第41話 ふたり時間
「それじゃあ、お疲れさまでした!」
「遅くまでお疲れ様。みんな気を付けて帰ってね」
「はい!佳織さんも、頑張ってくださいね!」
「・・お気遣いどうも」
タクシー乗り場の前で、同僚や後輩に見送られながら、泥酔状態の紘平を後部座席に押し込んで、笑顔で手を振る。
もう何度も繰り返してきた光景だ。
運転手にマンションの名前を告げて、腕時計を確かめると、23時を回っていた。
明日も仕事だっていうのに・・ほんっとに酒好き・・・
溜め息を吐いて、下したままの髪をかき上げる。
街灯と対向車線を走る車のヘッドライトだけが照らす車内で、スマホを操作する爪の艶めきに、少しだけ疲れが取れた。
週末にサロンに行って良かった。
しんどい時ほどちゃんとしようと思うようになったのは、後輩が出来てからだ。
自分が疲れた表情をすれば、後輩たちもだらける。
先輩が怠そうなら、私たちもいいや、そう思われない為に、常に自分を律して背筋を伸ばしてきた。
化粧直しをしてからもう5時間程経っている。
すでにアイメイクはヨレているし、グロスも取れてしまった。
それでも、ジェルコーティングされた爪だけは、ツヤツヤと光っている。
自分の中の一部でも、きちんとした箇所を見つけられると気分がしゃんとする。
樋口の妻として、今日も出来る限りの事はしたつもりだ。
酔いつぶれて帰宅困難なメンバーがいないか確かめて、最寄り駅を確認して、女子社員は極力タクシーに乗せる。
全員が安全に帰れるところまで持って行って、そこから紘平の世話だ。
とはいっても、酔いつぶれる事はあっても、具合を悪くすることは無いので、その点は気が楽だった。
年に数回、こうして酔うまで飲むことがある。
大抵大きな案件が終わった時か、仕事で手痛い仕打ちを受けた時。
どんな時でも樋口紘平の仮面を剥がさない彼が、佳織を呼んだ時だけは、表情を緩める。
甘えられているのだと実感するのはこういう時だ。
国際部の相良と並んで、営業の出世頭と呼ばれている紘平の仕事ぶりは、部署を問わず聞こえて来る。
抱える得意先も大きなものばかりだし、新店出店時には必ずリサーチチームに召集される。
彼の持つ営業力と、企画力は、役員クラスにまで知れ渡っており、定例会議への呼び出しは増えるばかりだ。
ワンマンで自信に溢れる、まさに営業の鑑のようなこの男が、唯一甘えられる相手、それが自分なのだと思うと、佳織は責任の大きさに冷や汗が出る。
樋口紘平の妻は、楽じゃない。
仕事も出来て、常に自信に溢れた紘平が、自分の判断に迷う事があるとすれば、それは佳織の事なのだ。
恋愛のいざこざでモチベーションが下がるような男じゃない事を知っているけれど、結婚して生活を共にする今ならわかる。
些細な口喧嘩をした日の、紘平の仕事が雑になる事を。
メールのレスを忘れたり、アポ時間を間違えたりと、凡ミスが増えるのだ。
それを情報通の亜季から聞かされた時には、まさかと思ったけれど、今なら納得できる。
馬鹿みたいに、私の事だけが好きなのよね・・あんたは・・
それを今は重々感じているし、重たすぎる愛情で四方を囲まれている事を毎日実感しているから、だから、たまにはこういうのもアリかなって思うのよ・・・たまには、ね。
よく女の子が理想の男性像を訊かれて
”守ってくれる人”
と何とも漠然とした答えを口にするが、実際のところ、日常生活で、命の危険を感じるような事はまずないし、天変地異はどうしようもない。
一体何から守ってくれる人が本当の理想なのだろうと、女子会の最中に幾度となく思ったりもした。
でも、今なら分かる。
”佳織・・・俺は、お前が選んだ答えなら、何があっても全力で、正解にしてやる”
紘平が、佳織に言ったあの言葉が、全てだ。
自分が必死に悩んで、足掻いて、これだと見つけた答えを、一緒になって抱えてくれる人。
それが、佳織にとっての守ってくれる人で、あり、樋口紘平だった。
佳織が、紘平から言われた言葉の中で、一番嬉しかった言葉でもあり、この人に愛されたいと、強く思わせてくれた言葉でもある。
”だから、お前が次にどの答えを差し出しても、俺は絶対に逃がしてやらない。安心しとけ”
迷うたび、不安になるたび、いつも佳織はこの言葉を思い出す。
それだけで、強くなれる気がする。
紘平の見えない腕で守って貰える気がする。
あまりにも乙女思考過ぎて、亜季にすら言えないけれど。
だから、紘平が精一杯営業マンをやっている限りは、側で支えていこうと決めたのだ。
それが、樋口佳織に出来る、唯一の愛情返しだから。
営業部がよく利用する居酒屋は、大通りから少し離れた場所にある隠れ家風の店だ。
賑やかな歓楽街の喧騒から、一本通りを挟んだだけでぐっと雰囲気が変わる。
一次会は騒ぐことメインなので、二時間制の店で済ませる事が多いが、二次会からは、ゆったりとした半個室で飲むことが多い。
佳織が呼ばれるのは大抵二次会で、それも酔っぱらった紘平からの電話で呼び出される。
着信を無視し続けると、とんでもない不在着信が残るので、早々に諦めて顔を出すほうが得策だ。
亜季には申し訳なかったけれど、ごめんねとSNSを送ったら、慣れっこよ、とスタンプ付きのメッセージが返って来た。
気の置けない親友というのは本当にありがたい。
佳織と紘平の馴れ初めから知る数少ない人物なので、紘平の執着も、佳織の葛藤も何もかも分かってくれている、大切な存在だ。
亜季への謝罪も終わったし、後はマンションのエントランスから重たい紘平の身体を引きずって部屋まで帰るだけ。
スマホをカバンに戻して、一息つくと、ドアにもたれていた紘平が、うっすらと目を開けた。
「・・・佳織・・」
短く名前を呼ばれて、振り向いた途端、紘平の身体が倒れ込んで来た。
あっという間に膝に頭が着地する。
当然のように膝を抱え込んだ紘平が、再び目を閉じた。
途中から本当は起きていたのかもしれない。
佳織が来たから、酔ったふりをしていただけで、実際にはそれほど飲んでいない可能性もある。
どっちにしても、本人がこれでは確かめようもない。
「はいはい、家に着いたら起こすわね」
膝の上に載せられた紘平の頭を母親がするように優しく撫でる。
さっきまで一緒だった紘平の同僚たちには見せられない姿だ。
強気で有名な佳織を掌で転がして、常に余裕たっぷりの樋口紘平を誰もが想像するだろうが、佳織と二人きりの時の紘平は、暇さえあれば佳織に触れたがるし、構いたがる。
意外と子供っぽい一面もあるのだ。
その癖、佳織が珍しく素直になると、とことん付け込んで普段は言わせないような言葉を引き出してくる。
天邪鬼はお互い様だ。
「寝てねぇよ」
僅かに頭を上げた紘平が、ストッキングの上から膝頭にキスをした。
タイトスカートを履いてきたことを今更後悔しても遅い。
「あ、馬鹿っ」
するすると膝裏に伸びた手が、甘えるようにふくらはぎを撫でる。
「寝ぼけてるなら殴るわよ?」
「起きてる」
しれっと言って、紘平が反対の膝頭にもキスをした。
「尚更悪いっ!」
ペシンと肩を叩く。
ここが自宅だったら遠慮なく頬を狙っていたところだ。
たまに甘えるなら、それ位は・・と思ったのが甘かった。
酒の回った暖かい掌がふくらはぎを行き来して、膝裏から内腿に滑り込んだ。
硬い指の腹が、柔らかい太ももの上を踊る。
「こ・・紘平っ」
本気で困惑した声を上げたら、紘平が顔を上げて佳織を見上げた。
ああ、半分は酔ってるんだわ・・・
だって視線が甘ったるい。
「やっと呼んだ」
「え?」
「お前、来てからこっち、ずっと俺の事、樋口って呼んでただろ?」
「・・え、それは・・だって」
樋口がお世話になっております、という定番の挨拶と共に登場した佳織は、終始、樋口妻としてあの二次会に参加していた。
だから、夫の事は一度も名前で呼ばなかった。
それが、佳織なりのけじめでもあった。
「仕事場でも、そうじゃなくても、俺はお前には名前で呼ばれたいんだよ」
「あ・・はい」
なんだ、そんな事で拗ねていたのかと、唖然とする。
不貞腐れた紘平が、深々と溜息を吐いて、再び悪戯を再開した。
パンプスの踵を擽ってみたり、内腿のきわどい所をつついたりと、佳織を試すように仕掛けて来る。
暗がりのタクシーで運転手からは見えないとはいえ、ここは自宅ではない。
甘い戯れなんて赦されるはずもない。
それなりに亜季と飲んでから駆け付けたので、火が付くのは佳織もそうだ。
込み上げてくるあられもない声を飲み込んで、必死に抵抗する。
「っ・・・ちょ・・っとっ」
息を詰めて非難すれば、紘平がにやりと笑って身体を起こした。
佳織の肩を強引に抱き寄せて、耳元で囁く。
「膝の上に載せてやろっか?」
「・・・っ馬鹿!」
小声で言い返して、思い切り睨み付けるが、紘平の表情は相変わらず余裕たっぷりだ。
呼びつけた佳織に甲斐甲斐しく世話を焼かれて、上機嫌の彼の膝を強めに叩いておく。
「商談、通って良かったわね」
「ああ、企画段階から全員で練って挑んだ甲斐があったな」
ふたりきりの時位自分の手柄だと言い切ればいのに、こういう所が憎めないのだ。
「・・帰ったら、寝るまで膝枕してあげるわ」
佳織の提案に、紘平が目を細めて微笑んだ。
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