天井を破り大広間へ落ちてきたのは一体の竜であった。初めに雷鳴と聴き紛う咆哮があった。そしてまさしく雷のようにその怪物は降ったのだ。騎士イリーナはその巨躯を仰ぎ見る。彼女には初め、それが何であるのかが理解できなかった。途轍もない怪物なのだということはわかった。それは彼女が今までに相対してきた冥界の住民どもとも異にする、底のない恐怖が具現化したかのような存在感を放っていた。

「ドラゴン……!」魔女アルマが憎々しげに呼ばわった。微かな怯えもそこには混じっているか。彼女は努めて冷静さを保ち、言葉を投げていた。「逃げるぞ、勝ち目はない!」そのようなことはイリーナとてわかっていた。だが、脚が動かぬのだ。ドラゴンという夢物語にしか聞かなかった妖精を眼にするとは。そして己がこうまで身を竦ませるとは想像も及ばなかったことだ。冥界にくだって、怪物などは見慣れたものだと思っていたが……。

 あれは本物なのか。生きているか。喰らうのか。人間であるおのれらを。蠢く竜の眼は王女を見据える。イリーナの前に立つその人は剣を構え、ドラゴンを睨む。息は荒かった。力は既に尽きているも同然。このままでは、王女が死ぬ。皆が殺される。己の脚は本当に動かぬのか。イリーナは奮い立つ。その脚は既に王女の元へと駆け出していた。

 イリーナは王女を突き飛ばした。薙ぎ払われるドラゴンの大爪。嵐が襲ったかのような衝撃を受ける。辛うじて前に掲げた大盾がひしゃげながらイリーナの身ごと吹き飛ばされ、石柱にその背が叩きつけられた。砕けた石と共に柱の元へ頽れたイリーナは口元から血を吐いて床に朱が散る。その意識が混濁し眼は虚ろなままに何かを見ようとしていた。

 霞む視界に声が聞こえる。少女が己の名を呼ぶ声を。(ラナ……)イリーナは心の内で名を呼び返す。彼女には悪いことをした。このような場所まで連れてきてしまった。何も知らぬ子供を、戦いに付き合わせた。そのことが悪だと知りながら、どこかかつての己を見ているようで自然と共に在れた。(もう、いい。私を助けなくても……)

「イリーナ!」意識を失ったイリーナの傍に駆け寄りラナは何度も呼びかけた。「イリーナ、イリーナ。どうしよう、イリーナがまた気絶してる……」彼女らには眼もくれずに、ドラゴンは己の敵に向き合う。騎士オフィーリア。その殺気は凄まじきもの。剣を向け、片時も眼を離さぬ。彼女はそのままで背後の魔術師に伝えた。「魔術師よ。あの子を……イリーナを連れて、ここを去れ」その覚悟を魔女アルマは既にして悟る。「私があの竜を止める」予測できた言葉に、アルマは瞼を伏せた。「……ああ。それが一番いいだろう」そう言いながら彼女が投げたのは、一本の薬瓶だった。オフィーリアは一瞥もせず片手で受け取る。「何もせず逃げたのでは天才の名が泣く。せめて土産を置いていこう。こいつで存分に戦うといい、王女さま」

 オフィーリアは薬を飲み干した。その瓶を床に投げ棄て、己の内に魔力が満ちていくのを確信する。幾度でもこの力を行使できよう。その気配の変化を悟ったか、ドラゴンは口に炎を溜め始める。オフィーリアは剣を掲げた。光線のごとく撃ち出される炎の息吹。ただ一息にて大地をも焼き払うドラゴンの真髄を、剣から放たれし氷雪の嵐が押し留める。

「今のうちだ、ラナ!」アルマの声にラナは頷く。「わかってる」その胸から、光の球が浮き上がった。光の糸がそこから伸び、イリーナの体を引き上げ光球に包み込んでゆく。「イリーナ……大丈夫。あなたは私が守るから」光球は縮まり、再びラナの胸に収まった。

 彼女がイリーナを取り込んだのか。アルマは呆然とし目を瞠った。「行こう」そう言いながら駆け戻ったラナにアルマは問いかける。「なんだ、今のは。異空間への転移か。いったいどうやった」「わからない。やらなきゃと思ったらやれた」「暇ができたらじっくり調べさせてもらうからな!」二人は騒々しく広間を去っていく。

 その声を聞きながらオフィーリアは剣に一層の力を篭める。(イリーナ……)炎と霜が衝突しせめぎ合うさなか、彼女は思っていた。(おまえは言っていた。私しかおまえには残されていないと。だが、それは違う)

 扉を出る前に一度、ラナはオフィーリアの背を振り返る。「あのひとは……」「自分の心配をしていろ。振り返るな」アルマの声は冷たかった。ラナとて理解している。いまの己はイリーナを抱えているのだ。その一念でラナは足を前へと動かしていた。それでもと、微かな声でラナは呟く。「ありがとう、オフィーリア。優しい王女……」

(私がおらずとも、おまえには、すでに……。だから、行け。何もかもを失ったわけではない。おまえに残された、真に価値ある生を探せ。この先に、何が待っていようとも……)オフィーリアの声なき声が、光の空間に浮かぶイリーナの意識へと語りかける。それは、いずれ夢となり忘れゆく言葉だとしても。確かな意味を、彼女の内に残すのだ。


 通路には二人の足音が鳴り渡る。ところどころに篝火の影が落ちる静寂の城。その中を走り続けるラナの表情にやがて不安の色が浮かび出す。「何か、ずっと嫌な気配が……」どれほど歩みを進めようと、ドラゴンの重圧が離れない。この通路にも纏わりつくような邪な気配が常に漂っている。それはアルマとて承知するところだった。そして、気づく。

 二人は同時に足を止めた。通路に何かが佇んでいる。それは亡者か。肌には鱗があり、形も半ば異形に成り果てた、尋常ならざる存在。「ドラゴニュート……やつの眷属か!」アルマは看破する。そのときには既に竜人は動き出していた。アルマはラナの腕を引き、竜人が振るう剛腕を回避する。雷撃を行使する隙もない速さ。だがラナの魔法の完成には充分だった。避けざまに素早く光の糸を放ったラナは、竜人の動きを封じ立ち上がった。

 そして目にする。糸を引きちぎり襲いかからんとする竜人の執念を。アルマは雷を放ちその動きを止めた。(厄介な敵だ。騎士のような頑健と膂力。できれば相手にしたくない手合いだが……)通路の先へと目を向ける。現れる竜人の群。その眼一つ一つがアルマ達への明確な敵意に満ちていた。(逃がさないということか。ドラゴン……天からの侵略種め。なんで冥界にいるのか知らないが人間が恰好の餌であることには変わりないだろう)杖を振るい、アルマは天井に向け雷を放った。眩い稲妻の後に砕け散り穴をあける天井。炎とともにその瓦礫が竜人の群へと降り注いだ。

 指笛が鳴る。ヒッポグリフを呼び戻すための合図。天井の穴を潜り抜けその幻獣は再び魔術師の前に降り立った。「乗れ!」アルマとともに鷲馬の背に跳び乗るラナ。そのままヒッポグリフは翼を広げ、魔力の風を纏い、足止めされた竜人を瓦礫もろとも吹き飛ばしながら通路を翔けていった。アルマは手綱を握りながら大いに笑う。「学院がむだに時間と金をかけて作り上げた魔獣だ! 半端な竜もどきに劣るもんか!」

 城の外へ飛び出し、闇の空を滑空するヒッポグリフ。後席に座るラナが振り返ると、城は炎を噴き出し、そこから一体のドラゴンが飛び去っていった。「あ……」闇に溶けゆく巨大な竜の影を見ながら、ラナは声を零す。「あのひとが離れていく。遠くへ……」

「なんだと」アルマは訊き返した。ラナはしばしの間を置いて答える。「私には感じられるの。私の糸を繋いだから。オフィーリア……イリーナの大切なひと。ドラゴンとともに遠くへ行ってしまう。ああ。イリーナ。ごめんなさい、イリーナ」ラナは胸元を抑えた。そこにいるイリーナに訴えかけるように。

「……生者の町までは遠い。適当なところに降りて彼女を治療する」淡々としたアルマの言葉に、ラナは幾度も頷くのみだった。


 やがて丘陵の洞窟に降り立った彼女たちは火を焚き、しばしの休息を得る。ラナが取り込んでいたイリーナも無事に戻った。アルマの治療薬を施され、篝火の傍で静かな眠りに付いている。沈黙に包まれた洞窟内で聞こえるのは薪が爆ぜる音のみ。ラナは感情を顕さない瞳でイリーナの安らかな寝顔を見つめる。篝火の明かりは彼女が身に纏う仄かな光そのものとよく似る輝きだった。

 アルマは思う。彼女は何者か。人でないことは……少なくともアルマ自身や彼女が知る他の魔術師とも異なる存在であることは確かだ。異空間を作り己の体内に収めるその魔術を人の身で成そうとすれば多くの修行を要するだろう。妖精の御業、だがラナはそれともどこか違っていた。彼女は人でないものでありながら人らしくあるようだった。その魔力はあるいは多くのことを為せるだろう。破壊も再生も思うがままかもしれない。しかし彼女はその力を恐れ抑えていたのではないか。その精神性が彼女の力を糸という細く嫋やかな形で顕していたのではないか。アルマは彼女の底知れぬ力を恐れた。だが、人のように力を恐れるその幼さこそ彼女の善なる本質であるようにも思えていた。

(その善性はどこから来た。ラナ、きみは何を願うものだ。イリーナならこのようなことを気にしないのだろうね。あたしももう少し気楽にありたいものだ……)その力を彼女が自覚したとき何が起こるかは測り知れない。ゆえに、アルマは信じるのみだった。ラナという少女の善性を。その力が災厄をもたらすことなきよう。そうなれば、面倒を負うのはアルマ自身なのだろうから。

「イリーナ」少女はふいに呼んだ。目覚めたのだ。重く瞼を持ち上げたイリーナは、首を巡らせ、覗き込むラナの眼を見て微笑んだ。「ああ……無事でしたか。私、眠ってしまったみたいで……」苦しげに上体を起こしたイリーナは、アルマに目を留める。「おはよ」「ええ……アルマさん。また、あなたの薬に助けていただいたようですね」いいんだ、とアルマは心の内で呟く。いいんだ、あたしは何もしてやいない。ただ最悪を回避しているだけだと。「あの……」イリーナは迷ったように、問いかけてくる。「王女は……?」

 ラナはイリーナの頭を抱き寄せた。親が子を慰めるように、黄昏が人を慈しむように、強くその胸に抱いた。「あのひとは、ドラゴンにさらわれた。ごめんなさい、イリーナ。私に力があれば、もっと色々なことができたなら……」抱かれた腕の中でイリーナは俯く。いかなる理屈かはわからない。だがこの少女は己を逃がしてくれたのだろう。情けない。だが、この腕の温もりが今はありがたかった。「大丈夫、ラナ。あなたがこうして居てくれるだけで。それだけで、充分すぎるほどです」イリーナは顔を上げ、ラナの腕から離れた。

「それに……」イリーナは洞窟の外を見る、どこまで続くかわからぬ闇を。「あの方はまだ、生きておられるのでしょう。ええ。そう簡単にやられるようなひとではありません。私もまだ、生きています。なら、助けに行くだけです。何度でも。助けに行きますとも」

 イリーナは再び視線を巡らせ、傍に置かれている鉄塊をさする。「これは……」問いにアルマが答えた。「ラナがきみと一緒に回収していたものだ。魔法で修復しようとしたが、うまくいかない。人の手に作られたものではないね。どこで手に入れたんだ、そいつは」違いなく、それはイリーナが手にしていた黒塗りの大盾であった。今は無惨に毀れ、見る影もない。「これは……途中で偶々、戴いたもので……」「まあ、何でもいいさ。それはもう使い物にならない。鋼をこうも容易く引き裂く怪物と、どう戦う? 無謀だ。助けに行くなんて、軽々と口にするものじゃない」

 イリーナは眼を眇める。「それでも……」無謀は百も承知であった。それでもなお譲れぬものはあるのだ。アルマは知ったように肩を竦めた。「一旦、町に戻るぞ。どうせすぐには戦えないんだ。ケイにも報告しなきゃね」イリーナは頷き、毀れた大盾を背負って立ち上がる。「もう動けるのか。その盾は墓まで持っていく気か?」呆れたようなアルマに、イリーナは静かに首を振った。「直せる人に心当たりがあります。この盾は、その方から戴いたものですから」

「そうかい」アルマは篝火に砂をかけ明かりを消す。角灯と少女が自ら放つ光がぼうっと浮かび上がった。洞窟を去ろうとする二つの角灯。少女の光はじっとして動かずにいる。「ラナ?」イリーナが振り返る。ラナはかぶりを振って、イリーナの後に付いていった。

 洞窟から立ち去っていく三人の旅人はそれぞれの思いを抱いていた。王女は無事でいるのか。ドラゴンはなぜ現れたのか。そして、少女が未だ思い出せぬ、己自身のこと……。だが、その道行きは同じだ。洞窟の外には鷲馬が待ち侘びている。その背に跳び乗り一行は再び、生者の町へと向かった。

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