安は拭えなかった。妖精の森へ続く山道での話である。「騎士ならば勇気を持て。何のためにきみを連れてきてると思う」「荒事のためですか」「こちらから手を出すつもりはない。だけど、その時はその時だ」
荒事など最悪の事態であることはアルマも承知していよう。イリーナは観念して山道を登っていく。アダマスは無言である。人々を麓の洞窟に残し彼らは交渉へ向かっていた。寄る辺を失くした人々を妖精の森に受け容れさせるため。そして同行するのはもう一人。イリーナは彼女のことが気がかりであった。
「ラナ……」立ち止まり、少女を振り返る。少女は首を傾げていた。「……どうしたの?」イリーナは視線を落とし、声を詰まらせた。「彼女はきみを心配してるんだろうさ。ラナ」アルマが肩を竦めた。ラナは逡巡し、答える。「ごめん、イリーナ。本当に覚えていないの。あの洞窟で私に何があったのか……」ラナの瞳を見てイリーナは思う。これ以上、彼女を危険に巻き込んでよいのかと。彼女は人々と共に麓に残っていてもよかったのだ。しかしそれは、イリーナが決めるべきことではない。
「心配はいらないよ、イリーナ。私があなたに付いていきたいの。……危なっかしいから」「私がですか?」アルマが噴き出していた。イリーナは困惑し、頭を掻く。「……ええ。確かに不要な心配でした」彼女の力に幾度も助けられておきながら馬鹿馬鹿しいとイリーナは心のうちで自嘲した。その分己が彼女を助ければいい。初めから、そうだったのだ。
一行は止めた足を動かし、再び山道を歩き始めた。「随分、歩きましたね」「もうすぐだ」アルマは淀みなく一行を先導していく。目の前に広がる森はただ暗闇であった。だがこの先に神秘の領域がある。イリーナは胸に畏れを抱きつつ歩を進めた。「……止まれ」暗闇から声が響く。「告げたはずだ。只ではすまさんと……」樹々の隙間から燈火の光と共に現れたのは、美しき妖精の姿であった。
「……エルフ」アダマスは呟いた。目の前の妖精を指しての言葉である。「口伝に聞いた上古の時代の妖精よ。なにゆえ我らを拒む」「我々と人の世は既に異なる。我々は現世を離れ去った。この先にあるのは門に過ぎない。夢に浮かぶ孤島となりし、妖精郷へと繋がる。俺は夢の番人。何人もこの道を通しはしない」エルフの男が身に纏う神気は戦いしか知らぬイリーナの肌にも感じられる程の鋭さだった。あるいは、今までに対峙した闇の妖精をすら凌駕する気迫である。
「ならばこれを見よ」アダマスは盾を掲げた。無惨に毀れ、残骸となった盾。だがそこには未だ魔力の残滓が宿っていた。エルフの男は端正な眉を動かす。「妖精が作りしものか」アダマスは神妙に頷いていた。「然り。我が一族の祖たるドワーフより受け継いだもの。長き月日と戦により神秘は薄れど、この盾を引き裂く者はドラゴンを置いて他におらぬ」
「もしや、甦ったか。この地に棲まう竜が」エルフは纏う空気を変えていた。敵対する者に対するそれではない。ここにおらぬ、より大きな存在を見据えているかのようだった。「ドラゴンと戦うか、おまえたちは」険しい彼の眼はイリーナたちを見定めんとしていた。その眼に少女の姿が留まり、見開かれる。
「……そうか。しばし、待て」そう告げると彼は眼を瞑り、そして沈黙する。沈黙はやや長かった。「……寝た?」「静かに待ってろ」アルマとイリーナが囁き合う。彼は何者かと会話をしているのだとアルマは教えた。
一行は律儀に待ち続けた。やがてエルフの男は眼を開き、踵を返す。「おい」アルマは止めようとした。視線のみを返して彼は言う。「付いて来い。長老がお待ちだ」「なんだと」男はそれ以上取り合わなかった。一行は顔を見合わせ、急ぎ彼の後を追った。
門とは森の奥に双子のように立つ二本の樹の狭間であった。「通れ」男は促す。「案内人が来るはずだ。俺は門を守らねばならん」「はあ。ありがとうございます」イリーナは気の抜けた返事をしていた。男は何も言わぬため、一行は構わずに二本の樹の狭間を通る。
初めに見えていたのは霧であった。燈火の光を吸い視界を奪うような甘い霧だ。それは現と夢を隔てる薄い幕のようなものだった。霧を通り過ぎれば、景色は既に一変していた。
そこは昼の世であった。空には光があり、光の源は大樹に咲く花であった。大樹は天を衝き枝を広げ、そこから垂れる花房は金色に濡れ温かな熱と光を発する。大樹の根本から流れる水は豊満たる川となり地を潤していた。冥界の地とは理を異にする、もう一つの異界。その領域は幾つもの門で外に繋がる。現世と重なりながら夢に浮かぶ隠されし孤島なのだ。
「これは……驚きました」イリーナは凡庸な言葉を口にしていた。「驚くなんてものじゃない!」アルマは興奮を隠し切れずにいた。「あれは生命樹か。この眼で見られるとは」アルマの興奮を他所にイリーナは近づく者の気配を感じ取る。「あなたは……」その者は小さな娘のような風体をした妖精であった。彼女はイリーナたち一行を前に軽く微笑み、「いらっしゃい。付いておいで」と告げた。
妖精に付いて行く道中に見える樹々は緑の若々しい葉を付けていた。それはずっと若々しいままなのだ。時が静止した世界。それは冥界と同じく。だが、この地は温かかった。イリーナのその想いは郷愁のようでもあった。
やがて辿り着く大樹の麓。その座には竜と見紛うような、大いなる羽を持つ妖精がいた。「お連れいたしました。長老」そう呼ばれた彼女は頷き、小さな娘のエルフはその場から立ち退がる。彼女……エルフの長老は、人を睥睨した。「よく来た。人よ。久方ぶりか」
「生憎だが、あたしたちはきみを知らない」アルマは不遜に言い放つ。長老は、慈悲深く笑みを浮かべそれを許した。「そうだろう。人は定命のもの。移ろいゆく命。わたしとは異なる。そのことを、つい忘れてしまうよ」
「なぜあたしたちを呼んだ? 門番は随分と冷たい態度だったけど」「……カルツは人を嫌っていてな」カルツ。それがあの男の名であった。「されどエルフはそれのみではない。長く現世を離れたがゆえか、人を恐れる者も少なくないが。エルフが人を憎む謂れはない」
アルマは押し黙った。長く現世を離れたと長老は言う。それは確かなのだろう。しかし真に妖精を恐れるのは人の方である。それを伝えたとて意味もないことだが。現世に残るエルフを人が迫害した歴史は確かにあった。それも降り積もる歴史の影となり、エルフの存在を知る人間も今や稀であるが。失われし過去を語り継ぐ魔術師たちもまたそのように人の世から疎まれ、消えゆきつつあるのだ。
「そなたらを呼んだのは、あの蛇が甦ったとカルツから聞いたからだ」「蛇……ドラゴンのことか」「あれはエルフにとって大敵でな。そもエルフがこのようにして夢の世界に隠れ住むのも、あれから生命樹を守るためだった」妖精郷に聳え立つ大樹。生命樹と呼ばれしそれは、太陽の光を宿した樹であった。即ち太陽の現身であり、生気の完全な循環を司る、大地の肺である。その黄金の果実は生命に不死を齎すとも伝わるが、されど人ごときが容易く手を伸ばせば瞳を焼かれ死に至ろう。それほどに強大な神気を放つ樹木であった。
「これも真なる生命樹から分けられた一株に過ぎない。あれはすでに燃え尽きてしまった。天から降り来た蛇の炎によって。ゆえに、わたしたちは次なる樹の根を再び大地へと降ろすため、これを守るのだ。そしてこれを脅かす災厄はすべて滅ぼさなくてはならない」
畢竟、エルフにとって現世に冥界が広がることなどは些事であった。生命樹を用いれば闇は容易く晴れ、再生が可能であるのだから。ただ問題であるのは、生命樹を脅かす災厄の存在だ。災厄が消えぬ限り、その無辺の光が現世にもたらされることなどあり得なかった。
「エルフには現世を忘れようとする者もいる。生命樹をわたしたちだけのものとし夢の中で永遠に生き続けようと。あの災厄は幾度でも訪れるのだから。だがそれは、わたしたちが災厄を見過ごしていい理由になどならない」
人の歴史にドラゴンはたびたび姿を現した。大いなる災厄として、時に信仰の対象として人々と関わり、いずれにせよ姿を消す。国が滅びるか、あるいは人がドラゴンを滅ぼすか。ドラゴンとはいずれも伝説的な存在であった。
そして人がドラゴンに打ち克つ伝承には、勇者に魔法の助けや知恵を授ける存在も常に語られていた。魔術師。賢者。聖者。時代や語る者によって異なる。古くは妖精とも……。その存在がエルフであったとて不思議はない。
「そうか。きみたちは常にドラゴンと敵対し、人間に力を貸してきた。あたしたちを呼んだのも、そのためなのか」長老は緩慢に頷く。やはりとアルマは思った。アダマスはこれを知っていたのだろう。妖精の裔であるゆえ、古き妖精の役目を伝え聞いていたのである。ゆえにドラゴンの復活をエルフに伝えたのだ。
「ならば話は早かろう」アダマスは勢い込む。「儂はドラゴンと戦う。代わりに我が願いを聞き届けよ、エルフ」「それは、如何な?」「この地に、我らが民を迎え容れよ。冥界と化した祖国で寄る辺を失くした生者たちだ。一時のみでいい。祖国に光が戻るまで、闇をしのぐ光の屋根を貸し与えてはくれまいか」
「……構わぬ。勇者の頼みとあれば」長老は口の端に笑みを浮かべる。「だが、そなたが真に勇者であると言えるか。災厄を退けると宣うか。ならば、その真価を証立ててみせよ」長老は掌を叩いた。すると先程の小さな娘が酒と杯を乗せた盆を両手にやってくる。
「これは何のつもりか」「試練だ。わたしと酒を呑み比べよ。先に酔いつぶれた方が負け。そなたが勝てば勇者と認める。簡単であろう」小娘は粛々と長老に杯を手渡し酒を注いだ。長老は二つの杯の一方をアダマスに寄越す。その眼は悦楽に歪んでいた。「さあ、呑め」
「くだらぬ……」アダマスは酒杯を傾ける。そこに満ちるは黄金の液体。彼は構わず杯に口を付けようとした。「待て、それは……!」アルマの制止の声が飛ぶ。既に手遅れだった。酒を呑みくだしたアダマスは、二口目を口に付けることなく、すぐさま地に倒れ伏した。
「ア、アダマス殿!」駆け寄ったイリーナはアダマスの手元から落ちた杯を見る。杯から零れ土に染みゆく、黄金色の酒。アダマスは伏せたまま声も枯れ枯れとなって呟いていた。「あ、熱い。体が、燃えているようだ……」「アダマス殿……お酒に弱かったんですか」「馬鹿な。生前であればこのようなことは」
エルフの長老は悠々と酒を舐めた。彼女は口の端に笑みを浮かべ、哀れに地にのたうつ人を見やる。「どうだ、妖精郷の酒の味は」「これは、やはり……!」アルマは看破した。彼に供された酒は、生命樹の蜜の酒であると。即ちそれは、生気の塊のようなものなのだ。
「自らのうちに光を持たぬ者は光に焼かれる。そなたは亡者だな。生前の魔力によってその形を保っているようだが、本質は変わらない。闇を源とする、冷たき命。そなたは生命樹の祝福に耐えられない。災厄の炎すら凌げまい」
「否……!」アダマスは倒れた酒杯を掴み、起き上がる。「酒を注げい!」小娘は即座に瓶から酒を注いだ。「ご、ご無理を……!」イリーナは慄き彼を止めようとした。しかしアダマスは酒を仰いだ。そしてまたも倒れる。
「まだ、だ……」「おい、もうやめておけ。こんなことで死んだら笑い種だぞ」見かねたようにアルマは言った。しかし、笑ったのはアダマスの方だ。彼は背を震わせながら掠れ笑いを響かせる。「もう忘れたか、魔術師。儂は死しておるのだぞ。これも、民のため。たとい我が身が燃え尽きようと、構うまい」
震える指が再び杯を掴もうとする。イリーナはそれを取り上げた。「お覚悟は立派です。しかし今はその時ではありません。これではケイ殿も浮かばれない、というものでしょう」アダマスは唸りを上げる。「おぬし、何を」「私もケイ殿の遺志を継いでいます。そしてその以前、あなたには命を救われています。何よりも姫君のため、私は戦わねばならない」
イリーナは地べたに座り込み、杯を掲げた。「注いでください」「はい喜んでー」小娘は黄金の酒をイリーナの杯に注ぐ。イリーナはエルフの長老を、睨み据えるように見上げた。「試練とはいえ亡者を罠にかけるような行い、気に入りません。私が呑めば、所詮はただのお酒でしょう」長老の笑みが深まる。「そうだな。だが、現世のどのような酒より強いぞ」
「勝負です。我が名はイリーナ・マクレガン。あまり口にしたくはありませんが……クロムウェル家で一番の酒豪と認められた騎士です」
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