第3話 巫女の義務と責任
「朝ね…」
どんよりとした椿の心とは裏腹に、麗らかな空。春特有の柔らかな日差しが、椿を照らす。ふわり、と風が椿を慰めても心の黒いシミは拡がるばかり。一日布団の中で過ごしてしまいたい気分であったが、今日は御社で巫女の勤めの一つである学び舎がある。巫女としての義務と責任を学ぶのだ。
「行きたくない」
ボソリ、と呟いた声は誰の耳にも届かず消えた。どんなに嫌でも、この巫女の勤めを果たさなければならない。満足な食事にあり付けない者が多いこのご時世で、ご飯を毎日食べられているのは巫女であるからだ。這ってでも行かなければならない。行ったってどうせ、毎日同じことを繰り返し学んでいるだけなのだが。
神の花嫁になるために励むこと、村を守る責任があること。要約すれば、この2点を繰り返し、繰り返し言い聞かされている。
小さくため息をついたが、観念し身支度を整え始める。腰まである長く艶やかな黒髪を、巫女らしく白い紐で一つにまとめた。
学び舎は御社の拝殿をし使用している。椿は御社へ向かう道の中、今春の花嫁、松平都のことを考えていた。椿が昨夜の父と兄の会話で聞き取れたのは、兄が宮司になるためには椿が花嫁になる必要があると言うことだけ。都のことも話していた要だが、うまく聞き取れなかった。
足を止めて視線を上に持っていけば、少し前まで雲のようにソメイヨシノが咲き乱れていたのに、今は涼しげに緑の葉がちらついている。
「都お姉ちゃんは、今頃何をしてるのかしら」
神様の下で、幸せにしているといいのだけれど。神様は都について何も教えてはくれなかった。
そういえば、巫女は花嫁になる義務があると言うけれど、花嫁になった後のことは誰も教えてはくれない。
何故かしら、と考えていると擦れた女性の声がした。
「巫女様がこんなところで何、油売ってるんだい」
振り返ると、まだ30歳前後だろうに目じりに深い皺を作った女性が椿を睨んでいた。明らかに悪意を持った低い声だった。椿は困ったな、と思いながらもにこり、と微笑み丁寧にお辞儀をした。
「こんにちは、御社に巫女の勤めに行く途中なんです」
「ふん、さぼっているように見えたがね。巫女様なんだから、しっかりと勤めを果たしな!無駄飯食らいはいけないよ!」
嫌味を聞きたくなくて丁寧に対応したつもりだったが、やはり嫌味を言われてしまった。
「だいたいね…「母ちゃん!」」
女性がさらに言葉を重ねようとしたが、それを少年が静止させた。どうやら、この女性の息子のようだ。
「早く畑に行かないと!巫女様もお勤め頑張ってな!」
そう言葉を残すと、女性の手を引っ張って颯爽と走り去ってしまった。どうやら、少年に助けられてしまったようだ。
ほとんどの村人が満足に食べ物を手にできない中、巫女というだけで食事にありつける椿に悪意をぶつける者も多い。椿のような子どもは、特に悪意をぶつけやすいようだ。でもそれは、仕方がないこと。割り切るしかない。
だけれど、この少年のように子どもたちは巫女を慕ってくれている。心が少しだけ、軽くなった気がした。
*
「巫女は清らかな身と心でいなくてはいけません。それが花嫁の資格の一つですーー」
学び舎の授業は、宮司である
だけれど、一番花嫁について詳しいであろう六角に質問ができるいいチャンスかもしれない。
「あの、宮司さまー…」
「いけませんよ」
椿が言葉を発した直後に、六角は静止させた。
「椿さん、授業とは先生である私の話を聞き、理解を深める作業です。お話をしてはいけませんよ」
「いえ、あの、質問がございまして…」
「いけません。巫女の勤めは、花嫁になるために学び、村人の命を守ることです。何も考えず、言われたことを深く心に刻み込みなさい」
「…はい」
真冬の水流よりも冷たい目をした六角に、椿は逆らえなかった。六角は御社の中で神の次に偉い。つまり、村の中では一番の権力者だ。年齢も父より高く、今年で61歳になるそうだ。父親よりも年上の権力者に逆らうことは、子どもの椿にとって不可能に近い。
何も考えるな、か。まるで人形のようだな、と椿は空虚感を覚えた。
学び舎が終わり、椿は帰路に着く。鳥居を抜けると、そこには今朝であった少年がいた。
「まあ、朝の!」
「巫女さま!」
「今朝は、母ちゃんがごめんな。それだけ言いたかったんだ」
「ふふ、わざわざありかとう。大丈夫よ、気にしてなんかないわ」
少年の気遣いに、心がぽかぽかと暖かくなる。
「巫女さまが花嫁になったら、きっとすぐ豊作になるぞ!だって、巫女さまはすごい美人だから、神様も大喜びだ!」
少年はそう言って、耳まで真っ赤になりながら走って行ってしまった。
まるで嵐のように去った少年に、ありがとう、と心の中で呟いた。
その、丁度1ヶ月後に名前も知らない少年の死を知った。
それは、いつもと変わらない穏やかな空の朝だった。そして、椿もいつもと同じように学び舎に行こうと、玄関を出るとあの、声の掠れてた女性が立っていた。
「お前のせいだ!」
女性の罵声と共に右頬に衝撃が走った。どうやら、殴られたようだ。それでも、女性の興奮は収まらなかった。女性の大声に気づいた父や兄がすぐに駆けつけると、椿は抵抗もせず、されるがままに殴られていた。
「お前が死ねばよかったんだ!」
女性の悲痛な叫びは、村中に響き渡った。
椿は意識を失う事はできず、口の中に鉄の味が広がる。頬や頭を殴られるたびに、まるで自分でない、人形か何かを殴られているのを傍観している気持ちになった。父と兄から助け出され、女性から引き離されてやっと痛みを自分のものとして感じ流ことが出来た。
“お前が死ねばよかったんだ!”と、頭の中で女性の声が木霊する。
その日は学び舎を休み、椿は療養することになった。椿の母、牡丹は泣きながら椿の看病をした。
そのときに、例の女性の息子について話した。
あの少年は椿よりもずいぶん幼く見えたが、椿と同い年だったようだ。十分な食事がとれなかったため、実際の年齢よりも幼い外見をしていた。身長も椿より5cmは低かった。
同じ年齢の子どもなのに、同じ村の子どもなのに、自分の息子は死に、巫女という理由で椿は生かされている。少年の母は、それがどうしても納得がいかなかったのだ。
牡丹は椿が暴行にあった理由を告げ、あなたが悪い訳じゃないの、と慰め席を立った。
椿は静かに、窓から見えるおぼろ雲が浮かんだ空を眺めた。
「巫女は村人を守るための存在なのに、村人に生かされているなんて皮肉なお話ね」
もう、椿の心はがらんどうとしていた。なんて無力なんだろう、と椿は一筋だけ涙をこぼす。
…駄目よ。泣いていいのは、私ではない。あの少年と家族だ。だって私は、生かされている立場だから。椿は、涙を拭うこともせず首を振って雫を飛ばした。
あの少年の母親が悪いんじゃない、大人が悪いんじゃない、この満足に食事もできない環境が悪いんだ。それを改善できるのは、花嫁の資格を持つ私だけなんだわ!
この巫女の義務と責任は必ず果たさなければならない、と椿は拳を強く握りしめた。
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