第39話 見えない、見せない

喫煙所で鉢合わせた同じ営業部門の男性社員が、煙草に火を付けながら、思い出したかのように紘平に言った。


「そういや、さっき奥さん見かけましたよ」


推進しているわけではないのだが、志堂は社内結婚が多い。


例にもれず、社内恋愛→結婚の流れに乗っかった(紆余曲折の末、乗っかる事に成功した)紘平は、まあ、同じ会社で働いているしな、と頷いた。


基本は総務部で書類仕事を裁いていることが多い佳織だが、決済関係の依頼で、別部署に顔を出すこともある。


工程管理所属の亜季のように、社内のほぼ全ての部署と連携を取るような事は無いが、そこそこ社内を歩き回るポジションだ。


「さっき廊下走ってるところを見たんです。樋口さんの奥さんって落ち着いたカッコイイ女性ってイメージだったから、ちょっと驚きました」


「そりゃ・・珍しいな」


何かあったのだろうか?


おっとりしたタイプではないが、滅多な事では走ったりしない佳織が、廊下を走るなんて、よほどの事態に違いない。


半分ほど残っていた煙草を灰皿に押し付けて、紘平はポケットからプライベート用のスマホを取り出した。


とくに着信やメッセージは無し。


という事は、身内関係になにかあったわけではないらしい。


この後は夕方から、もう一件アポイントが入っている。


出かける前に少し様子でも見に行くか。


「お疲れさん、ちょっと気になるから行ってみるわ」


紘平は、話しかけて来た男性社員に片手を上げると喫煙所を後にした。


結婚してからは、用事が無い限り総務部へは顔を出さないようにしている。


佳織が嫌がるからだ。


紘平としては、物凄く不本意だが、佳織から


”落ち着かないから、何もないなら来ないで。呼ばれたら、私が行くから”


と真顔で詰め寄られて、頷くしかなかった。


家庭円満の秘訣は、妻が夫より優位である事。


暇つぶしに立ち読みした雑誌に書いてあった言葉だ。


なかなかいい得て妙だと思う。


佳織の機嫌がすこぶる良いと、それだけで家の雰囲気が明るくなる。


逆に佳織が落ち込んだり、不機嫌だと、紘平の言動も常に慎重になる。


始まった時点で、佳織優位の関係だ。


紘平は佳織に嫌われることが何より怖い。


一度振られた過去があるので、尚更、怖い。


樋口夫妻は、紘平が勝気嫁の手綱を握っていると社内では有名だが、実際のところは違うと紘平は思っている。


ギリギリのところで、手綱を握らせて貰えているのだ。


佳織の甘えたい願望のおかげで。


出来る事なら、直純のところのように、何かしら理由を作っては妻の仕事場を訪れたい。


多少鬱陶しがられても、多忙を極める業務の癒しに、妻の存在は必要不可欠だ。


結婚してから常にデレデレな直純は、最近では特に理由もなく商品部に顔を出しているらしい。


営業部と商品部の切っても切れない縁を、最大限に有効活用した直純の手腕が、物凄く恨めしい。


紘平が佳織の元を訪れる理由と言えば、備品発注の書類提出や、至急手配の依頼の時位だ。


それも、基本は事務員が行うので紘平の出る幕はない。


最近はますます電子化が進んでいて、システム画面で何でも処理できてしまうので、さらに顔を見に行く機会は減っている。


家に帰れば嫌というほど見られるだろうと思われがちだが、仕事場での佳織の顔と、家での佳織の顔は、全く違う。


纏う雰囲気も、話口調も、何もかも。


社員用出入り口を通れば、佳織は樋口佳織と言う名の、ひとりの社会人になる。


社内の誰もが知る、カッコイイ総務のお局様だ。


部下の面倒も見ながら、仕事もこなしつつ、イレギュラー対応にも柔軟に対処する。


見た目とは裏腹に、捌けた性格なので、一度打ち解けた人間とは一気に仲良くなる。


だから書類仕事でもご指名を受けることが多い。


提出書類片手に、佳織と雑談をしに来る社員も少なくない。


同期で、社内一の情報通として知られている亜季とは親友同士で、入社当時から語り継がれるいくつもの武勇伝がある。


女子ロッカー室では、社内で困った事があればこの二人に相談すればよいなんてことまで言われているらしい。


そんな二人が食堂で顔を合わせる様子は”首脳会談”と呼ばれていた。


一筋縄ではいかない女傑を攻め落として、結婚まで漕ぎつけた紘平は、男性社員から英雄扱いされた。


もともと、直純、亜季を含めた同期4人でつるんでいたので、周りも何となく気配は感じていたようだが、紘平の福岡転勤に佳織が同行しなかった時点で、振られたという噂が立ち処に広まった為、誰もが予想しえなかったゴールインだったのだ。


この結婚をひけらかすつもりは無いが、胸は張りたい。


誰もが難攻不落と呼んだ、あの辻佳織を射止めたのだから。


何度聞いても心地よい”樋口さんの奥さん”のフレーズ。


当たり前のことだが、佳織を妻と紹介できるのは、この世で紘平ただ一人だけだ。


そんな些細な事が、物凄く誇らしい。


仕事でトラブルがあったのだとしたら、他の部署を駆け回っている可能性もあるが、まずは総務部で情報収集しようと決める。


喫煙所を出て、総務部の入っているフロアに向かうと、総務部のマドンナと称される川上友世を見つけた。


案の定佳織の席はもぬけの殻だ。


佳織の夫として認識されている紘平が、ひょっこり顔を出すと、すぐに友世が駆けて来た。


「樋口さん、お疲れ様です!佳織さん、今お席外しなんです」


心なしか慌てた様子で、いつもより早口で告げた友世に頷き返す。


「みたいだな、なんかトラブルでもあった?」


「実は、発注ミスが発覚して、その対応に追われてるんです」


「誤発注?それとも数量とか納期ミス?」


社内の事務用品から、備品、販促品までを一手に担う総務部には様々な注文依頼が入る。


「天神店の、オープン1周年記念のノベルティ発注の納期ミスで・・今日到着予定の商品が届かなくて・・夕方の宅急便で出荷予定だったんですけど」


「んで、佳織は何しに走り回ってんだ?」


「メーカー確認した所、納品予定の半分はすぐに出せるらしくて、受領証をFAXして貰ったので、その決済に走ってるんです。この後、決済終わったら、佳織さんがお店まで取りに行くって言ってて。でも佳織さん承認待ちの案件がいくつかあるので、あたしが代わりに行くって言ったんですけど、自分の確認ミスだからって」


「なるほどな、状況は分かった。ちなみに、川上さん、お店の場所ってわかる?」


「え?あ、はい。さっき貰ったFAXに住所載ってたんで・・でも、どうしてですか?」


「こういうのは、外回りに慣れてる営業がパッと行って来るのが手っ取り早いだろ?」


この後のアポイントの時間を考えると、場所によっては微妙だが、基本地元メーカーと提携を結んでいるので、車移動ならさして問題はない。


紘平の提案に、目を輝かせた友世が、すぐさま取って返してFAXを持ってきた。


手渡されたそれに書かれた住所を見て、いけると確信する。


ここからなら車で20分程度だ。


この時間なら道も空いているし、もっと早く着くだろう。


「ほんとにいいんですか?か、佳織さん嫌がりません?」


さすが佳織の後輩だ。


先輩社員の習性をしっかりと把握している。


自分のミスは自分でリカバーが鉄則の佳織だ。


ここで紘平がしゃしゃり出て、良い顔をするとは思えない。


けれど、どう考えてもこれが最善策だ。


「嫌がるだろうな、物凄く。でも、言う事聞かせるよ」


紘平の宣言に、友世が尊敬のまなざしを向けてくる。


「さすがです、樋口さん!!あ、佳織さん!!」


書類を手にして駆け込んできた佳織が、カウンター前に立っている紘平に気付いて訝し気な表情になる。


「紘平、どうしたの?悪いけど、今すっごく忙しい」


「知ってる、話は聞いた。それ、受領証だろ、貸せよ」


「え?なんで・・」


「お前が今から電車乗って取りに行く方が手間だろ。


ちょうど空き時間なんだ、走ってやるよ」


「駄目、これは私のミスだから」


首を横に振った佳織が、手にしていた書類を背中に隠した。


予想通りの反応に、紘平が苦笑する。


「言うと思った」


「友世、悪いけど私の机からカバン取って来て」


「え、でも、佳織さん・・」


「川上さん、放っておいていいよ」


「よくない、これは私の仕事よ。友世、取って来て」


尚も言い募る佳織と、無視しろと告げる紘平の間で、友世は固まって動けない。


こうしている間にも時間はどんどん過ぎていく。


しびれを切らした紘平が、佳織の腕を掴んだ。


「佳織、お前、貸し作るとか思ってねーだろうな?」


「・・・いやよ、仕事の事であんたに甘えたくない」


ふいと視線を逸らした佳織が、唇を尖らせる。


図星を突かれてばつが悪いらしい。


「馬鹿、夫婦の間に貸し借りなんかあるかよ。


いいから・・・寄こせ」


反対の手を伸ばした紘平が、佳織の長い髪に隠れた白い項をつうっと撫でた。


「っ!!・・あ」


びくりと震えた佳織の手から力が抜ける。


その一瞬に、紘平は佳織の指から書類を鮮やかに抜き去った。


「ひとつ教えといてやる。こういう時は、一人で抱えこむな。困ったなら俺を頼れ。何の為に一緒の職場にいると思ってんだ、お前は」


「それは・・」


言い淀んで黙り込んだ佳織を見つめて、紘平が肩をすくめた。


それから一歩距離を縮めて耳元で囁く。


「いいよ、その件は今晩じっくり話し合おう、ベッドでな」

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