第38話 喧嘩にもならない

「佳織、これ直して貰ったから」


差し出された見覚えのある16インチのチョーカーに、佳織は訝しげな顔をした。


青みがかったすっきりとした白の、ラウンドの真珠のネックレス。


それは、佳織の母親が娘の参観日や、卒業式、冠婚葬祭に使用していたものだ。


「これ、どうしたの?」


「この間、昼飯食った時に預かった」


「っはあ!?いつよそれ、私行ってないし聞いてない!」


そもそもここ数週間連絡すら取っていない。


「俺が外回りのついでに寄っただけだからなぁ・・・いつだったっけ・・・言い忘れてたな」


しれっと答えた紘平が、別にいいだろ、とこともなげに返す。


勿論、問題はない。


佳織の唯一の肉親でもある母親の事を気にかけてくれるのは嬉しいし、有難い。


ずっと二人暮らしだったので、結婚して家を出た今となっては、一人暮らしになった彼女の事だけが気がかりだった。


意地っ張りの似た者同士親子なので、べったり連絡を取り合う様な事はしていない。


昔から忙しく働いている姿を見ていたので、悩み事を自分から相談するような事もあまりなかった。


娘らしい甘え方をした記憶もほとんどない。


だから、紘平が間に入ってくれるのは助かる、が、何だか面白くない気がするのも本当だ。


「忘れてたって・・・なによそれ」


「義母さん、元気そうだったよ。相変わらず仕事は忙しいみたいだな。その方が良いって話してたけど・・」


「あっそう」


「お前が可愛げないことばっか言って、俺に愛想尽かされてないかって、そればっかり気にしてたけどな」


「なによそれ!!」


申し訳ないが、可愛げがないのは母親譲りだ。


男勝りな性格のあなたに育てられたから、どうしよーもなく可愛げのない女になったんです!!!


心配するなら、もっと違う事心配してよね!?


身体の事とか、仕事のこととか!!!


掴んだネックレスをぎゅうぎゅう握りしめる佳織の隣に腰を下ろした紘平が、その手から真珠を奪った。


傷つかないように包んであったネル生地の上にそっと置いて、行き場を失くした佳織の手を、自分の首元へと導く。


必然的に向き合う姿勢になった佳織に、顎を逸らして見せた。


”ネクタイを解いて”


無言のお願いに、佳織が溜息を吐いて応じる。


ここで突っぱねると、紘平からどんな仕返しをされるか分かったもんじゃない。


佳織が頑なに意地を張れば張るほど、嬉々としてそれを陥落させたがるのが紘平だ。


あの手この手で佳織の築いた牙城を崩し落とす。


手際よくネクタイを解いて、引き抜く。


と、紘平が意外そうな顔をした。


「なによ・・・」


「いいや?もっとごねるかと思ってたんだけどな」


「・・・同じ手に引っかかる程馬鹿じゃないわよ!」


ネクタイをソファの隅に落とした佳織が、憤然と言い返す。


「ああそうか、アレで懲りたのか」


面白そうに紘平が呟いた。


佳織の頬に朱が走る。


この間と同じ手に乗るわけにはいかない。


すぐさま背後を確認した。


前回は、不承不承引き抜いたネクタイを紘平に押し付けて、そのまま握らせたままにしていたのが良くなかったのだ。


だが、今回は違う。


佳織は素直にネクタイを解いて、自分の背中に落とした。


佳織の身体が邪魔になって、紘平の手は届かない筈だ。


ひとまずこれで安心だ、と息を吐く。


まんまと口車に乗せられて、紘平の良いようにされるのは気に食わない。


今日ばかりは優位に立ってやると、佳織は胸を反らした。


「どうせ二人で私の悪口でも言ってたんでしょ?悪いけど、こういう性格なのはどうしようもないから。今更、直せるもんでもないし!心配する位なら、もうちょっと可愛い女の子に育つように教育してよね、母さんも!」


情けない事に、佳織は母親との口喧嘩で勝った事は一度も無い。


社内でも有名な武勇伝を誇る佳織が、唯一べそをかくまで言い負かされた相手が母親だった。


ちなみに、亜季とは酒量を間違えた飲み会のたびに、愚痴とも言い合いとも取れる口論になるが、互いに酔っぱらっているので翌日には綺麗さっぱり忘れており、引きずった事が無い。


佳織が憎まれ口を叩く度、ぴしゃりと叱りつけてきた母親と、佳織の強情さに泣かされてきた紘平。


きっと、気が合って話も弾んだ事だろう。


人当たりの良い義理の息子を、母親はことのほか気に入っているのだ。


”あんたみたいなのと一緒になってくれるのは、彼しかいないわよ!”


と前のめりで言われた事は未だに忘れられない。


自慢の娘だと誉めるならまだしも、”あんたみたいの”とはどういうことだと、情けないやら悔しいやらで複雑な気持ちになったものだ。


「おっまえなぁ・・・」


呆れたように紘平が呟いて、佳織の唇にキスをした。


「っん!!」


完全な不意打ちで、目を閉じる余裕さえない。


「ヤキモチなら素直にそう言えって、俺しか聞いてねぇんだから」


「なんでそうなるのよ!?」


「俺に先越されたって思ってんなら、勘違いだぞ、佳織」


「そんな事思ってない!」


「嘘付け。可愛げない娘より、愛想のいい息子を気に入ったらどうしよう、とか思ってたくせに」


「思ってないわよ!!」


図星だった。


仕事の忙しさと、家事の負担を言い訳にして、気になりながらも連絡をしていなかったのは佳織の落ち度だ。


熱で寝込んだ事も殆ど無い、頑丈な人だし、こうして家を出た今、改まって元気?と聞くのもなんだか気恥ずかしくて、避けてきた。


そんな佳織の気持ちを読み取ったかのように、代わりに連絡を取り合って、食事までしてきた紘平に、嫉妬したのだ。


何も言わず佳織のフォローをして見せた、紘平の完璧な仕事ぷりに、無性に腹が立って、同時に自分が情けなくなった。


「口喧嘩はしょっちゅうですが、仲良くやってます、って言っといたよ」


「・・・そう」


「佳織の意地っ張りには慣れてるんで、扱いにも困りませんって」


「なによそれ!」


言い返しても仕方ないとは分かっているのだが、こうもあっさり言われると腹が立つ。


持て余してます、と言われてももっと困るのだが。


ムキになって身を乗りだした佳織に、紘平は意地悪く笑みを向けた。


しまった、と思った時にはもう遅い。


腰を浮かせて前屈みになった佳織の、すぐ後ろに紘平が手を伸ばす。


彼の目的はすぐにわかった。


ネクタイ!!!


咄嗟に身を反転させようとするが、間に合わない。


ソファに手をついた紘平が、反対の腕で佳織の腰を攫う。


引かれた、と思った次の瞬間には、紘平の身体が覆いかぶさっていた。


「同じ手には・・・なんだっけ?」


「むかつく!!」


楽しそうに見下ろしてくる紘平の胸を叩く。


綺麗に手の上で踊らされた自分が情けなさすぎる。


「今日はどーしようか?」


掴んだネクタイを持ち上げて、紘平が酷薄に笑った。


「目隠しは飽きただろーから、手首でも結んでみる?」


「冗談じゃないわよ!」


「大人しいお前も可愛かったけど」


「あれは、目が見えないから不安で!」


綺麗に視界を遮られた中で、紘平の指がどこにあるのか分からない恐怖に駆られて、大人しくなるしかなかったのだ。


「離して」


「いやだね」


きっぱり言い切った紘平が、佳織のこめかみにキスをした。


困惑気味の佳織の髪を指で梳いて、耳元で告げる。


「佳織はああ見えて可愛いところもあるから。子供の頃は、どんなに帰りが遅くなっても、先に布団に入らずに待ってたり。誕生日には学校帰りに仕事場にプレゼント持ってきたり、そういう娘らしいところも沢山あるから」


「そ、それ!」


「って、話を延々と昼飯の最中に聞かされた」


「母さん何言ってんのよっ」


「お前の事が心配だ、とかいいながら、ありゃもう娘自慢だな。


俺はハイハイ、頷いて、佳織は俺の前でも、ちゃんと可愛いですよ、って話といたから」


「頼んでないわよっ」


義理の母と義理の息子が顔を突き合わせて何自慢だ。


「頼まれなくても言うだろ、そこは。俺はお前の子供時代の話なんて知らねぇし。だからって、頷いて聞き役に徹するってのも癪に障るし」


「・・・なに、張り合ってんの」


「俺と過ごした時間なんて、母親のあの人に比べたら、何十分の一なんだろうけどな。でも、俺だって・・・伊達に何年もお前の事追っかけてた訳じゃない」


「・・・」


「俺しか知らない・・・佳織だって・・・もういっぱいあるだろ?」


喉元を擽るように撫でられて、佳織が顎を仰け反らせる。


その首筋に紘平が吸い付いた。


「っ・・・んっ・・・・ゃ」


小さく零れた甘い声に、紘平が肌に唇を寄せたまま笑う。


「ほら・・・こういう声とかさ」


「なに・・言って・・」


そんなの当たり前だ。


母親はおろか紘平以外誰も知らないし、知る由もない。


身じろぎする佳織を捕まえる様に、紘平が背中に腕を回して抱きしめる。


「素直なところも沢山あります、勿論、それに勝る意地っ張り具合ですけど・・」


「なっ!」


「でも、そういう佳織が良くて、結婚したんで、後悔はしてません。


これから先も、ずっと、しません。だから、義理母さんのそれは、不要な心配ですよ」


「・・・そんな事言ったの」


「言ったな・・お前の名誉挽回に尽くした俺に、何かないのかよ?」


額を合わせた紘平が甘く囁く。


こんなやり取りじゃ喧嘩にもならない。


佳織は素直に目を閉じて、紘平の唇にキスをした。

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