第六章 悲哀(否愛)3
横浜県警は直ちに非常線を張ってニヒツを負ったが、当然といったようにその姿をとらえることすらできなかった。
「すみません、篠原さん。反省してます」
「反省するのは後だ。お前の知っていること全部話せ」
「隠していたつもりはないんです」
「反省するのは後だといっただろう。それで彼女の容態はどうなんだ?」
「意識は戻っていませんが、命に別状はないそうです」
「倉ノ下さんには連絡しておいたぞ。丁度東京に戻ってきていたそうで、すぐにこちらに向かうとのことだ」
「じゃあ俺は少し出ています。こんなことになって合わせる顔ないですから」
「馬鹿言うな。おまえの口からちゃんと説明しろ。それにしても彼女はなぜニヒツに接触しようとしていたんだ?それに警察もつかめていない奴の居所を何故彼女が知っていたのか」
田中は篠原に情報屋からつかんだ情報や彼女を尾行したあらましを説明した。
「彼女はいったい何者なんだ?詳しいことは調べさせるにしても、倉ノ下さんたちにこのことを伝えていいものか難しいな」
「そうですね・・・」田中はそう返事しながらも頭では別のことを考えていた。
あわただしい足音が廊下に響いて、櫻子が息を切らして病室前の椅子に腰かけていた田中の前に立った。
「すみません・・・」田中は絞り出すように声を発したがその言葉をかき消すように櫻子が言葉を重ねた。
「ありがとうございます」櫻子は息を切らしながらそう言った。
「田中さんがいなかったら小夜子さんが危なかったって・・・。死んじゃうかもしれなかったって・・・・。わたし・・・わたし・・・」そう言った櫻子の目から大粒の涙が流れた。
あとを追ってきた遠藤美紀が田中の前に立って息も絶え絶えに言葉を絞り出した。
「ぜえ、ぜえ、田中さん・・・ほん・・とに・・ありが・・とうございました・・。田中さんがいてくれて本当に良かった・・・」
田中は椅子からゆっくり腰を上げると深々と頭を下げた。
小夜子が眠っているベッドの横に櫻子と美紀は腰を掛けて、眠っている小夜子の顔を見つめていた。
コンコンと病室の扉をノックして田中と篠原が入室してきた。
「担当医の話では身体に問題はないようです。時期に目を覚ますでしょう。倉ノ下さんたちが知りたいのであれば、お伝えできる範囲で今回のいきさつをご説明したいのですが」
田中は神妙な表情を浮かべて、淡々とした口調で話した。
「よろしくお願いしします」櫻子は先ほどまで涙であふれていた目とは打って変わって、鋭さをまとった眼差しで田中を見つめて返事を返した。
病室をでて、病院から許可を得て借りた一室に入り櫻子と美紀が窓側椅子に並んで座り、向かい合って田中と篠原が座る形になった。
数秒沈黙したあと田中がおもむろに口を開いた。
「今回の件は私の身勝手な単独行動のせいで、南川さんを危険な目に合わせてしまい、まことに申し訳ありません。これは警察組織としてではなくわたくし一人の責任ですので、いかような処分もうけます。警察としては全力で事解決に力を注いでおりますので、ご協力をお願いしたします」
「処分なんてとんでもないです。私たちに田中さんを責める気なんて全くありませんのでおきになさらず。それよりも何故小夜子さんがこのようなことに巻き込まれたのか、それが知りたいんです。もしかして私のせいですか?」櫻子は辛そうに言葉を発した。
「今回の件は倉ノ下さんとは直接関係はないと思います。私どもから倉ノ下さんに聞きたいことがあるのですが、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「私でお答え出来ることなら何でもお答えします」
「南川さんとはいつ頃からのおつきあいになるのでしょうか?」
美紀が櫻子に視線を送り頷いてから話し始めた。
「小夜子さんとは、櫻子さんがデビューした映画でメイクを担当してもらった時からのお付き合いになるので、約十年前からの付き合いになります。そのあとウチの事務所のタレントのメイク全般でお世話になっていて、プライベートでもお付き合いがあります」
「プライベートでもお付き合いがあるとおっしゃられましたが、南川さんのご家族とも面識がおありでしょうか?」
「そういえば、家族の話とかはほとんどしたことがありませんね」
「あんまり話したがらないんだよね」櫻子が不思議そうな表情を浮かべた。
「住んでいるところにも行ったことがないし、そういえば小夜子さんのプライベートな事ってあんまり知りませんね」美紀は少し不安な表情を浮かべた
「先ほどそちらの事務所に連絡を取って、南川さんとの契約書などから色々調べたのですが、南川小夜子という人物は存在しません」篠原は二人の目を見つめて話した。
「存在しないって・・・」櫻子は目を見開く。
「かなり巧妙な手法で隠されていますが、ほとんどの情報は偽造されたものでした」
「そんなことが可能なんですか?」美紀は怪訝な表情で尋ねる。
「一個人では無理でしょうが、恐らくかなり大きな存在が後ろ盾にあるように思われます」
櫻子と美紀は篠原の言っていることが飲み込めずしばらく呆然としていた。
「それって何か犯罪がらみなんでしょうか?」美紀は恐る恐る尋ねた。
「ここまで大掛かりなものとなると、そう考えざるをえません」
「そんな・・・。小夜子さんが十年も私たちを騙してたってことなんですか・・・」櫻子ははを食いしばった。
「何が目的なのかは、本人に聞くしか分かりませんが、そういうことになります」篠原は少し視線を落として答えた。
田中は二人から視線を外し、小夜子の病室がある方向を見た。
櫻子と南川小夜子が楽しげに話している風景をなん度も目にしていた田中は、あの光景が嘘だったなどとは到底思えなかった。しかし、小夜子が自分の経歴などを偽っていたのは事実であって、それによって少なからず櫻子達が傷つくことは容易に想像ができる。
「何か黙っておかなくてはいけない理由があったのでしょう」田中は絞り出すようにつぶやいた。
櫻子ははっと我に帰ったような表情で田中をみつめた。
「本人に理由を聞いて見るのが一番ですよね。あ〜あ、早く小夜子さん目を覚まさないかな?とことん問い詰めてやります」櫻子はそう言って微笑んだ。
「そうですね、早く目を覚ますといいですね」田中も優しく微笑んだ。
小夜子は病室で目を覚まし、白い天井を見つめていた。
先ほどまで朦朧とした意識の中、さくちゃんが涙目で自分に話しかけているのを心苦しく思っていた。
あの子は本当に優しい。私にだけでなくあらゆるものに対して思いやりと慈悲に溢れている。
そんな人を私は十年も偽ってきた。なん度も本当のことを話そうとした。
でも、それを話したところで彼女に余計な心配をかけるだけだ。
それでも、彼女は心の底から私のことを心配して、私の力になろうとしてくれるのだろう。
だからこそ、彼女には本当のことは言えない。
あの子の優しさは私なんかに使うためにあるのではなく、多くの救われるべき人のために使われるべきなのだ。
私の人生に彼女を巻き込んではいけない。
私は彼女の前から姿を消すべきなのだ。
「ごめんね、さくちゃん。本当に今までありがとう・・・・」
その日の夜、南川小夜子の姿は病室から忽然と消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます