第一章 愛護 1
京阪清水五条駅近くの大通りに面したその店は1652年創業にふさわしい門構えで、地元京都の人間でもなかなか訪れることのできない、ましてや一見さんでは店を覗くことにすら二の足を踏むような雰囲気を醸し出していた。
「ただいまー」
櫻子はそう言いながらその暖簾をくぐった。
その声を聞いて店の奥の方から凄まじい勢いで一人の男が掛けだしてきた。
「おおー、来たなあ、櫻子。まっとったぞ。祥子も一緒か?そちらは遠藤さんだったかの?よういらっしゃった」
そう言ってその男は櫻子に抱きつくやいなや、頭に手をやり、わしゃわしゃと髪をかき混ぜるようにすると、櫻子の頬にキスしようとした。
「嫌だー、キスは勘弁しておじいちゃん」
櫻子は後ろに反り返りキスを回避しようとした。
「あんた、本当に嫌がってるんだから、毎回それ止めなさい」
先程、その男が出てきた店の奥から、鮮やかな着物姿の品のある女性が出てきて、櫻子の手を取り男から引き剥がすと、今度はその女性が櫻子を抱きしめた。
「また、一段とめんこくなって、この子は」
「おばあちゃん、元気だった?」
「当たり前でしょう?あなたこそ、働き過ぎって聞いたわよ。ちょっとはゆっくりなさい」
「今度の仕事はスケジュールがゆったり目だからのんびりできそう。その間お世話になります」
祥子が二人に近付きながらそう言うと、その品のある女性は今度は祥子を抱きしめた。
「あなたもよ、祥子。櫻子の為に頑張るのは分かるけど、
智寿子は櫻子と祥子の母親の名前だ。そういえばその品のある女性は姉妹の母親に雰囲気が似ているなと美紀は思った。
「そちらは遠藤さんね。いつも櫻子のメールなんかで拝見しています。二人がお世話になっているみたいで、有り難うね」
「いえいえ、お世話だなんて。こちらの方こそお二人には仲良くして頂いて、有り難いです」
美紀は少し照れながら答えた。
「疲れているだろうから、部屋でゆっくりしててね。同じ部屋でよかったかしら?別々がよかったら言ってね遠藤さん」
「いえ、同じのほうが嬉しいです」
「今晩の準備が色々あるから後でね」
そう言っていそいそと先程出てきた店の奥に歩いていく後ろ姿を見ながら、美紀は歴史のにじみ出た建物の内装と、その空気感にタイムスリップしたかのような感覚になっていた。
「じゃあ、わしも仕事があるから後でな。おっと、その前に、孫に久しぶりにあった気持ちを川柳にして……」
「はいはい、それはまた今度ね。はい、お仕事お仕事」
「えー、聞いておくれよ櫻子」
「あんたは、ちび○こちゃんのおじいちゃんか」
そう言いながら櫻子は男性の背中を押して追いやった。
男性を追いやって戻ってきた櫻子と連れだって年期の入った板張りの廊下を店の奥に向かって歩くと、一旦視界が開けて少し小さめの中庭に出た。
枯山水とでもいうのだろうか。見事に整えられた中庭の脇を抜けて更に奥に向かうと、先程の店の造りとは異なった少し新しめの建物に繋がっていた。
「旅館の方は流石にあちこち痛み始めたから、一部をリノベーションしたみたいね。エアコンとかも付いて随分近代的になったみたいよ」祥子は先頭を歩きながら話した。
前もって聞いてはいたが、文化遺産とも言える位の歴史在る建物に始めは緊張していた美紀だったが、いつもの鼻歌を歌いながら自分の前を歩く櫻子を見て、肩の力が抜けていることに気付いた。
櫻子といると心が軽くなるというか、生きることを前向きに考えられる。簡単に言うと楽しいのである。
「びっくりしたでしょう美紀ちゃん、とんでもなく元気なお年寄り二人で」櫻子が振り返りニコッと笑った。
「本当にお元気ですよね。おいくつでしたっけ?」
「おじいちゃんが72才で、おばあちゃんが75才だったかな?」
「とてもそんなお歳には見えませんよね。それにとても優しそうで。櫻子さん相当可愛がられてますよね」
「ほんと甘やかしすぎなぐらい。私にも優しいけど、さくちゃんには拍車をかけて甘いわ」
「いいんだもん。孫は可愛いもんですよ」
「孫が自分で言ってるの珍しいですよ櫻子さん」
「この部屋みたいよ」そう言って祥子が扉の鍵を開けた。
「なんか前来たときより凄く綺麗になってる」祥子が部屋に入りながら言った。
見た目の歴史在る趣とは少しギャップのある明るめの内装のその部屋は、和風の趣にはなってはいるが今風の和洋折衷のデザインで、旅館というよりホテルのような雰囲気だった。
今回訪れたのは、櫻子と祥子の母親である松本智寿子の実家である京都の老舗料亭「蔵の下」で、料亭だけでなく旅館とさらに蔵元も営む。日本酒「くらのした」は日本酒通からの評判がすこぶるいい純米吟醸酒で、高すぎないその値段と飲みやすい口当たりで大人気だ。
櫻子の芸名「倉ノ下」は母親の旧姓蔵ノ下から取った物だ。
現在は十四代目である祖父の
先程会った元気な老人がその二人だ。
「聞いてましたけど、すごい実家ですよね。400年位の歴史って想像もできないです」
「400年でも普通らしいわよ。京都ならもっと歴史のある所もあるらしいし」
「やっぱり京都の歴史って凄いんですね。400年でも普通なんだ」
「暇があったら神社仏閣をゆっくり見てみるのもいいかもね。今回の撮影期間は長めだからチャンスはあるかもよ」
「神社仏閣巡り是非したいです」
美紀は自分の荷物を整理しながら答えた。祥子の方を見ると既に仕事のスケジュールをチェックしながらスマホを見てどこかに電話を掛けようとしていた。
「撮影のお仕事の前に、例の取材のお仕事でしたよね」
「そうよ、その確認の電話をしようと思ったんだけど、登録したはずの電話番号が見つからなくって」
「それなら私分かりますよ。代表の
「あら、そうなの?」
「ええ。前回のお仕事の後でお付き合いさせて頂くようになって。うちの子の相談なんかも聞いてもらってます」
「うちの子って、美紀ちゃんが飼ってる猫のことよね」
「そうです」
「そういえば最近『こたつ』にあってないね。相も変わらず無愛想なの?あの子」
櫻子が眠そうに目をこすりながら尋ねた。
『こたつ』とは、私、遠藤美紀が家で飼っている猫の名前で、その名前が表す通りこたつ好きの猫で、冬に限らず夏までこたつに座っているので名付けられた。寒がりなのでこたつに入っているのではなく、こたつの天板の上に居座っているのである。こたつを片付けようとすると猛烈に怒るので、私の部屋には年中こたつが出されている。
「そういえば、櫻子さん最近私の家来てないですもんね。こんなに期間が空いたのって珍しいですよね」
「それは、お姉ちゃんに言って。鬼スケジュールで暇が無いのよ。こたつのあの無愛想な顔が懐かしく感じるよ」
「何言ってるの。あなたにお仕事の依頼を相談したら、何から何まで『やるっ』って言うからこんなことになっているんでしょう?」
「そうですよ。櫻子さん。少しは仕事を
「だって、私を認めてくれてるから色々なお仕事の依頼をくれるんだよ。選んでなんていたら失礼だと思うの……」そう言い終わる前にあまりの眠気からか座ったまま櫻子は眠ってしまっていた。
そんな櫻子を祥子と美紀は優しい眼差しで見つめた。
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