第40話 remedy

朝起きた途端、体温計を手渡された。


佳織がすごい剣幕で迫って来たので、素直に従った。


差し出した体温計を見た佳織が、寝室を指差して、今日は一日ベッドから出ない事、大人しく寝てなさい!と宣言して、そのまま一人寝室に逆戻りさせられてから10分。


薬を手に入って来た佳織が、大人しくベッドに収まっている紘平を確認して、よしよしと頷いた。


どうせベッドから出ないなら、一人ではなく二人で籠りたい。


せっかくの休日で、展示会も無事に終わってやっとまともな連休を手に入れたのに、何が悲しくて一人寝しなきゃならんのか・・


確かに昨日は朝から微熱が続いていて、体調もあまりよくなかった。


余計な心配を掛けたくなくて、佳織には黙っていたのだが、出かける前に佳織を抱き寄せた時に、体温が高い事に気付かれてしまった。


気のせいだと誤魔化そうとした時には、佳織の掌が額にあった。


仕事は休めないし、夜に控えている展示会の打ち上げは欠席するわけにいかない。


同じ社内で働いている以上、佳織もその状況はよく理解していてた。


無理しない事、飲み過ぎない事、二次会には参加しない事を約束させられて、出勤した。


文句を言ってくれる方がまだ有り難い。


佳織が心配そうな顔をすると、こちらまで落ち着かない気分になる。


そうさせた原因が自分にあるので、文句も言えない。


大丈夫だから、と笑って見せたが、佳織の表情は変わらなかった。


入社当時からお互いを嫌というほど見て来たので、多少の無理は許容範囲内としている事も悲しいほどにばれている。


格好つけるわけじゃないけれど、嘘でも平気な振りをして見せたかった。


そうできない位に、具合が良くなかったのだと今になって分かる。


職場では同僚だから、と綺麗に線引きをしている妻は、自分から紘平の元にやって来ることは殆どない。


一服ついでに寄り道をして、佳織の顔を見に行くのが紘平の日課になっていた。


そんな佳織が、昼休みになると同時にやって来て、解熱剤と栄養ドリンクとペットボトルを押し付けて行った。


いつもなら側に来た佳織をただ眺めているような事はしないのに、自分から手を伸ばさなかったのは、これ以上心配を掛けたくなかったからだ。


それなのに、聡い佳織は気付いた。


無言で伸ばした手で紘平の指先を握って、途端眉根を寄せた。


朝よりも熱が上がっている事は気付いていた。


「大丈夫だ」


午後からの会議もあるし、部下に預けている資料作成の進捗確認もしなくてはならない。


商品部への出荷依頼と、工程管理との打ち合わせ、メール確認に、部内ミーティング、上司への展示会報告の作成。


体調不良より先に考えることが山積みだ。


寝込んでいるわけにも、倒れるわけにもいかない。


超強力な栄養ドリンクの瓶を掴んで、佳織に助かった、と告げる。


食欲が無かったので、おにぎり一個で済ませた身体はあと半日持つ自信が無かった。


「帰りはタクシー使ってよ」


この状況でも、打ち上げへ参加するつもりでいる紘平を、よくよく理解した台詞に流石だなと感心した。


佳織が万一泣いて止めたら考えるかもしれないが、残念ながら佳織は簡単に泣くような女ではない。


それに、こういう状況で泣き落としを上手く使える程、器用でもない。


佳織の大親友の亜季も同じだろう。


こういう場合、ポロポロ泣いてもう帰って休んで、と縋るのは直純の可愛い細君位のもんだ。


きっと暮羽なら朝から出勤させていない。


直純は、真綿で包んで、その上からさらに羽毛布団で覆う程に暮羽の事を溺愛している。


その、ただただ可愛い妻が泣いたら、二つ返事で頷いて休暇を取っただろう。


最悪出勤しても、打ち上げは上手く断ったかもしれない。


だが、紘平が好きになったのはそういう女ではなかった。


どうせ止めたって行くんでしょ、とその顔に書いてある。


逆のことをされたら力技を使ってでも全力で止める。


今はただ、身勝手を謝る事しか出来ない。


「ごめんな」


「謝るくらいなら帰る?」


「まさか」


「分かってるわよ・・・薬ちゃんと飲んでね。今日はコーヒーやめておきなさいよ。水分ちゃんと取らなきゃ。


分かってると思うけど、いつもみたいに飲まないでよ?


夜に具合悪くなったら連絡・・・なによ」


「いや・・・佳織が佳織で良かったなと思って」


「・・は?・・やだ、本気で熱上がってるんじゃないの?」


心配そうに伸ばした手を捕まえて、頬に押し当てる。


「熱はあるけど、死にゃしねぇよ・・大したこと無い」


「あんたは大抵なんでもそう言っちゃうのよ・・ほんっとに」


溜息を零してこちらを見下ろす佳織に、強がって微笑んで、早く帰ると約束したのが昨日の昼の事だった。


「なに平気な顔で起きて来てるのよ、あんなにぐったりしてた癖に・・・」


「悪かったよ・・」


約束通り乾杯のビールは口を付けるだけで、その後も常に会場内を歩き回って、挨拶を交わしては席を離れるを繰り返し、殆ど酒は飲まなかった。


一次会が終わると同時に、上手い事抜けてタクシーで帰宅した。


佳織との約束はきちんと守った。


のに、どうしてこうも不機嫌そうなのか。


紘平の帰宅を待ち構えていた佳織は、シャワーを終えて寝室に紘平が戻るまで起きて待っていた。


ベッドの横になると同時にどっと押し寄せる疲労感と脱力感で、目を開けているのもやっとの状態だった。


起き上がった佳織が、紘平の肩を撫でて明日は休養日にする事、と言って・・・


ああ、一日寝て過ごすと答えたのか・・


漸く佳織の眉間の皺の原因が分かった。


「寒くない?」


「うん」


「気分も?」


「悪くない」


「何か食べれる?」


「いやー・・腹減ってねぇな」


「じゃあ、ゼリーで薬ね」


経口タイプのゼリーを佳織から受け取って大人しく口にする。


何とも味気ないゼリーだが、健康補助食品だからこんなもんかと納得させる。


それに熱のせいか、味覚がぼんやりとしていた。


昨夜飲んだ薬はすでに効果が切れているだろうし、じわじわと来る怠さは発熱時特有のものだ。


「言っとくけど、ちょっと寝たら元気に活動しようなんて思わないでよ?


この週末は外出禁止、仕事してもいいけど熱下がってからよ。


ノートパソコンこっちに持って来るから」


「俺を寝かせときたいなら、お前が見張ってろよ」


「・・なによ・・・傍に居て欲しいなら、ちゃんとそう言いなさいよね」


佳織が意地悪く微笑んで空になったゼリーのパックを受け取った。


「子供みたいに意地張っちゃって、こういう時は、素直に甘えるのがいいのよ。家族の前で強がったって意味ないでしょー」


ベッドで少しだけ身体を起こしている紘平と、ベッド横に立っている佳織では身長差が逆転する。


久しぶりに見下ろされて、その上まるで子供に言うように窘められた。


それでも、馬鹿みたいでも強がるし格好つけるよ。


・・俺が一番いい格好したいのなんて、お前の前に決まってるだろ・・


でも、こんな風に佳織が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるなら、ベッドに籠るのも悪くない。


「・・ああ、そうだな」


素直に頷いた紘平を見下ろす佳織の目が、大きく開かれる。


こんなに従順な紘平は初めてだからだろう。


子ども扱いされて甘やかされるのは嬉しくないが、夫として妻に甘やかされるのは大歓迎だ。


いくらでも甘やかされたい。


佳織が紘平の布団を引き上げる。


柔らかい眼差しが、ただただ慈愛に満ちている。


こういう表情はたぶん結婚しないと見られなかった。


怠い手を持ち上げて佳織の腕を掴む。


「ちゃんと眠って・・・!?っちょ!」


そのまま引き寄せて、佳織の身体をベッドの上に抱き上げた。


少し端に移動して、佳織を布団の中に引っ張り込む。


背中に回した掌で触れた肌がひんやりとしている。


やっぱり熱が高いんだな・・それでも、これ位なら出来るけど。


「今日は、一日ベッドで過ごすことにする、お前と」


「・・は?」


「俺がちゃんと休むか心配なら、ずっと隣にいればいいだろ?


それとも、俺の事置いて出かけるのか?」


「・・そんな事はしないけど・・」


「じゃあ、いいよな」


確認しておきながら、離すつもり何て毛頭もない。


しっかり抱き込んで足を絡めると、佳織が身体を固くした。


さすがにここで佳織を組み敷ける程の体力は残っていない。


だから、抱きしめて眠るのが精一杯だ。


「ちゃんと寝てよ・・・眠るまで隣に居てあげるから」


「・・分かってる・・寝るよ・・俺が寝たら離れてもいいけど、起きたら佳織の事呼ぶからな」


自分でも言いながら子供みたいだなと思った。


けれど、いまの自分は病人だ。


多少の我儘は通して然り、と納得する。


「はいはい・・・ドアは開けておくからいつでも呼んで」


クスクス笑った佳織が、紘平の頭を撫でた。


これは本格的に子ども扱いされている。


繰り返し硬い髪を撫でる佳織の指が優しくて、少しずつ瞼が重たくなって来た。


真横から聞こえる心音と静かな吐息に、自然と体の力が抜けていく。


小さく笑った佳織が、少し起き上がって紘平の頬にキスをした。


「早く元気になりますように」


「・・うん・・・なあ、佳織」


「なに?」


「俺が全快したら、覚えとけよ」


「え・・?なに、それどういう意味よ」


「さー・・どういう意味だろうな・・俺が寝てる間位に考えて」


今度こそゆっくり瞼を閉じる。


佳織の指先を額に感じたのが最後の記憶だった。

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