第六章 悲哀(否愛) 1

 南川小夜子は横浜のとあるビルの物陰に身を潜めていた。


「確か、ここを曲がっていったように思ったのだけれども・・・・」

 

 少し肩で息をしながら、思わず声に出してしまった自分に気づき、左手で自分の口を塞いだ。


 ビルとビルの間にある、人一人が何とか入れるかというような僅かな隙間に、体を少しかがめた状態で耳を澄まして周囲の音に注意を向けた。


「さくちゃんなら一発なんだろうけどな・・・」

 

 小夜子は可愛らしい笑顔を思い出し、思わず微笑んでしまった自分を諫めるように頬をつねり、息を整えると、そっとビルの隙間から顔を出して周囲を見渡した。


 表の通りは薄暗く、人通りは全くなかった。


「そりゃそうでしょうね。こんな時間にこんなところうろついている人は中々いないよね」


 小夜子は思わずまた声を出して呟いてしまった自分が可笑しくなって、今度は強めにほほをつねった。


 すると、通りのかなり先の方で、なにか動くものの気配を感じた。


 そちらに視線を向けると、三階建ての古びたビルの入り口のドアが僅かに開いているのが見えた。


 しばらく、そのドアを注視していると、そのビルの二階の窓に人影らしきものが見えたような気がした。


 小夜子は三秒ほど目を閉じると、おもむろに立ち上がり、そのビルの方向へ、足音をできるだけ立てないように慎重に歩を進め、少し開いた扉のノブに手をかけた。


 中が少し見える程だけの隙間を開けて中を覗き見ると、照明はついておらず真っ暗で、中の様子を確認することは出来なかった。そのわずかに空いたドアから漏れ出してくる空気はどこかカビ臭く、このビルがしばらく使われていないことが想像できた。


 一度ドアノブから手を放しその手を胸に当てると、小さく息を吸い込んで、高まる気持ちを抑えようとしたが、胸に当てた手には明らかに正常なスピードではない自分の心臓の動きが伝わってきていた。


 その手を胸から離して、再びドアノブを握ると、そっとドアを押し開け建物に足を踏み入れた。


 建物に入ってすぐは真っ暗で一メートル先も見えなかったが、次第に目が暗さになれてきたのか、徐々に部屋の雰囲気がわかってきた。


 一階のその部屋は広く、恐らく飲食店が入っていたらしいテーブルや椅子が複数置かれていた。


 そのうち数台のテーブルは相当の年月のせいなのか、足の部分が朽ち果て横倒しになっていた。


 奥のカウンターらしき場所には、かつて使われていただろう食器類が無造作に置かれたままになっていた。


 ガタッと上の階で何かが動く音がしたので、慌てて身をかがめ、カウンターの陰に隠れた。


 二階から小夜子のいる一階に階段を下りてくる足音が聞こえて、小夜子の心臓は音が聞こえるかのように激しく動いた。


 カツカツという革靴の音が徐々に二階から一階へと近づいてきて、額からは、冬だというのに大量の汗が噴き出していた。


 リズムよく階段を下りてきていた足音が突然ピタリと止んだ。


 小夜子は、息を止めて耳に全神経を集中していた。


 恐らく、十秒程しか経っていなかっただろうが、小夜子には数分にも感じられた。


 カツカツと足音が再び聞こえるとカチャっとドアを開ける音がして、足音は少しずつ遠ざかっていった。


 小夜子は音がほぼ聞こえなくなってから、慌ててカウンターの陰から立ち上がり、通りよりの大きな窓に走り寄り、表の通りを見た。


 先ほどと同じように薄暗い通りには人影らしきものはおろか、時間が止まったかのように静まり返って動くものを確認することは出来なかった。


「クソっ」


 小夜子は慌てて走り出すと、ドアをあけ放ち表の通りに飛び出した。


「おやおや、警察にしてはお粗末な尾行だとは思いましたが、まさかこのような美しい女性だったとは」


 小夜子は自分の耳元でする声を聞き、身体が凍り付いたようにピクリとも動かせなかった。


 すっと、冷たい感覚が首筋に感じられて初めて、ビクッと身体が動かせた。


「すごいですね、日本の警察ですら私を見つけることが出来ないでいるのに、あなた何者ですか?」


 人工知能の機械が話すような淡々とした口調で話すその声を聞いているだけで、小夜子の全身から汗が噴き出していた。


何の根拠もないが『殺される』と小夜子は思った。


そんな冷たい恐怖が背後から小夜子を包んでいた。


「おもしろいなぁ。世の中じゃ女性が強くなったとか言われているけど本当みたいだ。警察なんかよりよっぽど役にたちそうだ。で、あなたは探偵ですか?それとも何か私怨で私を追うものですか?」


「後者よ」小夜子は弱々しく絞り出すように答えた。


「私怨かぁ。僕はたくさん恨まれているだろうからなぁ。どちら様なんて聞いても思い出せそうにもないや」


「そうでしょうね」


 首の冷たい感触が緩んだ隙を見て、小夜子は背後の存在から二メートル程距離をとって振り返ると、キッと睨みつけた。


「怖っ。相当憎まれているみたいですね僕は」


 口元だけを少し動かし笑ったような表情を作ると、その男は冷たいガラス玉のような目で小夜子を見つめた。


「あなたは思い出す必要なんてない。あなたに後悔や懺悔を求める気持ちなんてこれっぽっちもないから」


「えらい言われようですね。少しだけ傷つきます」


「それも、言葉だけでしょう?」


「ばれました?」


「で、これからどうしようというんです?あなたは私を殺したい程憎んでいるようですが、あなたでは到底私を殺すことは出来ない。それは、あなたがたとえ拳銃を持っていたとしてもです」


 小夜子は心底驚いた表情を浮かべた。


「図星みたいですね。なぜ私がそれを知っているかなんて聞くだけ無駄ですよ。あなたも相当裏の世界との繋がりがあるようですが、私のそれはあなたの比じゃありません。いろいろなつてを利用して私を調べていたようですが、そのようなことをする人間を私はこれまで何人も始末してきました。あなたみたいな羽虫、ほおっておいてもいいのですが、かまってほしいと言うのならお相手しないでもないです。美しい女性の頼みを断るほど野暮じゃないので」


「随分とおしゃべりなのね。わたしの知っているあなたは、人の目もまともに見られないような引っ込み思案の根暗だったんだけど」


 その一言を聞いて男の表情は明らかに曇った。


「あら?何か気に障ったかしら?」


「お前、本当に何者だ?」先ほどまでの柔らかな口調から明らかに変わった低めの声色で男は小夜子に問うた。


「羽虫が何者なんて興味がないんじゃないの?」


 小夜子はそう言いながらバッグに手を差し入れると、中から小ぶりな拳銃を取り出し、その銃口を男に向けた。


「なかなか様になっているじゃないか。ずぶの素人というわけじゃなさそうだ。でも、震えているよ。人を撃ったことなんてないんだろう?」


 小夜子は震える手を落ち着かせようと、少し深めに呼吸をした。


 その刹那、男は小夜子との距離を一瞬で詰めると右手で小夜子の持っていた拳銃を鷲掴みにすると、左手で首を絞めた。


「ちょっと興味があるけど、まあそれだけのこと。さようなら、名も知らぬ復習者」


 小夜子は首を絞められ意識が飛びそうになった。


 もうだめだ、と思ったその時ふっと首を絞める力が弱まり、その手が首から離れ支えを失った小夜子はその場に倒れこんだ。


 倒れこんだ小夜子がかすむ視線を男に向けると、意識がもうろうとしているせいか、男が二重に見えて、そののまま意識を失った。

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