第五章 遺愛 3

 櫻子は滞在中のホテルの一階にあるカフェで美紀とアフタヌーンティー中だった。

 

 祥子は強がってはいたが、やはり体調が芳しくなさそうだったので部屋で横になっている。


 勿論櫻子達の身の安全を確保するために、遠巻きではあるが警察官が交代で見守ってくれている。


「どの人が警察の人だろうね美紀ちゃん」


「私達に簡単にばれるような警護の仕方はしないんじゃないですか?一般のお客さんも沢山いるので目立つのもどうかと思いますし」


 美紀はそう言いながらもキョロキョロと周りのお客さんを見ていた。


「櫻子さん、わたしお手洗いに行ってきます」


「はいはい、ごゆっくり~」


 美紀は少し周りを気にしながらトイレに向かって行った。


 櫻子は目の前のコーヒーカップに注がれたコーヒーに移る自分の瞳を見つめた。


 ニヒツの変装は本当に凄かった。違和感を感じたのは声だったが、その見た目は村越そのものだった。 

   

 自分の強化睡眠記憶によって記憶していた村越の姿と寸分違わぬその容姿。推理小説の世界だけの物と思っていた犯罪者が他人になりすますという芸当。あんなことが現実に出来るのだと少し寒気を感じた。


 考えてみれば、小夜子のメイクもわたしを別人に変えるような凄い技術だ。そう考えたら、ニヒツがやっている技術だってそんなメイクの延長線上にあるものなのだろう。


 思いにふけっていた櫻子の耳に違和感のある音が聞こえた。


「あれ?これって」


 櫻子はキョロキョロと回りを見渡しその音が聞こえた方向を注視した。


 カフェの窓際の通りに向かって置かれた一人がけの席に座っているスーツの男に目がとまった。


 その男は店員を呼んで注文をしているところだった。


 櫻子はその声に集中して聞き取ろうとした。


「カプチーノを一つ」


 その男の声をハッキリと聞き取った櫻子は冷たい汗が吹き出した。


 美紀がトイレから帰ってきて、櫻子の尋常では無い雰囲気に心配そうに声をかけた。


「どうしました?櫻子さん。凄い汗ですよ」


「美紀ちゃん。こっちを見たまま聞いて」


「はい?何です?」


「窓際の席に座っているスーツの男性」


 美紀はその方向を振り向こうとしたが、櫻子が両手で両頬を挟むようにしてそれを邪魔する。


「こっち向いたまま」


「はい」


「あいつ、ニヒツだ」


 美紀は目を見開いた。


「でも櫻子さん、男性って言いませんでした?」


「そう、どう見ても男に見える。でも、声が私達を脅したあいつに間違い無い」


「どうします?警察の人に知らせます?でも、誰にどう言えば……。私達を探しているんでしょうか?」


「そんな感じには見えない。それなら直ぐにでも接触してきそうなものだけど」


「見つからないようにお店を出ましょう。部屋に戻ってから警察に報告しましょう」


「でも、その間に見失ったら、もう二度と尻尾をつかめなくなるかも。美紀ちゃん一人でお店を出て警察の人を呼んできて。わたしは気が付かれないように見張っておくから」


「わかりました。直ぐに戻って来ますから」


 美紀は気持ちの焦りをできるだけ出さないように、少しだけ早足で店を出て行った。


 そんな美紀の後ろ姿が見えなくなるのを待ってから、櫻子は窓際の席をみた。


「あれ?」


 そこには、ニヒツとおぼしき男の姿は無かった。慌てて立ち上がり店内を見渡す。そんな櫻子の肩を掴む手の感触。


「もしかして、この変装も見破られた?本当に天敵ですね。あっ、もしかして声か。しまったな、完璧な変装に油断して地声で話してしまっていたか」


 後ろから聞こえる声に櫻子は生きた心地がしなかった。


「ご一緒してもよろしいでしょうか?」


 そう言ってニヒツは先程まで美紀が座っていた席に腰掛けた。


「そんなに怖がらないで。倉ノ下さん。あなたは殺しませんよ。前に言ったようにわたしはわたしを脅かすライバルが欲しいのです。あなたはそれに限りなく近い。でも、わたしは気分屋なのでいつ気変わりするかもしれないので、大人しくしておくのが賢明ですよ」


 櫻子はニヒツを睨みつけて自分の席に腰掛けた。


「おおっ、怖い。そんな表情も出来るのですね。流石に女優さんだ。少しお話がしたいだけなので、そんなに睨まないで下さい」


 櫻子は目の前で話す男を注意深く見た。どう見ても見知らぬ男だ。しかし、その男から発せられる声は村越に化けていたあいつのものだった。


「あなたの言っていたとおり、日本の警察にもできる人間がいるみたいですね。この後が楽しみになってきたな。わたしの仕掛けた罠に引っかからない人間がいるなんてね。なんかゾクゾクしますね、この危険が迫っている感じ。あなたもそう思いませんか?倉ノ下さん。わたしは刺激が欲しいのです。あなたも女優なんて仕事をしているのは刺激が欲しいからでしょう?色々な人間になりきって、色々な体験ができる。例えば殺人犯の役なんて刺激的でしょう?あなたとわたしは恐らく似たもの同士だ。同じ匂いがします。平凡な人生に満足出来ない。何でもやってみたい。平凡な毎日に耐えられない。そう言った人種です」


「確かにそうかも。でもわたしは人を殺したりしない」


「わたしが殺した証拠でもありますか?恐らく何もない。法律やルールでわたしを裁くことは不可能です。勿論、わたしを捕まえることすら出来ないでしょうが」


 ニヤニヤと笑いながら男は櫻子を見つめた。


「油断すると足元を救われますよ。随分と自分に自信がお有りのようですけど、やっていることは程度の低い子供っぽいことに見えますが」


 男は櫻子のこの言葉を聞いて、明らかに不満げな表情を浮かべた。


「なんか気分悪いなあ。子供っぽいって言われるのが一番嫌いなんだ。わたしは成熟した思考のもとで行動しています。まあ、根本にあるものは楽しみたいという考えなので、そういったところが子供っぽく見えるのでしょうね。建前で生きることが大人だというのなら、わたしは子供なのでしょう。自分の気持ちに正直に生きているだけです」


「自分の欲求だけに正直に生きているのが素晴らしいという考えなんですね。わたしとは全く相容れない生き方だ。わたしも自分に正直に、やりたいことを貫いて生きていますが、それは周りの人間との関係性を壊してまで、ましてや、相手の考えを踏み躙ってまで行うほど大事なことじゃ無いです。周りの人達がいてこそのわたしです。あなたは寂しい人なんですね」


「そう、わたしは寂しい人間です。誰にも理解されない。それも仕方のないことです。他の人間にわたしの考えや生き方を理解できるなんて最初から期待していません。立っている位置が違うのです。あなたたちには私の足の指すら見えていないでしょう」

 

 そう言うとニヒツは窓の外に視線を移し、遠くの空に浮かんだ雲を見つめるような眼差しになると、その目からは一筋の涙が流れた。


 櫻子はその表情を見てなにか複雑な感情が沸き上がって来るのを感じた。


 悲しみとも違う何かもっと表しがたい、複雑なその状態が何なのか、櫻子自身にも分からなかった。


「残念。もう少しこうして楽しくお話がしたかったのですが、どうやら邪魔者が現れたようです」


 櫻子が店の入り口に視線を移すと、美紀が警察らしき男を連れ立って戻ってきたのが見えた。


「それでは、倉ノ下さん。またお会いできるのを楽しみにしています」


 そう言って、音も立てずに立ち上がると、振り返ることもなくスタスタと美紀たちのいる店の入り口に向かって歩き出した。


 櫻子もつられて立ち上がろうとしたのを、ニヒツは入り口に視線を向けたままの状態で左手をすっと櫻子の方に向け、留まるような仕草をした。


 ニヒツは逃げるようなそぶりも見せず、そのまま美紀の目の前まで歩いていき、そして立ち止まり周りを見渡した。


「警察らしき人はあなた一人みたいですね。これはつまらない」そういうと、子供がふてくされるような表情を浮かべた。


「お前が今回の一連の事件の首謀者か?少し、話が聞きたいので署までご同行願いたい」


 美紀が連れてきた兵庫県警の刑事はそう言うと右手でニヒツの肩を掴もうとした。


 その差し出された腕を、ニヒツは左手で強く掴んだ。


「いててて」


 刑事の男はそのまま片膝をついてしゃがみこんでしまった。


 ニヒツはどう見ても力が強そうには見えない、どちらかというと中性的な体つきだ。


 一方の刑事の男はいかにも力自慢の体躯をしている。


 そんな男が苦悶の表情を浮かべて、額からは汗が噴き出している状態だ。


 スタスタッと複数の足音がしたと思ったら、拳銃を構えた数人の刑事が鋭い眼光でニヒツをにらみつけていた。


「黙ってその手を放し、両手を頭の上にあげろ」


 拳銃を構えた刑事の一人がそう言いながら更に一歩ニヒツに近づいた。


 その瞬間、ニヒツはしゃがみこんでいた刑事の腕を強く引き上げると、90キロはあるであろうその体が宙に浮きあがり、近づいてきていたもう一人の刑事に投げつけた。


 響きわたる銃声。


 店内はその尋常ではない雰囲気にパニック状態になった。


「バカっ、打つな!一般人に当たるぞ!」


 そう言って拳銃を下したその刑事の胸ぐらを、目にもとまらぬ動きでニヒツは掴むと、次の瞬間、目の前にあったショーケースの上に一回転させてたたきつけた。


 さらに、ニヒツは鋭く立ち上がると、もう一人の刑事の拳銃を後ろ回し蹴りで跳ね上げると、手刀で首元を痛打した。


 パニック状態の客は店から我先に走り出していた。


「それでは、また会いましょう」


 ニヒツはそう言うと、客に紛れて走り去って行った。


 

 

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