第五章 遺愛 4
警察がニヒツを取り逃がしてから既に一ヵ月が立っていたが、足取りは全くつかめない状態だった。
捜査本部は事実上開店休業状態で、明らかに士気は下がっていた。
捜査員の数も減らしている状態で、田中は警視庁に、元平も大阪府警に戻っていた。
被害者の身辺調査は滞りなく終わっていて、そこからニヒツにつながるような情報は一つも出てこなかった。まさに、手詰まりといった空気感が捜査員の中にも流れていた。
宇根元駿河が主演する予定だったドラマは出演者の突然の死によって予期せぬ注目を浴びて、櫻子もマスコミに追い回される事態に陥ってしまっていた。マスコミはあることないこと書き立てて、櫻子の事務所『ビルヘン』も対応に追われて、日常的な業務に支障がでるまでになっていた。
宇根元と櫻子が男女の関係だったとか、その男女関係のもつれから宇根元が思い詰め自ら命を絶ったなどという、どこから思いつくのだろうというような話までネット上では囁かれていた。
「さくちゃん、ネットの情報とか見て気にしてないか心配だわ」祥子は自分のスマホの画面を睨みつけながらため息をついた。
「櫻子さんあんまりSNSとかチェックしないんですけど、流石に今回の騒ぎは否が応でも目につきますよね」美紀はPCの画面を見ながらため息をついた。
「あんまりこの話題には触れない方向でいきましょう」
「わかりました」美紀がそう返事をしたとほぼ同時に部屋の入り口が勢いよく開かれ櫻子が走りこんできた。
「見て見て、美紀ちゃんこのネットニュース。私が宇根元さんに振られた腹いせで殺したって書いてあるの。笑っちゃうよね、私が殺すならもっと別の派手な方法で殺すけどなあ。毒殺なんて方法じゃなくて、断崖絶壁に呼び出して突き落とすとか、たくさんの人が見ている前で爆破とか」
「実際の殺人はそんな手の込んだ仕掛けや、面倒くさいシチュエーションでしないと思いますよ」そういいながら、美紀はぶっーと噴き出して笑ってしまった。
「ほんと、私たちの心配なんて全然意味なかったみたいですね、祥子さん」
「ほんとね、さくちゃんのこと甘く見ていたわ」祥子もそういいながら噴き出して笑っていた。
「なになに、私何かおかしなこと言った?」櫻子はきょとんとした表情で美紀と祥子を交互に見た。
「何もないのよ、さくちゃん。気にしないで」そう言いながら祥子はお腹を押さえて笑っていた。
「何か、馬鹿にされているような・・・」櫻子はぷくーっと頬を膨らました。
「馬鹿になんてしていませんよ。逆に尊敬しているくらいです」
美紀は真剣な眼差しで櫻子を見つめた。
美紀は心の底から櫻子をすごいと思った。櫻子は私たちが心配しているだろうことを察して、わざとこのような振る舞いをしているのだ。「気にしてないよ」という前に明るく振る舞い周囲を笑いで包んでくれる。自分よりも年下の、見た目は少女のようなこの人は、自分よりも随分大人で、何よりも他人の気持ちを想い、自分の行動を決める。この人を見ると、自分もこうありたいと毎度のことながら思わされる。
「そういえば、小夜子さんが体調崩しので、今晩の食事会キャンセルしたいって電話してきてましたよ」
「え~、今日は小夜子さんが好きな焼肉のお店予約してたのに残念。体調崩したって大丈夫なのかな?」
「ただの風邪だからって言ってましたけど」
「今晩の食事会はどうする?中止にする?」祥子が櫻子に尋ねた。
「そうだね。マスコミもうるさそうだし、小夜子さんいないと楽しさも半減だから延期にしよっか」
「今晩の食事はホテルのルームサービスにしましょうか?」
「そうですね、さっきホテルのロビー確認しましたけど、まだマスコミ関係者らしき人もチラホラ見かけましたし」美紀は眼鏡のフレームに触りながら言った。
ルームサービスで頼んだ夕食を食べ終わった美紀が、ソファーに腰掛けて窓の外の夜景を見つめている櫻子に視線を移した時、背筋がゾクッとなるのを感じた。
その横顔は、先ほどまではしゃいでいた少女のような美しさではなく、研ぎ澄まされた冷たい刃物を彷彿とさせる空気感を漂わせていた。
そのただならぬ雰囲気に、何か嫌な感じがした美紀は、いつもよりも明るいトーンで櫻子に声をかけた。
「小夜子さん、体調不良って言っていましたけど怪しいですよね。最近付き合い悪いし。彼氏でもできたんじゃないでしょうか?」
櫻子は声を掛けられたことに気づいていないかのように、窓の外を見つめ続けていた。
「櫻子さん?」美紀はもう一度声を掛けた。
「あいつ、本当に何者なんだろう。思い返してみても、あれが同じ生き物だなんて信じられない。話していてもまるで現実感がない。何か、画面の中の登場人物と話しているような違和感。今まで感じたことがないこの感覚。でも、どこかで感じたことがあるような気もする。感覚を言葉で表現できない。なんなんだろう?あいつの何にそう感じるのか、それともそれ自体あいつが仕組んでいる何かなのか」
美紀は櫻子のその言葉を聞いて、脳裏にニヒツのマネキンのような顔が浮かんだ。
櫻子の言うように、ニヒツからは本来人間から感じる体温のようなものを微塵も感じ取れなかった。その得体のしれない違和感のようなものを、美紀も思い出していた。
「あんな奴のこと考えるのやめましょう櫻子さん。しばらく何も起きてないみたいだし、どうせ国外にでも逃亡したんじゃないですか?」
「そうだね、なんか楽しいこと考えよう。そうだ、さっきお姉ちゃんとなにか新しい仕事のお話してたでしょう?なになに?どんなお仕事なの?」
「櫻子さんの楽しいお話はお仕事のお話なんですね」美紀は呆れたというような口調で話した。
「お仕事楽しいじゃない。美紀ちゃんは楽しくないの?このお仕事」
「そんなことないですけど、女二人が話す楽しいことっていったら、ファッションのこととか、恋バナとかじゃないですか?」
「美紀ちゃんと私でそんな話あるの?」
「そう言われれると悲しくなるのでやめてください」
「美紀ちゃんが言い出したんじゃない?」
しばらく何とも言えない沈黙が続いた。
「ぶーっ、美紀ちゃん笑わさないでよ」
「櫻子さんこそ噴き出すのはあんまりじゃないですか?」
二人は顔を見合わせて、お腹を抱えて笑った。
「ありがと、美紀ちゃん。いつも心配してくれて」
「櫻子さんこそいつもありがとうございます」
「それで、新しいお仕事ってなに?」
「それがですね・・・・・・」
二人は夜遅くまで仕事の話に花を咲かせた。
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