深き闇
屋敷の作戦室にてケイは兵士からの報告を受ける。そしてにわかに眼を眇めた。「大軍だと……」しかり、亡者の大軍が攻め寄せているとその兵士は告げてきた。敵はそれ程の余力を残していたか。あるいは……。(恐れていた事態が起きたか)その可能性をケイは考えなかったではない。今まで生者の町を襲うのは冥界の内の一勢力に過ぎなかった。他の勢力がそこに加わらぬ保障など初めからなかったのだ。
「北壁はもはや持ち堪えられず……」報告する兵士は声を震わせる。苛烈な戦続きに兵が摩耗せぬはずもない。いかなる鍛錬を積んだとて生身の人間であればいつしか底は見える。イリーナが残っていれば何かが変わったか。否、彼女が滅びゆくこの町の運命に付き合う道理などなかった。(ここが引き際か)ケイは頷き、下知をくだした。「よく尽力した。兵は撤退し、町の住民を東の洞窟まで避難させよ。後は私が前線にて敵勢を喰い止める」
兵士は顔を上げ何事か言おうとする。だが、ケイの眼を見て言葉を飲んだ。「承知いたしました、我らが騎士殿」兵士は告げ、そのままに部屋を去る。部屋の隅に立つ使用人は無言で俯いていた。「ハリエット、今日までよく仕えてくれた」ケイは彼女の方を見やる。「だが、そなたは元より私の侍従ではない、いい加減に私を閣下と呼ぶのもやめることだ。私はこの町の君主になどなり得ぬのだから」
この使用人は元は宮廷に仕える身であり、ケイと近しい身分であった。だがケイが民を率いて町を築いたその時より彼を新たな君主と定めた。かつて陛下と仰いだ王とは違えどそのような騎士に仕えることこそ彼女の喜びであった。されどその思いは相容れぬのだ。自ら戦場に立ち、王の最期を見た騎士である彼の思いは誰にも量り知れぬものであった。
「せめて鎧の着付けを手伝わせてください。あなたを矢と剣から遠ざけるための守りを」使用人の言葉にケイは頷き、武装を始めた。戦に赴くための礼服めいた鎧。鍛冶師の手より託された騎士の象徴。神聖な儀式のようにケイはその鎧を身に纏った。暫し閉じた眼を開いたとき、彼の心は既に戦場にあった。「往くぞ。もはや何人にも王の民は侵させぬ」
もはや両者に間合いはない。イリーナとオフィーリアは互いに見据えている。閃光が真直ぐと伸び剣と剣が合わさって交差した。霜張りの床が鉄靴に砕け剣気の余波を喰らい、白い蒸気を燻らせる。剣と剣が競り合い、震える鋼の音とともに火花が断続的に散った。
イリーナは両腕に渾身の力を篭め歯を食い縛る。オフィーリアの魔力、膂力は竜の血を引くがゆえのもの。生まれから生物としての格が異なる。アーズブルグにおいて違いなく最強の騎士の一角。力比べでは埒が明かぬと、イリーナは足を蹴り払おうとした。それを読んだようにオフィーリアは後方へと避ける。動きがやや鈍い。勝機は僅かだが、ある。
イリーナは続けざまに剣閃を放つもそれをいなされる。「小癪」囁きのような声。その先に待つのは怒涛の反撃であった。一度や二度では利かぬ。オフィーリアは無限のような剣の波濤を絶え間なく放ち続けた。その一振りが命に到りかねない。目にも追えぬ殺気をイリーナは極度の集中で感じ取り、一歩ずつ剣を受けながら後退し、隙が生ずる時を待つ。
オフィーリアとて疲弊している。その力とて真に無限ではない。魔法剣を封じていることこそその証左。しかして一向に隙は見えぬ。魔法などに頼らずともオフィーリアの剣は流麗であり淀みがなかった。イリーナは徐々にその剣に追い詰められる。力の差は歴然。やはりこの者は己の知るオフィーリアである。……密かにイリーナは歓びを抱いていた。殺されるやもしれないというのに馬鹿馬鹿しくて仕方がなかった。なぜこのような場所で王女と戦っているのか。かつての己はこのようなことを望まなかったはずだ。だが、今はどのような手段であれ、王女の存在を感じられることが無性に嬉しかった。
その迸る感情が彼女を後押ししたのか。イリーナは正面から剣を受けた。再度の鍔迫り合いへと持ち込んだ。オフィーリアの力に衰えがある。彼女はイリーナの剣を受け流して後退し、構え直そうとする。その隙にイリーナは全霊の突きを出す。押し切れる。それで、どうなる。殺すのか。王女を……。その迷いすら、徒となろう。切っ先はすでに放たれた。……それを待っていたように、オフィーリアは剣を横に構えた。
この隙は敢えて作り出したもの。疲弊しているのは事実、ゆえに必殺を期すべく僅かな隙を見せ相手の隙を誘き出した。その首を斬り裂かんと剣を薙ぐ。だがイリーナの勢いはわずかに勝る。剣を振り抜くより速く突きが迫る。相討ちすら覚悟のうちか。イリーナは恐れず、オフィーリアの胸に飛び込んできた。久しき恋人との再会のように。
オフィーリアは踵を打ち、後方に跳んでいた。静止したようなその一瞬。渾身の刺突を外したイリーナは勢いの余り転倒した。空中で重なる二人の騎士の影は、空に戯れる鳥のようだった。どちらも眼を瞠り、驚きを隠せぬ顔をしていた。鎧と鎧がぶつかり会う衝撃。気づけばオフィーリアは押し倒され、イリーナの剣が喉元の手前で静止していた。首筋に小さな傷が付いている。浮かび上がった血の玉は細い糸となり流れ落ちた。二人は互いを見つめ合う。「あ……。私の、勝ちです」息を切らしながら、イリーナはそう宣言した。
初めて王女に勝った。込み上がるその歓喜は、しかし、直ぐに悲哀となってイリーナの瞳から零れだす。「どうか教えてください、王女。なぜ、私のもとを去ったのです。なぜ、冥界にくだったのです」胸の内で、幾度も繰り返してきた問い。答えなど、わかり得ぬのかもしれない。それでも問わずにはいられなかった。
「……では、問おう」王女の瞳は夜のように昏かった。「なぜ、私を救おうとした。私はクロムウェル家を……。おまえの故郷を滅びに導いた女だ。イリーナ」告解にイリーナの口元が固く結ばれる。「おまえはなぜここにいる。ここはおまえには縁なき場所。私は、知っている。この闇を。冥界に広がるこの忌々しき闇を」オフィーリアの声が広間の壁に響き渡る。二人の騎士を、少女ラナは遠く見守っていた。
「私がまだ幼き頃に、母上が亡くなられた。父上はそのことを嘆かれた。情深きあの方は母上を甦らせる方法を探し始めた。幼い私もそれを望んでいたはずだ。もう一度、母上に逢いたいと。長い年月が過ぎ、その願いは叶わぬものだと私は知った。死した人間が甦ることはない。王家に残された唯一の後継として、戦いの道を志した時点でその現実を受け容れた。だが、父上は変わらなかった。いつしかあの方は、神に縋るようになっていた。辺境国に興り滅んだと伝わる古代宗教に祀られた、この世ならぬ冥界の神。その力ならば死した人間を甦らせられると。父上は現世に冥界の神を呼び降ろさんとして祈り続けた。その父上の背を私はただ見守るしかなかった。そしてついに父上は降神を成した。現世に通じぬはずの門が玉座に現れ、扉を開いた。私はその悍ましき闇を目にした。気が付けば私はその闇の中にいた。果ても見えない深き闇の世界に落ち、独り、取り残された……」
それはかつてイリーナが知り得なかったオフィーリアの失踪、その真実であった。まだ彼女たちが少女であった時代。騎士として名を馳せぬ頃。姿を消したオフィーリアを思いイリーナは嘆き悲しんでいた。その時期のことはよく覚えている。だが事件のあらましはついぞ知らぬままであった。それは彼女が戻り、共に戦うようになってからも同じだった。その口から何が起きたのかを語ることなく王への叛逆を説いた。イリーナは、知ることを恐れたのだろうか。あの時、再び姿を見せたオフィーリアの纏う空気は、かつてと何処か異なるものだった。何かが彼女を変えてしまった。今となれば、その頃から……。しかし、イリーナはその予感を認めようとはしなかった。友との再会を疑いたくはなかったのだ。(なんて、愚かな。今更になって知ることになるなんて)イリーナは己を責める。そしてオフィーリアの話に静かに耳を傾けた。
「そこには父上も、臣下も、イリーナ……おまえの姿もなかった。私は孤独だった。誰も私を助けに来ることはなかった。闇の底で出会うのは私を捕らえようとする亡者ばかり。あのときの絶望は誰にもわかり得ぬだろう。だが騎士としての精神が私を辛うじて正気に繋ぎ止めてくれた。この闇の先に出口があるはずだと、そう信じ私は襲い来る亡者たちを討ち取りながら闇の世界を彷徨い続けた……。やがて、私の前に眩いばかりの光が見えた。ようやく元の世界に戻れるのだ。元の日々に帰れるのだと疑わず私は光の中に飛び込んだ。そして戻った現世では、すでに幾年の月日が流れていた。どことも知れない山中に現れた私は旅を経て宮殿に戻ったが、父上はすでに正気を失い、私の存在を忘れ去っていた……。
私はただ一人の騎士として、暴君となった父上に仕えた。あの方の娘と認めさせるため武功を上げ続けた。しかしこの願いが叶うことはなかった。父上は私を後継とは認めない。己こそ唯一の王なのだと宣っていた。私は父上を憎んだ。憎くて、憎くて堪らなかった。なぜ私をお認めにならないのか。なぜ、忘れ去ったのか。あれほど手を伸ばし続けた母上のことすら……。父上への叛逆を誓った私は王宮を去り、クロムウェル家へと足を運んだ。すべては、私の憎悪を晴らすためだ。正義などなかった。私は、私が王の娘として玉座を奪うためにクロムウェルを巻き込み、叛旗を翻したのだ。
あの日、私は王に決戦を挑んだ。憎悪のまま王に立ち向かった。そしてこの剣を交えたとき私は思い知った。あの方が内に秘めた、深く暗き闇を。あれは、私の知る闇だった。父上はあの深淵の世に満ちる大いなる力に囚われていた。再び門を開き、私を取り戻そうとしたのか。愚かな。愚かなことだ。それこそ神の思惑だっただろうに。その因果によりこの世界に多くの戦、憎悪、死が齎された。私もその内の一人だった。幼い憎しみのまま多くの人々を巻き込み王に叛逆した。その末にすべてを悟った。己の矮小さと、逆らえぬ神の意思を。その前に私は膝を屈し、王に捕らえられた。そして処刑台に上げられた私は垣間見たのだ。王が手ずからその剣で首を斬り落とそうとする間際に、あの方の内に眠る、終の理性の光が瞳に戻っているのを。その瞬間、あの方の手は止まっていた。己の所業に困惑しているようにさえ見えた。……そのときだ。イリーナ。おまえが処刑台に乗り込み、あの方を撲殺したのは」
首筋から刃が離れる。イリーナは立ち上がった。眼の前の王女から遠ざかるよう。その手から剣が落ち、空しい音が天井に鳴り響いた。「……そんな」心臓の音が騒ぐ。空気は冷たいはずだが、喉はやけに乾いていた。「そんな、嘘です、オフィーリア様」
オフィーリアは立ち、イリーナを見据える。「父上は悪逆を為した。おまえに殺されたのは、応報というもの。だが。ならば、私はどうなる。なぜ父上が死に私が生きている。イリーナ。私は、父上を赦したかった。誰が赦さずとも、私だけがあの方の為したことを赦すことができた。愚かな王だったが、死してまでこのような暗き闇に囚われるいわれはどのような人間にもありはしないはず。あの方の魂は未だ深き闇の底にある。暗黒山脈の閉ざされし門。儀式を遂げた者にのみ、その扉は開かれる。冥界の神の巫女はそのように語った。私は、行かなければならない。すべての闇の妖精を殺し、王を救い出す。それはあの方と同じ竜の血を引く私にしか為せないことだ」
オフィーリアの剣が再びイリーナに向けられる。オフィーリアの瞳は病んだ闘志の火を燻らせていた。かつての面影を失った王女を前に、イリーナはたじろいだ。「認めよう。おまえは私に勝った。だが、まだ終わっていない。私は未だ、剣をこの手に持っている。王を甦らせんとする私の業をおまえは許すまい。戦え、戦えイリーナ。私は止まらない。殺さぬ限りは止まらないぞ。その手に剣を持て、私を殺せ、イリーナッ!」
「それでも、私は……!」イリーナはその手を己の胸に当て、己に問いかけ、答えるように叫んでいた。「私はただ、あなたに生きていてほしかった……それだけだったのに!」「イリーナ、おまえは……!」オフィーリアの瞳孔が開く。その剣を掲げ駆けようとした、その間際に、一鳴きの鷲の声が聴こえた。
イリーナには覚えがある。ヒッポグリフの鳴き声だ。ラナは不思議そうに天井を見上げる。そこに、何か途轍もない存在を感じ取ったかのように。「……何、これ」その傍から魔女アルマが前に進み出て、二人の騎士に呼びかけた。「痴話喧嘩はそこまでにしとけ、二人とも」オフィーリアは彼女を見て眼を眇める。だが、すでにその足は止まっていた。己には無視できぬ感覚を、肌に感じたからだ。アルマは緊張した面持ちのまま言葉を続けた。「すぐにここを離れるべきだ。……でかいのが来るぞ」
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