生者の町(Ⅲ)

 王は優しい方だった。ケイは覚えている。正義に厚く弱きを助ける理想の王だったと。

 王の名はクレスという。民から英雄として讃えられた彼も、その生まれは貧しき一介の騎士に過ぎない。義兄に家を追われ、領地を継げなかった彼は傭兵となって各地を彷徨い生きることとなった。ケイはその従者として共に付き添っていた。

 クレスは旅の途中で多くの仲間を作った。傭兵として生きる他ない法外者たち。彼らはクレスと共に仕事をこなす内に彼を長と認め一個の傭兵団として活動するようになった。出自も身に付けるものもまばらな従者たち。ある者は弓を得意とし、ある者は魔術を使い、ある者は身の丈より長い剣を使う騎士だった。皆、気がいい連中で、よき友だった。

 やがて彼らは、エストラムという国に辿り着いた。峻厳な山の麓にあり鉄と岩塩を多く採掘するこの国は平原の大国ウェザラントの民の征服により築かれたもの。原住民である山岳の部族ホルン人はその支配下に置かれ、採掘奴隷として日々虐げてられてきた。

 ウェザラント国内の政変によって祖国から独立した背景を持つエストラム国は、王権の正統を主張し現ウェザラント王と長きに渡る抗争を続けていた。傭兵として戦に加わり、報酬を得ようとしていたクレスであったが、エストラムの鉱山街で虐げられるホルン人を目にしその後の運命を大きく変えた。

 クレスたちはエストラム国の下で戦う最中、その戦場で黒い鎧に身を包んだ騎士と対峙した。その黒騎士は複数の従者を連れていたが、クレスたちの力量を見抜いた彼は一人で前に進み出、一騎打ちの決闘を申し出た。それを受けたクレスが相手を務めたところ、両者の実力は伯仲し、勝負は一向に着かなかった。

 三日三晩の死闘の末、辛うじて黒騎士に勝利を収めたクレスはしかしその命は取らず武具を剥いでその場を去ることもしなかった。互いを強敵と認め、戦の喧騒が過ぎ去った荒野で兜を脱ぎ去り、二人は友誼を交わした。

 黒騎士の正体はかつてエストラム国の征服から逃れた一部のホルン人たちの長であった。名をアダマスといい、一族を奪還するため、出自を隠しウェザラント国の下で戦い続けていたという。唯一いた息子は追っ手に殺され、孫はまだ幼い。ゆえに長である彼が自ら戦に赴いていたのだった。

 クレスは過酷な環境に生きるホルン人を救いたいとアダマスに語った。そこでケイはこの放浪の旅の中、初めてクレスに反発した。何の益もない、無謀な正義感に過ぎないと。だがクレスは首を振った。それを為せるのが騎士だと。己には守るべき民がいなかった。ゆえに、それを為せなかっただけなのだと。

 ケイはクレスが旅の中で抱えていた思いを解しこれを受け容れた。アダマスもクレスを信用した。そして来るウェザラント国の大規模侵攻の際、クレスたちは黒騎士らと密かに合流し、鉱山街へと手引きした。戦によって兵が手薄となった鉱山街を征圧した彼らは、ホルン人を解放し、ウェザラント辺境にあるホルン人の村へと逃れた。

 しかし、追っ手はすぐに辿り着くだろう。人が増え村も手狭となった。ホルン人は更なる新天地を求め、川を渡り、山脈を越えた。その峠の先に見えた、山脈に囲まれた大地。そこには故も知れぬ、数々の遺構があった。

 遠方に見えるは、湖に半ば沈み島となった竜の骸。人知れずドラゴンに滅ぼされた国がここにはあったのだろう。だがドラゴンなど既に昔語りの存在。動かぬ骸となったそれを恐れる者はいない。遺構を用いてホルン人は新たな国を興し、クレスは解放の英雄として王に担がれた。冒険の果てに彼は己が欲した民を手に入れたのだ。

 傭兵は王国の騎士となり、民を守るための矛となった。ホルン人の戦士も配下に加わり、族長アダマスは執政官として仕えた。やがて国には商人が集い、その交易と自由を認めた。小さくとも、そこには確かな国の形があった。

 エストラム・ウェザラント二国間の大戦は泥沼のまま、新興貴族クロムウェル家を傘下に加えたアーズブルグ国の介入によって終結した。勢力を削がれたエストラム国は鉱山の一部をアーズブルグ国との共同事業によって採掘することを取り決め、もはや遠い辺境に国を興したホルン人を追うこともしなかった。

 平和と安寧の内にあった小国ホルン。だがそこには一つの懸念があった。北の山脈には異界がある。人がひとたび足を踏み入れれば戻ってはこられぬという巷説が、民の間にまことしやかに囁かれ始めたのだ。事の真偽を確かめるため、王は騎士を引き連れ北の山脈に入った。……幾人かの騎士が犠牲となり、戻らなかった。王はその日より、北の山脈を禁足地と定めた。

 違いなく、その異界へ通ず一穴から小国の滅びは始まった。

 ホルンはあくまで平和だった。遠きアーズブルグ国の王が乱心し、力なき数々の小国を襲い出したとて、その喧騒が辺境のホルンに及ぶことはなかった。たとえ戦によって幾つもの死が積み重ねられようとも、それは既に遠き地の出来事なのだと人々は疑わなかった。

 だが、彼らは知らなかったのだ。死は遥か過去より続けられてきた人の営み。その死は、魂はどこへ行く。それは人の眼には見えない。何処かに留まり、我々を見つめている。然り、ホルンの北の山脈は、まさにそのような土地であった。人の魂が行き着く先であったのだ。

 戦は死を振り撒くもの。平原の諸王は人を殺めすぎた。貪欲に、何時か止むはずだった戦を続けた。秩序を定め、大義を嘯いても、なお殺し続けた。死が広げた穴は闇を生み、罪なき小国へと牙を剥いた。

 北の山脈から溢れ出た闇は国を覆い尽くし、亡者溢れる世に変えた。闇とともに生じた妖精は亡者を下僕として従え村や町を襲った。騎士たちは決死の覚悟で抗い、一人ずつ命を落としていった。

 亡者の軍勢が王の城を襲ったときには既に騎士も少数だった。族長アダマスもかつてのように黒い鎧を纏い戦った。その奮戦虚しく王城は落とされた。アダマスは死に、ケイは形見にその盾を持って王と共に逃げ去るのが精々であった。しかし、追っ手の矢から王を守り切ることは敵わず、その最期を看取った。

 王の言葉に従い、ケイは燃え盛る城下から生き残りの民を引き連れ安息の地を探した。しかし彼らには既にわかっていた。安息は、この地にしかない。たとえ冥界と化したとて。放浪の末ようやく手にした我らの国を、失うわけにはいかない。この地に、光を。それが彼らに残された、唯一の願いだった。


 亡者が槍に倒れる。槍を振るうはただ一人の騎士。眼の前には押し寄せる亡者の軍勢。「滅ぼしてなるものか……! この国を、我が王の夢を!」騎士は叫ぶ。冥界に残された生者の町。希望の光がにわかに差す領域で。踏み荒らす亡者にその大槍を振るい続ける。

 彼は血を吐く。息が苦しかった。胸の傷が開き、じくじく疼いている。その最中、考えが過ぎる。民は無事逃れたか。此処に残るは己一人のみ。ここで死ぬるが定めか……。

 襲い来る亡者の刃に瞼を伏せたとき、剣がその刃を防ぎ、亡者を斬り伏せる。「ご無事ですか、ケイ卿!」駆け付けた少数の兵士はケイを庇うように陣を組んだ。

「そなたら……何をしている。私の命を忘れたか!」「民は皆、避難を終えております。お許しを、我らは独断で離れたのみ。我々はあなたを置いたまま逃げられはしませぬ!」ケイは唇を噛んだ。そのとき、狂おしい女の哄笑が響く。「愚かね。ならば死ぬといい」

 闇の内より生じた、光の球。それを受けた兵士は跡形もなく消え去った。ケイは咄嗟に槍で光球を斬り裂き、その場に立ち尽くす。眼の前にいたのは一羽の黒蝶の妖精だった。ゆらゆらと羽を揺らし、青く輝く鱗粉を闇に散らしている。

「きさま……」ケイは慟哭し、慟哭のまま、槍を振るう。星の如き光を湛えた黒蝶の杖がそれをいなし、光は波となって彼を襲った。

 ケイは光から逃れるも、その四肢は爛れ、地に倒れ込んだ。胸元の傷から血が留まらず、石畳を赤く濡らしてゆく。「答えよ、騎士」黒蝶は杖を突き付け、問うてくる。「光纏う少女はどこだ。町の者共をどこへ逃がした。答えるならば、その命を救うも難くはない」

 ケイは虚ろに黒蝶の金の双眸を見上げた。救うだと。この命を。「……知らぬ。もはや、意味なきことだ」「…………」僅かな沈黙。その後、黒蝶は消えた。

 静かだった。この町は常に静謐であった。生きる楽しみを忘れたかのように。それでも明日を見つめ、微かな熱を持って生き続けた。人々の息遣いが、今は感じられぬ。これほど静かで、冷たい場所だったか。否、ここには確かにあったのだ。生が。明日への希望が。

 淡い光が満ちる空を見つめる。徐々に帳が落ちようとしている。敵が去り、どれほどの時が経っただろうか。「ケイ卿」覚えのある声が聞こえた。彼女は駆け寄り、ケイの瞳に映り込んだ。「生きて、いる。生きてます。ケイ卿。死なないでください。どうか……」

 何かに縋るようにイリーナは言っていた。ケイは眼を細める。「否。私の命はもうすぐ終わる。もう幾ばくも生きてはいられまい」「そんな……」イリーナの声はか細かった。

 彼女の傍にはラナがおり、アルマがいた。アルマはケイの傍に跪き、薬瓶を取り出した。ケイは手振りでそれを拒んだ。アルマは溜め息を吐き、懐に薬を仕舞って、彼に問うた。「何があった、ケイ。答えてくれ」

 ケイは苦しげに息を吐く。だがその言葉は、未だ明瞭だった。「亡者の大軍が攻め寄せ、民を、東の洞窟へ逃がした。町を襲ったのは、黒蝶の妖精……『巫女』と呼ばれていた存在。彼奴はその少女を……ラナを……探している様子であった」

「私、を……」ラナは慄いたように手をこわ張らせる。ケイは僅か哀れみを眼に浮かべ、言葉を続ける。「気を付けよ。その少女を、彼奴らの思惑通りにさせてはならない……」

 言い終え、ケイは血を吐いた。濁り始めた眼を動かす。悲愴なイリーナの顔が彼の眼には映った。「イリーナ、殿……」もはや息も絶え絶えに、しかし余力を振り絞って、その言葉は紡がれた。「王女に、逢えたか……」

 イリーナは眼を見開いた。そして、震える唇で彼女は答える。「ええ……逢えました。あなたの、導きがあって……。しかし……」ケイの手を握り込み、力強き声でイリーナは言う。「まだ、終われません。私は、冥界の闇を打ち掃います。必ず……」

 ケイの瞳は虚ろだった。「……そう、か。これで、私も……」「行くのですか。あなたも、この闇の中に囚われて……!」抑え切れずイリーナは由なき問いを零していた。ケイの口許に、笑みが浮かぶ。「否……。私は、楽園へ往く」楽園。その言葉に何を思うか。イリーナはケイの穏やかな表情を見る。

 空には闇が満ち始めていた。冥界の闇だ。「私には、思えるのだ。人が死して辿り着く場所は、このような暗く冷たき世界だけなのかと……」彼の言葉は、祈りのようだった。かつて在った時に、彼は思いを馳せる。

 死にゆく王の言葉を聞いた。民を守れと、ただそれだけの言葉を。聞き届けると王は、安らかな顔で眠りに着いた。

 ケイは、それが忘れられぬ。己が、かの王を……クレスを、救ったのだ。それがために、己は今日まで生き続けたのだ。

 天が闇に閉ざされゆく。地に差す光が細くなりゆく。ケイはその光を見つめる。

「我が王は……このような場所にはおられぬだろう。温かな光に包まれ、苦しみもなく、永遠に続く楽園に、眠っていてほしいと……。私は、そう願ったのだ」

 この声は微かな囁きだった。もはや聞こえているのかも己にはわからぬ。

 あるいは。我が魂も、冥界を彷徨う亡者となっていたのだろう。生者を喰らう獣となり、守るはずだった民を、殺していたやもしれぬ。この想念を抱えたまま死したならば。

 だが……。「そなたたちが、来た。闇を、掃うと言ってくれた。私は……往ける。あの方の元に……。我が意思を継ぐならば……、どうか、見送ってくれ……我が、友よ……」

 闇が満ちる。その身を包む光が消えゆく。天から差す光は細い糸のようだった。ケイはもはや事切れていた。その最期の光が消え、ようやく、イリーナは彼の死を悟った。

 すぐ、蹄の音が聞こえる。何者か。死したこの町に、訪ねる者は……。「……間に合わなんだか」イリーナは面を上げた。そこにいたのは、鍛冶師であった。白馬の背を降り、大斧を背負った老人は、騎士の骸に近づく。

「アダマス殿……なぜ、ここに」イリーナは問う。「こやつの馬は鞍に誰も乗せず、儂の小屋を訪ねてきたのだ。只事ではないと悟りその背を借りて駆け付けたが……」骸の傍に跪き、アダマスは目元に深く皺を寄せた。

「遅かった……遅すぎたのやもしれぬ。儂はもはやこの国を、民を救う資格を失ったと、そう思うておった……」ならばなぜ、己は亡者と化してまでこの地に留まっていたのか。消えることも、理性を手放して血肉を求め、現世に受肉することも敵わず。己の世界は、もはやこの地にしかなかった。遠き祖である妖精の力を借り、鉄を打ち勇者に託すことで己をこの地に留め置かんとした。それのみが己の為せる業だと。なんと浅ましき思いか。

「儂が玉座を譲った……思えば、その時よりおぬしらを滅びの命運に巻き込んでいたのやもしれぬ。赦せ、ケイ。赦せ、クレス……」彼にしか聞こえぬ懺悔をアダマスは繰り返し、ケイの骸を抱え上げた。「どこへ……」イリーナの問いにアダマスは振り返らず答える。「せめて、丘へ。この町を見降ろす丘へと。この儂に、弔わせてくれ」


 ケイの骸は丘上の土に埋められ、その槍は墓標となって突き立った。一人の騎士の死を忘却せぬため、英雄の碑として刻まれた標だ。いつかこの地に光が戻ったとて、その栄光が霞むことはないだろう。

「町の人間は東の洞窟に逃れているはずだ。あたしたちもそこへ向かおう」アルマは皆に確認する。皆と共にアダマスは頷いていた。「儂も行こう。それが儂に残された責務だ」これを拒む者は当然いなかった。皆、各々の理由を持ち戦うのみだ。

 しかし、イリーナは問う。「洞窟へ……、その先は、どうすべきなのでしょう。荒れた町に戻るか、洞窟に潜み続けるか。いずれも危うい選択です」無論、他にも道はあろう。人々を見捨てて動くか、現世に彼らを送り、放浪の民として生き延びさせるか。いずれもイリーナには選べぬ選択であった。

「ひとつ、考えがある」アルマはやや曖昧な表情で頷いた。「うまく事が運ぶかはわからないが……」「流石です、アルマさん。ぜひ知恵をお貸しください」イリーナの反応は無邪気だった。アルマは咳払いをする。その後に続く言葉は、どこか独白のようでもあった。「これはケイにも伝えていたことだ。あいつもそれを期して、人々を逃がしたんだろう」

 それは胸に傷を負った彼に薬を施し初めに目覚めたときのことだ。微睡みのような短い覚醒であった。彼の命数は既に尽きていた。魔女の薬はそれを僅かに留めたに過ぎない。彼と言葉を交わす機会とて、殆ど残されてはいなかった。伝えるべきことを伝えたのだ、と彼女は思う。そしてアルマは、皆に告げた。

「東の山脈には妖精の森がある。……恐らくそこが、最後の安全圏だ」

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